3 (成一)

「おれはどこでもいいんです、あなたと話せるなら」


 くちびるからこの言葉がするりと出てきて驚いた。まるで、知らない自分がひょっこりと出てきて、このひとの気を引こうと一生懸命頑張っているみたいな気がして。
 頭の中で、自分に問いかける。

 このひとって、おれにとって何なの。
 どういう存在だったの。

 おれの自問自答なんて知らずに、日焼けした強気な顔が真っ赤になって、俯いてしまう。
「よく、そういうハズカシイこと言えるね、お前」
 照れくさそうに、軽く肩を殴られた。逸らされた猫みたいな目が、すねたように尖った唇が、好き放題に跳ねてちらかっている髪が、可愛くてかわいくてたまらなかった。
 年上のひとに、可愛いなんて言ったら失礼にあたるだろうか。けれど、ほかに適当な言葉が見当たらない。
 こみ上げてくる気持ちを噛みしめて、少し笑った。一保さんは、そんなおれをほったらかして、先に歩いていってしまう。歩幅が大きくて颯爽とした歩き姿。後ろから見える耳まで赤くなっている。
「まってくださいよー」
 慌てて後ろを追いかける。慣れない仕事の疲れなんか、どこかへ吹き飛んでいた。

 1軒目は、もつ串や生ホッピーがたのしめる店だった。一保さんはお酒に強くて、顔色も変わらないし、終始口調もきびきびしていた。
 ただ一点変わるとしたら…笑顔が多くなる。
「次なに飲む?おれ生ホッピーください」
「おなじものお願いします」
「あと、モツ煮をひとつ」
 いかにも大衆居酒屋、という店だけれど、ご飯はどれも美味しい。
 まだ昼間なのに、店内は人でいっぱいだった。昭和の歌謡曲が流れる雰囲気にそぐわしく、客層は40代以上の男性がメインで、若い女性同士のグループもちらほら。
「今日はお休みなのに、いきなりすみませんでした。大丈夫でした?」
「なにが?」
 気持ちのいい食べっぷりだ。山盛りになっていた豆苗の炒め物も、皿からこぼれそうになっていたポテトサラダも、たまねぎがたっぷりのったカツオのタタキも、きれいに片付いていく。好き嫌いは何もない、と前にお酒を飲んだときにきいたけれど、うまいなーと笑顔でたいらげていく様子をみていると、こちらまで楽しくなってくる。
 ホッピーをぐいっと呷ってから、「彼女と約束だったりしないのかなって」とカマをかけてみた。
 実をいうと、あれから兄を通じて合田さんの連絡先をききだし、一保さんのことを色々ときいてみたのだが、「ききたいことは本人に直接訊け」と一蹴されてしまった。確かに、合田さんの言葉は正しい。陰できいて回るなんて、失礼な話だ。
「いねーよ、彼女なんか。そもそも」
 彼は口を開いて何か言おうとしてから、「なんでもねー」と低い声でつぶやいてやめてしまった。
「お前はどうなの。その…彼女、いるの」
 モツ串を頬張りながら、一保さんが尋ねてくる。
「いませんよ、でも」
 積極的に言い寄ってくる女性ならひとりいる。今日もわざと終電を逃した彼女の猛烈なホテルに行こうアピールを躱して、かといって放って帰るわけにもいかず、カラオケで朝まで過ごしてきたところだ。
 最近の失恋のことをかいつまんで話し、「しばらく恋愛はいいんです」と伝えると、一保さんは眉を上げてみせ、それからニッと笑って言った。
「つらいときは、すきなものを数えるといいぜ」
「すきなもの?」
「そう。成一、お前のすきなものは?ごはんでも、場所でも、音楽でも…」
 バラの上の、雨のしずくとか。
 掠れた声に、うつむいていた視線を上げる。目が合った彼は、おれをみているはずなのに、誰かを探すみたいな顔をしていた。
「My favorite thingsじゃないですか、それ」
「分かった?あはは。おれ、めちゃくちゃミュージカルが好きでさ」
 ――どうしてだろう、胸がくるしい。いつか、どこかで、こんな話をした気がする。誰かと…そう、とても大切な、誰かと。
「……おれも、ミュージカル大好きです。とくにタップのあるやつ」
「ジーン・ケリーとかフレッド・アステアとか?」
「そのふたりは神ですね、おれにとっては」
 それから、ふたりで好きな映画の話をした。往年のミュージカル映画の話や、好きなハリウッド映画の話、俳優の話。まとまった休みには、海外ドラマを見て過ごすこと。
 一保さんは、ミュージカル映画以外だと、アクション映画が好きなのだという。
 好きな俳優は、ジョセフ・ゴードン=レヴィットとマット・デイモン、リバー・フェニックス、それにジェイソン・ステイサム、らしい。なるほど、ボーンシリーズとトランスポーターシリーズは分かるとして…あとのふたりは線の細い美男子じゃないか。この面食いさんめ。
「成一は、ちょっと雰囲気がジョセフに似てるよな」
「ええっ、どのあたりが」
「なんだろ。草食っぽくて失恋したらビービ―泣いてそうなところとか…500日のサマーってみたことある?あれ、めちゃくちゃお前っぽくて笑えるぞ」
「ひっどいな」
 その映画は観た事がない、と伝えると、じゃあ今度みにくる?ブルーレイ持ってるから貸してやってもいいけど、と言われて、食い気味で「みにいかせてください!」と顔を近づける。…すごく迷惑そうな顔で、避けれられてしまった。
「でも、ジョセフの役ってへなちょこにみえて、芯は強くてしなやかなんだ。そういうところも、似てる気がする」
 そんなにお前のこと知らないけどさ、と投げやりにいって、一保さんがジョッキを空にした。ちらりと腕時計を見た彼に、おれは少し焦った。時間は16:00。何か、用事があるのだろうか?
 嫌だ。もっと話していたい、もっと一緒にいたい。
「映画って、字幕派ですか?吹き替え派?おれ、字幕を追いかけてると映像ちゃんと見られなくて、映像追いかけてたら字幕みれなくなっちゃうんです。だから吹き替えでみることが多くて。どんくさいですよね……」
 焦りから変な質問になってしまったが、一保さんは気にする様子もなく返事をくれた。
「字幕って結構誤訳が多いからさ、吹き替えのほうがマシなこともあるよ。おれは字幕無しでみてるけど、訓練も兼ねてな」
「そういえばアメリカに住んでいたんでした?」
「うん。子どもの頃から英会話習ってて、5年あっちに住んでた。つってももう帰国して10年以上経つから、ネイティブと話すために教室通ったり、定期的に向こうの友達とスカイプしたりしてる。映画も訓練の一種なんだ、話さない、聴かないと語学はすぐにダメになる」
 首を回して伸びをして、一保さんが笑った。
「そろそろ行こうか、混んできたし」
「あ……はい。あの、もし時間があれば、お連れしたい場所があるんですが。実は、知り合いがこっちでライブやるために来てまして、招待券があるんです。一緒に行きませんか」
「へえー、誰の?」
「生野千早っていう、ジャズピアニストなんですけ…」
「マジで!?!」
 言い終わる前に、一保さんが身を乗り出してきた。キスできそうなぐらい近くでみる彼の眼は、みたことがないほどきらきらと輝いていた。
「お前、生野千早と知り合いなの!?」
「デビューする前から知っています。あいにく、東京のチケットは手に入らなかったんですけど、横浜の赤レンガ倉庫にジャズを聴けるレストランがあって。そこで…」
「行く!!いくいく、金もちゃんと払うからっ、行かせて!」
 必死で言い募る「いかせて、」という声に邪な想像をしそうになる。ダメだダメだ、このひとは知り合ったばかりの、どこからどうみても女性にモテそうなかっこいい男性じゃないか。もう辛い恋はしたくない、無しだ無し。
「ファーストアルバム聴いた?おれもうあれがすっげー好きで…大ファンなんだよなァ…いいの、マジで。うわ~~…うれし~…」
 あまりに喜んでくれるので少し複雑な気持ちになって、自分でもびっくりした。なんでちょっと複雑な気持ちにならないといけないんだよ…。
 生野千早は、今日本でも注目を浴びている、ニューヨークを拠点に活躍しているジャズピアニストだ。「彗星のように現れた」とメディアを騒がせている理由のひとつに、彼の異色の経歴がある。音大を出ておらず、バーテンダーをやりながらジゴロのような生活で生計を立てていた。六人部隊長をにこやかにしたような容姿は端正で、声も美声。マスコミが好きそうな設定だが、真実だから恐ろしい。
 立ち上がった一保さんは「もっといい服着てくればよかった…」とか「せめて寝癖はなんとかしねーと…」とかブツブツいって服の裾をひっぱったり、くせ毛を指で伸ばそうとして無駄な努力に終わったりしている。面白くて、可愛くて吹き出しそうになった。
 このひとといると……なんだろう、すごく和む。
 多分、自分を良くみせようとか、好かれるように相手に合わせようとか、そういう計算のようなものがまるで無いからだろう。
「でも、お前の友達なんだろ?おれがいきなり、一緒に行ってもいいのかな」
 積もる話もあるだろ、と問いかけられて、首を振った。
「ニューヨークに行ってからも、定期的にメールでやり取りをしていたんです。大学の友達なんかより、お互いのこと話してるから平気ですよ」
 安心してもらえるように、おれはにこっと笑った。つられるように、一保さんも微笑んだ。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 黒くておおきくて、眦がぎゅっと上がった美しい眼。少年みたいな顔で笑うから、ふとした瞬間年齢を忘れそうになるけれど、彼はこれでもおれより年上なのだ。
「チケット代もいりません。これは招待券で、元々タダですから」
 一保さんは椅子からおりて伸びをしてから、伝票を持ってこどものように走って行って支払をすませてしまう。何度も遠慮して「おれが誘ったのだから出させてほしい」、と伝えたけれど、お礼だと言って聞き入れてもらえず、最後には「先輩の顔は立てるもんだろ」と説得されて折れた。

 ライブ会場を伝えると、一保さんはまるで怒った猫みたいに毛を逆立てて「そんなとこ、こんなカッコで行けるわけねーじゃん。ドレスコードあんじゃねえの?」と叫び、スマートフォンで検索して「ないって書いてるけど、さすがにパーカーではちょっと……」と眉を下げ、「服買いに行くからついてきて!」と何故か必死な様子でおれの腕をつかんできた。おれはもう、一秒たりとも同じ表情をしていない、一保さんのくるくる変わる表情を見ているだけで楽しい。
「いいですけど、お酒飲んじゃいましたよ」
 酒臭い客が来たら不快かな、と考えて控えめに提案する。店を出てもまだ日は明るくて、買いに行こうと思えばいけるけれども。
「だいじょうぶ。これ持ってっから、ブレスケア」
 雑な仕草で、どう考えても適量を超えた錠剤を手のひらに出して、おれの口の中と自分の口の中にねじ込む。そして案の定、きついミントに噎せてしまって、ガードレールに手をついてふたりして咳き込んだ。
 そしてこれがまた嘘みたいな本当の話なんだけど、お互いの背中をさすったりさすられたりしながら咳き込んでいると――電線の上でカラスがフンをして、それが一保さんのパーカーの肩にクリーンヒットした。
「ウソだろ!!しんじらんねえ!」
 愕然とした顔でパーカーを脱いでから何か英語で悪態をつき、――目が合って、こらえきれずに吹き出した。
「だ、だいじょ、だいじょうぶですか。……っははははは、あ、すみません、大丈夫じゃないですね、買いに行きましょうっ……あー、息がくるしい」
「笑いごとじゃねえし。っはは、いやでも、これすげえ確立じゃね?天啓だろ……『汝、服を買うべし』みたいなさ」
 言いながら涙を浮かべてお腹を抱えて笑っている彼に、おれも口調を真似て返す。
「あとこれね、『汝……鳥の下に立つべからず』。たびたび鳥フンひっかけられたおれが言うんだから間違いないです」
「ふつうの人間は一生に一回、あるかないかだろ。お前は選ばれし人間だな。鳥フンに」
「フンはいやです!せめて鳥に選ばれたことにしてください!」
 不思議だ。鳥フン爆撃を受けたのに、こんなに楽しくて仕方ないなんて。
 雰囲気のいい場所で可愛い女の子と一緒にいたって、ここまで楽しかったことないのに。
 先輩、ということは、おれは仕事で知り合った後輩、というカテゴリになるのだろうが、そのカテゴリに何故か暗い気持ちになった。
 出会ったばかりでそれ以外ありえないのに、心が痛い。

 集合場所のレストランに着いた頃には日が落ちていた。
 心配するまでもなく、横浜の街には服を買える場所なんてたくさんある。無頓着を極めたような一保さんが、「なんでもいいよ、そのへんのやつで」というのをなだめすかし、彼に似合いそうなネイビーのジャケットと、Vネックのグレーとカットソー、それに白のデニムを合わせてプレゼントした。(安かったし、飲食代を彼が持ってくれたので)彼は服をとっかえひっかえ着替えさせるおれを、なぜか少しさびしそうな顔でみてきた。なんとも言えない、あの顔だ。Sound of musicの話をしていたときにみせた、あの表情。おれじゃない誰かを探す顔。
「成一、何のむ?」
「あ……ギネスをください」
「おれも同じものを」
 沈みそうになった気分を、一保さんの明るい声が持ち上げた。
 千早が用意してくれていた席は、関係者席かと思うほどステージに近いところだった。薄暗い照明の中、グランドピアノやサックスやドラムスが、いまかいまかと出番を待ちわびている。
「…ジャズのライブ、久しぶりに聴くなあ。楽しみ。しかも生野千早…ナマ千早か…」
 ギネスを傾けながら、一保さんは嬉しそうに目を細めた。真横からみると、惚れ惚れするほど彼の鼻筋の形は美しく、好奇心に満ちた猫のような眼は、おれと眼があうとにっこり笑った。
 整った顔立ちなのに近寄りがたさがないのは、人懐こさと、細かいことにこだわらない鷹揚さのおかげだろうか。
 テーブルクロスのかけられたテーブルに、上品なグラスがふたつ。
「なあ、お前はアルバムの中でどの曲が好き?」
「千早の?うーん、そうですねえ…」
 しばらく考えてから、「The Autmnかな」と応えると、「あれもすき!でもあんまり秋ぽくねえ曲だよな。どっちかっていうと、切ない恋みたいなメロディの…なんか別の意味があんの?」
「The Autumnっていうのは、千早のおじいさんが経営していたバーの名前なんです。彼もバーテンダーとして店に立ってた時期があって」
「そうなのか…納得。じいさんのこと、よほど愛してたんだな」
 ぽつりと言った一保さんを、思わず凝視した。おれの視線に気づいた彼が、眉をひょいと持ち上げて「なんだよ?」と表情で問うてくる。
「――、一保さんは、どの曲がすきなんですか?」
 質問で返すと、一保さんは腕をくんで身体を右に傾けた。
「おれ?うーん、表題曲のPiece of cakeもすっげー好きだけど、なんといってもFor Aかな。Aに捧ぐ、って曲のタイトルと歌の内容からして、相当複雑な感情を持った相手なんだろうな~って。途中攻撃的な部分があって、ほら、サックスと殴り合うみたいなところ。なのに、最後めちゃくちゃきれいなメロディで終わるだろ。好きだな」
 Aって何者だろ、恋人でもなさそうだし…家族でもないみたいだし…と英語が堪能な彼は歌の解析を始めたけれど、おれは上の空だった。
「A」のことならよく知っているとも。
 あなたに先日説明した、おれが好きだった人を奪い去った人さ。
 言えないけれど、心の中でそう返答して目を閉じる。と同時に、暗くなる照明。真っ暗になった会場のステージ、真ん中に、スポットライトが向けられる。
 浮かび上がった黒いハットをかぶった男が、サックスで聴いたことのあるフレーズを演奏しはじめる。観客たちがステージに注目すると、右端にスポットライトが移動して、ドラムスが静かにリズムを刻む。バラバラだったそれぞれの音が、次第に息が合い、絡まりあうように盛り上がってピークを迎えたとき、ステージ全体が明るくなり、ピアノの音と一緒にあの声が歌いはじめた。
「They asked me how I knew my true love was true……」
 Smoke Gets In Your Eyes、邦題は『煙が目にしみる』を歌う、この甘い、掠れた声はまさしく千早のものだ。ゆったりとした原曲とはまったく異なる、テンポが速くて攻撃的なアレンジのされた歌は、千早の問題のある内面をフィルターに、美しくて他にはない輝きを放って聴衆を夢中にさせていく。
 カバー曲からはじまることが意外だったけれど、もともと彼のライブには決まった『型』なんてなにもない。セットリストぐらいは決めているだろうが、それも直前で変更されたり、アレンジが変わったりする。
 拍手喝采ではじまったライブは、MCもほとんどなく、ひたすらに曲が代わり、激しい音の海の中で、耳の肥えた聴衆たちを酔わせていく。
 基本的にはアルバムをひっさげたツアーだから、オリジナル曲がメインになっていたが、それでも合間、合間に彼が好きな、ジャズのスダンダードナンバーも歌ってくれた。一保さんはおれが想像していたよりも演奏を楽しみ、喜び、尊敬と憧れのまなざしで千早をみつめた。『For A』をきいたときなんて、眼の淵に涙すら浮かべて。
 おれだって同じように千早の成功を喜んでいたし、演奏の素晴らしさに聴き入っていたけれど、少し複雑な心境だった。比べるなんておかしいと分かっているけど、おれは千早に比べて、なんて平凡でつまらない人間なんだろう、とがっかりした。彼のように輝かしい才能なんて何もなく、ひとを惹きつける魅力もない。誰でもできる仕事を、毎日必死でやっている。
 『L-O-V-E』が流れはじめたとき、脳裡に駆け巡ったのは、かつて好きだった人との思い出だった。彼の前であの歌を歌って――まさか結婚の思い出の曲とは知らずに――嬉しそうに笑ってくれたこと。失恋しても、ふっきれても、そういうかけらのひとつひとつまで消すことはできない。好きだった気持ちの一部は、当時のまま箱に入って保存されている。美しくて少し切ない思い出として。
 一保さんの横顔をそっと盗み見た。彼に対する、この感情は一体なんだろう。
 会ったばかりなのに。みつめていると、声をきいていると、心の奥が熱くなり、ざわつくような、落ち着かない気持ちになる。彼が他の誰かをみつめ、心を奪われていると感じるだけで、いてもたってもいられない。こっちをみて、と腕をつかみたくなる。
 彼のことなんて、まだ何もしらないのに。
 目を逸らし、演奏に集中した。演奏はアンコールになり、観客たちは歓声を上げていて、ライブハウスの中は気温が2、3度上がったみたいだった。
「なあ、あのLOVEって歌、実は言葉あそびになってるって知ってるか?」
「知ってます。LOVEのLは……Look at meのL、なんでしょう」
 すかさず返したおれに、話しかけてきた一保さんは驚いた顔をして黙ってしまった。少しつっけんどんな物言いになってしまったかもしれない、謝らないと、とおもっていると、ライブが大盛り上がりのまま終わりを迎えた。

 

 

 

 

 千早の人気は凄まじかった。
 確かに彼の演奏は天性の輝きを持っていて、声は人を惹きつけてやまない個性があり、おまけに顔立ちも端整だ。人気が出る理由は分かるけれど、かつて気安く話をして、ジントニックを作ってもらっていた彼のイメージとなかなか一致せず、ステージの前でサインや握手に応じているのを、なんとなく遠巻きに眺めていた。ファンサービスをしている千早は、かつてのような皮肉っぽい笑みではなく、幸せそうな微笑みを浮かべてひとりずつ丁寧に応じていた。
「行かなくていいんですか?」
 隣でお酒を飲んでいる彼に声をかけると、「女の人ばっかで行きにくいんだよな~、ついてきてよ、友達なんだろ」と甘えるような口調で誘われた。少し酒が回ってきたのか、健康的に日焼けしている頬がうっすらと赤くて、正直ぐっとくるものがある。おそらくこの人自身は何も意識していないし、考えていないんだろうけど…。
 なんでおれはこう、無自覚に色気を放出してくるタイプに弱いんだろう。
 色気垂れ流しタイプとか、分かってて狩りに来るような女の子なら嗅ぎ分けられるし、適当に逃げることもいなすこともできるのに。
「分かったよ、いけばいいんでしょ行けば」
「なんでちょっと怒ってんの?あ、わかった。照れてんだな?まかせろまかせろ、おれ初対面ぜんっぜん緊張しない派だから。多分マイケル・ジャクソンと会っても緊張しねー自信ある」
「マイケルでも!?それはそれですごいですね……?!」
 ステージの前で列に並び、自分たちの番がきたとき、一保さんは本当に旧来の友達みたいに落ち着いた、それでいて厚かましくない程度に親密な雰囲気で「いつも応援してるよ、大ファンなんだ」と伝え、右手を差し出した。仕立てのいいスーツに身を包んだ千早は、知っていた頃よりも髪の色が暗くなっていて、伸びた髪は後ろにふわりと撫でつけていた。
「どうもありがとう。…星野さんのお友達かな?」
 丁寧で気持ちのこもった握手を返し、微笑み返す。よそゆきの対応をする千早に、思わず吹き出してしまった。眉を上げてこちらを見た一保さんの隣で、おれは千早に向かって親指を下に提げるジェスチャーをしてみせた。
「おやおや、お行儀が悪いですよ、星野お坊ちゃま」
 茶化すような物言い。これこそ千早の真髄だ。
 楽しくなって、肩を軽く手のひらで叩くと、千早が肩をすくめた。
「だれが坊ちゃんだ。……チケットをどうもありがとう、ライブ最高だった」
「来てくれてよかったよ。星野さんは相変わらず…ううん?ちょっと変わったかな?大人っぽくなった気がする」
「それはそれは。ありがとうって言ってほしいのなら残念でした、年下のくせに本当生意気なやつめ」
 笑い合う。一保さんが、まぶしそうにおれたちふたりを見た。
「親しそうで妬けるな」
「そう、どっちに?」
 千早の間髪いれない返しに、おれは「調子に乗るな」と割り込む。
 列の後ろをちらりとみやってから、千早が耳元でささやいた。
「友達には見えないけど」
「うるさいよ。へんな邪魔したり横やりいれたらぶっとばすから」
「わあ。星野さんの口からぶっ飛ばすだって!…ねえおふたりさん、このあと時間ある?じつはおれ、一杯やりたい気持ちなんだけど、よければ奢ってくれないかな」
 他のファンに聞こえないように、小さな声でそう言って、一保さんにウィンクした。
「まさか生野千早とお酒飲めるなんて、身に余る光栄だな。ジントニックの美味い店にしようぜ」
 そう囁き返してから、一保さんが笑っている。あっという間に誰とでも親しくなってしまう彼の魅力が、いまは少し疎ましい。
「とりあえず、ファンの皆様にご挨拶がすんでからでしょ。じゃあね、ジャズ界の新星」
「ちょっと星野さん、それやめてくれる?!あ、星野さんのお友達、またあとでね~~」
 手を振った千早の前から強引に一保さんを連れて行く。名残惜しそうにしているのが腹立たしいし、腹立たしくおもっちゃう自分の狭量加減がたまらなく情けなかった。

「ちょっと風にあたろっか」
 店を出て、海辺の遊歩道を歩いた。秋の、すこし寂しさを帯びた風は、由記市の海辺とはまた少し違う潮の匂いがした。
「あの橋って横浜ベイブリッジかな。すげーキレイ」
 強い風に髪が乱れるのも気にしないで、一保さんが嬉しそうに海の向こうを指さす。ライトアップされた首都高が、街明かりの中でも一等ぴかぴかと目立っていた。
 どこからともなく、『All You Need is Love』のメロディと電子ピアノの音が聴こえてくる。前を歩いている彼は大股に歩きながら、そのメロディを鼻歌でなぞった。
「一保さん、All You Need is Loveってどういう意味ですか?」
 振り返った彼の眼は、暗闇で光る猫の眼みたいだった。冴えていて、神秘的で、挑むような色を浮かべたまま、彼はすうっと目を細めた。
「『愛こそすべて』みたいな意味……だよな!」
 おれの後ろに向かって、一保さんが声をかける。いつのまにか真後ろに立っていた男が、サングラスを外して、ななめ掛けしているキーボードをかき鳴らした。
「お待たせいたしました、ジントニックのお客さま~」
 肩にかけていた籠から、グラスをふたつ取り出して千早が笑った。
「うわ、作ってきてくれたの?」
「冷たいんだもんな~。一緒にのもうって言ったのにさ。まあいいよ、おれのことはBGM係だと思ってくれたら」
 ロンググラスを手渡された一保さんは、手品をみたような顔でぱちぱち瞬きしてから、「なにこれ、夢?」と言って笑った。
「おれは行きずりのストリートミュージシャンだから気にしないで」
 そう宣言してから、千早は海辺の階段に座り込み、キャロル・キングの『So Far Away』を弾き語りはじめた。魅力的な声が、小さなキーボードのやや安っぽい音を補って余りあるほどすてきに、ジャズっぽく、名曲をつむいでいく。
「ほら、乾杯して、おふたりさん」
 理由は知らないが、千早はおれと一保さんの関係を何か勘違いして――応援しようとしているらしい。
「なんだかよく分からないけど…最高に贅沢だな。乾杯」
「あはは、乾杯。千早のジントニック、美味しいですよ」
 ぐいっと煽って、一気に飲み干す。
 喉の動き、ぐいっと口元を拭うしぐさ。どこからみても大人の男で、興奮する要素なんて何もないのに。何気ない無邪気な振る舞いが、堂々とした迷いのない視線が、いちいち視線を奪っていく。磁石のSとNになったみたいに。
「ほんとだ。すげー美味い」
 飲み終わった一保さんは、長い溜息をついてからごちそうさま、とお礼を言い、座っている千早の側、置かれたままの籠の中へグラスを入れた。それから、千円札を数枚、かごの中へ潜り込ませ、「Moanin’やってよ」とリクエストした。
「いいけど、おれにジャズ演らせるならいい雰囲気になってキスぐらいしてよね」
 ぎょっとしたおれとは対照的に、一保さんは冷静な顔で肩をすくめる。
「おれと成一はまだ会ったばっかの友達だよ、そんなんじゃねえし」
 どこか硬い声でいわれて、なぜかおれは傷付いた。言葉のとおりなのに。
「ふーん?」
 千早が何か言いたげな顔でこちらを見る。おれは眉を寄せて、「お前、なんでこんなとこで油うってんの」と問いかけた。
「ずっとライブハウスで弾いてると、息がつまりそうになんの。だからこうやって、時々キーボード持ち出して好きな曲歌うんだ。おれは音楽が好きだし、音楽もおれのことが好きだけどね、誰かに好かれるためにやってるんじゃない。プロなのに甘いって言われるかもしれないけど、人のために弾くのは時々とても面倒になる」
 言い終わった途端に、千早は眼にもとまらない超絶技巧でキーボードを叩き、斬りかかってくるみたいな勢いでMoanin’を弾き始め、弾き終わり、圧倒された一保さんが拍手をするのにも構わず、ジャンル問わず好き勝手に歌った。遅い時間でもそれなりの人通りがあるから、千早の声と演奏はあっという間にひとだかりを作り、手拍子を生み、さながら野外ライブの様相となった。
「いきましょっか」
 一保さんの腕をつかんで、人混みの中から抜け出す。驚いた顔のまま、でも楽しそうに後ろをついてきた彼と、赤レンガの公園を走り抜け、街を横切り、息が上がるのも構わずに追い抜いたり追い越されたりした。いくら夜中と言えども、成人男性ふたりが街中を走っていると相当目立つ。
「ねえ、一保さんのおうちって、どこですかっ」
 毎日走り込んでいるから体力には自信があるけど、一保さんの足もなかなか強い。ペースを全く落とさないまま、一保さんは駅を通り過ぎ、住宅街の方へと入っていく。
「この先にある、公務員宿舎!来るならコーヒーぐらい、いれてやるぜ」
 息も乱さずに一保さんが言った。ふりむいた顔は、誰が見ても胸がときめく、100点満点の笑顔だった。
 本当のところ、おれはコーヒーが苦手だけど、絶対飲み切ってやろうと思った。美味しい、ありがとうって全力の笑顔でいってみせる。

 

 

 

 宿舎は質素な間取りとつくりをしていて、飾りっ気もなかった。
 玄関のシューズボックスの上には、旅が好きな友人からもらったという、不思議なお面や置物の数々が雑然と飾ってあって、統一感もオシャレ感も全くないのになぜか心が和んだ。良く分からない貝殻とか、手のひらサイズのシーサーとか、たぬきとか。これ買う人いるの?っていつも思うようなもの、大集合だ。多分誰にどう思われるとかどうみられるとか、このひとにとってどうでもいい事なんだろう。いつも人目や評価を気にして生きてきたおれには、その無頓着でラフなところが心底羨ましいし、かっこよく見えた。
「散らかってるけど、手は勝手に洗えよな。おれコーヒー淹れてくる」
 フローリングの1Kで、大体8畳ぐらいだろうか。ベランダに出るためのおおきな窓をふさぐように、セミダブルのベッドが置かれていて、その分手前には広めのスペースが確保されている。ローテーブルと、カリモク60のモケットグリーン(二人掛け)は幾何学模様をしたラグの上にあって、壁にはマリメッコのファブリックボードが飾ってある。
「北欧調なんだ……ちょっと意外です」
「あー部屋のもの全部妹と母ちゃんが選んでっから。おれは金出しただけ。ほんとはなんでもいいんだけどさー、恋人がいつ来てもいいような部屋にしろつってうるさくて。フランス人じゃあるめーしよー、宿舎だっつってんのに」
 カーテンやベッドのファブリックも、カラフルでとてもオシャレだ。玄関といい服装といい、身の周りのものに無頓着な様子だったから一瞬(やっぱり彼女がいるのでは)と疑ったけれど、違ったらしい。
「なんでフランス人が出てきたんですか、いま」
「あいつらとイタリア人は年がら年中恋愛のことばっか考えてるもん」
 キッチンに消えた一保さんの本当か嘘か分からない言葉に笑ってしまう。
「イメージは確かにそんな感じですけど」
 おおきめの声で、一保さんがキッチンから返事をした。
「アメリカに住んでた頃、通ってたパン屋があるんだけどさ。フランス人がやってた店で、とにかくハードパンが全部すっげーうまくて。毎朝そこでパン買って、食いながら学校行ってたんだけど、あいつらほんと勤勉の意識低いんだよ!やれデートだ、やれ記念日だって店休みやがって。おれの朝飯どうしてくれんだよ」
「そう考えると日本ってすごい国ですよね、電車も遅れないし……」
「そうだよ。時間の感覚でいえば意外とアメリカ人も近いもんだったけどな」
「ほんとうに?アメリカ人って、なんだかすべてにおいておおざっぱな印象だったけど」
「家族や恋人との約束の時間はきっちり守るぞ。ただし修理工は時間通りに来た試しがないし、アメリカの車はすぐ壊れる。やっぱ車と修理は日本だぜ」
 コーヒーのいい香りがする。ミルクを入れてほしい、と言いだそうかどうか迷っていると、5分もしないうちにテーブルに置かれたのは、できたてほやほやのカフェラテだった。
「あんま苦くないやつだから、飲めると思うぞ」
 そう言って、一保さんは隣に座らずに、ラグの上であぐらをかいて自分用のカップを両手で包み、ふうーと息をふきかけた。
「……おれ、言いましたっけ?ブラック飲めないって」
 冷ます息が一瞬とまった。彼はゆっくりと首をこちらに向けて言った。
「教えてやろう。おれは超能力者で、人の心が読めるのさ」
 得意気な声。冗談とは思えなくて、おれは身を乗り出し、まじまじと彼を見た。
「おい、笑うか突っ込むかどっちかしろよ」
 恥ずかしそうにそう言ってから、にっこり笑う。これだ、このひとの日本人離れしてるな、と思うところは。
 彼は、眼があうと誰にでも笑いかける。やあ、とか元気?とかそういう感じで、笑顔のバーゲンセールである。
「あなたは笑うとかわいいですよね」
「はァ!?っば……バカじゃねーの、男が可愛いとか全然嬉しくねえし!!むしろ年上に対して失礼だろいますぐ謝れ」
「ごめんなさーい」
「心こもってね~~~!!」
 乱暴な言葉とは真逆の笑顔でそういって、下からおれを見上げる。目の前のつむじと、つやつやした黒髪のくせっけ。
――髪を撫でたい。
 そしてそのまま、日焼けした、かたちのいい頬に触れたい。
 その感情が普通じゃないことに気付いてそっと溜息をつく。ソファから降りて、ラグの上に座りカフェラテを口にした。香りが良くて、とても美味しい。
「飲めそう?」
 視線を感じて顔を上げる。おいしいですよ、と言おうとして、声が喉につまった。
 こちらを見つめている一保さんの視線は、やっぱり誰かを探していた。切実で、一途な想いで、おれじゃないひとを、おれの中に見つけようとしていた。
 けれど居心地が悪くて苦しい理由は、きっとそれだけじゃない。
「……ないで」
「え?」
 おれの小さい声を聞き取ろうと、一保さんがおれを覗き込む。間近で彼と目が合ってしまい、やめようと思った言葉が思わず口をついて出た。
「誰かと重ねておれを見ないで」
 多分、確信を得たのは今だ。
 おれの言葉に、一保さんは眼を見開き、固まった。
 もし思い当たることがないなら、彼はきっとストレートに「何のことだよ?」と訪ねてきたに違いない。そうしたらおれも、妙な勘違いをしてしまったな、と安心することができたけれど、彼の反応は、おれの言葉が正しいことを示していた。
「もう遅いので、帰りますね」
 立ち上がって、お礼や挨拶もそこそこに部屋から出る。ドアが閉まる直前、玄関まで見送りに来た一保さんが一度だけ「成一」と名前を呼んだけれど、それだけだった。
 ケンカしたカップルみたいに、何度も振り返ったり立ち止まったりしながら駅に向かう。腕時計をみると、もう夜11時を過ぎていた。明日も仕事だというのに、たのしくてすっかり時間を忘れていたことに呆然とする。
 何やってるんだろう、おれは。
 一体彼に、どうしてほしかったというんだろう。あんなにやさしく招き入れてくれたのに、こんな態度を取ったら、もう自分から連絡することが出来なくなってしまう。
 でも、嫌だった。
 誰かを重ねて、期待されるのはつらい。だっておれは、おれ以外の誰かになることなんて、永遠にできないのだから。