3 (和泉視点)

 七瀬先輩の傷ついた顏をみるのが好きだった。
 おれのことがまだ好きなんだな、ってわかって安心するから。  

 おれの性愛は間違いなく異性だ。男性に惹かれたことは今まで一度もない。
 けれど、女性に対して性欲を感じることと、恋をすることは別だった。恋という感情を辞書で引いた文字列に一番フィットするのは、同性の七瀬先輩に対して抱く感情がそうだったけど、性愛を感じたことはない。
 つまり、おれは七瀬先輩のことが恋愛感情として好きだが、セックスしたいとは思わない、ということだ。でも好きなので、彼を常に自分のそばに置いておきたいと思っていた。
 彼はときどきおれを追い詰められたような眼で見た。涼し気な目元に怒りともあきらめともつかない感情をみなぎらせて、おれをみつめた。  

 

 あれは確か大学のとき、沙也加と付き合いだして半年たったころだった。
彼女と別れようかな、と七瀬先輩に相談したことがあった。
「なんかちょっとしんどくなってきました」
 七瀬先輩は口数が少ない人なので、おれの愚痴とも相談ともつかない言葉を黙って聴いていた。視線で先を促され、「結構、激しいんですよ……」と彼の反応を伺う。
 とまどったような顔で「何が」と問われて、おれは笑みを浮かべた。
「彼女、すごく性欲が強くて。ついていけないんです」
「……キモイ。後輩のシモ事情なんかききたくねえよ」
 100パーセント体目当てで付き合っていたので、自己主張が強くて我儘な彼女の人格は全く愛していなかったけど、身体が最高だったので我慢していた。セックスって最高だ。黙っていても許されるし気持ちがいい。沙也加と話したいことなんてなにひとつなかったから、会うたびにセックス以外やることがなかった。それでも彼女は満足していた。おれ以外にも何人もそうして遊ぶ相手がいたみたいだったし、罪悪感はなかった。
「それで、どうすんの」
 リフティングをしている姿をみていると、あの日国立で見た、哀しみと悔しさを露わにしていた七瀬先輩を思いだした。決勝戦でぼろ負けしたチームのキャプテンで、MFだった七瀬先輩。おれはそこで初めて彼を見た。最後まであきらめることなく戦い続けていたのは彼だけだったのではないか、そう思ってしまうほど一方的な試合だった。
 天気がよくて、確かにフットサル日和だ。おれも隣でストレッチをしながら言った。
「どうしたらいいと思います?」
「知るか」
「冷たいなあ」
 彼は見事なボールコントロールで空中にサッカーボールを蹴り上げ、ボレーシュートでゴールを決めた。
「やらねえなら帰るけど」
 不機嫌になったのが分かって、おれは見えないようにほくそ笑んだ。かわいくて仕方ない。
「すみません、じゃ、やりましょうか」
 ピッチの上では、彼は人間じゃなくて、足の速いネコ科の動物みたいに美しかった。おれは動物が好きなのだ。人間はさほど好きじゃないけど。
「お前が誰と付き合おうが、おれには関係ない。その話をしてくんな」
 潔癖でまっすぐな言葉だった。そういうところに、たまらなく惹かれた。   

※※※

 

「お前と七瀬って何かあったの」
 職場の上司や先輩まで心配するような事態になって、おれははじめて焦った。
「怒らせちゃったみたいで」
 おれの言葉に、先輩は変な顔をした。
「あの七瀬が怒るって。お前、一体何したんだよ」
 曖昧な笑みを浮かべてうなだれると、それ以上彼はきいて来なくなった。ほっとして自分のデスクでPCを開く。
電話もメールもLINEも拒否されてしまった。今までに何度か険悪になったりケンカしたことがあったけど、さすがにここまでされたのは初めてだ。行き帰りの時間さえずらされて、もう二週間以上七瀬先輩の姿を見ていない。
「なんか、息がうまくできなくなりそう」
 独り言に、先輩が変な顔でこちらを振り返った。おれはなんでもない、というようにニコニコ笑ってからアウトルックを立ち上げた。
「七瀬ってさあ、顏悪くないのにずっと女いないじゃん。なんか怪しいよな」
 営業先との電話が終わってひと息ついたとき、突然隣で先輩がそんなことを言った。
「怪しい、ですかね。まあコンパとか誘ってもずっと黙って飯食ってますけど」
 おれの言葉に、先輩が首を傾げて溜息をついた。
「あいつホモじゃねえかって噂あるらしい」
 言葉をなくした。顏を取り繕う暇もなかった。
「そんな顏すんなよ。別に信じちゃいねえし。ただ、なんかあいつって壁があるじゃん。飲みに行ってもフットサルしてても、本音明かさねえってかさ。男がサッカーやる理由なんかモテしかねえはずなのに、そんな雰囲気微塵もねえもん」
 おれが黙っていると、先輩は肩をすくめてから立ち上がった。
「おいおい、『そんなわけないじゃないですかあ~』っていつもの軽い調子で返してくるの待ってんだけど。マジな顔されると焦るわ」
「……、そんなわけないじゃないですかー」
「おっそ」
 ふたりとも笑って、その場がおさまる。
「七瀬先輩はサッカー、ガチでやってましたからね。おれたちみたいなお遊び勢とは違うんじゃないですか」
「まあな。なにせ国立出てんだもんな。ガチもガチだわな」
 ついでに休憩がてらに飲み物を買いに行き、昨日のサッカー日本代表試合のことをもちかけると、話はさらさらと跡形もなく流れていった。  

 

 父親が突然中国人の愛人を作って家を出て行ったのが、大学2年の頃だった。養育費はたった1回しか支払われず、家のローンが払えなくなって、一等地にあった一戸建ては売りに出された。それまで何の不自由もない生活をしていたので、あのときはただ呆然とするばかりだった。
 会社を経営していた父と違って、母はスーパーでレジ打ちのパートをしたことぐらいしか就労経験がなかった。当然おれもアルバイトに明け暮れたけれど、ふたりの収入を合わせてもたちまち困窮し、一時期は生活保護に頼るほど切迫した。
引っ越したボロボロのアパートは大学から遠く、通うためには朝の4時前に起きなければいけない。夜遅くまでアルバイトをしていたから、当然寝坊が増えて単位が危うくなる。このままでは退学するしかない、とまで追い詰められたとき、七瀬先輩が突然「おれの家大学から近いし、通えないなら使えば?」と手を差し伸べてくれた。
「事情とかきかないんですか……」
「話したいならきくけど、困ってんだろ?目の下にクマできるほど。なら、それだけで理由になるだろ。使えるもんは使えよ。おれでも先輩でも」
 彼の下宿先も古いアパートではあったけれど、大学まで徒歩10分という好立地だったので、サークルのみんなのたまり場になっていた。当然おれもアルバイトに追われる前は入り浸っていたのだが、バイトに追われるうちにサークルにもまともに顔を出せなくなっていたので、この申し出は本当にありがたかった。
「ありがとうございます。いまはちょっと…自分でもこの状況が呑み込めていないので、落ち着いてから話、聞いてもらってもいいですか」
 先輩の狭いベッドの隅で目を閉じると、たちまち眠気がやってきた。母とふたりでアパートに引っ越してからというものの、不安で眠れなかったり、眠りの浅い日が続いていたというのに。
 となりで七瀬先輩が笑ったような気配があって、おれは「なんですか」とすねたような声を出した。
「いや、気を遣ったそぶりをみせた割に、すぐ眠そうにしてんのが面白かっただけ」
「意地悪」
「悪かったよ。寝ろ寝ろ。悩んだときは寝るか、肉を食うか、どっちかだ。あ、今度仕送り入ってきたら肉おごってやるよ、食べ放題だけどな」
「ええー……それ大学の近くにある『2929特急』のことでしょ?いやですよ、美味しくないですもん。ゴム底みたいな硬い赤身とかいらないです」
「ッカー、可愛くねえ~。これだからボンボン育ちは」
 腕が伸ばされてきて、叩かれるかと思ったけれど違った。その掌をおれの頭をぽんぽんと撫でてすぐに離れていった。
「落ち着くまで、好きなだけいていいぞ」
 嬉しくて、胸が苦しくなるほどだった。きっと七瀬先輩が女の子だったら抱きしめていたと思う。感情だけでいえば、おれは七瀬先輩だけが特別だった。ほかのどんな女の子にも感じたことのない、執念じみた想いを抱いていた。
 けれどそれは、『性愛』ではなかった。
 そのことがずっと、申し訳なく、苦しく――そして、嬉しかったのだ。
 おれは彼のように、マイナーな性的嗜好に苦しまなくて済む。彼と共に年を取って親友のように密接なままで、ごく当たり前に女と結婚して家庭を築く。(子どもはいらないけど)
 七瀬先輩の家にお世話になったのは、半年ほどの間だったと思う。その生活に終わりが訪れたのは、家を出た父が遠い港町で一人で死んでいたことと、それによって莫大な保険金が入ってきたことが原因だった。父は愛人に半年ほどで捨てられ、ひとりで寂しく暮らし、ひとりで死んだ。保険金の受取人が変更されていなかったことで、おれも母も貧困生活から抜け出すことができたのだ。心の底から、父が死んでくれてよかったと思う。
「昔のこと思いだしたの久しぶりだな」
 おれの上で沙也加が動いている。相変わらず元気だな、と他人事のように思った。絶対おれのことを「ちょうどいい肉棒」としか思っていない彼女は、だからこそ気が楽だった。彼女はおれが自分を愛していないことを知っていて、それが居心地がいいのだという。親切にするし、抱くし、会話は合わせる。でも愛されていない。今まで愛されることしかなく、それをわずらわしく感じてきた沙也加にとって、それはとても新鮮な関係だったらしい。
「集中して」
「まあ集中してもしなくても、やること変わんないしな、っと」
 おれは彼女をベッドに押し倒してうつぶせにし、後ろから犯した。やっぱり顔をみないほうが動物的にできて最高だ。単なるセックスに人格なんか関係ない。人格で抱くなら、とっくに七瀬先輩を抱いている。  

 

 沙也加がおれの家から出て言ったのは終電間近の23時過ぎだった。人が隣にいると上手く眠れない(七瀬先輩を除く)ので、沙也加にはどんなに遅くなっても家から出て行ってもらうようにしている。
ようやく静かになった部屋で、拒否されていることを忘れて七瀬先輩に電話をかけた。通話中を知らせるような電子音が鳴って、なるほど、着信拒否をされると何度かけてもこうなるわけか、と3度目の確認にうなづいてから、スニーカーに足を突っ込んで家を飛び出した。もうダメだった。七瀬先輩と一緒にいたいという強い欲求は、他の人間でごまかせるものじゃない。
夜の道路を走りながら、酒を飲んだことを後悔した。飲んでさえいなければ、バイクに乗ったしそうすればすぐに着いただろう。タクシーなんてほとんど通らない、つまらない街の中を走り抜けた。腰から下がだるくてとても眠かった。本当なら今すぐでも眠りたいはずなのに、七瀬先輩の声をきかないと眠れそうにない。
彼の家には何度も行った。彼の近くに住みたくて引っ越したぐらいだった。だから足は勝手に彼の家に向かったし、近くに連れて胸がつまるような切ないような気持ちが吹き出してきた。
白いタイル貼りの外壁が見えてきた。あれが七瀬先輩の住むワンルームマンションだ。いままで何度も、ビールやアイスを手にぶらさげてあの場所を訪れてきた。沙也加なんかよりも、いや、今まで付き合ったどんな人間よりもずっと、七瀬先輩との時間を大切にしてきたつもりだ。
オートロックなんて大層なものはないので、ロビーを抜けて彼の部屋へ階段を駆け上がった。家からずっと走ってきたので、さすがに息が切れた。廊下を走るわけにはいかなくて、なるべく音を立てずに歩いて彼の部屋の前に立つ。ドアがとても重く大きいものに見えた。いままで何度も、無遠慮に開けてきたドアなのに。
何度か深呼吸をしてから、ドアフォンを押そうとしたとき、ドアが内側から開いた。驚いたおれは、思わず廊下の端、物陰へと逃げてしまった。まだ心の準備ができていなかったのだ。
せんぱい、と声をかけようとしてやめたのは、中から出てきたのが七瀬先輩ではない、別の男だったからだ。フットサルの試合をしたときに見た男。おれよりもずっといい体をした、鋭い顔立ちの海上保安官だった。
彼は出て行く寸前、腕でドアを抑えたまま、七瀬先輩にキスをした。それをみた瞬間、全身から血の気が引いた気がした。周囲から音が消え、色が消え、自分の存在さえ消えてしまいそうだった。  

「どうしてだよ」  

もう隠れていることができなくて、おれはふたりの前に立った。彼らは驚いた顔で──それはまるで、そこにいてはいけない「 亡霊」をみたかのような顔で──おれを見た。  

「あんたが好きなのはおれじゃなかったのか、いや、そうだっただろう」  

七瀬先輩が恐れとおどろきを交えた黒い眼でおれを見つめた。
その涼しい目元が好きだった。おれをじっと見つめる時だけ温度を持つ、その眼がたまらなく好きだったんだ。  

「お願いだから、恋愛対象にできないというだけでおれを捨てないで」