5 もう恋なんてしない

 髪を伸ばしっぱなしにしてると運気が逃げるよ、と自称占い師のルカが言うので、床屋を探すことにした。
 インターネットができるのはこのタブレット端末しかなく、タブレットは文字が打ちにくくて、PCも欲しくなってくるがぐっと堪える。余計なものを買う余裕はない。
 検索してみると、髪が切れそうなところは、駅前にある理髪店か、住宅街の中にある美容院、2軒だけだ。
 地元にいたころは実家に近い美容院に通い、(ホームページに写真を載せると言う条件で)いつもタダで切ってもらっていた。だから美容院の探し方も分からないし、なんだか恥ずかしいから駅前の安い理髪店に行こうかと考える。あれはあれで、常連たちのなんとも言えない連帯感というか、はいりにくい雰囲気が漂っているが。髭剃りは必要ないとしても顔そりは気持ち良さそうだ。
「美容院なら紹介したらおれも割引になるし、そっちにしなよ」
 今日の晩飯は樹が持ってきたタンドリーチキンだ。近所でオーガニックスーパーを営んでいる樹の母親は凝った料理を作るのがすきで、その余りをおれに分けてくれる。うちの店の常連でもある彼女は、「フラフラしていた息子が近頃は部活の後まっすぐ家に帰ってくる」のをおれのおかげだと思っているらしく、なにかと世話を焼いてくれるのだ。
「お前さあ、なんでおれと一緒に晩飯食ってんだよ、家で食えよ」
 夕食をとるのは店を閉めてからになるので、どうしても21:00をまわってしまう。
「食べてきたよ。店長に付き合ってあげてんの」
「頼んでねえ。食ったら帰れよ」
 仕事を変えて運動量が減ったし太るのが嫌だから、白米は取らずにおかずと野菜をつまみながらビールを飲んで済ませることが多い。もちろん樹にアルコールなんか与えない。こいつにはコーラを飲ませてやっている。
 リビングでビールを呷るおれの正面で正座している樹は、まったくめげずに美容院の割引券を押し付けてきた。初回、30パーセントオフ。なるほど、なかなか魅力的だ。
「カットだけなら3000円ぐらいでできるよ。えっカラーもするの?勿体無いよ、せっかくきれいな黒髪なのに」
 タンドリーチキンに悪戦苦闘している隙に、親のようなことを言いながら髪を触られた。その触り方が少しあいつに似ていて、「ほんとに思い通りにならない癖っ毛だねえ」と笑いながら、愛しげに撫でられたことを思い出してしまって沈黙した。
 2年も経っているのになぜここまで鮮明に覚えているのか。自分の海馬が優秀なのか、それとももはや短期記憶ではなく長期記憶として大脳新皮質に刻まれてしまったのか。いずれにせよ最悪だ。
 黙り込んだのをいいことに、樹の指は調子に乗って髪の中を動き回る。ふりはらおうか悩んだものの、おかずの恩があるので好きにさせておいた。
「まだ決めてない。気分転換にハイライト入れるのも面白いかな、ってルカが言ってたけど。ハイライトってなんだかしらねーし」
「ええ!知らないのにやろうとしてたの?これだよ、ほら、このアイドルがやってるやつ」
「ああ、メッシュみてーなやつか」
「メッシュっていうんだ?あとはこれ流行ってるよ、耳の後ろだけカラー入れるんだ、ブリーチしてさ」
 いつもオシャレにしている樹は、自分の茶髪を指でかきあげて、耳周りを見せた。右耳の周りだけ、明るい金髪になっている。
「イヤリングカラーっていうんだけどね。全部金にすると親も学校もうるさいけど、これくらいなら何も言われないよ。こんな感じにしたら?」
 今時の男子高校生はシャレてんなあ、と思ったが、いかにもオヤジの発言みたいになるのでやめておいた。
「なんか店長って少年マンガの主人公みたいな癖っ毛だよね。毛先ツンツンしてて」
 うなじを撫でる指が耳にあたって、手で振り払う。耳は弱いので触られたくない。
 気まずい空気が漂って、おれは咳払いして立ち上がる。食べ終わった食器と、引っ越してから飲みはじめたいままで飲まなかった銘柄の缶ビールを下げようとすると、樹が妙に明るい、わざとらしい声で言った。
「昨日はじめて彼女とえっちしたんだけどさあ」
――うわ出た。
 なんだろうな、この、「恋人(もしくは他に好きな人がいる)やつに言い寄られる」属性は。
 樹に対して全く気持ちがないのに無性に腹が立つのは、こういう人間にばかり言い寄られる自分の不甲斐なさに対してかもしれない。印でもついてんのか?「この人!セカンドでも10年ぐらい我慢して付き合ってたことあります!」「いつでもセックスできる、都合のいい男はこちら!」みたいな?ざけんなボケ。二度とごめんだ。
「なんか思ってたのと違った、ていうか、想像が膨らみすぎてたのかも。いうほど気持ち良くなかった。店長は初めての時どうだっ……いたーい!!」
 握力89を誇るデコピンに悶絶している樹に、洗い終わったタッパー(こいつの母ちゃんがタンドリーチキンをいれてくれたやつ)と鞄を投げつけて顎を上げる。
「一発ヤったぐらいでイキりやがって。お前みたいなのに抱かれた女の子、可哀そうだな。下品なんだよ。相手の許可なくべらべらしゃべってんじゃねえ」
 男同士のヤッた自慢の類が、おれは昔から大嫌いだった。女は、いや、女に限らず性交渉の相手は、消費されるだけのモノじゃないのだ。心がある。相手をモノ扱いして自分の地位を上げるのはさぞ気持ちいいオナニーだろうが、そういうことをして下がるのは自分の価値だ。
「帰れクソガキ、二度とくんな」
「えっなんで怒ってるの、うわ、押さないで、機嫌なおしてよお」
 一切聞く耳を持たずに1階まで追い立て、裏口から追い出して鍵をかけた。
 懐いてくるからってちょっと甘い顔をしたらこれだ。やっぱり二度と他人を家にあげたりしないようにしよう。そう固く決意して鼻息も荒く階段をのぼった。この程度、なんてことない。もっとえげつなく傷ついた後だからこそ、そう思えるのならば、あの経験も無駄ではなかったと思える。
――次はもう、耐えられないだろうけど。

 担当してくれた美容師が、何度も本当にいいんですか、せっかくきれいな髪なのに、と確認してくる。
「髪、染めたことないですよね?いまどきバージンヘアって珍しいし、もったいないですよ」
 いいんです、と根気強く説得した。
「そうやって褒めてくれた人と別れて2年経つんですけど、まだ引きずってる自分が嫌で、変えたいんですよ」
 おれの言葉に、さきほどまで消極的だった美容師が俄然、目に光を宿して張りきり始めた。
「なるほど、そういうことならご協力させていただきます!でも、お客様を振る方なんているんですねえ……。お店に入ってこられたときから、ほかのスタイリストと「あの人わたしが切る!」って取り合いでしたよ、ふふ。だってすっごいかっこいいから。芸能人かと思いました」
 容姿を褒められるのは慣れているので、「あはは、ありがとうございますー」と笑顔で対応した。
「ちなみに振ったのはこっちですよ、理由は相手の浮気だけど」
「うわあ~~……あるんですねえ」
 先にカラーからさせていただきます、と声かけをされたあとで、右の耳周りの一部だけ、ブリーチを入れられた。全部染めるのはもったいない、と止められたので、樹がすすめてきた「イヤリングカラー」を試してみることにした。毛染めは、うまれてから一度もやったことがないから、わくわくする。
 髪の色を抜き終わったらアッシュ系の明るいブラウンを入れて、シャンプーをしてからカットに入った。女性美容師はとても腕がよく、話も上手だ。髪をさわられるのが気持ち良くて、途中何度かうとうとしてしまった。
「……なんか、このひとは絶対浮気しない、そういう人じゃない、っていうひといますけど、わたしあれって違うと思うんですよね」
 話の中でバツイチだと明かしてくれたスタイリストが、小気味のいい音ではさみをすべらせていく。少し長くなった自分の前髪がぱらぱらと落ちて、視界がクリアになっていく感じがした。
「チャンスの問題ですよね」
 おれの言葉に、彼女が大きく頷く。
「そうです、そうです。うちの旦那は浮気しないから、とかマウンティングしてくる人ってわかってないですよね。いい男って、妻がいようが恋人がいようが、モテるんですよ。いつもチャンスがあるんですよ。はじめから誰にも狙われてない男が浮気しないのなんて当たり前なんです。モテる男が常に周りに狙われてて、相手がたまたま初恋の人だったとか、かつていいなと思ってた女だったとか、そういうときに浮気って起こるんですよ!絶対浮気しない保障のある男なんて、いるわけないです。誰でも可能性あるんですよ、モテさえすれば」
 カットが終わって、やわらかいブラシで顔の上に落ちた髪の毛を払われ、かがみで後頭部から順に見せられた。短くあか抜けた髪型と、右耳のまわりにみえる、ライトブラウンの毛先。知らない自分みたいで、気分が上がった。
「お客様は眼の色が濃くて、ほとんど黒って感じです。なので髪色のベースも黒の方がいいかと思って、カラーは右耳の後ろ、一部にしました。あとはクセを生かせてカットしてます」
「すげえ気に入ったよ。今日から別人として頑張るわ」
 本音だった。髪型を変えると気分が変わる、というのは本当だと思った。
 店を出ると、担当してくれた美容師が、おれの姿が見えなくなるまで手を振って送り出してくれた。首元や額がスースーするけど気持ちがいい。
  空の色が薄くて、銀杏の木はその葉をほとんど落としてしまった道路を、ひとりで歩いた。寂しいという気持ちよりも、これからの人生をひとりで生きていく上での決意のようなものが胸の中を占めていた。

 もう二度と誰かを好きになったりしない。
 恋愛はぜいたく品で、おれの身の丈には合っていないのだと思い知った。
 とにかく食べていくことができれば。それなりに穏やかに生きていければいい。大きい幸せや喜びがないかわりに、心が引き裂かれるような悲しみや苦しみも味わわなくて済む。何もないのが一番幸せなのだ。

 こんな辺鄙な街の、目立たないカフェに世界的に有名なバレエダンサー(村田)がやってくる理由がすっと謎だったが、美容師と話していてわかった。こいつはこの街の出身で、東京公演の間はときどき実家に帰ってきているらしい。
「すっかり冬だね」
 たっぷりとしたカシミアのストールを首に巻きつけ、この上なく上品な服装で店の中に入ってきた村田は、おれの髪型の変化に気づいて、カウンターの前でしばらく立ったままじっとみつめてきた。
「なにか、吹っ切れた感じがする。ひどい失恋からやっと立ち直ったの?」
 何も説明したことがないのに、どうして分かったのか。おれが何もいわずに眉をしかめると、「誰にでもわかるよ、子どもにだってわかる。多分樹くんだって気づいてるよ」と呆れたように首を傾げてカウンターのスツールに座った。
「失恋の特効薬は新しい恋愛なんだよ。古今東西言われているのに、あなたはいつまでたってもこの穴倉みたいな街で、人を拒み変化を拒んで、狂ったように同じ生活を続けているね。ここから出ないとダメだよ。何か新しいことをはじめてみないと」
「うるせえな。別に癒したいと思ってねえからいいんだよ」
「それってずっと忘れたくないってことで、立派にまだ引きずってるよね」
 そうじゃない、と言おうとしてやめた。確かに当たっている。「考えないようにする」「何も刺激がないようにする」「変化を拒む」のはすなわち、まだ引きずり、影響されている証拠だった。
「髪型を変えたのはすごくいいと思うよ。素敵だ。あなたは顔立ちが端整でシャープな雰囲気だから、少し変えるだけでぐっとあか抜けるね」
 村田の顔をじっと見つめ返す。目をそらすどころか、彼は余裕の笑みを浮かべて首を傾げた。
 別れた男にはまるで似ていない。それなのに、こいつが声を発するたびに思い出してしまう。多分、話し方や仕草が似通っているのだ。長年バレエをやってきた者はみんなこうなのだろうか?優美な、洗練された仕草と、服をきていてもわかる、全身を覆っているしなやかな筋肉。ただコーヒーを飲んでいるだけで、絵になるのは何故なんだろう。おれのようにガサツが服を着て歩いている人間にとって、村田や前の男は別世界の人間にみえる。
 指がのびてきて、おれの左耳にふれた。今日は何もつけていなかったピアスホールに、ごく自然な仕草で新しいピアスがつけられる。
 鏡をこちらに向けて、村田が目を細めた。
「プレゼント。きっと似合うと思ってさ。ピアスは衛生上の問題で返品できないからね。受け取ってよ」
 そこに輝いていたのは、吸い込まれそうに深い紺青色のサファイアだった。
「チケットの次はプレゼントか」
 外そうとした腕をカウンター越しに掴まれた。返されてもごみ箱に捨てるだけだよ、と村田が言って、さすがにこの高そうなものをつき返すのは忍びなく、戸惑って目をそらす。
「僕は恋愛するとき正攻法でいくタイプだから。先に言っておくけど、僕は独身だし、恋人はいないし、性病も変な性癖も持っていないよ」
 回り込んでカウンターの中にはいってきた村田が、おれの右耳のうしろ、明るいブラウンに染めた髪に指を通す。つめたい指の感触に気をとられていたら、力強く抱きしめられた。
 おれよりも背が少し高い村田の腕の中はあたたかく、長い間誰とも触れ合っていないことを、そして触れ合うと気持ちがいいということを、思いだしてしまった。
「今すぐ好きになってくれなんて言わない。でも君を違う場所へ連れ出したいんだ。立ち止まったままの袋小路から、何かあるかもしれないところへ。そのとき隣にいるのが僕じゃなくても構わないから」
 彼は真摯な声でそういって、おれのデニムのポケットにまた2枚、チケットをすべりこませた。
「きっと新しい世界をみせてあげるから。一度だけ、みにきて」