5 (一保)

 案内された家は、おれが知っている、かつての成一の家から少し離れた、古い町屋の一角だった。引き戸をあけて入る前に小さな庭があって、なにかの木が葉を茂らせているのを横目に、「おじゃまします」と上がり込む。
「先に入ってて」
 成一は庭の片隅にバイクを置き、植物に水をやってから中に入ってきた。キッチンやトイレ、風呂などの水回りはリノベーションされていてきれいだ。いま流行りの「町屋カフェ」なんかで使えそうな家だった。
 居間に入って、その光景におれはぼんやりとその場に立ち尽くした。丸いちゃぶ台と、よく使い込まれた茶色い革のソファが、センスのいいキリムの絨毯の上に置かれている。ちゃぶ台の上には、青い花が飾られているのが見える。何の花かまでは、ここからは分からないけれど。
 テレビボードはなくて、低い箪笥がいくつか並べられている上に、テレビがのっかっている。テレビの両側に、JBLのスピーカーが置いてある。なつかしい。そういえば、「清水の舞台から飛び降りる気持ちで買った」のだと、前に聴いたことがあった。
 部屋のいたるところに観葉植物。どのグリーンも、手入れが行き届いているのか元気そうに葉を伸ばしている。
 板間になっているキッチンのほかには、居間と寝室らしき部屋の2部屋で、どちらも畳がしかれていた。
「縁側があるのか……」
 寝室にはベッドが置かれていて、その奥には、またしても小さな庭と縁側がある。その風景が、以前おれが住んでいた古い家屋とよく似ていた。
「いいでしょう?家を探してるときここにきて、すぐ決めちゃった」
 夢にでてきた場所と似てるんだよね、と成一は言った。
 寝室らしき縁側につながる部屋には、まだ引越屋の段ボールが箱のままいくつか置かれている。
 洗面台やトイレの場所を教えてもらって、手を洗ってからソファに腰掛けた。花は、リンドウだった。成一がおれの髪にさしてくれた、あの花だ。胸が苦しくなったから、そこから目をそらした。
 テレビをつけるかどうかきかれたが、観たい番組もないので断って、「レコードかけていい?」と断りを入れる。好きなやつ流していいよ、とキッチンから了承をえられたので、レコードケース3つ分いっぱいにつまったレコードを指で物色してから、Arctic Monkeysをみつけてターンテーブルにのっける。久しぶりに聴いたけど、相変わらずギターの音も声もかっこいい。
「When the Sun Goes Downか。このころのこいつらめちゃくちゃ好き」
 10年前の楽曲だなんて思えない、とおれが言って、成一が用意してくれた料理を居間のテーブルに運ぶ。なめこと豆腐の赤出汁、さばの味噌煮、ほうれん草のしろあえと五目ごはん。器まできれいで凝っていて、成一がいかに日常のひとつひとつを大切にしているかがわかる。たぶん、おれが来たから特別な料理をつくったわけじゃない(なにしろおれが会いたいと言ったのは突然だった)、普段からこうなのだ。ごはんに手を抜かないことは、いきることに手を抜かないことだと思う。食べることは体をつくること、いたわることだ。おれたちのように体を使う仕事ならなおさら。
「いただきます」
「はい、いただきます」
 テーブルの前に座って手を合わせ、ゆっくりかんで食べた。どのおかずもびっくりするほどおいしい。
 会わない間に腕を上げたな、成一め。和食はおれのほうが得意だったはずなのに。
「よく食べるねえ、一保さんは」
 感心したような顔で、成一が言った。
「人生のうち、食事をできる回数は決まってるからな。一度たりとも粗末にしたくねえし全部うまいものを腹一杯食いたい」
「決意表明みたい!」
「まあ似たようなもんだよな」
 おれの言葉に、成一が笑った。健やかだね、あなたは。と眼を細める様子をみていると、どっちがだよ、と返したくなる。
「おいしかった、ごちそうさま」
 お礼を言って食器を下げる。洗おうとしたら、あとで食洗機にいれるからいいよ、と断られた。とりあえず水で流して汚れだけを落としてから、シンクの中に積み重ねておく。
 映画みよっか、と成一に誘われてソファに座る。成一は暖かいお茶を入れてからカーテンを閉めた。寒いといけないから、と手渡されたブランケットは、以前プレゼントされたものと同じで、泣きそうになったけどなんとかこらえる。
 ふたりで並んでソファにすわって、1枚のブランケットを分け合って使う。画面の中では、いまどきの草食っぽい若者トムが、美しくてキュートでサブカルをこじらせているサマーと出会い、みるみるうちにのめり込んでいく。
 ときどき笑って眼をあわせたり、顎に手をあてて考え込んだり、なにか思い当たることでもあるのか、情けない顔で「ああ~」と声をあげたりして、映画よりも成一をみているほうが楽しい。
「セックスまでしたのに友達なんてわけあるかよ」
と珍しく荒い口調で悪態をつく様もかわいいし、おれは終始たのしい気持ちで映画をみていた。
 ひとつの恋がはじまり、つながって、終わりを迎える。ただそれだけのことなのに、いつの間にか泣き虫でロマンチストで妄想癖のある押しの弱いトムを心から応援して、サマーのことを史上最強のサブカルクソビッチ!!と罵倒したい気持ちになる。おれはこの映画が大好きだった。
「うそだろ、なんて女だ」
 ラストが迫り、とうとう成一が頭を抱えてしまった。最後はほんの少しだけ希望……希望だといいけど、のようなものがみえて、物語は終わる。
 エンドロールが流れはじめ、成一は放心した顔でこちらを振り返って言った。
「なんか、想像してたのと違ってた。結構、クルね、これ」
 情けない顔がかわいそうで、おれは成一の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。元気出せよ、って意味で。
「おもしろかった」
「だろ。映像が美しくて、音楽はかっこよくて、トムはかわいいしサマーはあっぱれなクソビッチだろ」
「クソビッチって、ひどいな」
 両手でマグカップをもったまま、成一が吹き出した。
「いや、分かってんだよ。惚れるあまりジョセフが……じゃなかった、トムが盲目になって、サマーを好きな自分に夢中になって、相手のことや考えに思い至らなくなんのが敗因なんだろ。別にサマーはビッチじゃなくて自分に正直なだけだ、惚れたもんが負けなんだからしかたねえ……でもやっぱ腹が立つ」

 誰かの彼女にはなりたくない、運命の相手なんているわけない、愛なんて信じてない。そういって、暗に(いわゆるセフレにならなってあげる)とちらつかせるサマーと、納得していないくせに、サマーと一緒にいたいがために同意してしまうトム。ところが物語後半になると、サマーはすんなり別の男と結婚してしまう。
 かつての千葉とおれのような関係。だからこそ、この映画に感情移入してしまうのだろう。
 正直、千葉との恋愛中はこの映画を見返すことができなかった。棚の一番奥にしまいこんで、眼にしないように隠していた。
 サマーの口調を真似して、おれが言った。
「私は、真剣なものは求めてないの。それでも大丈夫?」 
 成一が深刻な顔で言った
「ああ。要するに、カジュアルな関係でいようってことだろ?」
 うっ、トムの真似だと分かっていてもグサリとくる。
 すごくいやだ。かつての自分をみているようで。
 でも、こうして話をできるのは、過去の恋愛にきちんとけじめをつけ、新しい人を真剣に好きになったからだ。
 だから、後悔していないし、無駄だったとも思わない。
「……そんなつらそうな顔をしないでよ、ひどいこと言ったみたいな気持ちになっちゃったよ」
「悪い、なんか感情移入してしまった」
 成一の手が、膝の上においていたおれの手に当たって、冷たさに驚いたみたいに慌てて引っ込められる。ごめん、寒かった?暖房つけようか、と声をかけてくれたが、いらない、と断った。
「わがままでも、自分勝手でもさ。かわいくて若いと許しちゃう男はたくさんいるもんね」
 ブランケットを手に取り、おれの頭からすっぽりとかぶせて、成一が苦笑した。すぐ側にある顔は、電気を消しているのと逆行のせいで、どんな表情をしているのか分からない。
「けしからん。お前らみたいなのがああいう女を増長させんだぞ」
「申し訳ありません……?」
 半疑問にイラっとしたが、のぞき込んでくる子犬のような眼がかわいかったので許した。いつだってこの世は惚れたものが負けだ、やむを得ない。
「罰として熱いお茶のお代わりをいれてこい」
「なにそれ。いれるけど」
 立ち上がった成一が台所に消えたので、おれはソファを占領してクッションを枕に寝転がった。天井からぶらさがっているランプの形がおしゃれだな、とおもい、そのまま視線を壁沿いのアンティークらしき桐箪笥に移す。使い古された箪笥の上に、いくつかの写真立てが置いてある。
 ソファから立ち上がった拍子に、ブランケットがラグの上に落ちた。そのまま歩いて写真立ての前に立ち、ひとつずつ眺める。
 右端から、子どもの成一が初老の女性に抱きついている写真。ついこっちも微笑んでしまうような、愛くるしい写真だ。たぶん、成一は4、5歳ぐらいだろうか。かわいくてならない、という様子で成一を抱き上げている祖母らしき人は、結い上げた髪に和装の似合う、優しげな人だった。
 隣の写真は、救急車の前で撮っているから前所属の人だろう。少し緊張した面もちの成一と、おだやかに笑っている六人部隊長、それに愛嬌のある顔立ちをした、ふくよかな男の3人。
 真ん中にいるのは、あまりに表情が動かずどんなときでも冷静沈着だからという理由でつけられたあだ名、「鉄仮面の男」六人部摂。写真でみてもやっぱりかっこいい。無表情な六人部隊長しか知らないから、こんな顔もするのか、と驚き、すぐに気づく。そうさせたのは成一なのだ。あいつ自身は特別なことを何もしていなくて、ただ誠実にひとと向き合うだけ。けれどそれが、周囲の人を巻き込み、変えていくのだ。
 最後の写真は、成一の兄である星野祥一と、髪の長い、とてもオシャレな女性、それに成一の3人で映っている。バーベキューかなにかしているのか、みんな両手に骨付き肉を持ち、煙の中で掲げてカメラに向かって笑っていた。成一と星野祥一は半袖のTシャツにジーンズやチノパン、女性は黒のワンピースにカラフルなサンダル姿、白い女優帽をかぶっている。
「それ、兄貴が今度結婚するひと。美人でしょう」
「ああ、それにすごくオシャレなひとだな。あんまりお前らと縁のあるひとに見えない、アパレルとかそっち系にみえる」
 実家でいろいろごたついて、とは、結婚のことだったのか。そういえば、成一の兄は両親と折り合いが悪い(主に母親とは絶縁状態)なのだときいたことがある。おれんちのように、何かと家族で集まって食事をともにしたりする家じゃなければ、家族が勢ぞろいするってだけでも大変なことなのかもしれない。
「たしかに、仕事での接点は絶対ないかも」
「お前の兄貴、なかなかやるな、こんな美人を捕まえるなんて」
 どうみても口数が少なく不器用そうなレスキューバカ(失礼)と、スタイルのいい、いかにもキャリアウーマンです!といった美女の組み合わせは、かなりのミステリーだ。まあ、星野兄も顔立ちは整っているし、スタイルときたらジェイソン・ステイサムもびっくりのマッチョなので、ふたりで並んでいると壮絶に絵になるが。彼がタキシードを着て、女性がウェディングドレスを着てにっこり微笑んだ日には、結婚式場の勝負ポスターの出来上がりである。
「三嶋先生つながりだね。ふたりとも、先生の大ファンだったから」
 苦笑しながらそう言って、お茶をどうぞ、と促される。
 油断して、お茶を飲みながらつい、「結婚かあ~、いいなあ~…」とつぶやいてしまい、成一にはっきりと問われてしまった。
「一保さんは、どういう人がタイプなの?つき合ってるひとはいないんだよね」
 ゲイだ、と明かすのはこのタイミングしかない。――そう分かっていたのに、おれの口をついて出たのは別のことばだった。
「タイプとか、わかんねえなあ。いまはつき合ったことねえし。過去にすきだった人ならいたけど、うーん、待てよ、あれはつき合ってたことになるのか……いやセフレ……なんでもない」
 首をひねりながらぶつぶつ言ったおれに、成一が意味がわからない、というように眉を寄せた。
「ええと、つき合ったことはないけど、片思いの人がいた、ってこと?」
「複雑なんだ。説明しづらい。しいていうならいまのタイプは、やさしくて誠実で、一緒にいて楽しい人、かな」
「…今はって…」
「だから、複雑なんだよ。つっこまずにさらっと流せ。そんな興味もないだろ、こんな話」
 納得がいかない、という顔で唇をとがらせている成一の背中をばしんと叩いてから、おれはソファにもたれかかって眼をつむった。
「で、おまえが引っ越したのは、最近やたらと携帯を遠ざけてることと、関係あんの?」
 隣に座っている成一が、固まっておれを凝視した。
「……どうして」
 変だと思っていた。おれの知っている星野成一という男は、骨の髄まで「礼儀正しくて育ちのいい青年」である。
 先にいっておくが、全く怒ってはいないし、お礼のメールなどというものを必ず送らないといけないなんて、思っていない。それでも、おれの家に来た礼を言う遅さや、さっきから携帯電話を全く見えない場所に置き去りにして陰もみえない点といい、おれの知っている星野成一からかけ離れているのだ。成一が携帯を常に側に置くのは、別に携帯依存だからとか、常にSNSをみないと気が済まない、とかではなくて、「人から連絡がきたらすぐに返したい」、という礼儀正しさや誠意の現れなのである。それが今はどうだ、まるで携帯電話なんかみたくない、とばかりに、自分から遠ざけている。
「前に言ったろ?おれは未来からやってきた未来人で、人の心が読めるんだって」
「いや、一保さん、前は「おれは超能力者だから人の心が読めるんだ」って言ってましたよ」
「誤差の範囲内だ、きにすんな」
「ええ~、未来人と超能力者は全然違いませんか」
 おれの言葉に、成一がため息をついて立ち上がり、どこか遠いところに置いていたらしい携帯電話をもってきた。
「あんまり、こういうことしちゃいけないんだろうけど。もうどうしていいかわかんなくて」
 眉を下げ、困惑をにじませた成一が、おれに携帯電話の画面をみせる。
 表示された着信履歴をみた瞬間、「ヒッ」と声を上げてしまった。
「なんだこれ、マジか」
 おれと同じiphone8の着信履歴は、すべてひとりの女性の氏名で埋まっていた。時間はちょうど1時間置きに「相田実日子」という人物からかかっており、指でさかのぼっていくと、およそ一ヶ月前から続いている。
「おまえ……この女とつき合ってたとかそういうの?」
 さすがに見知らぬ女からこんなに連絡が来るわけがない。少なくとも一定の親しさがある人間なんだろう、と考え、おそるおそる質問してみた。すると成一は、困ったように首を振った。
「一度コンパで席が隣になって、連絡先を交換したんだよね。それから時々LINEでメッセージが来るようになって、おれも忙しいから、気が向いたときだけ返事してたんだ。そうしたらそのうち、仕事の悩みがあるから直接きいてほしいって言われて、外で会うようになって」
「出た、出たぞ必殺、「相談戦法」、おまえみたいなやつが一番やられやすいやつ!」
 おれが笑っているので、成一がつられて笑いながら「ちょっと、忍術みたいな言い方するのやめてくれる!?ほんとに悩んでるんだから」と抗議してくる。
 相談戦法とは、女がねらっている男によくやるやつである。はじめは本当に悩んでいることを真剣に相談するのだが、相手が優しく誠意ある人物であればあるほど相談を長引かせ、時には涙すら見せつつ、「成一くんのおかげでなんとかなりそう。本当にありがとう。今度、お礼にご飯でもごちそうさせて」と来て最後は自分を食わせるのである。しおらしい態度をとってまるで自分が補食される草食動物のようなそぶりをみせているが、あいつらはれっきとしたハンターなのだ。恐ろしいことに、やつらには相手の男に恋人がいようがフィアンセがいようが、最悪結婚してようが、関係ない。
 成一のような人間はもっとも陥りやすい罠だ。むしろ星野成一のために用意されたハニートラップと言っていい。
「それで、やっちゃったってこと?でないとここまで執着してこないだろ、相手も」
 突然飛躍した話とおれの怒ったような態度に、成一が「まさか。いっさい手なんか出してないよ」と力なく否定する。
「職場の上司からパワハラを受けてる、っていう話だったからさ、おれも似たような経験があったし、これはなんとかしてあげたいと思って、熱心にアドバイスしてた。夜中に泣きながら電話がかかってきたときも極力応じてたし……でもそしたら、なんかだんだん変な感じになってきて」
 あるとき家に帰ったら、部屋の前に座ってたんだよね、と成一が言った。
「こう、荷物いっぱい持っててさ……夜眠れないから側にいてほしいとかなんか…いやそれはダメでしょって説明して、もう終電もない時間だったから一晩だけ泊めて返したんだけど。それから急に家にくるようになって怖くなってきて」
 で、引っ越した、と成一は言った。
「情けないと思うけど、どれだけ説明しても分かってくれないんだよ。おれたちはつき合ってないし、男女なんだから家に急に来ちゃダメだよ、って言っても、いま好きな人がいないならつき合ってくれたらいいじゃない!って泣かれる。女の人に泣かれるのがおれ……ほんとダメで…泣かれちゃうと何もいえなくなるんだよなあ」
 ソファの上で体育座りをしている大きい体を、声もなく、口を開けたままみつめた。ここまで来ると優しいとかそういう問題じゃない。
 肩をつかんで揺さぶりながら、おれは言った。
「いや、それストーカーだから!!怖いから!おまえ警察相談した!?だめだって、そのままじゃ。わかってんのか?おまえは男で、相手は女なんだぞ」
「どういうこと?」
 優しいあまり相手の悪意なんか想像もしていない成一に、いらいらとしながらおれは続けた。
「だからさ、もしこのままエスカレートし続けて相手の女が暴力沙汰に出たとしてもだ、その段階で警察に訴えたって、理解してもらえないかもしれないんだぞ。男のストーカーと女のストーカーじゃ、警察の扱いが違うんだから。おまえと交際関係にあったとか、レイプされたとか言い出したらどうすんの?そういう主張って、絶対女のほうが通るんだぞ。事実無根でも、仕事に響く可能性だってあるだろ!」
 力じゃ圧倒的に有利な男だからこそ、こういう被害じゃ軽くみられがちなんだよ!とおれが力説すると、成一が手のひらで顔をおさえ、「……そうか、そこまで考えてなかった」とつぶやいた。
「まず、誠心誠意断ったのか?そこだよ最初は」
「もちろんはっきり言ったよ。今は忙しいし、君のことはタイプじゃないからつき合えない」
 思っていたよりもはっきり言っていた。おれは思わず眼を丸くして「結構言うね!?」と叫んでしまう。
「家にまで来ちゃったからね。電話とLINEを着信拒否したら「死んでやる」っていわれたからそれは解除したけど」
 絵に描いたような女だ。おれは燃え上がる怒りに身を任せそうになるのを、必死でおさえながらうめいた。
「そういうこと言う奴に限って100歳まで生きるから安心して拒否しろ」
「あ、うん……一保さん、あの。ちょっと離れて」
 話に夢中になるあまり、成一の肩をつかんでソファに押し倒すような姿勢になっていた。
「ごめん」
 すごすごと体をずらす。成一は、怒ったような、困ったような顔で目をそらして座りなおした。
「おれもそう思ってたんだけど、相田さんは本当に切ったんだよ。首を。頸動脈のすぐ近くを、サバイバルナイフで」
 暗い声が告げた内容に、言葉をなくす。
 成一は、ソファに座ったまま自分のてのひらをじっとみつめ、言った。
「着信拒否してたら、公衆電話からかけてきてね。今から死んでやるって言われて、部屋にいったら首切って倒れてた。ほら、おれこういう仕事だから、リストカットとか、自殺未遂もたくさんみてきたけど、彼女の「死んでやる」は本気だった。止血して、救急車呼んで――今は退院してるけど、あのときは心臓が止まりそうになった」
 考え込んでしまうんだよね、と成一が言った。
「なんでそこまで、よく知らないおれのこと、好きだって思いこめるんだろう。思いこみで、自分の体を傷つけたり……。怖いし、イヤなんだけど、当事者だから放っておけないなあって思って、今は電話には出るようにしてる。そうしたら、だんだん分かってきた。彼女はおれを好きなんじゃなくて、そういうむちゃくちゃな自分を受け入れてくれたり、話を聴いてくれる人がほしいんだ」
 そんなもん、みんなほしいに決まってる。でも、
「自分の人生の傷ぐらい、自分でなんとかしろってんだ。恋人でも家族でもない通りすがりに、甘えるにもほどがある」
 もしかしたら妬みもあるのかもしれない。
 成一から連絡をもらえる、かまってもらえる、心配してもらえる。女の子だから。遠慮なく甘えられるし、許してもらえる、そう思ってる厚かましさに腹を立てているのかもしれない。自分の決して切らないカードをさっさと切る、見知らぬ女に、怒りと同時に嫉妬をしている可能性は0じゃない。
 でもなによりも。
「おれはそいつの甘ったれた根性に腹が立つ。優しさに甘えて振り回して、そんな相手をみて溜飲を下げる。なんてひん曲がった根性だ。ケツをけっ飛ばしてやりたい」
 吐き捨てた後で、言い過ぎたかな、と思いちらりと隣の成一をみた。すると彼は、なんともいえない顔でじっとおれを見つめたあとで、声を上げて笑った。
「……ありがとう、おれのために怒ってくれて。すっごくうれしい」
 それから、場違いにのほほんとした声でこう言った。
「一保さんって、かわいいなあ」
 なんだと?
「おまえはなにをいってるんだ、頭イカれてんのか」
「だって、ぷんぷんしてたから。ひとのことなのに」
 ひとのことじゃない、おまえのことだから怒ってんだよ!と叫んで地団駄をふんでやりたかったが、他人の家なので我慢した。
「成一はのんきなやつだな。警察、いくなら一緒にいってやるからな?知り合いいるから話通してやるし。いつでも言えよな?」
「大丈夫、ありがとう。最近は落ち着いてきたから。家に突然こられなくなったし、電話も減ってきたから」
 でもちょっと怖かったけどね、と言って成一が眼を伏せたので、おれは安心させるように手を握って、あえてにっこりと笑った。
「おれはいつでもおまえの味方だ」
 覚えてろよ。
 そういうと、成一が破顔した。
 眼がぎゅっとほそめられて、かっこいい、胸がきゅんとなる顔だった。

 話が終わって時計をみると、もう夕方近くになっていた。
 あんまり腹も減っていないので、おれたちは酒を飲みながら成一の家に置いてあった「ラブジェンガ」をすることにした。
 ソファの前、キリムのラグに寝そべる。お互いの手には、コロナビール。おれが持ってきたグリーンレモンを切って、飲み口からつっこんであるのだが、これがなかなか上手い。アメリカでよく飲んでいた、うっすい味のビールを思い出して懐かしさもあった。
 ちなみに遊び方は、様々なばかげた指令が書いてあるジェンガを引っこ抜いていき、指示に従うというやつである。従来異性を含めたグループでやって楽しむ遊びだと思うのだが、暇だったし、おれがジェンガが得意だという話からなぜか今やることになってしまった。
 おれはラブジェンガをやったことがなかったので、始めてみてから指示のきわどい内容にびっくりした。ジェンガはピンクのブロックと白のブロックの二種類あって、白はコメディ的な内容で、ピンクははっきりいって割とエロい内容になっている。
 序盤は、大した内容を引かずに済んだのでふつうに盛り上がった。
 はじめにおれが引き当てた「パンツの色を発表」で「黒のボクサー」とすんなり答えたら、きいてないのに成一が「おれはグレイのボクサー」と頷き返してきて「いや聞いてねえし!」と爆笑したり、「2周するあいだ赤ちゃん語でしゃべる」を引き当てた成一が、「ほら、早く引いて……ほしいでちゅ」とぎこちなくいっているのをきいてなんだかほのぼのしたりした。身長180センチ後半のイケメンの赤ちゃん語かわいすぎか。あと2回ぐらい引けよそれを。
 でも後半になってくると、ちょっと雰囲気が変わった。エロいジェンガが残ってきたのだ。
 たとえば今成一が引いた、「右隣の人の耳に吐息」とか。
 えっ大丈夫なのかこれ。大学の怪しげなイベントサークルで乱交用か何かに使うのか…?
「一保さん、こっちきて」
「やだよ!!おれ耳弱いんだ!絶対やだ!!」
 映画をみているときにふたりでワイン1本、ビール6本開けてしまっていたので、正直割と酔っていたというのもある。
「まあまあ、ゲームだし」
 冗談じゃない。成一にしてみれば男同士のおふざけで済むのだろうが(そういうのは我々男社会ではありふれている)、興奮しちゃったらどうしてくれるんだ。
 じたばたしているおれを思いの外強い力で抱き寄せると、成一が耳元にふっと息をふきかけて「顔まっか。かわいい」と低い声でささやいた。
 なに今の声、エロすぎ。勘弁して。
 おれが顔を両手でおさえたまま四つん這いで突っ伏していると、酔っぱらった成一がにこにこしながら「ほら次、一保さんだよ~」と促してくる。おれの気持ちも知らないで、くそ…!
 残りのビールをぐいっとあおってから、すでにグラグラになったジェンガのスキを探す。ここまできたら、負けるわけにはいかない。おれはジェンガと腕相撲では無敗なのだ。
「よし、これだ……ンッ!?」

「正面の人にキスする」

 眼が点になっているおれの手からブロックを奪って、成一がかわりに読み上げた。その場がしん、として、おれは慌ててブロックを取り返した。
「いいよこれは。なんかちょっとシャレになんないし、もうやめよ」
 しどろもどろになっているおれに、成一が首を傾げて、にっこり笑った。そして腹這いのまま、匍匐前進みたいににじりよってきて、両手でそっとおれの頬を包んだ。
 ぐるりと視界が反転して、天井と成一が見える。押し倒されたのだ。
「せ、……ッ」
 拒否する暇もなかった。流れるような自然な動きで、成一は唇をかさねた。ちゅ、と音をたてて離れていった顔をぼうっとみていると、「無防備だな、もう一回しちゃうよ?」と苛立った顔で言われた。
「いいよ。……して」
 口がすべった。
 うれしくてぼんやりして、願望をそのまま口にしてしまった。
 そうとしか言いようがない。はっとして両手で口をおさえたがもう遅くて、成一は目を見開いて、数センチの距離でおれをみていた。
 慌てて体を起こそうとしたら、もう一度顔が迫ってきた。嫌じゃないから拒否できず、おれは眼を閉じてその瞬間を待った。
 ーー数秒間、眼を閉じて待っていた。けれど何も起こらなくて、ゆっくり眼を開く。明かりと一緒に飛び込んできたのは、成一がリンドウの花を持ったまま、おれの首筋をじっとみつめている姿だった。
「笑わないでね、」
 成一の指が、震えながらおれの髪にリンドウをさしこむ。息をのみ、ただひたすらに眼を見つめ続けた。気のせいか、成一のきれいな琥珀色の眼には、うすく膜がはっているようにみえる。ーーきっと、気のせいに違いないけど。
「前に、これと同じことがあったような気がするんだ」
 そんなはずないのにね。
 無理に笑おうとした顔をみていられなくて、おれは腕をのばして成一を抱き寄せた。唇がふたたび重なり、今度はさっきみたいな軽いものではなくて、上唇を舐め、下唇を甘くかまれる。大きな手のひらがおれの頬を包み、髪をなで、耳たぶをさわった。背筋を快感が這い上がってくる。顔を傾けた成一が、小さい声で「口、開けて」とささやき、おれはその命令のとおりに唇をうすく開いた。熱い舌が入ってきて、そろそろと口の中を蹂躙する。舌がふれあい、ふるえるほど気持ちよくて、おれは両手で成一のシャツに爪を立てた。
 呼吸が苦しくてのけぞると、成一が興奮した男っぽい顔でくちびるをはなし、首筋を舌でたどった。千葉にそうされたときは全く違う、ぞくぞくするような欲情が体の中からこみあげてきて、腰が浮いてしまう。歯を立て、きつく吸われて、声がもれた。
「ん、あ……せー、いち、まって」
「一保さん、このキスマーク、どうしたの?」
 手のひらが強くおれを抱き寄せ、有無を言わさないとばかりに体が密着する。ふわふわとした成一の茶色い髪から漂ういい匂いと、下から見上げてくるすがるような視線に、心臓がやぶれそうだ。
「つき合ってる人、いないんだよね。じゃあ、これなに」
 首筋を指で引っかかれて、「ひ、」と息が上がる。顔をそらし、涙目のまま「はなして」と訴えても、「教えてくれるまで離さない」といってどいてくれない。
「友達が、ふざけて……」
「ふざけてキスマークつける友達?そんなのいるわけない。ね、なんで嘘つくの」
「ほんとだよ、それ、男だから…っ、つけたの」
 何か誤解をされていると思い言い募る。ところが成一の機嫌は、よくなるどころか急降下してしまった。
「よけい悪い。あなたはスキが多すぎる」
 ちゃんと拒否して。でないと、付け入ろうとするやつがいくらでも出てくるよ、おれみたいに。
 そう言って、成一が体を起こす。
「一保さんは、自分をしらなすぎるし、人を信用しすぎる。気をつけたほうがいいよ」
 そういうと、成一はおれの腕をつかんで、体を起こしてくれた。その勢いのまま腕の中にすっぽりとおさまってしまうと、今度はやさしく抱きしめてくれた。
「ひとの心配するまえに、自分の心配して。ーーちょっと危なかったよ、いま」
 注意するだけのつもりだったのに。
 成一の言葉に、今のキスの意味を知ってショックを受けた。おれにスキが多い、ってことを教えるために、こんなことをしたのか。
 もうちょっとで勘違いするところだった。いまだって、体から欲情が抜けきらない。
「うるせえ、ばか」
 自分でも顔が真っ赤になっているのが分かる。悔しい。
「そんな顔で言われてもぜんぜん怖くない。えろいだけ」
「えろいのはおまえだろ、へんたい!」
「おれが変態だったらもう犯してるからね」
 落ちていたクッションをぶつけると、成一がいてて、と困った顔をした。
「ちょっと飲み過ぎたかな。お水もってくるね」
 好き勝手したくせに、成一は冷静だ。ものすごく悔しい。おれは膝をたてて座ったまま、身動きがとれなくなってしまった。(つまり、体が反応してしまった)
 温度差があるのはしかたのないことだと分かっているのだが、ここまで差があると落ち込んでしまう。理不尽に腹を立てそうだ。おまえ、おれがどれほどおまえに会いたかったか、あえてうれしいか、わかってねえだろ、と問いつめたくなる。
 ――しないけど。
 膝を抱えたまま、深いため息をついた。おさまれ、おさまれと頭の中で唱える。目の前でまだ崩れずにいるジェンガの残骸をみていると忌々しくなってきて、おれはそれを手のひらでぐちゃぐちゃに崩してから、さっさと箱の中に収納した。まったくとんでもないゲームだった。
 顔を動かした瞬間、何かが落ちてソファのしたに潜り込んでしまう。手を伸ばして拾おうとすると、指に何かがぶつかった。
「エロ本だったりして……」
 成一の女の趣味なんか、知ったら知ったで傷つきそうなのに。
 興味本位で、落としたものと一緒にたぐりよせる。
 出てきたのは、髪にさされたリンドウの花と、40センチ四方の白い箱だった。高級感のある白い箱の四隅は、何かにぶつけたみたいにへこんでいる。
 そっと台所の方角を確認すると、包丁を使っている音がした。なにか肴でもつくってくれるのかもしれない。
 罪悪感を感じつつも、ふたをあけた。
「これって」
 そこには、使用感の全くない、高そうな聴診器と、封筒に入った手紙が2通、現像した写真が10枚入っていた。
「六人部隊長、だよな」
 手紙はさすがにさわらなかったが、箱いっぱいに入っている写真はどうしても目に入ってしまう。
 数枚は、引っ越す前の家で撮った写真のようだった。成一と六人部隊長、ふたりでグラスをかかげてファインダーに向かって笑っている写真や、飲み過ぎたのかテーブルに突っ伏している六人部隊長の、寝癖のついた後頭部の写真。ふたりともリラックスしていて、楽しそうで、それなのに写真をみているおれは泣きそうだった。もうみたくない、と思うのに、写真をめくる手が止まらない。
 ほかの写真はほとんど、仕事場のものだった。さきほどみた、ぽっちゃりした男と成一、それに六人部隊長の3人が、救急車の前や、署の中で何か作業をしている写真。お互いに強い信頼関係で結ばれているのだと、ひとめみて分かるような。
 最後の写真だけ、ほかのものと違っていた。
 救急隊の作業着を着て、肩にバッグをかけて走っている、背の高い後ろ姿。逆光でとったのか、うつっているのはその男のぼんやりとしたシルエットだけだ。それなのに、おれにはこれが誰なのか、何をとりたかったのか分かってしまう。六人部隊長。手を伸ばしても届かないあこがれであり、目標。成一が愛した人。
 後ろから足音が聞こえてきたので、慌てて箱をとじてソファの下に押し込み、ふたたびテレビのほうをむいて座り込む。
「おまたせ、水にレモン搾ってきたよ~。これでちょっとすっきりするかも」
「ありがと」
 話できくのと、目の当たりにするのではダメージが全く違う。水を受け取り口に運びながら、おれの頭のなかではずっと、さっきみた映像がぐわんぐわんと回っていた。好きだったんだ、と思った。本当に本当に、成一はあの人のことを愛していたんだ。
「……ど、どうしたの!?」
 勝てる気がしない。
 やり直す前は、自分の恋愛のことで頭がいっぱいだったし、お互いに失恋していたからそんなこと考えなかった。でも今は違う。おれだけはメーター満タンまで好きで、相手はおれに1mmの興味もないのだ。平気でキスなんかしちゃえるぐらいに。
「ちょっと……悲しいことを思い出した」
 子どもみたいに涙がぼたぼた落ちてくる。片思いがこんなにつらいなんて、妹が読んでいた少女マンガは本当だったんだな。「片思いがつらい」って泣いてる主人公を内心相当バカにしていたが、申し訳なかった。これはかなりつらいし、苦しい。今すぐやめちゃいたいぐらいに。
「うそ。これおれの特技。前世は噴水だったから水のんだら眼からだせんの。すげえだろ」
 成一が側に寄ってきて、指で涙をぬぐった。
「悲しいことを思い出すのは、おれも良くある」
 長くて整った指が頬をなぞり、顎のラインにふれる。さわるのが上手いんだな、と思う。さっきキスされたときも、耳や髪をなでる指が気持ちよくてうっとりしてしまった。このまま抱かれてもいいや、って思うぐらいに。
「聞いてもいいですか」
 さっきから、敬語になったりタメ口になったり忙しい。もう敬語使わなくていいよ、とつぶやいたら、どこか上の空で「うん」と返された。
「なに、どうぞ」
「さっき電話したとき、なにがあったの?」
 説明しようと口を開きかけて、やめた。どう説明すればいいのか分からなかったし、そのまま説明したときの反応が怖かった。
「これと関係あるの」
 指でなでられた場所は、たぶん千葉がキスマークをつけたところだ。
 おれは膝を抱いてその上に顎をのせ、成一の手を振り払った。
「告白された」
 成一の動きがとまった。のぞきこんできた顔をみることができなくて、おれは目をそらして続けた。
「それで、断ったらあきらめられないって言われて……これ、つけられた。友達だと思ってたやつだったから、びっくりして」
 ――小学生か!!
 小学生が学校であった悲しいことを、家帰って母ちゃんに説明してんのか!!
 自分でそうつっこみたくなるぐらい拙い内容しか出てこない。情けない。いい年をしているのに、なんてざまだ。
「でもおれも悪いんだ。押しのけようと思えばできたけど、怪我させるかもって考えて反応が遅れた。力の強い相手だったから、怪我させずにやめさせることが難しかったし、もしそうなったら仕事に差し支え……」
「その人、同僚なの?」
 低い声に、顔を上げる。目の前の成一は、みたことがないほど険しい顔をしていた。
 しまった、と思ったがもう遅い。おれは黙って首を振り、「もういいだろ、この話は」と打ち切って立ち上がろうとした。
「よくない。断ってるのに、押さえつけてこんなことするなんて。もっとひどいことされてたかもしれないんだよ、分かってるの?そのひととこれからも一緒に働くんでしょ、大丈夫なの?」
 千葉をすごく悪い人間のように言われて、思わずおれも言い返してしまう。
「いいやつだよ。おれなんか好きだって言ってくれて、それも二度も……応えられたらって思った、でも無理だった」
 これ以上はダメだ。
 このままだと言わなくていいことまで言ってしまう。
「……どうして」
「すきなひとがいる」
 口が勝手に動いて止まらない。
「あきらめたいのに、あきらめられない」
 レコードはいつの間にか止まっていた。しんと静まりかえった部屋の中で、時計の針がすすむ、カチ、コチという音だけがいやに響いている。
「じゃあさっき、どうしてキスさせてくれたの」
 妙にしんとした声で、成一が言った。目が合う。少し悲しげな、静かな表情だった。
 どうしてそんなことをきくんだよ、と腹が立った。好きだからに決まってるだろ、といいたいのに言えないのは、捨てられないプライドのせいだろうか?相手からの愛が得られないと分かっているのに、自分の思いを打ち明けることの怖さと苦しみを考えてはじめて、千葉の気持ちが分かって、息がくるしくなった。こんな風に思っていてくれたのか。伝えてくれたのか。嬉しい。嬉しいし、もう一度おまえのことを好きになれたらいいのに、と思った。
 あんなにも好きだったのに、おれはもう同じ気持ちで千葉を好きになることができない。こんなにも苦しいのに、成一を好きでいることをやめられない。なんて面倒くさいんだろう、やめられるものならもう、恋愛なんか一生やめてしまいたい。
「したことなかったから、してみたかった」
「したことなかった?キスを?」
「うん」
 うそだろ、という独り言をもらして、成一がへなへなとおれのそばにしゃがみこんだ。そうだよ嘘だよ。おまえとキスしたかったんだよ。だから振り払わなかった。でも言えるわけがないので黙っていたら、「ごめん、おれなんかが初めてになってしまって」と言われて眉を寄せて成一をにらみつけた。おれなんか、とはなんだ。例えお前自身であっても、おれの好きな星野成一を悪く言うことは許さんぞ。
「おれ、あなたの顔がすごく好みで。ちょっと、ムラッとしちゃったんだ。ごめん」
 また謝られた。ごめん、ばっかりいいやがって。お前、職場でも「すいません」ばっか言ってるだろ、と思ったが言わなかった。
「はじめてみたときから、その眼……猫みたいで、きれいだなって思ってた。鼻筋も、高くてつんとしてて、でも笑うとかわいくて、やばい、めちゃくちゃこのひとの顔が好きって」
 顔がいいのは知っている。おれだって自分の顔は好きだ。
 でもまさか、成一がおれの顔を気に入っていたなんて、しらなかった。
「ありがと。よく言われるけど嬉しいよ」
「うわっ、いまの言い方三嶋先生っぽかった」
 ちょっと嫌そうな顔でそういって、成一が笑った。それから、三嶋先生っていうのはおれが好きだったひとの恋人でね、ぞっとするほど美形なんだよ、と説明してくれた。知ってるよ、と思ったが言わずにおいた。
「おれもおまえの顔すきだよ。かっこよくて、眼がやさしくてきれいな色をしてる」
「……ありがとう」
「でもそれ以上に、お前の心が好き。やさしくて誠実で、一緒にいたらほっとする」
 さっき成一にされたように、指で頬をなでてやると、成一は耳まで真っ赤になった。
 これはもうほとんど告白だ。
 ――そう思われたっていい。
 失恋で自信を喪失して、へんな女を引き当てたせいか、成一はどことなく元気がない。おれの言葉で、少しでも自分のいいところに気付いてくれたらいいのに。

 先に風呂に入らせてもらってから成一が入っている間、テレビをつけ、ぼんやりとニュースを眺めた。半分ワイドショーみたいなテレビ番組は、『謎の失踪 厳しすぎた英才教育』とかいうテロップで、綿谷いつかの特集をしていた。
 いつかの母親は元ヴァイオリニストで、一部の関係者からは「異常といっていいほど息子に干渉していた」とか「ヒステリックで怒りっぽく、つねに綿谷いつかを監視して友人も作らせなかった」とか、「自分の手元に置いておくために留学の話をことごとく握りつぶした」とか、かなり散々に言われていた。ここまで言われるということは、実際ひどいものだったんだろう。演奏している映像はどれも、音は素晴らしいが暗い表情が多く、生き生きと弾いている姿がみられるのは、生野千早とのセッションだけだ。ジャズミュージシャンとクラシックヴァイオリニストなんて、なかなか接点がなさそうなものだが。
 帽子を目深にかぶり、ひとと目を合わせようとはせず、まるで自分の身を隠すみたいに黒い服をきて縮こまっていた綿谷いつかを思い出すと、胸の奥が切なくなった。おれと話すときはあんなに不遜な態度だったのに、眠るときは存在を消すみたいに丸まって寝ていた。考えてみれば、態度が不遜だったわけではなく、他人と話すのが恐かったのかもしれない。航太郎の生まれ変わりだという説はもはや否定の方向だが、歳の離れたこどもとして、あいつに何かできることがあるだろうか、と考えたりした。おそらく、彼自身は望んでいないだろうけれど。
 暗い気持ちになってテレビを消す。ステレオでラジオを聴き、明日の天気が晴れだということと、気温が今日よりも下がって冷え込むらしいということを知った。
 時計をみると、もう20時を過ぎていた。夜ごはんはピザが食べたくなったので、さきほど成一がおすすめだという窯焼きピザの出前を取った。確かに、ひとりで3枚は食べられそうなぐらい、おいしいピザだった。ピザにはコーラだ、といって、体に悪いことを知りつつふたりで瓶のコーラを飲み、成一が「罪悪感を薄めるために」サラダを作ってくれた。
 風呂に入る前、成一は日課のランニングに誘ってきたが、今日は走りたくなかったので断った。明けの日に運動をしすぎると、低血糖と疲労で倒れてしまうことがある。なので、最近は疲労回復にも気を遣うようにしていた。ランニングは泳ぐのと同じぐらい大好きなんだけど。
 持ってきた長袖のラグランシャツとスウェット姿で、ラグの上で寝そべって雑誌を読んでいたら、成一が出てきた。湯気と一緒にジャスミンの香りがして、思わずスンスンと匂いをかいでしまった。
 自分の手首からも同じ匂いがして、恋人のようでテンションが上がったが、顔には出さない。
「何か飲む?ソフトドリンクなら麦茶、水は硬いヤツと柔らかいヤツ、オレンジジュースがあるけど」
「……お前んちはちょっとした美容院か。普通の水がいいや、ありがと」
 まさか硬水まであるとは思わず驚きかけたが、バレエダンサーは自分の身体を厳密に管理するクセがつくのだときいたことがある。よくまあおれに付き合ってピザだのコーラだの飲み食いしてくれたものだ。
 グラスになみなみと注がれた水を飲みほす。まだ夜は長いし、ラグに座りこんで爪をきり、指の爪にはやすりをかけている成一を見つつ、洗濯物を適当に畳んでソファに置いだ。泊めてもらった恩返しにと思ったのだが、「そんなことしなくて大丈夫だよ!でもありがとう」とすごく遠慮されてしまった。
「すげえな、やすりまでかけてんの」
「仕事柄、傷病者にさわることがあるんだけど、切りっぱなしの爪だと断面が鋭利になって痛いからって上司がやってたんだよね。そんなこと考えた事もなかったから驚いたんだけど。言われてみればおれもその人も、爪の白いところが少なくてギリギリまで生えてるから深く切れないんだよな。それで、マネしてやすりかけてるんだよ。これなら相手が暴れた時も、うっかり肌にあたって傷つけたりせずにすむ」
 しばし黙って成一のうつむいている頭をみつめていた。のんびりしてみえるけど、仕事に対しては本当にストイックだ。
「かっこいいなあ……プロじゃん。あれ出れそう、MHKの仕事の流儀」
 顔を上げた成一が、爪切りをちゃぶ台に置いてから「あはは」と笑った。
「いま居るHRなら出られるかもしれないけど、救急は無理だろうな、地味すぎて」
 テレビも世間の人々も、派手な仕事が好きだ。本当に生活を支えているのは、地味で大変で目立たない仕事なのだが、どうしても映像にしたときかっこいいもの、目立つものに注目が集まるし、注目が集まるとそこを目指す人が増える。目指した人々が出世して重要な位置をしめるようになり、結果的に予算がついていくのは消防になるというわけだ。
 これからの高齢化社会でより必要性が高いのは消防隊ではなく救急隊であることは間違いない。けれど現状、消防組織の中枢を占める人間は「救急畑」の人間よりも「消防畑」の人間が圧倒的に多く、消防隊の装備は充実しても救急隊の人数が増えたり装備が充実したりしない。既に権力を持っている層は、決して手放そうとしないものだ。だから組織を変えるのは難しい。どうしても変えたければ、自分が出世して変えていくしかない。 「六人部隊長が出世したい理由、なんとなく分かるわ。HRもそのための足掛かりなんだろうな。憎たらしいぐらいかっこいいな、あの人」
 おれがぽつりと言った言葉に、成一が「うん」と低い声で頷く。
「不器用で人見知りで、体育会系の仕事向いてなさそうなのに、抜群に仕事ができて頭がいい。おれはあのひとみたいにはなれないけど、せめて仕事に対して常に誠実でありたいと思ってるよ」
 誠実という言葉はありふれているが、実行するのは難しい。
 そんな中、成一は数少ない「実行者」だ。
「お前ほど誠実なやつみたことないって。星野誠実に名前変えたらいいよ、似てるからばれずに変えられるって、音感も似てるし」
「全然嬉しくない!!」
 手を伸ばして、憤慨している成一のねこっけをふわふわと撫でてやる。
 まだ少し濡れている茶色くて柔らかい髪から、おれのと同じ匂いがした。

 それからしばらくふたりでラグの上でごろごろしたり、仕事の話をしたりしていたが、明けの日ということもあって、夜10時前には眠くてうつらうつらしはじめた。  くやしいし、情けない。起きていたい、もっと話をしていたいのに、上まぶたさんと下まぶたさんが勝手に降りてくるのだ。まるで引き離された恋人同士みたいにくっつこうとする。
「一保さん、残念なお知らせがあります」
 洗面所で並んで歯を磨いていると、タオルを渡してくれながら成一が言った。
「客用の布団、昨日の雨漏りでびしょびしょになってですね、まだ使えないんです」
 眉を下げ、申し訳なさそうな顔で奥の部屋のベッドを指さす。
「ふつう、お客様が来たら新しいシーツや布団でおもてなしすべきだと思うんだけど、おれのベッドで我慢してくれる?シーツは新しいのに変えてあるから」
 明日の朝、何時に起こせばいいか確認してくれた成一が、「それじゃまた明日」と言って毛布を持ってソファのほうへと歩いていく。
「待て。お前まさか自分はソファで寝るとか言いだすの?紳士か。女子じゃねーんだから一緒に寝ればいいじゃん!」
 いや、お前が嫌なら、おれがソファで寝るけど…、と最後の声は小さくなってしまったが伝え終えると、成一は顔をしかめ、顎に手をあてて「うーん」と考えこんでしまった。
「……ちょっと、自信がなくて」
「え、なにが」
 嫌そうにされたことに少なからずショックを受けていると、成一がまあいいや、と言っておれの肩を抱き、「じゃあ壁側に一保さんが寝てね、落ちちゃうといけないから」と笑って誘導した。
 寝室になっている奥の部屋は、畳ではあったけれども間接照明のふしぎな形をしたランプが美しく、オレンジ色のくらい光のおかげでとても雰囲気がある。雰囲気が……あるのがいいことなのかはさておいて……(早く寝ないと襲ってしまいそう)、ベッドもクイーンかそれ以上の大きさだ。部屋の半分はベッドで埋まっている。
「こういう身長だから、足がはみ出さないベッドは必然的に大きくなっちゃうんだよね」
 本当にそれだけなんだろうか。かつて結婚も考えた彼女、とかがいたんじゃないだろうか。
 やり直す前と、少しずつ違う今の成一。もう考え出すとキリがないので、もぞもぞとベッドに上がりこみ、壁沿いに横になって目を閉じた。ややあって、やわらかい生地のTシャツとスウェットを着た成一が布団に入ってきてこちらを向き、「おやすみ」と囁いた。それはどこか淫靡な、熱のようなものを感じさせる声だった。
 おれは閉じていた眼をひらいて、身体ごと成一に向き直った。10センチの距離で、成一と眼が合って、恥ずかしくて目をそらす。
――やばい。好きな男とこの距離で、しかもベッドの中って。変な気持ちにならないほうが難しい。
「一保さん」
「なんだよ」
 名前を呼ばれて、視線を上げる。
 成一のほうが身長が高いから、寝ころんでいても自然、見上げるような体勢になってしまうのがくやしい。
 名前を呼んでおいて、何も言おうとしない成一の心を探りたくなって、おれは身体をもう少し成一に近づけた。お互い横を向いて見つめ合っているから、近づくと手や足が当たって体温を感じる。ふれた手が、おどろくほど熱くてびっくりして、「なに、ねむいの?」と尋ねた。
「いや、どっちかっていうと、逆かな」
「え?どういうこと」
 質問には答えないまま、成一の腕が伸びてきた。声を出す暇もない速さで抱き寄せられ、成一の胸にすっぽりとおさまってしまう。
「一保さん」
「な、な、なに」
 身体が戦慄く。混乱していた。同時にものすごく興奮もしていた。
 成一の匂いがして、背中を抱いている手のひらはとてつもなく優しくおれの背中を撫でている。
「もう一回、しようか」
 いつの間にか髪をなでていた手のひらが頬をつつみ、顔を上げさせられる。
 唇が重なり、さきほどよりももっと性的で、直接的なキスに意識が奪われていく。眠気が一億光年先に吹っ飛んで、にわかに身体が覚醒した。髪をやさしく梳かれ、指が頭皮にふれてそのまま項をたどり、覆いかぶさりながら深く口づけられる。
 息苦しくて顔をそらすと、咎めるように甘く舌を噛まれた。
 右手の指は項をとおりこして、シャツの中にもぐりこんできた。けれど成一らしく、むりやり自分の方を向かせようとはしなかった。そらした首筋に唇の冷たい感触があって、ややすると、舌があたり、きつく吸い上げられる。
 手のひらがシャツの中に入ってこようとしたとき、はっとして成一を見た。彼も伺うようにじっとおれをみつめていた。視線で火傷するとしたら、いまのようなときだろう。真剣な顔だった。
「止めなくていいの?」と問われていた。声ではなく、視線でだ。
 多分正解は、意図を問うか、思いを伝えるか、どちらかだったと思う。好きだって伝えればこの行為は正当化される。そうすれば、たとえ彼が失恋したあとの寂しさでなんとなくおれに手を出していたとしても、目が覚め、やめただろう。
 でもおればバカなので、そのどちらもせずに成一がおれの服を脱がせようとするのを腰を上げて手伝い、あまつさえ彼のスウェットの結んだ紐を、指を伸ばして解きさえした。その手は震えていたが、多分気付かれなかっただろう。
 成一は何も言わずに着ていた服を脱ぎ、やさしく丁寧におれの服を脱がせた。それから、閉じようとする足を有無を言わさず開かせ、正面から覆いかぶさってきた。手のひらが全身をまさぐり、背筋や、内腿をたどりながら、おれの反応を注意深く眺めた。あからさまな場所には触らずに。
 全身にキスされて、とろとろに溶かされた。お互いの息が浅くて、興奮しているのが自分だけじゃないことに安心する。
指が胸を撫で回し、乳首をひっかいてから指でぎゅっとつままれて、とうとう声を上げてしまった。執拗に首筋を舐めていた舌が右側のそこに寄せられ、歯を立てられる。
「あ、…っ、噛むな…やだ」
 身をよじって堪えきれずに声を出すと、見下ろしている成一の視線が、動物みたいにぎらりと光った。怒っているような顔。これは成一が欲情している顔だ。やり直す前、何度も寝たからしっている。とはいっても、日にするとたった1日のことだったけれど。
「ねえ、さわって」
 腕を掴まれ、そこに導かれた。抱き合ったまま成一の肩に顔を預け、下着の上から彼のいきりたったものに触れる。熱くて、もう先を濡らしているそれ。
 指でかたちを確認するようになぞり、下着をずらして直接さわる。大きくて硬いそれをゆっくり上下に擦ると、真上にある成一の顔が苦しそうに歪んだ。こらえるような、悔しそうな顔に興奮する。おれがこの顔をさせているのだ、と思うとたまらない。
 濡れた音とお互いの吐息が静かな部屋に響く。身体が熱くて熱くて、発熱でもしてるんじゃないかと思うほどだ。
 手のひらの中で育っていく成一のものは、腹に当たりそうなぐらいたちあがり、先走りが指に流れ落ちてくる。舐めたいな、と思った。口の中で、どんな味がしたか思い出したい。喉の奥まで入れてほしい。
「だめだ、いきそう」
 身体を起こした成一が、ベッドサイドの棚から何かを取出し、てのひらに出した。よく見えなかったけれど、多分ローションのようなものを。それから、膝裏に手をいれ、ぐいと足を開かせた。膝が顔につきそうな、恥ずかしい恰好に顔が熱くなる。自分の興奮しているものも、もっと奥のほうも、全部成一に見られていた。
「ああっ、まって」
 濡れた指が襞をぐるりとなぞってから、中に入ってきた。いまの身体はこういう行為をしたことがないので、指一本でも異物感と圧迫感が強くて息が止まる。は、と浅い息を苦しげにしていたせいか、成一が左手で髪を撫で、額にキスを落としてきた。
「痛い?だいじょうぶ?」
「うん……いたくない」
 声が掠れる。ぬち、ぬちと音を立てて中をさぐられ、時間をかけて濡らされてから、指が増やされていく。その間もずっとキスをされていた。やわらかいくちびるの感触と、まるでおれの気持ちいい場所をはじめから知っていたみたいな官能的なキスに、この行為の意味だとか理由だとかは、考えられなくなっていく。間違った事だ、と頭のどこかでは分かっているのに、止められない。止めてほしくない、絶対に。
 三本目の指が入ってきて、中を探られるうちに身体に電気が走った。背筋が浮くような、ぞわぞわとした強い快感に、持ち上げられた足がびくんと揺れた。
「ひ、や、やめろ、そこやだ、抜いてっ」
 顔をそらしたおれの耳元で、成一が低い声でささやいた。
「どうしよう。もう、我慢できなくなってきた」
 指が執拗にそこを弄ってきて、快感と底知れないおそろしさに、両足で成一の首をぎゅっとしめてしまう。
 成一は「くるしい」と言って笑ってから、おれの濡れた穴に自分のものをひたりと当てた。いつのまにかゴムのついているそれが、入り口付近をゆっくり、出たり入ったりする。
「あ、あ、うう…」
「一保さん」
 圧し掛かっている成一が、名前を呼んだ。圧迫感に目を閉じていたおれは、その声のひたむきな響きに目をひらく。
 自分の開いた太腿と、その上に必死な顔をしている成一がみえた。額に汗をにじませた苦しげな顔をしていたのに、目が合った瞬間、安心させるように微笑んでくれた。
「痛かったら言ってね、ゆっくりするけど」
「いいから……はやく、きて」
 ぐ、と太いところが入ってきて、想像していたよりも大きい苦しさに、おれは顎を上げてのけぞる。荒い息を吐きながら、成一は一気に奥まで入ってきてから、中を慣らすように、何度かゆっくりと出たり入ったりを繰り返した。
「大丈夫?」
 苦しさにうまく返事ができなくて、おれはこくこくと頷いた。
 正面から抱かれることは、記憶の上でも長い間なかった。千葉の暴力から圧し掛かられることが怖くなっていたころ、成一とセックスするときも、横からしたり後ろからしたり、おれが上に乗ったりしていた。だから今、すぐ近くで、お互いの顔を見つめながらできることが、ものすごく嬉しくて、同じぐらい恥ずかしい。
「ここだよね、一保さんのいいところ」
「んあっ!?…あっ、あっ…や、やめて、ああっ」
 おれの両足を肩にのせ、ぐっと奥に突き込まれる。体の中、自分でも知らなかった気持ちのいい場所を成一のもので突かれて、全身から汗が噴き出すほど感じてしまう。
「かわいいな……」
 ひとりごとのように言ってから突然、激しく腰を動かしはじめる。ベッドがギイギイ音を立て、隣に聞こえてしまうんじゃないかと思うほど、肌のぶつかる音がする。
「成一、となり、こえ…っ、あ、――ッ!」
 もう上手く話すこともできない。汗にぬれたお互いの身体が重なり、その腹に自分のものが擦れて、おれは先にいってしまった。
「ん…、ふさぐ…?」
 びくびくと震える身体を抱きしめてから、成一が言った。いってる最中も激しく突かれ、おれは理性なんか全部どこかへ投げやって、自分から口を開け舌を出してキスをせがんだ。
「ふさいで、せいいち、……キスして」
 言い終わる前に口を塞がれ、舌が咥内を蹂躙する。余裕がないのか、さっきまでのようなやさしいキスではなく、全部奪いつくすみたいな、いやらしいキスだった。
「ん、んう」
「っは、だめだ、いく」
 腰をつかまれ、激しく揺さぶられて、一番奥まではいってきていた成一のものが、びくりと痙攣する。荒い息を吐きながら、名前を呼ばれた。
「一保」
 成一に呼び捨てにされたのははじめてだった。
 心臓をぎゅっとつかまれたような欲情が爆発して、成一といっしょにまたしても達してしまう。目を閉じ、感じ入った表情に見惚れていたら、出し切った成一がそのままおれの上にずしんと重なってくる。かわいくて、その髪をやさしく撫でた。成一は達してからも、くびすじにキスをしながら長い時間つながったままでいた。
「抜くね」
「ん……」
 出ていく感じに、背筋がふるえた。
 繋がりがとかれてすぐ、恥ずかしさがこみあげてきて、おれは寝返りをうって成一に背中を向けてしまった。
「一保さん」 
 達して冷静になった今、どんな顔をしたらいいのか分からなかった。
 どうして、という気持ちと、でもしたかった、という気持ちがせめぎあっていた。いい年をして、はっきりさせる前に寝てしまった。好きも付き合おうもないまま、身体だけつなげてしまった。
 冷水をあびせられたように心が冷えるのは、成一がそんな人間じゃない、と知っているからだった。
 成一は、愛するひとを心から大事にするやつだ。
 だから、おれのことが好きなら、想いも伝えず、抱いたりしない。
「怒ってる?」
「いや……」
 うなじに唇が押し当てられ、強く吸われた。痕がつきそうで身をよじると、後ろから抱き寄せられ、角度を変えてまた吸われる。
「やっぱり、ソファで寝ればよかったな。我慢できそうにないって、分かってたのに」
 ひとりごとのような声に、おれはそっとうしろを振り返ったが、成一はもう寝息を立てていた。
 整った優しげな顔立ちの、以前より濃くなったそばかす。起こさないように、そっとそこにキスをしてから、おれも目を閉じる。久しぶりで、はじめてのセックスに、身体も心もへとへとに疲れていた。
 目の前にあった成一の手に自分のてのひらを重ねる。成一の寝顔をしばらく眺めていたかったけれど、今日はもう脳がパンクしそうだ。
「おやすみ」
 考えるのを後回しにして、おれは眠った。
 ――このときは、まさかこの行為が後々まで自分を苦しめることになるなんて、考えもしなかった。