4 (成一)

 テレビに出てくれないか、と基地長じきじきに話があったとき、おれは思った。
 とうとうおれのカッコよさが全国規模になってしまったのか……と。
 ローカル番組なら既に『突撃!となりのイケメン』という深夜枠の番組でデビューしていたが(やり直す前だけど)、まさか天下のMHKにお願いされちゃうとは。
 そして悩んだ。きっとすごく人気が出てしまうが、どれほど人気が出たとて、おれは女の子に興味がないから仕事の差支えになるだけだ。
 自分のキメ台詞が黒背景に白抜きされ、スガシカオの歌と一緒にエンディングを迎えるところまで想像していたら、「ほんとは合田くんに頼んだんだけど断られちゃって」と軽いノリの言葉が聴こえてきて頭が冷えた。えっ、おれは代打だったの?とがっかりしそうになって、考えを改める。そりゃあそうだ。合田隊長みたいに、ものすごくモテて転勤先全国津々浦々で浮名を流している人がテレビに個人情報を晒すなんて危険だ。
「合田隊として密着取材されるんじゃないんですか?」
 数年前に一度、特殊救難隊は『海猿』の人気によってMHKで特集されたことがあって、そのときの縁で今回の番組出演が決まったらしい。
「そのつもりだったんだけど、合田くんが頑なに自分への密着取材、拒否してるからなあ~。まあ彼の場合はおうちの事情だから、仕方がないんだけどね」
 さらりとそれだけ言って、基地長はおだやかな顔でおれに向き直った。合田隊長が一体何と言って説明したのか、少し気になったが何も言わずに基地長を見返す。
「今回は、キミと千葉君のバディを密着取材させるつもりなんだ。合田くんもチームの一員として少し映るぐらいなら構わないってさ。君らはハンサムでテレビ映りもいいし。頼むよ」
 いまどきなかなか聞かないハンサムという言葉に頬をゆるめたところで、ドアがノックされて千葉が入ってきた。おれの隣に立った千葉は、直立不動で立ち、「何か御用でしょうか?」ときびきびした声で尋ねた。
「ん。いまムラちゃんにも説明してたんだけどね。テレビ出て欲しいの。しばらく取材班がきみらバディに密着しまーす」
 決定事項として告げられた内容に、千葉がぎょっと目を見開く。それからおれを振り返ったけれど、おれは黙って首を振った。公安関係の公務員社会は上下関係がとても厳しく、千葉もそれは骨身にしみて理解している。
 つまり、上司の命令は絶対、である。
「……救助業務に差し支えないならいいのですが」
 千葉の言葉に、愚問だとばかりに基地長が目を細めた。
「そこのところは安心してよ。きつーく言ってきかせるからさ」
 じゃよろしく~。そういって基地長室から追い出され、ふたりで顔を見合わせた。『仕事の流儀』に出られるなんてとても光栄な話だと思うが、それに伴って発生する、普段通りではない業務の状態が面倒だなと考えた。
「なんか、うれしいんだけどめんどくさいな」
 千葉の苦笑に、おれもはは、と力無く笑った。
「仕事を知ってもらうことは大切だし、取材もさ、認められてるんだなって思うと嬉しいけどな」
 頭の後ろで腕を組み、千葉がおれを見下ろす。仕事と関係のない話をされそうな気がして、足早に事務室内へと歩いていく。オレンジの作業着を着たまま自分のデスクに腰掛けると、正面に座っている合田隊長が、申し訳なさそうな顔をして「悪いな」と謝ってきた。
「いえ、いいんです」
「関係はほとんど清算したんだが。少し映るぐらいならともかく、密着取材されるのは困るんだ」
 周囲に人がいないことを確認してから、隊長は小さい声でつぶやいた。驚き、とっさに顔をのぞきこんでしまう。
「清算って、あの全国津々浦々にいた恋人たちのことですか?」
「ああ。あとくされない二人に絞った」
「何を持って精算したと言ったのか……頭痛がしてきますね」
 ひそひそと話し合って、笑い合う。間近でみた合田隊長の眼は、相変わらず強くて底光りしていて、野性味と知性を宿していてとても魅力的だ。
「だから、お前が今頑張っている恋愛がうまくいかなかったときは、いつでも声をかけてくれ。おれが引き受けよう」
「あいにく、おれは独占欲が強い方で。恋人を誰かと共有するなんて絶対無理です」
「お前がおれのものになるなら、ほかを全部切ってもいい」
 冗談にしても真顔で言うから笑ってしまう。後ろから千葉が歩いてきたのを意識して、おれは「考えておきます」と返してパソコンを開いた。

 

 

 

「合田隊長って私生活が謎だよな」
 勤務明け、千葉と一緒に宿舎に向かっていると(こいつも同じ宿舎に住んでいる)、ひとりごとのように千葉が言った。
「女の話も、土日何してるかって話も一切しないし」
 千葉は合田隊長との関係を「尊敬」「信頼」だと思っているらしいが、はたから見ていると強烈な憧れに近い。他人のことで熱くなることなんて絶対にないのが千葉だと思っていたが、一度ほかの隊長が合田隊長を批判していたとき、殴るんじゃないかと思うような勢いでくってかかっているのをみたことがある。
「千葉はめちゃくちゃ仲いいじゃん」
「信頼はされてるけど仲がいいわけじゃないな。おれが一方的に懐いてる感じで……あきらかに合田隊長はお前のほうが好きだよ」
 憂鬱そうな声と恨みがましい視線に吹き出してしまった。こいつはひねくれているだけじゃなくて、ときおりこういう一途でかわいいところがあるから憎めない。
「おれも合田隊長大好きだし尊敬してるけど、そういう話きいたことねえなあ。いないんじゃね、たぶん」
「いるだろ。30人ぐらいいたって不思議じゃないだろ、あの顔、あの体、あの性格だぞ」
「誰でも、人には見せない面のひとつやふたつあるさ」
 おれの言葉に、千葉は不満げに唇を突き出した。
 最寄駅を降りると、くたびれたサラリーマンや出勤前のOLが、足早に通り過ぎていく。少しずつ冬へと近づいていく風の温度。こみあげてきたあくびは、安堵のしるしだ。今日も、誰も怪我をせずに、仕事を全うできた。朝の光は幸福そのものだ。
「一保は、どうなんだ、あいつと」
 言いにくそうにつっかえながら、千葉が言った。おそらく成一のことだろう。男同士なんて気持ち悪いと思われているのかもしれない。聞きたくないなら聞かなければいいのに。
「別に。友達になったぐらい」
 あの日言われた言葉を思い出すと、自然と眉は曇った。おれの表情に、千葉がため息まじりに言う。
「やめろって言っても、聞かねーんだろうなあ、お前は」
「止められたぐらいで止まるなら、初めっから好きになんかならない」
 自分でもハッとするほど、決意がにじんだ声だった。
「―――おれは単に、お前が傷つくことにならなきゃいいなって、そんだけだよ」
 ぶっきらぼうな言い方ではあったが、心がこもっていて、おれは胸の奥がじんわりと温かくなった。
「ありがとな、創佑」
 宿舎の郵便受けの前で、立ち止まって笑った。宅配ボックスに、いつものものが届いていた。
「あ、広島の同期からレモン届いてる。なあ、お前にも――」
 少し分けてやろうか、と声をかけようとしたら、もうそこに千葉はいなかった。自分の部屋へ向かう後姿を眺めてから、段ボール箱いっぱいに詰まったレモンを持ち上げて、重い体を引きずって自宅に向かった。
 部屋についてからすぐ、遮光カーテンを開いて部屋の中を光でいっぱいにした。お湯を沸かしてネルドリップでコーヒーを淹れ、ソファの肘掛に軽く腰掛けて、雲ひとつない秋空をぼんやり眺めた。部屋の片隅に置いた段ボールの中から香る、グリーンレモンの爽やかな香り。ステレオの電源を入れると、フジファブリックが『若者のすべて』を歌っていた。
 スマートフォンの画面をたっぷり10秒間眺めてから、メッセージを送ろうと文章を指で入力してみた。
『レモン箱いっぱいあるんだけど、いる?』
 入れてから思った。おれは田舎の母ちゃんかよ。誰がこんな色気もくそもないメッセージに食いつくんだよ。
 送信ボタンを押さずに携帯電話をポイとラグの上に投げる。飲み終わったマグカップを台所に下げてから、シャワーを浴びて、ベッドに横になった。眠くない。でも、起きていたくない。予定のない明けの日、こんなのは長い間たくさんやり過ごしてきたはずなのに、成一と再会してからどう過ごしてきたのかまるで思い出せない。
 意識が覚醒していると、「会いたい」ばっかり考えてしまう。会いたいなら会いに行けばいいのに、とはやりの歌を聴きながらひとりごちていたけれど、会いに行けないから悩むのだ。こんな簡単なことを、30手前までわからなかったなんて恥ずかしい。
『おれに誰かを重ねないで』――成一はたしかそう言った。
 あれって、どういう意味なんだろう?
 携帯電話はあれから一度も鳴らない。もう二週間になる。
 手のひらで顔を覆い隠し、そのまま目を閉じた。疲れているせいで、望まなくても眠気はスルスルと降りてきておれをすっぽりと包んでしまった。

 

 

    

 目がさめると、すでに時間は正午を過ぎていた。テレビをつけ、何か作ろうと冷蔵庫をあける。卵とベーコンとしめじがあったので、簡単なオムレツとサラダを作って、ローテーブルの前に座った。テレビでは、若い音楽家が突然失踪して、居所がわからなくなった、と報じていた。
 ふーん、とさしたる関心もなく画面を見ながらオムレツを口に運ぶ。画面が切り替わって、音楽家の顔写真が映し出された時、おれは手に持っていたスプーンを皿の上に真っ逆さまに落としてしまった。
「嘘だろ、こないだテレビに出てたじゃん」
 そこに映っていたのは、千早と一緒にテレビに出ていた若きヴァイオリニスト―――なんでも、最年少でチャイコフスキーコンクールで優勝した――『綿谷いつか』だ。
 整っているが、どこか仄暗い瞳が印象的だ。19とは思えないほど、情感に満ちた、それでいて湿っぽくない演奏をする青年。
 彼は、宿泊していたホテルのテーブルに貸与されていたストラトを置き、「もう嘘はつけないので消えます。さようなら」という置き手紙を残して、忽然と姿を消したのだという。
 彼の特殊な生育環境や、置き手紙のガタガタの文字が、マスコミの格好のエサとなって好き放題報じられるのが辛くて、千切るようにテレビの電源を落とす。
 ニュース番組の最後に流れていた、『ヴォカリーズ』を千早とともに演奏する姿を見て、同じ番組を見た合田隊長の言葉を思い出した。
「まだ19の子供とは思えない、深みのある演奏だと思った。特に、哀しみの感情表現が……」
 食べ終わった器を洗い終えてから、放り出したままだった携帯電話を拾い上げ、着信履歴を確認した。成一からの返事はなかったが、なっちゃんから2回、電話が入っていた。
「……もしもし、どうしたの」
『こんにちは一保さん。ニュース、見た?』
「ああ、今の。ヴァイオリニストが失踪したってやつ?」
『そのことで話したいことがあるんだ。今日、出てこられない?』
 夜8時に、コンラッド東京のジャズラウンジで会う約束をして、なっちゃんの電話は切れた。あいた窓から吹き込んでくる風が肌寒くて、手近に置いてあったカーディガンを羽織り、窓を閉める。ラジオから、BECKの『Blue Moon』がきこえた。

 

  

 

 

 JR根岸線だと新橋まで乗り換えなしで出られる。
 場所が場所なので、ジャケットとチノパンに革靴を履いて、家を出た。40分かからずに新橋について、そこから汐留駅近くのコンラッドまで急ぎ足で歩く。夜の汐留は人通りが少なく、高いビルに切り取られた夜空には、あかるい満月が浮かんでいた。
 暗い歩道橋の上を歩きながら、おれは成一のことを考えた。そして不意に、「重ねる」という言葉の意味に思い当たって、立ち止まって空を仰いだ。
 一から好きになってほしいと言いながら、おれは期待していたのだ。
 彼がおれとの記憶をいつか、思い出すのではないかと。なにか覚えているのではないか、と。そんなことはありえないのに。
 髪に花をさしてくれた夜、はじめてキスをしたこと。一緒に海辺を歩いたこと。指がやさしくおれに触れ、肌の温度を分け合ったこと。すべて。忘れられず、思い出にもできず、おれはまだ過去に立ち止まったままだった。
 あのときの成一なら、きっとこう言ったな。そんな風に、いまの成一と一緒にいながら何度もやり直す前に思いをはせていた。泡のように消えてしまった過去と決別することができずに、相手に自分の思う反応を求めていた。
「そりゃあ、あいたくないよな、こんなやつ」
 涙がこみあげてきて、流れ落ちる前に腕で拭った。
 さみしい。
 つらい。
 自分で選んだ道なのに、苦しくて仕方がない。
 また会えるだけで幸せだとおもえたら良かったのに、おれはそれ以上を求めずにはいられない。
「しばらく成一に連絡するのやめよう」
 必ず見つけ出すと約束した。
 でも、今の彼にも生活がある。おれと出会わずに生きてきた生活や、これから先の人生がある。自分の気持ちばかり優先して、少し先走り過ぎていた。
 長いためいきをついてから、顔を上げて歩きだす。いまは、目の前のことを精一杯やろうと思った。大切にできるひとを大切にして、抱きしめられるものを抱きしめて生きていく。無理に手づかみにしようとしても、すり抜けていくだけだ。

「一保さん、こっちだよ」
 ラウンジに入ると、奥まったテーブル席でなっちゃんが手を上げて呼び寄せてくれた。キャンドルのオレンジ色の明かりと、ジャズの生演奏が流れる洗練された空間は、カップルばかりで埋め尽くされていた。
 小さなテーブルを挟んだ4人席に座り、ウェイターにジントニックを注文してから、目の前に座っている見知らぬ青年に気が付いた。ほっそりとした、おれよりも頭一つぶん背が低い彼は、黒いキャップを目深にかぶり、俯いたままジンジャーエールを飲んでいる。
「…このひとは」
 問いかけようとしたおれを制して、隣に座っているなっちゃんがおもむろに口をひらいた。
「実は、彼の夢について一保さんにいくつか聴きたいことがあるんだ」
 まだ少年のような体型をしている彼は、デザインの入った不思議なTシャツと、タイトな黒いジーンズを着ていた。ほっそりとした長い足は足首のところで組まれ、俯いた頬には長めの前髪が落ちている。
「前に説明したよね。僕は夢の研究をしていると。彼は、こどものころから同じ夢を何度もみたらしい。それは決まって、自分が死ぬ夢だった」
 言葉を切ったなっちゃんの後を引き継いで、青年が続けた。
「そう、トラックに撥ねられる夢。身体がばらばらになって、それでも、誰かのことばっか心配してる変な夢。いままで覚えているだけで、300回はみた」
 暗い声の内容に、おれはまばたきも忘れて彼をみつめた。彼は、緩慢なうごきでキャップを脱ぎ、億劫そうにこちらをみた。薄暗いせいで顔立ちははっきりとは分からないが、おれは目の前の細い腕をつかんでしまった。
「まさか、おまえ。航太郎なのか」
「ちょっと、痛いよ。離してくれる」
 冴え冴えとした冷たい眼ににらみつけられ、手のひらは力をなくした。掴んだはずの腕は、つめたく冷え切っていた。生きている人間とは思えないぐらいに。
「そうなんだ。僕の夢に出てくる『航太郎』くんと、彼の夢は、おどろくほど一致している」
 テーブルに置いてあったキャンドルを手に取り、青年に向ける。照らし出された顔に、勢いよくなっちゃんの方を振り返った。
「彼は今話題になっている、『綿矢いつか』だよ。数年前から僕の研究の協力者だった」
 小さな顔をこちらに向けてから、いつかはふたたび帽子をかぶって俯いてしまう。
「一保さんは、生まれ変わりって信じる?」
 静かな声に、おれは黙ってなっちゃんをみつめた。
「僕は、信じる。僕は学者のはしくれだけど……すべてが理論や科学で説明できるわけじゃないことを、骨身にしみて感じるから」
 なっちゃんの真摯な言葉に、綿谷いつかが鼻で笑った気配がして眉を寄せた。こいつのことを詳しく知っているわけではない。けれど不快な人間だ、ということが、この数分で分かった。ここが静かなバーじゃなくて、彼がなっちゃんの知り合いじゃなければ、殴っていたかもしれない。
「バカげてる」
 肩をすくめて、綿谷いつかが顔を上へ向けた。年上を敬う態度がまるでにないこの無礼なガキに対して、おれは腰を浮かせかけたけれど、なっちゃんがやさしい顔で首を振ったので座りなおした。
 こいつは絶対に航太郎の生まれ変わりなんかじゃない。航太郎は、思いやりのある、どちらかといえば繊細なやさしい子だった。こんな不遜な態度を、それも初対面の人間の前でみせるような人間じゃない。断じて違う。
 演奏が終わって静かになったのは一瞬で、急に拍手が店の中を盛り上げはじめた。おれはその音に振り返り、中心部分に招かれたゲストミュージシャンの顔をみて、「あっ」と声をあげてしまった。
「千早!!」
 叫んだのはおれじゃなくて、綿谷いつかだ。
 暗い、消えかけのろうそくのような顔が、明るくてかわいいものに変わって、綿谷いつかがステージの方へと視線を移す。
 目がきらきらして、頬に赤みすら差しているその様子は、年相応にかわいげがあった。
「うわ、ほんとだ。生野千早だ」
 めずらしくなっちゃんも身を乗り出してステージを眺めている。カラーシャツにネクタイ、それにベストとスラックスという姿で、千早はこの店のオーナーと知り合いで、多大なる借りがあるから依頼を断ることができなかった、といって笑っていた。
 挨拶もそこそこに、突然のうれしいハプニングで盛り上がる客たちを沈めてから、千早がピアノを弾きはじめた。ロマンティックで美しいメロディに、甘く掠れたやわらかい声がのって、「ミスティ」を歌いだす。
「今月は二度も生野千早の演奏がきけて、ラッキーだな」
 ひとりごとのつもりだったが、目の前でうっとりと聴き入っていた綿谷いつかが、急に低い声で「は?どういうこと」と絡んできた。
「友達が、赤れんがのとこでやってたライブにつれてってくれたんだよ」
 くちびるをむっと引きむすんで、綿谷は言った。
「あんたなんかに、生野さんの演奏のすばらしさが分かってたまるか」
「なんだよ、お前もファンなの?」
「ファンなんてレベルの低いものじゃない。僕は、生野さんの演奏に魂の一部が救われたんだ」
 それきり、綿谷いつかは一言も話さず黙り込んでしまったが、おれは感心していた。すごいじゃないか、と思った。ここまで人を魅了し、「救われた」とまで言わせる千早の才能に、あらためて自分とは違う世界の人間なんだな、とため息が出た。
「で、質問って」
 何も話さなくなった綿谷を放って、なっちゃんに問いかける。彼はぼんやりとした顔で千早の音に沈んでいたが、おれの声にはっとした顔をして「そう、ごめんごめん」と話を戻した。
 曲が変わって、小沢健二の「ラブリー」を千早が、やさしく、甘く、とびきりキュートに歌った。オフビートにアレンジされたその曲は、おれの大好きな曲だ。ピアノのアドリブはかっこよくて、きいているだけで体がぽかぽかと暖かくなってくる。
「なんていうか、……アーティストって魂をけずって、才能のかけらを僕らにばらまいてくれてるような気がするね」
 なっちゃんの言葉に、綿谷いつかが暗い声でつぶやいた。
「気がするんじゃなくて、そうなんだよ。みんなじゃない、つまらない音をまき散らす奴もいる、でもあのひとは、生野さんは本当に削ってる。削って、ばらまいて、僕らに分けてくれてる。少しでも今よりみんなが良くなりますようにって、何も否定せず押しつけたりせず、ただ与えてくれる」
 僕にはできない。僕はもう、何も削るものがない。底の底にいる。
 綿谷いつかは、美少女のような顔をゆがめてそう言い、目を閉じてイスにもたれた。
「……航太郎くんは、一保さんにとってどういう存在だったの?」
 綿谷に悲しげな視線を向けたまま、なっちゃんが問いかけた。
「それは、……きっと、言っても信じないよ。それに、すごく長くなる」
「いいよ。僕、今日このホテルとってるから。泊まっていってくれてかまわない」
 なっちゃんのことばにすべてを話してしまったのはきっと心細かったからだと思う。いまこの世界でおれが、おれだけが異邦人のようで、誰かに知っていてほしかった。なくなった世界で起こったことや、おれがやり直した理由や、愛した人や愛してくれた人のことを、覚えていてほしかった。
 バーで半分、なっちゃんの部屋で半分、おれたちはコーヒーを飲みながら朝まで話をした。綿谷は途中でベッドに横になり眠ってしまったけれど、なっちゃんはすべての話を、疑ったりさえぎったりすることなく聞き取り、メモをとり、つっかえてはなせなくなったときは手を握って励ましてくれた。やがて朝が来て、部屋の中を明るい光が満たしたとき、おれたちは固く抱き合ってお互いに礼を言った。話してくれてありがとう、きいてくれてありがとう、と。
 白い光の中で、綿谷いつかが死んだように眠っていた。
 精巧な人形のような顔は、色が白くて生きているのか死んでいるのか分からない。
 おれはその中に、航太郎の面影を探そうとした。孤独で美しい横顔にはその要素が見え隠れしていたけれど、やはり彼は綿谷いつかで、双子の弟、村山航太郎ではない。
 ――たとえ生まれ変わりなのだとしても、やはり航太郎そのものではないのだろう。
 小さく丸くなって眠る綿谷いつかの額にかかる髪をかきわけてやってから、押しやられた掛け布団で体をくるんでやった。こちらが不安になるほど、細くて薄い体をした青年は、難しい顔をして眠り続けていた。

 

 

 

 

 いつの間にか11月になり、予定されていた番組の収録がはじまった。その日は海が大時化で、いくつかの漁船から救助要請が入っていて、おれと千葉を含めた合田隊は第3管区の銚子から沖合へ10キロの地点にヘリで出向き、転覆した漁船から投げ出された船員6名の救助にあたった。
「もっと右ー、右ー、OK」
「OK」
「降下する」
「了解」
 先に無線でヘリに降下位置を指示しているのは千葉だ。ものすごい暴風でヘリが揺れる中、狂いなくピンポイントで降下位置を指定できる目と、その位置に正確に飛び込むボディコントロールは、合田隊長の後継と言われるだけのことはある。
 船が転覆しているため、今回はレスキュースーツ(我々が身につけているのはウェットスーツの中でも厚さ5mmの特注品だ)にヘルメット、ゴーグルにボンベという、ダイビングスタイルで直接海に飛び込んで救助を行う。豪雨が体を強く打つ中、高度を5mまで下げたヘリから荒れ狂う海へ。訓練を受けていない人間なら、5分もたたないうちに溺れてしまう高波のなかへ、自ら飛び込んでいくのだ。狂気の沙汰、と千葉はよく笑っている。
 千葉とは真逆の位置から飛び込んだおれは、撮影しているMHKのヘリとわかわし1号のダウンウォッシュの中、弾丸のように潜りこんで深度を深めていく。
 時化と、漏れ出したエンジンオイルのせいで視界は黒みがかった緑色で、かなり悪い。
 続いて飛び込んだ合田隊長と里崎、市ノ瀬と安田の6名1隊は、視界の悪い海中を無線(完全防水仕様だ)を使って連絡を取り合い、捜索する。ただし無線が使えるのは海上に上がった時だけだ。海中では、バディの存在とハンドサインだけが頼りになる。
「こちら合田。要救助者1名確保、これより浮上する」
「了解。―――千葉、きこえるか。海中15メートル地点に要救助者を2名発見した。応援求む、どうぞ」
「こちら千葉。了解した」
 丸くなり、海中に浮かんでいた要救助者を発見して、千葉とふたりで海面まで浮上する。意識を失っているため、エアーをすわせることができないから、船の上で救命士である市ノ瀬さんに救命措置をしてもらわなければいけない。
「確保、要救助者2名確保しました!」
「よし、全員救助したな、みんなよくやった」
 仕事中は、撮影されていることなんて忘れている。消防と連絡を取り合い病院への収容を速やかに終えたら、今度は山ほど報告書を作成しなければいけない。救助だけが仕事ではないのだ。
「一保、お前ちゃんと手当受けたか」
「いや、いいって。かすり傷だし」
「だめだ。雑菌が入るかもしれないだろう、ちゃんと市ノ瀬さんに消毒してもらえ」
「でも」
「いいから」
 情けないことだが、海中であれた海流に流されてきた漁具が腕に当たって裂傷を負ったことを千葉は見抜いていた。ばれないように傷口をかくしたままシャワールームで真水で洗ったつもりだったのが、見られていたらしい。
「バディってすごいですね」
「お互いの生命を守るためのシステムがバディシステムですからね」
 おれたちに密着しているレポーター(美人だ)が、感心したようにつぶやく。テレビカメラが、ゴーグルやヘルメットをしていないおれと、千葉を交互に映している。いまきっと、おれの髪は悲惨なまでにぼさぼさだろうな、と思いながら、固い表情を崩さない。こういう仕事でへらへらしているところなんて流れたら、大変なことになる。
 目を伏せ、先輩である市ノ瀬さんに消毒をしてもらう。すみません、を繰り返すおれに、妻帯者で、合田隊でもっとも穏やかな彼は、ニコニコ笑って大きい怪我じゃなくてよかったよ、と言ってくれた。
 救護室に入ったカメラは、手当を終えたおれを映したあとで、心配そうな千葉に向きを変えた。
「やはり、特殊救難隊の方には怪我が多いんですか?」
 レポーターの女性の声が、ややうわずっているような気がする。確かに千葉は見栄えするので(おまけに背が高く、女に優しい)、彼女の気持ちも分からなくはない。
「そうですね、困難な任務が多いため、ずっと無傷というわけにはいきません。けれど特殊救難隊は、結成から今まで、ひとりの殉職者もだしていません」
 てきぱきとした口調と、迷いのない視線。これがテレビで流れたら、千葉は今まで以上に遊び相手に困らないだろう。テレビの画面からは、問題のある内面(たとえば女癖の悪さ)なんて見えてこないのだから。
「救助の技術や練度を高めながら、その記録を更新していきたいです」
 怪我をした腕をさすりながら言い、立ち上がる。千葉がおれの肩に手をあて、大丈夫か、と気遣わしげな声をかけてきた。それを見たレポーターは、「本当に仲がいいんですね」となぜかとてもうれしそうな顔をしている。
「保大の同期なんです」
「普段は一保、創佑と呼び合っています」
 着替えを終え、報告書を書いている間もカメラは回っている。業務のスキマに、簡単な質問に答えたり、救助に関する疑問に答えたり。合田隊は救助に対する方針や考え方に偏りがないため、チーム内での衝突も少なく、主に救助シーンを撮影するような内容になった。
「あなたにとって、仕事とはなんですか」
 業務終了後、事務室のデスクで定番の質問を受けた。たぶん、これが放送の最後にBGMつきで流れる言葉になるんだろうな、と思い、オレンジ色の制服の腕を、自分でちらりと眺めた。そこには、使い古したダイバーズウォッチと、日焼けした頑強な腕があった。
 特殊救難隊に配属が決まり、ベレー帽を手渡された戴帽式のあの日、心に誓った言葉がある。けれどそれは、誰かに伝えるようなものじゃない。
「昔、川で溺れかけたことがあるんです」
 一週間に渡る密着取材の最後の言葉だ、と思い考え込んでいると、隣の、事務用のイスに座っていた千葉が言った。
「そのころ、家族ともうまくいっていなくて、いろいろと辛い時期で……もうこのまま死んでしまうのかな、と思ったときに、助けられたんですよ。当時、まだ小学生だったんですが、年の変わらないかわいい女の子でした。その子はおぼれかけているおれを泳いで救い、救命措置を施してくれました」
 信じてもらえないかもしれませんが、本当なんです。そう言って千葉は笑った。
「お前は人をたくさん助けることのできる、価値のある人間だと言ってくれて。そのときは意味が分からなかったんですが…時間が経つにつれて、おれも誰か、救うような仕事に就きたいと思うようになりました。おぼれかけたあの苦しさから、ひとりでも多くの人を救いたいと考えるようになりました」
 千葉が、じっとおれを見つめているのが、目を伏せている今でも分かる。
「この仕事は、おれにとって生きる意味です。誰かを助けたとき、自分が生きていてよかったと、生に意味を見いだすことができます」
 なぜだろう。もう一度告白されているような気がして、おれは顔を上げた。千葉は目をそらし、照れくさそうな顔をした。
 ときどき、あのとき助けた「かわいい女の子」がおれだと、気付いているのではないか?と感じることがあった。けれど千葉は、決して問いつめようとはしなかった。確かに、神奈川に住んでいたおれが、広島にいた千葉を助けたなんて、想像しがたい。
「……お前の話のせいで、おれのハードルがあがったじゃねえか」
 つぶやいた言葉に、周囲の隊員の笑い声がきこえる。彼らを見渡し、千葉の足を軽くけって、おれは大きく息を吸い込んだ。それから、言葉を選んで、ゆっくりと伝えた。

 

 

 

 放送は一ヶ月後になるらしい。密着取材が予想外に短い期間でおわったのは、その間に大きい出動が数件立て続けに起こったからだった。おれたちの立場からすれば、出番なんてない方がいい。けれど番組サイドとしては、そうもいかない。派手な画が、短い期間で撮れる方がうれしいらしい。
 おれと千葉は、理屈は分かるが納得はできない思いで、帰路についていた。特集してもらえて、仕事への理解や興味が市民に広がるのはありがたいけれど、「短期間でいい画が撮れました!ありがとうございました」と言われてしまうと、腹立たしいし、割り切れない気持ちもあった。
 腕の怪我をさすりながら歩いていると、千葉が苦りきった顔でレポーターの真似をしながら「いい画が撮れました!!じゃねえよなあ。たまたま全員救命できたからいいようなものの……」と言った。
「まあなあ。あれには合田隊長も眉間にしわよせてたな、ふかーいやつ。あの顔、おれらからするとめちゃくちゃ怒られる前兆だよな。いつ切れるだろうってドキドキした」
 海風に目を細め、千葉が力なく笑った。
「あれは、お前に怪我させたことを怒ってたのもあるぞ」
「やめろよ。おれのけがは、おれの責任だろ」
「でもバディだからな。そういう意味さ、合田隊長の怒りは。もちろん、一保にも怒ってたけど」
 うわ~~、と声をあげて空をあおいだ。やっぱり、怒っていたのか。
 雲のない朝の青空を、カモメが横切っていく。ため息をつき、うつむきがちに歩いて宿舎に向かっていたら、千葉が「元気出せよ。なんか食い物かってやるから」とコンビニに誘ってきた。
 かつて、やり直す前の千葉にあった攻撃的なまでの身勝手さは、いまの千葉には見あたらない。女癖は相変わらず悪いし、冷徹なところはやはりあるけれど、こんな風におれのことを気遣い、見返り(前の世界ならセックスとか)を求めずに親切にしてくれることが、とてもうれしい。
「肉まん……4個かな」
「ぶはっ、さすがに飽きるだろ!!つうか相変わらず燃費わるいなあ、細いのに」
「細い言うな。気にしてめちゃくちゃ食ってんのにどんどんやせてくんだよ」
「あ~~運動量が多すぎんだよな。たんぱく質とれよ、タンパク質」
「とってるし。自炊してっからな、お前と違って」
「一保料理できんの?初耳なんだけど」
 千葉の買い物かごに自分のほしいものをいろいろ放り込んでいたら、そんなことをいって急に立ち止まった。そういえば、言ってなかったな。前の世界でも、千葉にだけは隠していた。だって浮気されていつ捨てられるかわかんないのに、せっせと飯をつくってやるなんてあまりにも悲しすぎる。
「言ってなかったっけ。結構得意だぜ、和食系」
 けれど友人になった今は、隠す必要がない。牛乳の賞味期限が長いやつを物色していたら、千葉が眉をよせ、不機嫌そうに「ふーん」とうなった。
 会計がおわって店を出て、しばらくのあいだふたりとも黙って歩いていた。何か言いたげな雰囲気は感じていたが、こういうとき急かすとかえっていわなくなるのが千葉という男だ。
 数日ぶりに携帯電話を確認したら、成一からメールが数件入っていた。うれしくて、すぐに開いて読んだ。短いそれは、遊びの誘いだった。

 

 

「一保さん、こんにちは。
 先日は、妙なことを言ってごめんなさい。
 カフェラテ、とてもおいしかったです。

 このあいだ会ったときに言っていた、「500日のサマー」を一緒に見ませんか?よければおれの家に来てください。ご飯とお酒を用意しておきますし、泊まっていってもらってもかまいません。あなたさえよければですが」

 

 

 ぜったい行く。すぐ行く。走って行く。
 頭の中で言ったつもりだったけれど、声にでていたらしい。先に歩いていた千葉が振りかえり、「なんだ?」といぶかしげな顔をした。
「なんでもない」
「うわ、にやけた面」
 顔をしかめた千葉に、おれは満面の笑みを浮かべた。
「デートに誘われた」
 なぜか一瞬、千葉はとても無防備な顔をした。驚いたような、悲しんでいるような、不思議な顔だった。
「……あっそ、どうでもいいからいちいち報告してくんな」
「前にどうなんだって聞かれたから言っただけだろ。安心しろ、もういわねーよ」
 早足で歩いて、郵便ポストを確認する。あいかわらずふるぼけた宿舎は、しんと静まりかえっていて人の気配がない。
「そういやさ、レモン大量にもらったんだけど、使う?」
 無表情なまま、千葉が「レモン?」と問い返してきた。
「そ。広島の同期が、グリーンレモン箱いっぱい送ってきたんだよ。使いきれねえから、いるかなって。焼酎にいれたりしてもうまいぞ」
 千葉の部屋は1階で、おれは4階だから取りに来てくれるならその場で渡すぞ、と伝え、「じゃあこのままついてって、もらって帰る」とけだるげに千葉が言った。
 ふたりで階段に登り、部屋のドアを開く。その間、疲れもあってずっと無言だった。
「そこで待ってろ。適当な袋に入れてくる」
「ああ。悪いな」
 おれは少し浮かれていて、鼻歌を歌ったりしていた。だから千葉が、どんな顔をしていたのか、何を考えていたのか、まったくわからなかった。――レモンを渡したときに、腕を強く握られるまでは。
「一保」
 突然腕を引かれて、紙袋が指から滑りおち、レモンが廊下一面に転がった。あざやかな緑色と柑橘の香りの中で、おれは驚いて千葉を見上げた。
「やっぱり、お前以外だめみたいなんだ」
 なにを言ってるんだ、と叫ぼうとして、できずに固まる。息苦しいほどに強く抱きしめられ、耳元に熱い息がかかる。
「あきらめようとはしたんだ。ほかの女ともずいぶんつき合った。けど、あきらめられない」
 いま何が起こっているのか、ようやくわかった。正気になったおれは、千葉の腕を振り払おうと、腕をつっぱね、突き飛ばそうとした。けれど、背中までがっちりホールドされていて、いまできることは足技をかけて転ばせることだけだ。話の途中で、そんなことはできない。
「ありがとう。でも、前にも言ったけどおれは、」
「お前をいつも不安にさせるようなやつより、絶対おれのほうがいい」
「そこまで言ってくれるのは、本当にうれしいけど。おれの気持ちは、何があっても変わらない。たとえあいつがおれのことを好きじゃなくても、なんとも思ってなくても、そんなのは関係ないんだ」
 千葉のくちびるが耳に当たって、慌てて顔をそらす。肩を押しても、肘で突き放そうとしても、力の強い千葉はびくともしない。
「毎日連絡する。一保がつきあってくれるなら、浮気なんかしない。もし仕事の支障になるっていうなら、おれが仕事をやめて別のことをやるから」
 熱っぽい声に、心臓が止まりそうになった。
「仕事をないがしろにするなんてお前らしくない」
「違う。これまで最優先してきた仕事よりも、お前がほしいって言ってるんだ」
 背中をかきだく腕が、まるでおれの実体を探すみたいに、何度も撫で、さすり、強く抱きしめてくる。
 千葉に心から求められている。本当にうれしいと思う。ありがたいし、もったいないとも思う。
 ずっと、「誰か」に愛されてみたかった。必要とされ、居場所がほしいと思っていた。けれど今はもう、「誰か」じゃダメだった。成一じゃないとだめなのだ。理屈じゃなく、おれはただひたすらに成一がほしい、ほかの人間はいらない。
 手のひらが頬を包んで、上を向かされた。キスをされそうになって避けると、千葉の腕がおれの両腕をひとまとめにして、廊下に縫いつけてしまった。蹴ろうとしても足の間に体を滑り込まされ、思い通りにいかない。
「お前が強いのは知ってる。けがしたくないから、悪いな」
 悪いと思うならするな、バカ!
 そう叫べなかったのは、あまりにも千葉が苦しそうな顔をしていたせいだ。息がとまったみたいな、首をしめられたみたいな、ひどい顔。
 キスを避けられたくちびるが、おれの耳の下、首筋をたどって強く吸いついた。「やめろ、」と叫んだ声は手のひらで塞がれ、なんどもなんども同じところを舌でなめられ、唇で跡をつけられる。
 このままじゃまずい。
 もう、手加減なんてせずにぶっ飛ばすしかない。千葉を相手に、手加減してたら振り切れない。
 そう決意してにらみつけた瞬間、携帯電話が鳴った。
「……どけ」
 音に驚いた隙をついて、千葉の体を突き飛ばす。大半が転がり落ちてしまった紙袋を千葉の胸元に押しつけ、ドアをあけて奴の体ごと外へ放り出し、鍵をかけてずるずると玄関にへたりこむ。
 電話は、成一からだった。すがるような気持ちで、「通話」をタップした。
「一保さん、いま大丈夫ですか?」
「…大丈夫じゃない……」
「それは、どういう」
「いますぐ会いたい。会いに行って、いいか」
 半分泣いているような声が出てしまった。恥ずかしい。しばらく会わないほうがいい、なんて思っていたくせに、成一のやさしい声をきいていたら、いてもたってもいられなくなった。
「おれは平気ですけど、あの、何かあったんですか」
 そちらへ行きましょうか?と問われて、首を振って大丈夫、と返事をした。
「大丈夫だから。1時間ぐらいでそっちつく」
「じゃあ、由記駅につく前に連絡をください。迎えにいきます」
「……成一」
「うん?」
 ひどくやさしい問い返し方だったので、おれはほとんど泣いてしまった。ひざを抱え、このまま「お前のことがすき」と言ってしまいそうだった。なんとか我慢したけど。
「前言ってたDVD持って行くから、今日泊まっていい?」
 こどもみたいな心細い声がでてしまった。成一は、くすっと笑ってから「手ぶらでも、いつでも泊まりにきてください」
 といってくれた。

 

 

 

 

 DVDだけじゃなくて、下着とか寝間着とかくつ下をナイロンバッグにつめこみ、自分の部屋を出た。ポケットには携帯電話、左腕にはいつもの腕時計。使い古した官給品のダイバーズウォッチ。両足には白のコンバース、ハイカット。
 駅まで走って電車に飛び乗る。平日の朝11時すぎは通勤ラッシュが一段落しているせいか、とても空いていた。
 電車にゆられながら、千葉に言われた言葉の意味を考え、頭をかかえた。
 あきらめられなかった、と千葉は言った。おれのほうがいい、とも。
 明日は休みだからいいとしても、あさってからどんな顔をして仕事に行けばいいんだろうか。
 座席でひとり頭をかかえているおれを怪しんでいるのか、シートの隣は空いたままだ。車窓からはいってくるまぶしいほどの朝の光をにらんでから、携帯電話にイヤホンをつっこみ、目を閉じて小沢健二の歌に耳をすませた。まずは拍手がきこえてきて、それからはじまる能天気なまでに明るい声。おれが彼の歌をすきなのは、明るくて親しみやすいメロディに反して深い歌詞が多いからだ。いま聴いている「ラブリー」にしたって、天才じゃないかなって思う。
 千葉とはあまり趣味が合わない。あいつは音楽を聴かないし山にも登らないし、映画もみない。つながりといえば、仕事で同じ海に潜り続けたことと、ときおり一緒にダイビングにでかけたことぐらい。保大のときは一緒につるんでいることが多かったが、現場に出てから距離は離れた。今日「あきらめられない」と言われるまで、自分が告白されたことすら忘れていた。
 気を逸らすことに失敗したおれは、音楽を止めてじりじりしながら電車が目的の駅に到着するのを待った。やっぱり、横浜は由記市に遠すぎる。馴染んだ地元の海との別れも辛い。だが羽田基地に勤めている限り、引っ越しはできそうになかった。

 

 

 

 

 由記駅に到着してロータリーに出ると、成一が大きく手を振って出迎えてくれた。その体の横にはなんと、日本では生産を終了して久しいホーネット900が置いてあった。
「家にいくまえに、海でも見に行こう」
 返事をするまえにヘルメットを投げられ、慌てて拾う。
「か…かっこい~~!!どしたのこれ!?持ってたの?!」
 挨拶もそこそこに、おれはホンダの創った名機に魅せられ、ほめそやした。青いグラマラスなボディは目立った傷もなく、太陽光の中でぴかっと光って見える。
「兄貴のやつだけど。実家に置いてあったのを最近もらったんだよ」
 納得だ。成一がホーネットを買って乗り回すなんて、想像がつかない。
「つーかお前、運転できんの?!」
「失礼だなー。これでもレスキューにいるんだからね、たいがいのものは運転できるよ」
 怒った顔をしてみせてから、成一がにっこり笑った。意外だ。おっとりしてみえるから、ネイキッドのバイクなんていかにも「ヤンチャ」なものは苦手だと思っていた。
「その服装だと少し寒いかもしれないけど、バイクだと10分もかからないから」
 さあ行こう、とフルフェイスをかぶった成一がバイクにまたがる。おれは慌てて後ろに乗り、どこをつかもうか迷っていると、腕を引かれて腰を抱きしめるようにつかまされた。
「危ないからしっかりつかまってて」
 おそるおそる腕を回すと、成一は慣れた様子でメインスイッチを入れた。ホーネットは「ブウン」といささかゆるい音をさせた後で、4気筒独特の、シュルシュルという小気味のいいエンジン音をさせながら、ロータリーをするりと抜け出て海岸線に向かっていく。
 バイク独特のスリルとスピード感。900CCを超えるスポーツバイクの後ろに乗ったのは初めてだ。調子をあげていくエンジンのかっこいい音と、体をつきぬけていく風がたまらなく爽快で、おれは成一が聞こえないのをわかった上で「すっげー楽しい!もっと走って!」と要望してしまった。
 ネイキッドのバイクがコーナリングするときは車体が傾いて地面が近くなり、それが割と怖かったりするのだが、成一はバイクの運転がとても上手かった。上半身は適度に力が抜けていて、下半身はしっかりとバイクと密着しており、きっとバランス感覚がすばらしいのだろう、結構なスピードがでているのに安定感がある。
「海だよ!!」
 成一が大きい声でそういって、首をすこしそちらに動かした。視線の先には一面の海が、正午前の強い太陽に照らされ、きらきらと輝いている。何度も、子供のころから、何百回も何千回もみてきた海なのに、全く違うもののように胸がときめく。どこか泣きそうになりながら、「きれいだな」とつぶやいた。好きな人とみる海はいつもきれいだと思ったけれど、成一とみる海は少し切なくなる。たぶん好きすぎるからだろう。できることなら、ちょっとこの気持ちが冷めてほしいのに。成一はいつも思いもつかない方法で、おれをドキドキさせたり、切なくさせたりする。

 

 

 

 

 中途半端な時間だからか、交通量がそう多くはなく、おれたちはあっという間に目的の海に着いてしまった。
 太陽が真上にある海は、11月でも日差しが強くてそれなりにあたたかい。おれたちはバイクを砂浜近くに置いてから、海辺をふたり、ならんで歩いた。波が打ち寄せては引いていき、その後には、きれいな貝がらや海草、木の枝なんかが取り残されていく。
「バイクって楽しいなあ。なんか風になったって感じがした、ありきたりな表現だけど」
 平たい石をみつけて海に投げながら言うと、成一が「すっきりするから、おれは車よりも好き」と返事をした。
「上手だったな、おまえ」
「ふふ。そうでしょう。よく運転下手そうって言われるんですけどね、結構得意です」
 そう言っておだやかな顔をみせたあとで、目を伏せる。
「機械って、人間と違ってこっちがちゃんと動けばそのとおりに反応を返してくれるからやりやすい」
 しゃがみこんでから、何かをひろって、成一がこちらにやってきた。差し出された手のひらにはうすい桃色をした美しい貝がらがあって、日の光にうすく透けて見えるそれを、おれの手のひらにそっと載せた。
「あげます。ほかのと一緒に玄関に飾って」
「ロマンチストか!……まあ、ありがと」
 指でつまんで光にすかし、しげしげと眺めた後でポケットに入れる。沖縄みやげにもらった、シーサーの横にでも置こう、と考えていたら、砂浜に足をとられて転びそうになった。
「おっと、大丈夫?」
 とっさに抱きとめられ、慌てて離れた。間近でみた成一の顔は、日焼けして以前よりもそばかすが目立っていたけれど、あいかわらず濁りのない眼をしていた。
「きかねえの、何があったのかとか」
 急に会いたいなんて、変に思わないのだろうか、と考え、すぐに思い直した。困っている人がいたら手をさしのべる。理由なんか関係なく。成一はそういうやつだった。
「話したくなったらいつでもききますから、一保さんのタイミングでいいですよ」
「うん……」
 海風が強く吹いて、言い出そうとした言葉が押し戻される。やってきた男女のカップルが、楽しげにだきあったり、押したりしながら海沿いを駆けていったのをみて、おれはきっと一生、あんな風にはなれず、相手にもそうさせてあげることができないのだ、と思った。
 不意に恐ろしくなる。恋は自分のためで、愛は相手のためだというけれど、おれの愛情が仮に実を結んだとして、成一を幸福にすることができるのだろうか。堂々と手をつないで歩くことも、身内や友人に紹介することもできず、もしも知られたら後ろ指をさされる。誰も祝福してくれやしない。さげすまれ、白い眼でみられるだけだ。
 相手が幸福でない愛に、意味はあるのか。それはただの自己愛じゃないのか。かつて千葉がおれを愛したやり方のように、お互いを不幸にするだけじゃないのか。
 おれは間違っていたのかもしれない。――自分でもバカだと思うけれど、やり直してからはじめて、心の底から恐怖した。会いたいから会いに行く。シンプルだ。けれどそこには、自分しかなかった。相手がなかった。
「寒くなってきたから、帰りましょうか」
「ああ」
 結局なにも言い出せないまま、成一の家に向かった。来た道では感じなかったほどに風が冷たく、家につくころには、体が芯まで冷え切っていた。