4 (完結)

「とりあえず、中に入ったらどうだ」
 固まってしまったおれと和泉とは対照的に、瞬はすぐ落ち着きを取り戻してそう言った。確かにそうだ、こんな誰が聞いているか分からない(おまけに声がよく響く)マンションの廊下で、男三人で揉めるなんて。愚かの極みだ。
 黙って扉を開いて、視線で和泉に入るよう呼び掛ける。目元に怒りを滾らせた和泉は、おれと瞬を突き飛ばすようにして靴を脱ぎ、中に入った。
「瞬は……、」
 面倒ごとを嫌う男だと分かっていたので、帰るよう促そうとしたのに、瞬は少し面白がっているかのような顔で靴を脱いだ。おれはため息をつき、彼が着たばかりの上着を脱いだのを黙って受け取った。
「ずいぶん仲がいいんですね。おれのことが好きなくせに、陰でセフレとよろしくやっていたってわけですか」
 くっきりとした声で和泉がそう言い、立ったままのおれを睨んだ。瞬は座る場所がないと思ったのか、和泉が座っている真後ろにあるベッドに横になり、肘をついてスマートフォンを触りだした。頭痛がしてくる。どうして他人事なんだ……、いや、アンタにとっちゃ他人事だろうけど。
「いつから気付いてたんだ」
 お前のことが好きだってことを、とは言えずにぼかして問いかける。
 飲み物ぐらい入れてやればよかったのかもしれないが、そんなこと思いつきもしなかった。和泉の正面から少しずれた場所に向かい合って座り、あぐらをかいて俯くと、つむじのあたりに強い視線を感じた。
「ずいぶん前から知ってましたよ。おれだって……、七瀬先輩のことが特別だった」
 瞬がスマホを触っていた理由が分かった。どうやら音楽を流そうとしていたらしい。
 場の雰囲気とまったくそぐわない、Charaの「月と甘い涙」が部屋の中をいっぱいにして、なんなんだこれは、と頭を抱えたくなる。そもそも、Charaといかつい合田瞬がうまく結びつかない。おれだって年の離れたいとこが好きじゃなければ、聴くことはなかったような、女性にカリスマ的な人気を誇る甘い声をしたアーティストだ。
「そりゃあ、あなたを抱きたいとか、挿れたいとか、そういう欲望ではなかったですけど。おれの心の一番大事なところはいつも七瀬先輩のために開けておこうって思ってました。……あーー、なんなんですかもう!切って下さい音楽!」
 瞬が寝ころんだまま肩をすくめてふたたびスマホを弄り始める。音楽は何も悪くない。ただ場が悪い。
「一番大事なところ……ねえ」
 少し笑ってしまった。目の前で和泉が顏をゆがめる。
「何かおかしいですか?」
 いや、と言おうとしてやめた。やっぱりおかしかった。
 性欲を伴わない愛情になんの意味があるだろう。少なくとも、おれにとってはそんなもの不要だ。セックスはできないけど好きなので一緒にいてほしいなんて言葉、反吐が出そうなぐらい嫌いだって言われるよりもひどい。
「バチでも当たったのかなって」
「何のです」
「自分を偽ってお前のそばにいたバチだよ。もっと早く、離れればよかった」
 顏を上げる。目の前で和泉の顏に哀しみがにじんでいくのを、薄暗い喜びを感じながらかみしめるように眺めてしまった。
 今度はピアノの音が流れ始めた。何か、ジャズらしき音楽が部屋の中の重い空気を少し中和してくれる。美しい旋律だと思った。ジャズのことなんかなにひとつ分からないけれど。
「これは、ビル・エヴァンス・トリオの『Gloria’s Step』という曲だ。この曲はヴィレッジ・ヴァンガードという、ジャズクラブの殿堂で演奏されたもので、ビル・エヴァンスにとって特別な意味を持つ曲だった」
 学生のころ通っていた雑貨屋の名前がそのジャズクラブの殿堂からとられていたのだ、と瞬に説明されて、そんな場合じゃないのにおれは少し感心してしまった。よくそんな知識を知ってるな、と。
 突然はじまった謎の講義に、おれは呆れ、和泉は苛立ちを露わにらしくない舌打ちをした。
「どうしてあなたがまだいるんですか。セフレはヤったら帰るものでしょ」
 瞬が身体を起こしてベッドの上であぐらをかき、和泉を見た。無表情だと迫力のある顔立ちだが、和泉も引かずに睨み返す。
「普段ならそうするところだが。――まあ最後まで聴け。この曲がビル・エヴァンスにとって特別な意味を持っていたのは、何故だと思う?」
 いつ聴いても美しい演奏だ、とため息をついてから、瞬が言った。知るか、と和泉が叫んで殴りかかるのではないかと心配したが、それはなかった。
「この曲の録音の直後にピアニストが死んだ、とか」
 逃避だった。違うことを考えて気を紛らわせたかったのだ。
 おれの答えに、立ち上がっておれの隣に座った瞬が、耳元で「不正解。だが惜しい」と低くてとてもいい声で囁いたので、そんな場合じゃないのにムラムラしてしまった。
「どうでもいいから早く出ていけよ」
 荒っぽい言葉を使う和泉に目を丸くしたおれの隣で、瞬が笑った。
「ビル・エヴァンスじゃない。トリオの中のひとり、ベースのスコット・ラファロがこの録音の数日後に死んだ」
 突然あごを掴まれ、覆いかぶさるようにしてキスされた。髪をつかんで後ろに引かれたせいで、自然と口が開いてしまう。口の中を好きにされているうちに身体がうずきはじめ、和泉が見ているのに興奮してしまう自分に絶望した。おれが好きなのは和泉のはずなのに。どうしてこんなに身体は心を裏切るんだろう。
 湿った水音を立てて舌が抜かれ、正気を取り戻したときにはすでに、和泉が瞬を殴ろうとし、簡単に制圧されていた。
「ビル・エヴァンス・トリオのもっとも繊細で胸が苦しくなるような美しさは、その日を境に永遠に失われてしまった。つまり、彼らのトリオはスコットあってのものだったんだ。ビル・エヴァンスが天才だったことは疑いようもない事実だ。けれど、他の誰と組もうが、あの頃の輝きが戻ってくることはなかった」
 失って初めて気づく類のものが、人生には溢れている。
瞬は歌うように言ってから、馬乗りになっていた和泉の上から退いた。和泉は悔しそうに、ラグを拳で叩いた。
 腕一本で和泉を羽交い絞めにした瞬は、勝手におれの押し入れの中からプレイに使った手錠を持ち出した。足を払って尻もちをつかせてから、本棚についている引き戸の取っ手に、後ろ手に縛り付けた。
「なっ、外せよ!!」 
 バタバタと暴れる和泉の肩を蹴ってから両足首をネクタイで縛り付け、にやりと笑う。
「お前も失ってみればいい」
 瞬がおれの襟を掴んで無理やり立たせ、ベッドに放り投げた。あまりにも強い力だったので、抗う前にマットレスの上に転がされていて唖然とした。
「性欲を伴わない愛なんてものが、どれほど虚しくて意味がないか。目の前で失って思い知れ」
 この男がこれほどまでに感情をむき出しにするのをみたのは初めてだった。おれは驚き、目の前でデニムのファスナーをおろす瞬をみてからは青ざめた。
「おい……」
 いつみても見事な肉体で、セーターを脱ぐさますら絵になってしまう。
 命がけで削って磨いてきた、仕事のために使う道具のひとつ。おれのように趣味でスポーツをする程度の人間とは、迫力も仕上がりもまったく違う。つい見とれてしまっている間に、さっき着たばかりの服がぽいぽいと脱がされていく。
「やめろ、七瀬先輩に触るな!!」
 ガチャガチャと腕を振ってもびくともしない。当然だ、あの本棚にはびっしりと本やマンガが詰まっている。
 手も足も縛られている和泉は、立ち上がることもできないまま大声を出した。おれが飛び起きようとしたとき、瞬の足がおれの股間をぐっと踏みつけてきた。
「やめろ、悪ふざけが過ぎるだろ」
「大人しくしてないと痛い目に遭うのはお前だぞ」
 低い、頭の中を舐めるような声に、背筋がぞくりとした。自分よりも圧倒的に強い雄に力づくで蹂躙されることを想像すると、感情とは関係なく性的興奮が湧いてくる。
 あの大きな手で、乱暴にされたいと考えたことは一度や二度じゃなかった。瞬のセックスはいつも優しすぎた。上手かったけれど丁寧すぎて、もっと荒地に火を放つみたいに抱かれたい、と焦れてしまうことが多々あった。そしてその願望は、隠すまでもなく瞬に知られていた。だから――、
「わかったか?返事は」
 これはいつもの『合図』だった。ふつうの優しいセックスではなく、瞬が主でおれは奴隷。そういうプレイを始めるときの。
「――分かりました」
 瞬が立ち上がり、まだ何か、悲鳴のような声でわめいている和泉のそばにしゃがみこんだ。和泉は手負いの獣のように、普段の優し気な仮面を捨て去り、瞬の顏に唾を吐きかけた。
 ティッシュを取って顏を拭ってから、強烈な右ストレートが和泉の顏に炸裂した。頭がもげるのではないかと心配になるほどの威力だった。
 彼はタオルを手に取り、和泉の口に突っ込んだ。
「自分の立場が分かっていないらしいな。お前はこの部屋の壁になるんだよ」
 和泉の鼻から鼻血がしたたり落ち、口の中に詰め込まれたタオルを赤く染めていく。あのきれいな顔が、見るも無残な姿になっているというのに、おれはいままでで一番和泉のことを愛おしいと思った。
「実則」
 ベッドの上に座っていたおれの前で、瞬が下着から屹立したものを取り出して頬にこすりつけてきた。
「舐めろ」
 今日もおれの中に入っていたそれ。もはや見慣れた、凶悪なまでに大きくていやらしい形をした性器に、おれは恍惚とした表情で舌を這わせた。
「美味いか?」
 短い髪を掴まれて顏を上に向けられる。自ら喉奥に性器を迎え入れて強く吸ってから、おれは言った。
「はい。……もっと、おれを使って気持ち良くなってください」  

 ☆  

 壁に手を突いたまま後ろから犯されているので、和泉の顔を見ることができなかった。それが怖くもあり、また嬉しくもあった。もう何もかも終わりにできる。そう考えると、怖さよりもほっとするような、安心するような気持ちが強くあった。
 おれは疲れていた。和泉への想いを偽ることや、世間に嘘をつき続けること、なんでもないという顏をし続けることに。
「ッア、瞬、きもち、いいですっ……、瞬」
 中をかきわけては出ていく硬いものが、おれの頭の中をブヨブヨにふやかしていく。無口だとか、物静かだとか、そんなのはすべて嘘だ。髪をいつも短くしているのも、ことさらにスポーツを頑張っていたのも、ゲイだとバレたくない一心だった。ふつうの男でいたかった。女を好きになることができなくても、ふつうの男だと思われたかった。
「ひ、い、いきます、いかせてください、瞬、もうだめ」
 後ろから尻を激しく打たれて耳を噛まれた。
「淫乱の指示は受けない。お前はおれのおもちゃだろ?我慢もできない壊れたおもちゃなら捨ててしまうぞ」
 動きが止まったことに焦れて、おれは突き出した腰を瞬の腰へと押し当てて哀願した。
「ごめんなさい。我慢します、我慢しますから、もっと…」
 和泉のすすり泣く声が聞こえる。申し訳ないな、と思った。お前が好きだと言ってくれた優しい先輩は、無口で物静かで、サッカーが人より少しだけ上手い人間だったのかもしれない。でも、それはおれの表面にすぎない。いわば牛乳をあたためたときに浮かんでくる膜のようなものだ。その中にあるドロドロした白い液体こそが本当のおれだった。
「そろそろ顏が溶けてきただろ。見せてやれよ、そのだらしのない淫乱の顏を」
「あっ」
 引き抜かれ、ラグの上で四つん這いになるよう強いられる。目の前には泣いたせいで目を真っ赤にした和泉がいた。腕や足を動かし、その場から逃れようともがいていた。
 ノンケの男が男同士のセックスを見せられたどんな気持ちになるんだろう、と考え、トラウマになって二度とセックスできなくなればいいのに、と思った。おれのことを抱けないお前なんか、二度と誰も抱けなくなってしまえばいいのに。
「あ、あ、やめ、やめてくれ……、いきたくない、和泉の前でいきたくないっ」
 嘘だった。
 気持ち悪いだろ?和泉。男とセックスするおれなんて。心は好きだけど身体は欲しくないなんてクソみたいな寝言は捨てて、おれのことを嫌いになってほしい。嫌悪し、唾棄すべき存在だと言い捨てて、二度とおれの前に来ないでほしい。
 そうでなければ、おれは永遠にお前のことを諦められない。
「イけ。実則……、愛してるぞ」
 これも嘘だと知っていた。質の悪い嘘だ。けれど和泉が目を見開き、嫌悪を迸らせるのを見て瞬の意図を悟り嬉しくなった。おれにも、ひとりだけいる。心の底から心配してくれる友人が。
「あ、……おれも。おれも、好きです。好き…!」
 身体の中に温かいものが流れ込んできた。すぐそこにある和泉の顏をみながら、おれは達した。犬のような体位で顏まで精液を飛ばして。
「んうう…」
 涙が落ちた。和泉の涙だ。鼻血の痕とまざりあって、薄い赤色をしていた。
 必死で動かされていた和泉の腕が、こちらに伸ばされようとしていることに気づいたのは、達した後だった。  

☆  

 

 相変わらず刺すような日差しが、見る分には美しい海のエメラルドグリーンをきらきらと輝かせている。気温なんて知りたくもない。野良猫たちは車の下や木陰でぐったりと液化して伸びているし、白々とした明かりの中を歩いている地元の人間なんてひとりもいない。けれど海辺は賑やかだ。明日になったら後悔しそうな、布面積の少ない水着で女性たちははしゃぎ、連れの男どもも浮かれている。
「今日も観光客多いね。稼ぎ時だ」
 雇用主の玄さんが、嬉しそうな、呆れたような声でそう言ってからサングラスを上げてこちらを見た。おれは黙って肩をすくめる。
 現地の人間は昼間海に入ったりしないので、楽しそうに泳いでいる人間はすべて観光客なのだとひとめでわかる。
「いらっしゃいませ」
 このレンタルショップは瞬の紹介で就職させてもらった。とはいえアルバイトだから、下宿先がないと生活は立ち行かない。繁忙期は民宿のアルバイトとこのショップを掛け持ちし、老人センターでじいさんたちの将棋相手をしながら、朝はまだ暗いうちから波に乗って、そのまま仕事に行った。この店では夏のうちにダイビング装備一式のレンタルや、サーフボードのレンタル、シュノーケルセットのレンタルや海の家の稼ぎで1年もつほどの繁盛店だ。だからそれなりに時給もいい。――あくまでこの島基準では、だが。
「瞬のやつ、今年も帰ってこないつもりかね」
 合田瞬という男の過去を知ったのは、玄さんが祭りのあとでしこたまラムを飲んで酔っ払って口を滑らせたひと月前のことだった。ひそかに思い合っていた幼馴染は同性愛を嫌悪した家族に一家心中に巻き込まれて死んだこと、瞬はそれを知らずに待ち合わせていた駅で待ち続けていたこと、瞬の家族は一家離散状態となって今や島にひとりもいないということ。
 それから恋をしないと決めてしまったことまで、なぜか玄さんは知っていた。どうしてなのかはしらない。
「人を送りこんどいて、どういうつもりでしょうね」
「まあお前さんハンサムだから、わしとしては女の子たくさん来てくれて助かってるけど」
 苦笑した。おれは決して目立つ美形じゃないという自覚があった。醜い顏はしていないかもしれないが、地味だ。髪は黒、眼も黒、身長だってそこそこ。
 和泉は、と思いだしそうになったところで首を振って、浜辺の向こう、白く光っている海へ視線を移した。熱風が顏を撫でて通り過ぎていく。海風なんてやさしいものじゃない。熱風だ。この時間、海だって浅瀬は温泉みたいに熱い。
「脱サラして、レンタルショップでアルバイトとは冴えないねえ。……辞めたくなったらいつでもいえよ、手当弾んでさ、都会に送り返してやるから」
 心配してくれているのはありがたいが、脱サラなんて言葉、今時死語だ。おれは笑いそうになるのを必死でこらえて水を呷った。
「まあ、もうしばらく自由にしてから考えます」
 玄さんが扇子をパタパタさせながら店を出ていく。何か音楽を流そう、と考えてiPhoneを触っていると、目の前に影ができた。
「いらっしゃいませ」
 顏を上げる前に、スマートフォンが取り上げられた。サングラスをしている男は背が高くて、薄い唇を微笑みの形に変えてからゆっくりとした声で言った。
「Charaは流さないでほしいな、トラウマだから」
 サングラスを取ってレジの前に置いた男は、大きいスーツケースを持っていた。顏を見るのが怖くて、視線がなかなか上げられない。
 なにか声を出す前に、その男の指が画面に触れてしまった。流れはじめる甘い声と明るいメロディ。パパ、新しいママ、Duca、Duca……  

「……こんな遠くまで、お日様を浴びにきたのか?和泉」    

 

 おれの言葉に、和泉は顏をくしゃりとさせて――よろこびを哀しみで割ったような顔で、笑った。       

 

(おわり)