2:One Night Stand

コーヒーのいい香りがする。
 わずかにきこえてくるのは、彼がたまに聴くジャスティン・ビーバーの曲で、たぶん「What Do You Mean」だと思う。
 微笑みそうになりながら体を起こす。寝室を出て声をかけると、彼はにこりと笑って返してくれた。
「おはよう」
 朝はおれよりも一保さんのほうが早い。もちろん前日の業務負担にもよるけれど、ここのところはずっとそうだ。彼はおれよりも遅く眠って(家でもパソコンで何か書類を作ったり難しい顔で本を眺めたりしている)、早く起きて出勤していた。
 彼の前に腰を下ろす。一保さんは読んでいた新聞をダイニングテーブルの上に置いて、コーヒーを淹れておれの前に置いてくれた。最近、やっとブラックで飲めるようになったことを、一保さんは「大人になったじゃん」とあのいたずらっこみたいな大好きな笑顔で褒めながら、頭を撫でてくれたのがほんの2か月ほど前のことだ。
 そう、六人部隊長と寝た日の夜、おれはブラックコーヒーが飲めるようになった。美味しい、とつぶやいたときの、一保さんのやさしい笑顔を思い出して胸が縮んだ。
――あの日のことは絶対に、知られてはいけない。
 

「成一、今日は非番?」
「うん。休日がかぶるの、久しぶりだねえ」
「日勤になっちまったからな。土日が休みって、慣れねえわ」
 彼はそう言って目を細め、俯いた。なんとなく胸騒ぎがして落ち着かなくて、おれは彼の後ろ、キッチンの上の棚を眺め、気づいてしまった。
「……あれ、グラインダーがない。どうしたの、故障しちゃった?」
 なくなっていたのは、彼がコーヒーを挽くために愛用している、業務用のグラインダーだった。イエローをベースにしたオシャレなkalitaのもので、まめにメンテナンスして大切に使っていたもの。
 一保さんは俯いたままコーヒーを飲み、「ああ、あれはもう使わないから売った」となんでもないことのように言った。
「あんなに気に入ってたのに、どうしたの」
 さらに問いかけても、彼は顔を上げなかった。
 1メートルかそこらの距離なのにひどく遠く感じる。妙な動悸をおさえようと、おれはそっと息を吸い込んだ。
 テーブルの上に投げ出されている一保さんの大きな手に触れようとすると、彼はさっと手を引っ込めてしまう。
「成一」
 硬い声に、口の中が渇いた。まさか、という思いと、やっぱり、という思いが交互にこみあげてきて、おれは黙って彼を見た。
「別れよう」
 理由も説明せずに結論から。彼らしくて、とっさの言葉が何も出てこない。なんで、なんて聞けなかった。理由はきっと、おれが一番知っている。
 そして多分、彼も知ったのだ。
 どうしてとかどうやってとか、そんなことはどうでもいい。そうじゃなければ、こんなことを言うはずがない。

「今日引っ越す。といっても別に一緒に住んでたわけじゃねえし、荷物は少しずつ持ち出したから、持ってくのは靴ぐらいだけどな。おれが持ち込んだ家具は全部お前にやるよ、何もいらない」
 まっすぐに見つめられて息が詰まった。きれいだ。こんなときなのに、彼の眼は冴え冴えとしていてすごくきれいだった。
「一保さん、ちょっと、まって」
 海の上にいたころよりも少し白くなった頬と、相変わらず跳ね散らかった短い髪と、まっすぐな眉の下にある猫のような目。大好きな顔が、冷たい表情で言い放つ。
「きっと何を言われても許せない。だから何も言うな」
 全部決めている声だった。おれは背筋が寒くなり、自分の心臓の音以外何も聞こえなくなるんじゃないかっていうぐらい、動揺した。
「嫌だ。別れない」
 自分でも驚くほど低い声が出たけど、一保さんは眉ひとつ動かさない。
「無理なんだ。気づかなかったフリはもうできない」
 語尾がわずかに震えて、それを恥じるように彼はうつむき、拳で顔を隠した。
「一保さん」
 何を言えばいいのか分からない。だって、おれが上司と寝たのは事実だ。別の男と、しかもこの家で寝たのだ。さしたる罪悪感も抱かずに、まるで挨拶のような軽さで。
 彼は立ち上がり、あらかじめ用意していたらしい荷物を持って玄関へと足早に歩いていく。おれは何も言えずに後ろを追いかけ、腕を掴んで背後から抱きしめた。
「ごめんなさい、許してくれなくていいから。別れるなんて言わないで。愛してるんだ」
 彼はおれの言葉に勢いよく振り返って胸倉を掴み、拳を振り上げた。おれは目を閉じ、歯を食いしばってその場に立ちすくむ。――どれだけ待っても、想像していた衝撃はやってこなかった。
 おそるおそる目を開くと、目の前には涙をいっぱいにためた一保さんがいた。唇を噛んでおれを睨みつけたまま拳を握りしめ、ぽろぽろと涙を落としていた。
「なんでだよ……」
 呻くような声だった。
 多分、おれは今、目を見開いたまま、ひどい顔をしているだろう。
 後悔と絶望と彼を愛しく思う気持ちで心が引き裂かれそうだった。自分が招いたことなのに。

「おれを、愛してるなら……なんで別の男と寝たんだよ」

 信じてたのに。お前のこと、心から愛してたのに。

 涙声でそう囁かれて、自分がしてしまったことが、どれほどひどいことだったのか思い知った。かつて好きだった人との別れの挨拶、そんな言い訳、誰にも通用しない。その証拠にいま、おれは一番大切な人を失おうとしている。
「一、保さん」
 無理に抱き寄せようとして、両手で拒まれた。そうだった。彼はおれよりも力が強いのだ。いままで受け入れてくれたのは、彼がそれを良しとしてくれたから。
「ありがとうなんて、言ってやらねえ。でも、大好きだった」
「嫌だ、やめてよ、お願いだから」
「大好きだったよ、成一」
 追いすがろうとした腕は空を切った。彼はおれを突き飛ばし、勢いよくドアを閉めて出て言ってしまう。追いかけなければ、と思うのに、足が震えて動かない。いうことをきかない。
 ドアポストが小さくカタン、という音を立てた。その音に我に返って立ち上がり、追いかけようとスニーカーを履いてからポストの中をのぞく。

 そこには錆びた合鍵と、彼に渡したプラチナリングが入っていた。