せめてもの救いは勝ったことだ。
 おれは3ゴール2アシストで、海保のエリート相手に1点差ではあったが勝利できた。
 打ち上げ会場は横浜にあるビアガーデンだ。個室の予約ができて、部屋に一台ビールサーバを置いてくれるので、会社の飲み会でもたまに使っている。

 和泉の近くに座りたくなかったので、おれは下座の一番端の席に座り、隣にシュンが腰掛けた。おれの前には先輩と、目を疑うぐらいのイケメンが座った。一目見てすぐに、シュンが気に入って可愛がっている『部下』だと分かる。これなら無理もない。テレビに出てくる俳優だって、ここまで整った顔はなかなか見かけない。
「すごかったですね、七瀬さん。もしかしてプロでやってたんすか」
 イケメンが目を見開きながらおれに話しかけてくる。猫みたいな目と高い鼻は一見すると近寄りがたいのだが、愛想がよくて表情がコロコロ変わるので、いつの間にか心を許してしまう。すごい能力だ。おれに一番欠けている『愛嬌』ってやつがとてもうらやましい。
「まさか。でも歩いてすぐからサッカーボール触ってたらしいです」
「へえ~すげえ。おれらで言うところの海みたいなもんですね、ゴウダ隊長」
 ビールを呷っているシュンは、横目でちらりとおれを見た。安心させるために、おれは軽く笑った。そんな心配しなくても、暴露したりしない。リスクはおれだって同じことだよ、ゴウダ隊長。(合田、って書くのかな?相変わらずおれは名前に興味がなかった)
「実はおれ、実家のすぐ裏が海なんだ。合田隊長もそうだったんですよね」
「むしろ、海しかなかったな。だからいまの仕事は必然だと思う」
 はじめてシュンの個人的な話を聴いた気がする。海しかなかったから泳いでいた。泳いでいたら仕事にしたくなった。潔く、気持ちのいい職業選択だ。おれとは違うな、と思い少し苦い気持ちになった。やりたかったことなんて、いまの仕事に1mmだって関係ない。
 離れた席で、和泉がこちらを見ている気配がする。多分、あのときみたいな真っ直ぐな目をしているんだろう。
 和泉に見られるとダメだった。昔からそうだ。先輩の仮面をかぶっていられなくなる。
 必死で意識を逸らしながら、先輩に「おれらの仕事って、かつての夢と全く関係ないっすよね」と苦笑しながら声をかける。先輩はビールで赤くなった顔をゆがめて、「まあな。研究者なら違ったかもしんねえけど、営業だし」と言った。そう、うちの会社は技術力だけは超一流なのだ、商品開発の研究者は優秀だから。
「七瀬さんって、歳いくつです?」
「28」
「年下じゃん。あ、おれ村山一保っていうんだ」
「敬語いらないですよ。合田さんはいくつすか」
「35になった」
「うわ、見えねえ」
 おれの言葉に、村山さんが笑った。シュンは相変わらず淡々とした無表情だ。
 ビールを呷るシュンの手を見ていると欲情しそうになる。やっぱりいい身体だ。筋張った大きな手とセーターの上からでも分かる隆起した胸筋。石膏像にして家に飾りたいぐらいだ。
「もしかして、お前が好きなのはあいつか。ずっとこっちを見てる」
 不意に耳元でそう囁かれて、首筋から熱が上ってきた。酒を飲んでいて良かった、あからさまに顔が赤くなったのが自分でも分かる。
「そうです」
「あ、ヒソヒソ話すんなよなー感じ悪ィじゃん」
 村山さんがそう言っておれを指さす。本当に子どもみたいな人だ、となんだか可笑しくなる。年上の人相手に失礼だけど。
「エド・シーラン」
 BGMが変わったときにおれが呟くと、村山さんが眉を上げて「好きなのか?」と尋ねてきた。
「洋楽全般、浅く広く好きっすね」
「マジか。おれも」
「歌詞がよく分かんないから、それがいい」
 おれがそう言うと、なんだよそれ、と村山さんが突っ込んでくる。
 あけすけな全開の笑顔に胸がちくりと痛んだ。最後にこんな風に笑ったのはいつだっけ、と思いだそうとしてやめた。きっと驚くほど前だ。元から、感情を表に出すほうじゃなかったけれど、和泉への気持ちを自覚してからは特に顕著になった。
 気持ちを隠そうとすればするほど、表に出せなくなっていく。そしてそれが、普通になっていくのだ。
 シュンのジョッキが空になったので、先輩のものと合わせて、部屋の隅にあるビールサーバに入れに席を立った。ボタンひとつ押すだけで、グラスが傾いて泡まできれいな比率で入るので、おれは腕を組んでその様子をぼんやりと眺めた。酒は飲むけど、そんなに強いわけじゃない。シュンや村山さん、それに他の海保のメンバーはさすがというべきか、顔色も変えずにひたすら酒を呷っているけれど。
「七瀬先輩、大丈夫ですか?」
 溜息が漏れそうになったけど堪えた。和泉の柔らかい声は、おれのカミングアウト前と全く変わらず気遣わしげな様子だった。
「お酒、あんまり得意じゃないでしょう?結構飲んでるみたいだけど…」
 返事をしようと口を開いたところで、後ろからシュンがやってきて、ジョッキを奪って持って行った。和泉がシュンの背中をじっと眺めた後で、小声で「知ってる人なんですか?」と尋ねてくる。
 その一言は、おれの神経を刺激した。完全に思い込みだと分かっていたけど。
「なんだよ。男ならだれとでも寝ると思ってんのか?」
 自分でもはっとするほど冷たい声が出て、慌てて拳で口元をおさえた。本当に、どうかしている。
「そんなこと思ってません」
 静かな声だったが、怒りが滲んでいた。正当な怒りだと思ったので、おれは黙って俯いた。そのまま席に戻ることもせず、個室から飛び出した。逃げ場所なんてトイレぐらいしかなかったから、洗面所で顔を洗って、しばらくの間ぼんやりしていた。
 鏡の中の自分と目が合う。暗い顔だった。いつも通りだ。もう何年も、あの村山さんのように大声で笑うようなことがない。子どもの頃からあまり話す性格じゃなかった、と両親が言っていたが、あのことがきっかけなのは間違いない。あれ以前は、もう少し自分の気持ちを言葉にしていた。
 デニムのポケットからハンカチを取り出そうとして、持ってきていないことに気付いて舌打ちしたとき、トイレのドアが開いてシュンが入ってきた。
「使うか?」
「ごめんありがとう、ゴウダ隊長」
「やめろ」
 顔をしかめてからおれの隣に立つ。用を足す様子がないのを不思議に思って覗き込むと、「なかなか戻ってこないから様子を見に来た」とシュンは言った。
「村山さんって可愛いな。タチの帝王がメロメロになるのも分かるわ」
「よせ。あいつはそんなんじゃない。可愛がってはいるが、職場の人間とどうこうするつもりはない」
 平坦な声だった。なるほど、と相槌を打って顔の水を拭い、畳んで返そうとしたが、やるよ、と言われたのでありがたくポケットの中に仕舞った。
「ゴウダってどんな字書くんだ?」
「合宿の合に田んぼの田。シュンは瞬間の瞬」
「合田瞬!ヒーローみたいな名前。ウケる」
 お前の名前は、と尋ねられて、鏡から瞬に視線を移す。思っていたよりも真剣な顔をしていた。
「漢数字の七に尾瀬の瀬で七瀬、実力の実に規則の則で実則」
「七瀬実則(ななせみのり)」
 低い良い声で名前を呼ばれて、背筋がゾクっとした。
「抜け出すか?」
 腰を抱かれて耳に声を落とされる。同じタイミングで欲情するなんて、とことん相性のいいセフレだ。だがおれの理性は死んでいなかった。会社の人間がいる場所からふたりで抜け出すところをみられるのはまずい。和泉に余計なことを言わなければよかった、と舌打ちしたい気分だった。
「いや、今日は……」
 断るより先に、トイレに人が入ってきた。ドアが開く音と同時に瞬は素早く身体を離し、おれは顏を洗っているフリをした。
「七瀬先輩、気分が悪いんですか?」
 入ってきたのは和泉だった。最悪だ。
 瞬はおれをちらりと見てから無言でトイレから出て言った。薄情だが、賢明な判断だ。
 ハンカチをポケットから取り出して無言のまま顏を拭っていると、和泉に腕を掴んで無理やり振り向かされた。
 怒鳴ろうとしてやめたのは、和泉が泣き出す寸前のような顔をしていたからだ。
「……お願いですから、理由を教えてください。おれが何か悪いことをしたのなら謝ります。何でもしますから、今までと同じようにしてください」
 目の前が暗くなった。『今までと同じように』し続けることが限界を迎えたから距離を置いているのに。残酷な和泉は元に戻せと迫ってくる。
「今までと同じってなんだよ」
 声がかすれる。感情を抑えて話そうとすると、どうしても声が低くなった。
「友人でいろってことか?なら無理だ」
 腕を振り払って和泉を突き飛ばす。和泉のほうが身体が大きいので、おれ程度の力ではびくともしなかったが。
「おれは、お前を友人だと思ったことは一度もない」
 和泉の目に深く傷ついた色が浮かんで、胸を刺すような後悔と一緒に、暗い喜びがひたひたと溢れてきた。苦しいか?おれはもっと苦しかった。お前がおれ以外を愛しげにみつめるたびに。彼女の話をするたびに。お前がおれとの約束と彼女との約束を天秤にかけ、あちらを選んだのだと分かるたびに。
 友人ならばその程度、「しかたねえなあ」の一言で許せただろう。だが和泉はおれにとって友人じゃなかった。
「七瀬先輩……、」
 言葉が出てこないらしい和泉。可哀そうな和泉、おれなんかのために、しばらく落ち込んで暮らすのか。いや、このぐらいの傷、お前なら一週間も寝れば忘れるだろう?
「そういうわけだから、仕事以外でもう二度と話しかけてくるな」
 店を出ると雨が降っていた。秋の雨は冷たく、容赦がない。走って駅に向かう途中、国立の決勝で負けた相手チームのキャプテン(つまりプレミアリーグだ)に言われた言葉を思いだした。

「好きなものに好かれるとは限らないんだな」

 この場合はサッカーだった。殴りかかってやろうかと思うほど腹が立ったし、3日は家で泣いた。
 でもそのとおりだった。おれがどれほど毎日血のにじむような努力をしようが、心血を注ごうが、そんなものは相手方に何の関係もないのだ。