3 海も山も川もない街

 ここには海も山も、川さえもない。だからこの街を選んだ。

 朝や夜にいちいち何かを感じることは止めにしている。だからその日はいつもと同じ朝だし、何も思うところも感じるところもない。朝は朝。時間にすると午前8時で天気は晴れ。風は冷たくもあたたかくもなかった。
「おはようございまーす」
 樹が牛乳を持ってきたとき、ちょうど仏壇に手を合わせているところだった。おれは特定の宗教に信仰を持たないのでルールが分からない。生涯の恩人といっていい故人も、「ただ気が向いたとき手を合わせてくれるだけでいい」としか伝えてくれなかった。
「おはよう。いつもありがとな」
 立ち上がり、店の入り口で商品を受け取ろうとして、ボールペンを取りに2階へ上がって戻る。この建物は2階建で、2階がおれの住居になっているのだ。
 サインをして納品書をデニムのポケットに突っ込んでも樹がまだその場を去らないので、「朝練があんだろうが。早く帰れ」と太ももを蹴った。「乱暴だな!」と垂れ目の甘い顔で八重歯を見せて笑った樹から目をそらして、店の看板を入口に置いた。ドアに引っかけている「CLOSE」はまだ裏返さない。
「店長、アルバイト募集してない?」
 店の中をほうきで掃除しながら、そういえば掃除が下手だとよくあいつに文句を言われたな、と思いだしそうになって頭を振った。こんなところにまであいつの思い出が隠れているのか。季節や時間や天気を支配しただけでは飽き足らず、日常の家事にすら、亡霊みたいに過去の恋愛が付きまとう。もう心は痛まないけれど、溜息は出てしまった。
「同じこと何度もききにくんな。この小さい店でバイトなんか雇う必要あるわけねえだろ」
 毎日洗って殺菌して干している布巾で、8席のカウンターと3席のテーブルを拭きはじめる。樹が勝手にカウンターの中に入って布巾を濡らし、残りのテーブルを拭いた。
「お金いらないから、雇ってよ」
 のぞき込んできた樹から、口に入れているらしい、コーラキャンディの匂いがした。おれはその場を離れ、キッチンに入ってからカウンター越しに布巾を取り上げた。
「学生をタダ働きなんかさせてみろ、こんな小さい店すぐ潰れるぞ」
「あはは、労基署が目の前にあるもんね」
 これは本当だった。こんな小さい目立たない店が先々代から続いているのは、周辺に官公庁が多くて店舗が少ないという、最高の立地のおかげだった。
「税務署でしょ、労基署でしょ、ハロワでしょ……こんなにいい条件の場所なのに、近くにあるのがこんな店と得たいのしれないテーラーだけって、なんでだろうね?」
 樹が言っているのは、5軒となりにある、カフェ併設型の洋装店のことだろう。経営者のうちひとり、若い涼しい目元をした男は、『ここのコーヒーのほうが美味いんで』と毎朝飲みに来る変わった奴だった。
「まったくだ。お前んちみたいにオーガニックに取りつかれた奇妙なスーパーとかな。いちいち高えんだよ。農薬なんかどうでもいいから安くしろ」
「おれに言われても。親にいってくんないと、そういうことは」
 返事をせずに開店準備をすすめていると、樹がしびれを切らしたような、苛立った声を出した。
「ねえ、いい加減おしえてよ」
「何を」
「本当の名前」
「忘れた。おれは記憶喪失で、店の前で行き倒れていたところを先代に拾われて……」
「そういうのいいから」
 手のひらでカウンターを叩いた大きな音に、両手は玉ねぎを切ったまま、視線だけ樹に向けた。彼は若い男だけがもつ根拠不明の自信と素直さと愚かさをまんべんなく宿した眼でおれを睨みつけ、手のひらを拳にしてもう一度カウンターを叩いた。
「時間はいいのか?」
 質問には答えずにそうつぶやくと、樹は「やべ」と叫んでおれの腕時計を見た。縦にばかり成長した男は、今度は大きい声を出してから慌てて店から飛び出していく。
「約束守ってよ店長。今度の大会で高校生新記録出したら、名前教えてくれるってやつ」
 振り返っておれを指さした樹に、冷めた声で言った。
「そんな約束してねえよ、バカ」
 その言葉が終わる前に、樹は姿を消していた。多分、もう50mぐらい先まで走っているだろう。あの怖いもの知らずの両足で、自分が世界で一番早いんだという顔をして。

 縦に長い、洞窟みたいな店は間接照明が中心で、昼でも夜でも薄暗い。
 古い木造家屋だから、冬は隙間風が入ってひどく冷えるし、夏は冷房の効きが悪くて扇風機もまわしている。今は、朝晩冷えるときだけ、ガスストーブを点けている。隙間が多い分、換気には気を払わなくて済むから楽だった。
「それでさ、今度の公演こそ観に来てほしいんだ。きっと気に入るよ」
「あんたも懲りないなあ」
 彼好みの思いきり苦くて濃いコーヒーをカウンター越しに手渡す。外はもう暗い。唯一捨てられなかった、古びたダイバーズウォッチに視線を落とすと、19:00を過ぎたところだった。
「ここまで誘われてみにこない君って、本当に何なの」
 王子様然としたやわらかい髪をこれ見よがしにかき上げながら、村田が溜息をつく。カウンターに置かれた、プレミアがつきそうなバレエのチケットを、丁寧に返却した。
「興味がねえんだよ」
 嘘じゃなかった。あれほど好きだったミュージカルや演劇の類は、あの日から一切観なくなった。バレエなんてもってのほかだ。鳥肌が立つほどみたくない。映画もみないし、音楽も聴かない。店で無音はきまずいので、当たり障りのないボサノヴァなんかを流しているが、家では何も聴かないし、テレビも見ない。携帯電話は解約してしまったから、店にある固定電話か、タブレットでLINEをするかしかない。おれのこんな生活を、樹や村田は「仙人生活」だとか「世捨て人」だと揶揄してくるが、案外不便を感じないし、本当は必要ないものなんじゃないか、と思う。必要最低限の世間の情報はタブレットでとっている新聞で把握できるし、ネットニュースも読める。フリーメールは使い放題だし、LINEがあれば仕事関係の連絡も取れる。
「……フランスじゃ誰もが敬意を持ってくれたし、誘えば大概は寝てくれた。有名なバレエ団のプリンシパルって肩書きが、きみにはまったく意味のないものなんだね」
 伏せた睫毛の長さと芝居がかった話し方が、村田らしさを演出していて面白かったが、おれは自分の仕事に集中したかったので無視した。客は村田だけではないし、この男がどれほど有名なバレエダンサーだとしても、おれにとってはほかの客と全く同じ重さと意味しか持っていない。
 ひとつ離れた席で本を読んでいる物静かな40前後の女性に、「お待たせいたしました」と声をかける。彼女は本をカウンターに置いて、たっぷり5秒間おれの顔をみつめてからにっこり笑った。
「あなたは今日もかっこいいのね。日々の癒しだわ」
「ありがとうございます。いつでも見に来てください」
 おれがそう言って笑うと、目の前で村田が不満そうに言った。
「なんだよ、僕にはそんな顔してくれないくせに」
『今日のおすすめ』コーヒーとスコーン、手作りのクロテッドクリームをカウンター越しに彼女に手渡して、キッチンの作業に戻る。
 この小さな店は、朝はコーヒーとホットサンドのモーニングセット、昼は日替わりのランチセットが主なメニューになる。夜はコーヒーと軽食を出すけれども、朝が早いので店は20:00時に閉店する。おれは毎朝6時に起きて、習慣というよりも長年の惰性で1時間走り、2階に帰ってきてからシャワーを浴びて仏壇に手を合わせ、開店の準備をする。店を閉めて2階に上がるのは21時過ぎで、こまごまとした作業やメールチェックなどを終えたら、夜は23時までに眠る。
今年の誕生日なんて、寝仕度を整えて布団に入って眠りに落ちる寸前に思い出した。33歳。若いとも、歳をとったともいえない微妙な年齢。鏡を見る限り、外見の変化は感じないが、まったく刺激のない日々を送っているのに何の飢えも感じないあたり、確実に歳をとっているということだろう。
「店長、ごちそうさま」
 村田が立ち上がって、紙幣を置いていく。ありがとうございました、と声をかけてから、紙幣の下に置き去りにされたチケットに気が付いて、心の中で舌打ちをした。
「すぐ戻ります。ごゆっくりどうぞ」
 女性に声をかけて、チケットを握りしめたまま店を出て走った。村田はすぐに見つかった。店の隣にあるコインパーキングにとめた、彼自慢のメルセデスの前で腕を掴み、ポケットにチケットを突っ込んだ。
「おいていくな。持って帰れ」
「返すなんてずいぶん野暮な真似するね。来ないなら売るなり、誰かにプレゼントするなりしてよ」
 彼は余裕の笑みを浮かべてポケットに突っ込まれたチケットを取り出して照明にかざし、止める間もなく真っ二つに引き裂いて道路に捨ててしまった。
「これで満足した?」
 多分、おれがひどい顔をしていたんだろう。村田は溜息をつき、首を振った。
「あきらめるって意味じゃないからね。君が一度きてくれない限り、何度でもチケットは破かれるし、プレミア公演には毎回空席ができることになる」
 脅迫じゃないか、と言いたくなったがやめておいた。おれは黙ってうつむき、しゃがみこんで、やぶれたチケットを拾った。
「こういうことするな。ひとつの公演に、どれだけの人の時間や願いがこもってると思ってんだ」
「君が来てくれないのが悪い」
 かわす暇もなく、のびてきた手のひらが頬を撫でた。
「好きになってくれないなら、いっそもっと、僕のことを嫌いになって」
 ひさしぶりに感じた人のぬくもりに動揺した。村田の指は長くて繊細な作りをしていて、また思いだしたくもないことが頭をよぎった。
「こういうことはもうやめてくれ。静かに暮らしたいんだ」
 拾ったチケットの砂を払い、ポケットに仕舞う。受け取れば満足するなら、そうしようと思った。
「僕はただコーヒーを飲みに行って、バレエをみにきてくれと誘っているだけだよ。それがそんなに君の生活をかき乱すというのなら、問題は君のほうにあるんじゃない?……ねえ、名前も教えてくれない、意地悪なバリスタくん」
 おれが黙ったままでいると、村田は「またいくから」とだけ言って、運転席に乗り込んだ。見送る義理はない。おれは踵を返し、自分の店に戻った。