6 (完結)


 

 手紙を全て読み終える前に、走って公園から飛び出していた。
 なぜ近所の公園でファンレターを開いてしまったんだろう。すぐ読みたかったから?正真正銘の阿呆か。ほんの数分をなぜ我慢できなかったんだ?
 後悔していた。どうしてこんなところで。家に帰ってから読めばよかったのに。そうしたら、久世をすぐに抱きしめることができたのに。
 おれはバカだ。ものすごく頭が悪くて察しも悪い人間だ。どうして今まで気づかなかったんだろう。久世の何を見てきたんだろう。
 あまりにも急いで走りすぎて、道路の段差につまづいて派手にころんでしまった。紙袋に入ったファンレターは道に散らばり、顎はすりむけ、パンツの膝に穴が開いてしまったが、痛みなんて感じなかった。おれはすぐさま立ち上がり、散らばったファンレターを集めた。封筒の上に、おれの顎から流れ落ちた血と涙が落ちて字がにじんでしまったが、どうでもいい。急いでかき集め、胸もとに紙袋ふたつを抱きしめて走った。転んだ拍子にあちこち打ったらしく、全身の至るところが後から痛んできたが、必死で走った。
 デビュー作になった小説は十五万字あった。いくら机に放ってあったとはいえ、久世があれを読むのに、どれほど時間がかかったんだろう。全部読んでくれたんだろうか。そうに違いない。手紙を読めばわかる。
 この上ないファンは一番身近にいた。何度もおれを励まし、声をかけ、近くで見ていてくれた。おれがほしかった、たったひとつの道しるべはすぐそばにあったのだ。
「久世!」
 リビングにも、トイレにも風呂にも久世はいなかった。おれは焦って、家中を大声で出しながら探し回った。
「おい、どこにいるんだよ!出てこい!」
 カーテンがひらめいているのを見て、ようやくため息が出た。そうだった。久世は外が好きだ。朝も夜も関係なく、外の空気を感じられる場所を好んだ。
 深呼吸をしてから、ベランダに出る。サンダルを履いて窓を閉じると、久世が何かのグラスを傾けているのがわかった。
「ウィスキーなんて強い酒、珍しいな」
 久世はベランダから何かを見つめていたけれど、振りかえっておれの顔をみてからぎょっとしたようだった。
「成松、シャツが血まみれだぞ」
「いいんだ」
 手のひらがおれの頬を包んで、遠慮がちに顎のあたりに触れた。たまらないことに、彼の全身からボディソープの匂いがした。
「おれは今、もう何もかも良しって気持ちなんだ」
 久世の手からウィスキーのグラスを取り上げて、エアコンの室外機の上にのせた。彼はまだ心配そうな顔をしていたが、何もいわずに腕をつかんで抱き寄せた。
「なあ久世。おれの気持ちを知ってるんだろう?」
 短い髪が鼻先にささる。その刺激さえ気持ちよかった。抱きしめた久世の体は想像していたよりもずっと熱くて、そろそろと背中に回された腕は力強い。
「最近までわからなかった。だっておまえは、いろんな人間と寝ていたし」
「それは、無理だと諦めてたからな。本当にほしいのは、ひとりだけだったよ……って我ながらセンスを感じない台詞だな、はは」
 久世が腕の中でくすっと笑った。あの低音は腰にくるからやめてほしい。
「おれに言葉を教えたのは、成松、お前だよ」
――だから、言葉なんか覚えるんじゃなかった、なんて、言うな。おれはお前のおかげで、言葉を、その意味を、音を知った。自分の感情がなんなのか、教えてくれたのは成松、お前だったんだから。
 久世が、精悍な顔を近づけてくる。鼻先を軽く当ててから、唇をなめて、塞いだ。キスしたかったのは久世だけだったのに、ずいぶん遠回りしてしまったな、とおれは泣き出しそうになった。腰を抱いて舌をいれると、久世が苦しそうに顔を背ける。逃がしてあげるほど優しくないおれは、久世の腰から背中をなで上げ、シャツの中に手をいれてゆっくりとさすった。
「もしかして、キスしたことないのか」
 喜色満面といった顔をしていたらしく、久世が軽くビンタして胸を押してきた。かわいい。おれのことなんか力尽くで押しのけられるくせに、そうしないところがすでに同意を示していてかわいすぎる。あまりの幸福に脳が溶け出して口から出てきそうだと思った。
「おれはお前と違って、一途だからな」
 声は淡々としているのに、おれを有頂天にさせるのだから始末が悪い。久世の腕を引いて家の中に入り、ソファに押し倒して顔中にキスを落とした。
「おれだって、久世以外にすきになったことないよ」
 電気を消してほしいと身をよじる久世の声を無視して、Tシャツを脱がせ、パンツを脱がせる。彼は鼻で笑って、乳首をなめているおれを見下ろした。
「でもセックスはしてた」
「そうだな、それは認める。セックスはした。久世とできないから仕方がなかった。でもこれからは久世とするから、ほかの誰ともする必要がなくなったね」
 指の間で挟んだ乳首をしつこく舐めて、赤くなるほど強く吸った。きれいについた筋肉が、ぴくんと反応をしめす。日焼けした美しい肉体は、どこもかしこもおれを興奮させてくる。全身を舐め尽くしても足りないぐらいだ。
「んんっ、……やめ、やめろ。女扱いするな」
 悔しそうな顔がかわいすぎて息も絶え絶えになる。こんなぐらいで抵抗していたら、最後までやったら憤死してしまいそうだ。でもやめられない。多分、隕石でも落ちてこない限りはおれを止めることはできない。
「久世の気持ちいい顔がみたいんだ。気持ちよくなってほしい。それだけだよ、男も女も関係ない」
 腹筋を撫で、内股を大きく開かせて甘く噛んだ。久世のそこはすっかり硬くなっていて、おれが鼻先をこすりつけてから下着越しに舐めると、それだけでひどく濡れて、下着の色が変わってしまった。
「手で触ってほしい?」
 久世が悔しそうににらみつけてきた。その視線には興奮こそすれ、全くやめてやる気持ちにはなれない。逆効果だ。
「それとも、口で?」
 明るい室内で、下着だけの姿にされて足を開かされている。それでも、久世は清廉潔白のような顔をしていた。触った反応からして、ろくに自慰もしていないかのような、何も知らない体に頭が煮えたぎってくる。下着のすきまから滾った久世のものを取り出し、わざと先をちろちろと舐めると、久世の顔は耳まで真っ赤になった。
 

****

 濡れた指がしつこく穴を広げてきて、もうおれは死んでしまいそうなぐらい恥ずかしかった。成松と近づくことができて、あの唇が何度もおれの名前を呼んで、それだけでうれしくてたまらなかったのに。あんなことまでしなきゃいけなかったんだろうか?いや、確かに気持ちがよかったけれども。
 指はしつこくおれの中を広げ、ほぐし、体中を這い回ってとろとろに溶かした。声がこらえきれなくなり、「ああ」とか「あう」とか、いままで出したことのない種類の音が、自分の口から出ていくのをきいた。
 成松はずっとうれしそうだった。泣きそうなのにうれしそうな顔だ。女に比べれば明らかに硬いであろうおれの体を、うれしそうに、たまらないというような顔でほどいていった。
 もう何がなんだかわからなくなったころ、成松のが入ってきた。中に、おれの狭い穴のなかに、成松の勃起した性器が少しずつ埋められ、痛みよりも「うれしい」「せつない」という気持ちが全身からわき上がってきて困った。この言葉も成松の小説から学んだもので、今の自分の感情を言葉にしたときの正解が、これなのかどうか確信はない。多分合っていると思うけど。
 成松はずっと「いたくない?」「大丈夫?」「動いていいかな」としゃべっていて、成松がこんなにしゃべる男だとは知らなかったな、と少し笑いたいような気持ちになった。頭を撫でてやると、泣きそうな顔で膝の裏を押さえつけて腰をぶつけられた。ストレッチをするときのような、変な体制だった。これがいわゆる正常位というやつなのか。顔がみえてなかなか悪くない。
 気持ちがいいのか悪いのか、よくわからないまま体が揺れていたが、成松のものが中のどこかをこすった瞬間、自分の体がコントロールを失ってはじけるのを感じた。震えて、わけがわからなくなったおれを、成松が舌なめずりして見つめてくる。ここか、とささやいてから、そこばかり責められた。いい。すごく気持ちいい。涙が出るほど。中から体が溶けてなくなりそうなほど。
「あっ、きもちいい、なりまつ、……なりまつ、だめ、もうだめだ、そこは」
 おかしくなりそう。気が変になって二度と戻ってこれなくなりそう。そんなことを口走ると、成松が蕩けそうな顔で唇にかみついてきた。荒々しく奪われ、吸い尽くされる。きれいな顔がいやらしくゆがんでいる。
「久世の中を知ってるのは、一生、おれだけでいい。ほかの誰にも許しちゃダメだ。もしも、ほかの男と寝たら、そいつを殺して、お前も殺す。それから俺も死ぬ。わかった?」
 なんてひどい言い草だ。自分は好きなだけ女と寝てきたくせに。おれの母親とも寝た、最高にだらしない下半身の持ち主のくせに。
 そう思いながら、おれは頭をこくこくと縦に振ってしまう。
 成松が激しく動いて、おれのものが爆ぜた。首のあたりまで飛んできた自分の精液の匂いが、鼻先で香ってくる。
 まだ達していない成松は、体を起こし、おれを抱き上げて、座ったまま向き合って深く深く犯した。気持ちのいい場所を責め立て、涙を流して善がるおれを、爛々とした目で射貫いてくる。
「久世、きれいだ。ずっとこうしたかった」
 もっと見てほしい。
「初めてだとは思えないほど、いやらしいな」
 もっと犯してほしい。深く深く、奥のもっと先まで。
 おれに言葉を教えてくれた。成松はおれのすべてだ。おれなんかでよかったら、何もかも差し出すから。
「陸上をやめて、何もなくなっても、そばにいてくれるのか」
 成松は、あのときと同じように濡れた目をしておれを見た。涙が落ちてきて、そうか、あのときの顔は泣くのをこらえているときの顔だったのか、と合点がいった。

「久世も、おれが言葉をなくしても、ずっとそばにいてくれたじゃないか」

 きれいだ。

 おれじゃない。きれいなのは、成松、お前だ。

 エピローグ

 10年以上足を向けていなかった故郷の海は、思い出の中よりもずっときれいだった。観光客がこないせいだろうか。漁場としてはいまいちだから、船もほとんど行き交っていない。
 一昨日から突然上がってきた気温は、冬をいきなり終わらせて、当たり前のような顔で春をしている。久世とこうなる前は、春が嫌いで仕方がなかった。変化を強いるような、始まりの気配が煩わしくて、ついていけない自分が苦しくなるからだ。
 それが今はどうだろう。かつては「ヘドロのような街」だと思った故郷も、自分たちの稼ぎでメシを食い、自分たちの足で歩けるようになってから来てみると、印象が違う。
 哀愁のようなものは相変わらず漂っていた。かつてにぎわった温泉街が、はかなく忘れられていく寂しさは確実にあった。看板だけが残された民家(スナックのような店名)や廃業した旅館の廃墟。惨めといえば惨めな故郷だった。けれど、思い出の中ほどひどい有様ではなかった。
「確かあっちにあったよな、砂浜に降りられる場所」
 おれがはしゃいでいると、久世はいつもの無表情を少しやわらげた。
「楽しそうだな」
「意外とね。もっと陰湿な街だと記憶してたけど、どうやら思い出補正だったみたいだ」
「……思い出補正という言葉の使い方おかしいんじゃないのか」
 鋭い突っ込みをきこえないふりで流して、道路を渡る。海沿いの、このまち唯一の幹線道路だ。そこから海辺に降りられる場所を探して、久世と手を取り合って砂浜に降りた。

 これといって特徴のない砂浜だが、ごみが散乱しているわけでもなかったので、散歩をするにはちょうどよかった。
 海の浅瀬から、ごつごつとした岩肌がのぞいている。
「腹が減ったな」
 ムードも何もない久世はそんなことを言いながら腹をさすっている。腕時計を見れば、確かに正午過ぎ、昼食の時間帯だった。
「ここを歩いたら昼食をとろう。あの店開いてるかな、謎の肉を売ってる焼き肉屋」
 学生のころにアルバイト代でたまに食べた店を思い浮かべていたのだが、久世はそっけなく言った。
「とっくに潰れてる。出しちゃいけない肉を出してたって摘発されたらしい」
「コワッ!おれら何回も食ったじゃん、あの謎肉」
 わざとらしく震えながら叫ぶと、先に砂浜を歩いていた久世が振り返って笑った。後ろの青空に全く負けない、それはもうすっきりとした笑顔だった。世界中の人間が惚れてしまいそうな。
「海も空も真っ青だ」
 強い海風が吹いて、久世とおれの髪をぐちゃぐちゃにかき混ぜて通り過ぎていく。海と空が混じり合う境目をみつめている、彼の眼も同じ深い青をしていた。
 隣に並んで、同じ海を見た。白い鳥が一羽、海の上をゆらゆらとただよっている。
「白鳥は かなしからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ だな」
 久世の視線を感じて視線を移す。彼はじっとおれを見ていた。あの青い眼で。
「国語の教科書に載っていた気がする」
「そうだよ。若山牧水の歌だ。――白鳥は寂しくないのかな?たったひとり、空の青にも海の青にも染まれずに漂っていて、という意味」
 ふたたび白い鳥に視線を移した久世は、「でもあれは白鳥じゃないよな」と余計なことを言ってから思いにふけるような顔をした。確かに、このあたりに白鳥はいない。あれはたぶん、カモメの白化個体ってやつだ。小説に書くために勉強をしたことがあるので分かる。
「でもそれは、牧水が勝手に自分の境遇と重ねて決めつけてるだけだ。あの鳥が白くて目立つからって寂しいなんてさ。人間の勝手な思い込み、センチメンタルだよ」
 はっ、と笑い声がした。久世が拳で口元をおさえて笑っている。
「なにしろ、相手は鳥だから」
 楽しそうな声に、おれは勢いを得て言った。
「そうとも。あいつらの考えてることなんか分からない。白くて目立つからメスにモテるかもしれない。雲に溶け込むから獲物を探しやすいかも……いや、これこそまさに想像だ。わかんないけどね」
 そうか、解釈はひとそれぞれか、と久世が言い、おれはそうだよ、と答えて手を握った。
 青い眼で目立ってきた久世。白に溶け込めない色違いの鳥のように目立ってしまう。
 けれど、お前がそのことによって不幸になるだなんて絶対に思わない。何よりも、おれがそうはさせない。
「おれは大丈夫だ。成松がいるから、ひとりだけ青くても寂しくない」
 小さいけれど、落ち着いた声でそう言ってから、久世が道路に向かって走っていく。足の速さでは絶対にかなわないから、見失わないように、おれは慌てて後を追った。