4 左耳のピアス(笑えないエピソード)

「それって、もしかしてルビー?」
 別れた次の日、発作的に開けてしまった左耳のピアスをさわる。小さい石のものしかつけないので、そう目立つわけではないのだが、分かる人間には分かるらしい。
「よくわかったな」
 ルカと名乗る女は得意げに微笑んで、おれを指さした。
「そりゃそうだよ、占い師なんだから。ルビーは獅子の象徴。眠れる獅子はいつ目を覚ますのかな」
 相変わらず思春期の思考を煮詰めたような物言いをするルカに肩をすくめてから、カフェラテを渡す。このメニューは取り入れるかどうかずいぶん迷った。いれるたびに思いださなければいけないし、外してしまおうかと思ったけれど、女性にカフェラテは人気が高い。故人も「お前の我儘でお客さんに我慢させるな」と怒ってきたし、やむを得ず注文を受けたら作っている。
「店長には赤が似合うよ。そんな白シャツばっかり着てないでさ、たまには真っ赤なセーターでも着なよ」
――うん、おいしい。カフェラテを口にふくんだルカが幸福そうに微笑んだので、おれは嬉しくなって、今度ユニクロで探してみるかな、と考えた。
「毎日早くに目を覚まして、せっせと店やってんだよ。お前みたいに遅く起きてきては街をうろついて、素人騙して金とってるやつと一緒にされたくねえ」
「失礼だなー!!わたしは新宿の父のたったひとりの弟子だよ?生まれつきもってんだから、見抜く力ってやつを」
 外を見れば、道路沿いの街路樹はすっかり葉を落として冬に備え始めている。最近は一日中ガスストーブをつけるようになったし、自由に使ってもらえるよう置いてある、ひざ掛けの出番も増えた。ランチメニューに生姜を取り入れた体のあたたまるものを出そう、とぼんやり食材との組み合わせを想像していると、ルカが「イケメン店長、その後はどう、口説かれてる?」と面白おかしそうに話しかけてきた。
「口説くってなんだよ。いいから黙って食え、冷めるだろ」
 客にこの口の利き方をするなんて3人ぐらいだ。バレエダンサーの村田と、オーガニックスーパーの息子、男子高校生の樹と、自称占い師の女、ルカ。この女はそのうちのひとりで、毎日毎日ランチを食べにやってくる。たまには自分で作れよ。
「……んーっ、この味噌煮最高。カフェなのに和食ランチ食べられるって本当、ありがたい」
 今日のランチは鯖の味噌煮、人参とツナのサラダ、高野豆腐とみそ汁と白米だ。雑穀米も選択できるようにしたいな、と考えていたが、両方炊くと廃棄のリスクが生まれるのでいまのところ白米しかやっていない。ただしごはんとみそ汁はおかわり自由だ。これは常に「ランチは大概量が足りねえ」と思っていた働き盛りの自分の経験を生かしてそうした。おかげで、さっきまでサラリーマンの列ができるほどランチは盛況している。今は14時を過ぎたので、客はルカだけだ。
「なんか美形のバレエダンサーにしつこく言い寄られてたじゃーん」
「あれは言い寄るっていうか……公演みに来てほしいって、それだけ」
 おかわりは?と尋ねると、お水だけほしい、と返事があった。この女の食事順はいつも変で、本来食後に出すカフェラテなどのドリンクメニューを一番初めに飲んで、食事中は水を飲み、食べ終わると風のように退店するのだ。まあ自由と言えば自由だから、何も言わないが。
 水やお手拭きはセルフなので、店の隅にあるセルフコーナーを指さす。ルカは「人使いの荒い店だねえ」と不平をのべながら自分で水を入れた。
「かっこいいもんねー、店長は。『ワケあり美男が近隣の男を惑わせています』みたいな感じ」
「ラノベのタイトル風にすんなや」
 少し笑ってしまった。ルカは「女も惑ってるけどねえ。これからママ友ラッシュの時間帯でしょ?」と意地悪な笑みを浮かべた。
「名乗らなきゃいけないときどうしてんの?店に電話かかってきたときとかさ」
「案外名乗る機会なんてないぞ。電話には『はい、セプテンバーです』って出りゃいいし。友達もいねえし、店の名刺には電話番号しか載せてねえ。セプテンバーの店長です、で大概OKだ。仕入れ先には本名でやり取りしてるけど、普段は必要ねえからな」
 樹に手渡す納品書には、『セプテンバー』とサインをしているからあいつはまだ名前をしらない。先々代のときから、名前ではなく屋号でサインをしていたので、その習慣は引き継がれている。
「徹底してるね。そんなに出し惜しみしなくていいじゃない」
 ルカは水をごくごく飲みほし、「ママ友ランチ会前に退散しよ」と言ってランチ+セットドリンクの代金をカウンターの上に置いた。
「明日のメニューって何?」
 今食べ終わったばかりなのに、もう明日のメシか。まったくこいつは健やかな女だな、とおかしくなって、おれはレジ替わりのアイパッドを指でつつきながら、「豚の生姜焼き」と笑い交じりに返事をする。
「楽しみー。じゃ、また明日ね」
 ルカは大股に歩いて、颯爽と店を出て言った。その背中に「毎度ありがとうございまーす」と気の抜けた挨拶を返して、片付けをはじめた。

 この街に来てから2年、おれの本名を知っていたのは先代の店主だけだった。彼は亡くなる6時間前、昏睡状態になる直前におれの名前を呼び、「頼んだ」とだけ言った。あのときの、すっかり薄くなった、かわいた手のひらの感触は、きっと一生忘れることができないだろう。
 ガスストーブの前で立ったままコーヒーを飲む。金銭的なことを一切排除すれば、ランチ前の混雑していない時間が一番好きだ。自分好みの豆をグラインドし、自分のためだけにネルで淹れて、ひとりで飲む。乾燥でかゆく感じたふくらはぎを、フラミンゴみたいに片足をあげて足で掻きながら、ドアの向こうに見える木々を眺めた。変わらない風景。長方形に切り取られた、葉が茂ったりなくなったり芽吹いたりするだけの狭い世界。
 誰にも期待されていない折り鶴を折ってならべていくような生活だが、心が動かないから平穏だ。このまま毎日少しずつ老化して歳をとって、静かに死ぬのも悪くない。幸いにも前職の退職金や多少のたくわえがあるので、老後の心配はそう大きくない。
 タブレットが着信音を知らせたので、LINEを起動すると村田からのメッセージが入っていた。カウンターの上に置いてあるそれを指で触る。内容を確認する前に、飲み終わったカップをシンクに置いた。後ろの冷蔵庫を振り返ると、あれから村田が誘ってきては断り、破られたチケットが5枚、マグネットで貼り付けられていた。一体いつになったらあきらめてくれるんだろう。もったいないからやめてほしい。
『今度出演する舞台、コンテンポラリーなんだけどすごいよ。生野千早が生演奏するんだ』
 一瞬、呼吸の仕方を忘れた。長く息を吐いてから、必死で酸素を吸い込む。
 一緒に住んでいた家に置いてきた、あいつが選んだおれの服や靴。山ほどのCDやレコード。その中に、生野千早のものも含まれていた。
 心臓が凍り付くんじゃないかと思うほど深く刺さってくる孤独な夜に、何度も生野千早の演奏が聴きたいと思った。我慢できないあまり、タワレコに駆け込んだこともある。でも結局、買うことはなかった。
「行かない。もう誘ってくるな」
 既読がついてからしばらくしても、返信はなかった。電源ボタンを押して画面を落とし、伸びをして、ランチの仕込みをはじめた。
 

 混雑が終わった夕方、ちょうど客足が途絶えたころ、樹が店に入ってきた。わが物顔でカウンターに座ったこいつは、コーヒーが飲めない。
 いつものコーラキャンディの匂いをさせながら、肘をついて立っているおれを見上げる。これは何かを頼もうとしている顔だ、と察して、沸騰したドリップケトルの火を小さくして身構えた。
「店長、今度記録会があるんだけど……」
「いかねえって」
「なんでだよ、来てよ。そうしたら、すごく早く走れる気がするんだよ」
 ふわふわした明るい髪も、甘ったれた顔も、恵まれた体格も全部、視界に入ると苦痛だった。今まで何でも手に入ってきた樹にとって、おれは珍しい色をした、手に入れづらいトロフィーにすぎない。
「走った結果はそのままお前の実力だろ。そこにおれを介入させんな」
「ほんっとかわいくない!」
 かわいくなくて結構。そもそもお前、おれより何歳下だと思ってるんだ。一回り以上歳が違うやつに可愛いなんて思われてたまるか。
「店長って絶対、男とヤったことあるよね」
 子供っぽい声から一転、急に低い声で、樹が言った。
「その猫みたいな目で、何人おとしてきたの」
 立ち上がった樹が、おれの腕を掴んでカウンター越しに強く引いた。突然だったので驚いてしまって、背の高い樹の顎に額がぶつかった。
「今日こそ名前教えて。でないとこの手、離さないから」
 こんなのすぐに振り払えるし、何なら逆にカウンターにうつ伏せにして制圧してやることもできるけど、高校生相手に大人げない。それよりは、あの天然魔性のやり口を真似したほうが利口だな、と考えて実行した。
 耳元に顔を寄せ、「痛いんだけど。手、離せよ」と息をふきこむように囁く。すると樹の顔はみるみるうちに真っ赤になって、後ろに飛び下がった。
「今の声、エロ……たちそうだった」
「変なもの見せんじゃねえ。あと10秒以内に出ていかねえとお前の母ちゃんに電話するからな」
 樹の母はこの店の常連だ。固定電話を手に取って脅すと、「やりかたが汚いぞ、また夜、母さんの煮物持って来るから!」と叫びながら一目散に逃げていく。
「なんなんだ一体。モテキ到来か?いらねーよ」
 苦々しくつぶやいたものの、樹の母が作る煮物は絶品なので、少し夜が来るのが楽しみだと思ってしまった。