5 (久世)


 

 母はもともといい生活をしていたらしい。
 本人曰く、「おれが産まれるまでは」。
「あなたの目の色のせいで、わたしは不貞を疑われた」と母はおれを疎んだけれど、おれにいわせれば、彼女の行動に問題があり信頼がなかったのであって、おれの目の色のせいだけではない。体のいい、離婚の理由にはされただろうが。
 夫に「捨てられた」彼女は、潮風の匂いだけが充満している、腐った港町の公衆便所に駆け込んでおれを産んだ。妊婦健診なんて受けたこともないままだ。右手で姉の手を引き、左手でおれを抱いて血まみれでふらふらしているところを、成松の母親に救われたのだった。

「なあ、この本読んだことあるか?」
「いや。おれは……」
「ああそうだったな、久世は文字を読むのが苦手だ。別に珍しいことじゃないし、隠す必要も恥ずかしがる必要もないさ。おれだって、山や海辺を走り回るのは意味がわからないし、疲れるし、苦手だ。人間得意、不得意がある」
 成松はいつも本を読んでいた。本を読んでいないときは漫画を読み、漫画もないときは周囲の人間を観察していた。人は見れば見るほど面白い、と成松は言ったが、おれは人に興味を抱いたことがなかったので、彼の意見には同意しかねた。
「ディスレクシアっていうんだ。読み書きが先天的に苦手だけど、知的な問題はない。現に、久世はおれと会話するのに何も問題ないだろ?」
 知らなかった、とおれはつぶやいた。中学生になるまで、親も教師もみんな、おれがものすごくバカな人間として扱ってきたからだ。字もろくに読めない、書くのがものすごく遅くて下手、そういうわけでテストの点は毎度はかばかしくなかった。
「すごく調べたんだぞ。有名な医者がいる、来週一緒にいこう……いてっ!」
 数学教師が仁王立ちで立っておれと成松をにらんでいた。彼はこの学校で唯一まともな人間だから、チョークをおれと成松に投げつけるだけでよしとしてくれたが。
「おれがバカなんだと思ってた」
 違う、という声が、成松のものと、数学教師のもの、ふたつかぶって教室に響いた。
「バカなのは久世じゃない。自分の子どものことをろくに確かめもしないでバカなんていう、仁美さんのほうがキングオブバカなんだ」
 にこっと笑った成松をみていると、少し息が苦しくなった。それをごまかすために、おれも笑った。

 成松は甘い、整った顔をしているらしかった。らしい、というのは、おれにはいまいち人間の顔の違いがわからないからで、クラスの女子が騒いでいたから「そうなのだろうな」と認識していたに過ぎない。甘く整った顔で、誰にでも愛想よく振る舞ったが、おれにはわかった。成松は常に嘘をついていた。うつろな笑顔を向けて誰にでも信頼を向けられるよう振る舞いながらも、誰のことも好きではなかった。街を憎悪し、親に倦み、将来を悲観していた。貧しい家に育った高校生にはありがちなことだったかもしれない。
「バカのサラブレッドだって言われた」
「誰に。誰に言われた」
 おれは黙っていた。相手の言うことは間違っていないと思ったからだ。別に、殴れば勝つことはできたし、黙らせることもできただろう。おれは体格が良かったし、力もあった。ただそうしなかったのは、相手の言うことに反論する材料がなかったからだ。
「母にも父親がいない。母子家庭で育って自分もそうなった。姉も今誰かの子どもを妊娠している。親の失敗から何も学べない、バカのサラブレッド、だそうだ」
 おれの言葉を遮るように、成松が特製定規を机の上に強くたたきつけた。それは定規の真ん中に穴をあけたもので、たくさん並んでいると字をうまくよめない、ノイズだらけになって気が狂いそうになるおれのための補助道具のようなものだった。文章にあてれば、ほかの行が見えなくなって少しの文字に集中できる。この道具のおかげで、少しずつなら文字を読めるようになった。おれの秘密道具。
「久世に何の罪がある?仁美さんがひとりでこどもを育てなきゃいけなくなったのはそもそも誰のせいだ?男がいたはずだろう、何もかも残された女のせいになるのか。子どもが悪いのか。そんなわけあってたまるか」
 成松は根気強くおれの勉強に付き合ってくれた。陸上しか、走ることしか能がなかったおれが唯一つかめそうな人生の糸口を逃さないように、特待生として招かれるために最低限必要な成績を維持できるように手を尽くしてくれた。
「どうしてだ」
 成松がため息をついて顔をあげた。日はとっくにくれていて、教室からは出なければいけない時間だが、数学教師がいつも大目にみてくれたのだ——おれたちの「特殊な家庭事情」を鑑みて。
「どうしてそんなに助けてくれるんだ?小さいときから一緒にいるってだけで、おまえには何のメリットもないのに」
 バイタが外人と浮気してできた子。父親のいない子ども。字もロクに読めない、頭の悪いガキ。ありとあらゆる罵倒が降りかかってきても、おれは何も感じなかった。そうなのかもしれない、多分そうなんだろうな。でも走っていると楽しいからそれだけあればいい。恐ろしいほど欠落した人間だ。感情をどこかに忘れてきたのだろうか。
 あまりにも強く、長く目を見つめられて、おれから目をそらしてしまった。自分の目が嫌いだった。日本人の顔をしているのに、目だけが青い。そのせいで、外国人にも日本人にもなれない。どこに行っても異物だった。
 指が伸びてきた。頬からこめかみにかけてなぞってきた成松の指は、冷たくてかさかさに乾いていた。
 指の動きを追ってから視線を合わせる。成松の目はぬれていた。犬の鼻のようにしっとりと湿り、光を帯びていたが、おれにはそれが意味するところがわからなかった。
「久世の目はきれいだ。走る姿は、野性の馬のように自由で美しい」
 びっくりして、持っていた鉛筆を落としてしまった。カツンと軽い音がしてから、成松が身をかがめてそれを拾った。
「隣にいるだけでいいんだ。見ているだけで幸せだといったら……迷惑かな?」
 言葉が出てこなかった。迷惑だと思うとしたら、それは成松のほうだとずっと思っていたからだ。おれがこんな問いを受けるなんて考えもつかなかった。
「おまえは変わった人間だ」
「久世、おまえだって相当変わってるぞ」
 おれが笑ったので、成松も目をほそめた。その表情を見ると、また息が苦しくなった。怖いのに、いやな感じではない。胸の奥が苦しくなり、鼻がツンとする。走った後みたいに血流が良くなる。
「この腐った街から一緒に出られたらいいのに」
 成松のつぶやきはとても小さなものだったけれど、おれは聞き逃さなかった。
 そうだ。おまえもこの街から出るべきだ。
 この腐った街から。ヘドロのような匂いがする、人の目が少しずつ死んでいく街から。