2 (一保)

 最後の「やり直し」を、後悔したことはない。
 おれのモットーは、『Life is what you make it(人生は自分で創りだすもの)』だから。進むのも戻るのもその結果も、全部受け入れる。選択に間違いがあって目の前に壁が立ちはだかったとしても、突破しようと出来る限りあがいてみる。そうすれば、もうどうしようもないと思ったときも、わずかな光が見えてきたから。
 会いたいヤツには、自分で会いに行く。それが難しいなら、会える状況を作り出してやる。覚えていないなら、知ってもらう。声をかけて、友達になって、それから――

「どこかでお会いしましたか?」

 だよな。分かってた、大丈夫だ。
 覚悟していたはずなのに、おれの心はボキッて音がしそうなぐらい折れてしまった。会いに行くって約束したのに。何度でも、好きだって伝えるって言ったし、あの気持ちに嘘はなかったのに。
 自分は覚えているのに、相手は忘れている。これは、お互い忘れてしまうよりもはるかにつらい。物語なんかで見かけることがあったけれど、舐めていた。もう一回仲良くなればいーじゃん、と軽く考えていた。そんな生易しいものじゃない。控えめに言って、子どもみたいに泣きわめきたくなった。
 また会えた喜びから急転直下の状況に、その場から逃げ出してしまったおれ。情けない。もし今おれが映画の主人公だったとしたら、観客はみんな溜息をつき、がっかりして、席を立ってしまったかもしれない。本当に申し訳ない。日本はただでさえ映画のチケットが高いというのに、こんなヘタレたクソなストーリーを見せてしまって…。
 そんなときに、腕は掴まれた。とても強く。

「あなたの名前と連絡先、教えてください」

 これが奇跡か。それともこの上ない幸運か。
 世界人口が何十億人かしらないけど、その中から再び会って、声をかけられる確率。これを奇跡と呼ばずになんと呼ぶんだろう。幸運だとしたら、きっと一生分使い切った。
 それぐらい驚いて、声が出てこないおれに、成一が焦れたように言った。
「おれは成一です。星野成一。28歳で仕事は由記市の救助隊員で、救急救命士で、B型で、特技はダンスと料理!…です……」
 早口で言い切ろうとして、最後自信なさ気に声が小さくなったのは、おれの反応が気になったからだろう。心配そうに眉毛を下げているこの顔、柔らかい声。
 変わっていない。
 嬉しくなって、おれは笑ってしまった。顔をそらしてひとしきり笑ってから、背の高い成一を見上げて言った。
「村山一保。29、おれのほうがひとつ年上だな。仕事は……」
 そこまで言って、以前成一が「あけすけで天真爛漫な笑顔」と言ってくれた、思い切り口を横に広げる笑顔で、元来た方向を指さす。
「これ以上話すなら、どっか飲みに行かない?立ち話もなんだし」
 肩をすくめると、成一が目を丸くしてから、笑った。
「賛成です」
 海から風が吹いてきて、背中を押されたような気がする。
 さっきまでアウェイ感しかなかった横浜の街が、きらびやかで眩しくて素敵に見えてくるんだから、恋愛って不思議だ。放っておくとスキップしそうになる足を説得して、余裕ぶって歩く。なんていうか、音楽でも流してほしい気持ち。盛り上がるビッグバンドジャズなんかをBGMにして、手を繋いで走っちゃおうかなー!ってぐらいの気持ち。
 ふたりで並んで、街中へと歩く。何飲みます?とおっとりとした口調で尋ねてくる成一に、「そうだな~ビール以外!」と答えて。
 HUBがあったから、ここにしようと言ってすぐ店に入った。お互いにジントニックの大きいサイズを頼んで、勢いよく乾杯した。
 好きな音楽の話や仕事の話、家族の話、その日の飲みは盛り上がった。「やっぱりあなたのこと、知ってる気がします」と言ってよろこんでいたお前。そうだろうとも。今日話した会話の大半は、したことがある内容だから。覚えているわけがないんだけど、これが「奇跡」だっていうなら納得できる。
 ……ところが、あとになってみればこれがピークだったのだ。喜びの。
 時間は、平等にそして残酷に、ふたりの間に流れていた。
 はっきり気付いたのは、連絡先を交換して3日後のことだった。

「冴えねえ顔。なんだよ、電話ばっかみて」
 もちろん勤務時間中に携帯を見たりしない(基本は)。おれが携帯を眺めていたのは、今が休憩時間だからで、連絡先を交換したばかりの気になる男がいるからで、そして――
「連絡がこねえんだろ。ほーらみろ、そうなると思ったぜ」
 デスクにぐったりと頭をのせている俺の上から、千葉が誇らしげな声で水を差してくる。腹が立ったので、机の引きだしからクリップを取り出して渾身の力で頭めがけて投げつけてやった。いってえ!という悲鳴と、合田隊長の渋い「こら、事務用品を粗末にするな」という注意の声。隣で、里崎が笑っていた。何が面白いんだよてめえは…と腹が立ったので、一度しめた引き出しをもう一度あけて、さっきよりは小さい目玉クリップを取出し、千葉よりはやさしめに里崎にも投げつける。イタイっ、というベタな悲鳴が聞こえてきて溜飲を下げる。よっしゃ、命中。
「村山先輩になびかない女いるんすね。合コンじゃいつも1番人気なのに」
 不思議そうに首を傾げる里崎。おれは大きい溜息をついて肘をつき、その上に頭をのせた。コンパは基本断っているんだけど、どうしても、人数合わせで、と頼みこまれたときだけ参加している。
「わかってねーなー。女性って勘がいいからさ、自分に興味なさそうな男には寄ってこねえんだよ。したがっておれはモテてない。安全だから、お前らに迫られないように盾にされてるだけ」
 おれの率直な物言いに、合田隊長が吹き出した。こいつらには一度はっきり言ってやったほうがいいんだよ、ぎらついた目で言いよっても相手にはバレてるってな。
「キッツイな相変わらず!!」
 千葉が呆れ声で言って、里崎はわざとらしく唇を前に突き出した。かわいくねえよ。
「その気になればすぐ彼女できそうなのに。前に彼女いたのっていつです?」
 話が長くなると思ったのか、千葉が椅子をもってきて、おれと里崎の間に割って入ってきた。書類を読んでいる合田隊長も耳をすましているような気配があるが、この際なので、はっきり言ってやった。
「いねーよ。おれ付き合った事ねーもん」
 今は。つまり、このやり直した世界では。
 さらりと暴露したおれの前で、千葉と里崎の時間が止まった。言葉のとおり、笑った顔のまま硬直してから、勢いよく叫んだ。
「え、ええええ!?!……てことは……ど、ど、童貞なんですか?!その顔で!!?」
「そうなるな」
 セックスをした記憶なら、脳に残っている。
 けれど、身体は過去に戻っているから、誰にも触られていないし、触っていない。童貞かと問われればそうなる。ついでにいうと処女でもあるが、これは言わなかった。誰も聴きたくないだろうし。うん?前も誰かに挿入したことはないから、非処女童貞になるのだろうか。まあどうでもいい、そんなことは。
 千葉が飲んでいたコーヒーを吹き出し、合田隊長がガタンと音をたてて立ち上がった。一応、周囲に人がいないことは確認済だ。いまは当直の最中で、おれたちの隊以外この基地にいない。本来仮眠にあてるべきこの時間(真夜中の1時)に全員起きてるのは、さっき出動から帰ってきたばかりだから。そして、海が荒れていて今ねてもすぐ叩き起こされると分かっているから。
「一保、お、おまえ、マジで誰とも付き合ったことねーの…?」
 血走った目で、千葉が叫んだ。肩をつかむなよ、近いんだよ。
「はあ。今回は」
「今回?」
「いや、こっちのはなし。ねーな」
 至近距離で男ふたりからまじまじと顔を眺められて、「マジかよ…」「29歳童貞」「大丈夫なのか」「一体なんでまた」と最後は悲壮ささえ漂う顔で問い詰められる。
「なんでって言われてもなあ…そんな、しないといけねえもん?付き合ったりヤったりって」
「いけないっていうか……焦りません?とりあえず手近なところで童貞捨てとこ、ってならなかったんですか?」
 里崎の質問に、千葉が片眉をあげて「おいおい、いつもおれを最低って言ってるお前も、なかなかのもんじゃねーか」と揶揄する。たしかに。
「クソだクソだと思ってたけど、やっぱお前ってゲスの極みだな、里崎。……ん~~~、おれ好きな奴がいて、でもそいつとは付き合えなくて片思いだったから、そのままずるずるときた感じ、かな」
「ええーーー!信じられな……信じられないっすねーーー!!」
 大声で叫ぶ里崎。いや別に性欲がないわけじゃない。状況として付き合えなかったんだから仕方ないじゃないか。
「だってそういうのって好きな人としたいじゃん」
「なにそれ可愛い。村山先輩って結構ロマンチストだったんすね~」
 茶化してきた里崎の額を定規でピシリと叩いてやった。痛みで悶絶しているが、先輩をからかうとはそういうことだ。痛みを知れ。
「ムラムラしたときどうすんの」
 千葉の質問だ。
「自分でする」
 当たり前の返事を返すと、千葉は眉をよせて俯いた。
「マジかよ…いまおれムラムラしたわ、なんとかしてくんない?」
「蹴っ飛ばすぞ」
 こういったやり取りはいつものことなので、里崎は気味悪がったりせずにゲラゲラ笑っていた。おい、冗談だと思ってるだろ……半分本気なんだぞ、これ。止めろよ。
 千葉が腰に腕を回してこようとしたところで、合田隊長が襟首をつかんで投げ捨ててくれた。さすが隊長、おれのヒーロー。
「隊長、たいへんです。村山さんが童貞だということが判明しました、コンパしなきゃ」
 合田隊長がこちらをちらっとみて、手を叩いた。
「くだらないこと言ってないで、少し休め。また出動が入ったとき、つらいのはお前らだぞ」
 ナイス。隊長、さすがです。
 おらおら、寝ろよ、とはやしたててうるさいやつらを仮眠室へと追い立てる。まだからかおうとする後輩には「はいはい童貞童貞」と開き直り、お前の童貞はどうにもならないけど処女ならもらってやるぜ、と囁きかけてくる同期のケツを蹴っ飛ばし、無理やり寝かしつけた。おれはお前らの母ちゃんじゃねえんだよ、さっさと寝ろ。
 デスクに戻って携帯をもう一回指紋認証。はい、着信もメールもなし、ありがとうございました画面叩き割ってやろうかな…。
 合田隊長がニヤニヤしながらコーヒーを持ってきてくれた。この人には、おれがゲイである旨は伝えてあって、合田隊長も同じだ、と打ち明けてくれた。お互いにオープンにはしない約束だけど、恋愛の悩みを相談するのはもっぱらお互いである。この人ほど、悩みや秘密を守ってくれるひとはいないだろう。そういう意味では、誰よりも信頼している。 一番信頼しているやつには、まだ何も言えないから。友達になるだけで精いっぱいだ。それだって、なかなか――
「来ないのか、連絡が」
「そうですね」
「自分からすればいい」
「しましたよ。『飲みに行こうぜ』」
「返事が来ない?」
「既読スルーってやつです」
 そうなのだ。既読はすぐについたのに、返事がない。くそ、いまのメッセージアプリは読んだかどうかまで分かるのが嫌だ。何時何分に読んでいるか、はっきり分かっちまうのが最悪だ。
 もしかして、一緒に飲んだのが楽しくなかったんだろうか。違うなら、どうして返事くれないんだよ、と考え込んでしまうし、そういう自分が嫌になる。
「さっきのは、言わなくてよかったんじゃないか?」
 向かいの席で、合田隊長が苦笑している。少し考えてから、さっきの「童貞宣言」のことを言われているのだと気づいて、肩をすくめた。
「嘘つくの嫌だったんで。架空の彼女の話作って話すほど、空しいことはないでしょ?」
「それはまあ、そうだな」
 おまえのそういう潔い部分は、尊敬に値するな、と合田隊長が言ってくれて、この人の口から(たとえ童貞宣言のことであっても)尊敬なんて言葉が投げられると嬉しくて舞い上がってしまう。顔よし頭よし仕事抜群、身体にいたってはアスリート並の合田隊長は、おれの憧れの人だ。
「そういうとき、違うことに没頭していれば、忘れた頃に好転したりするぞ」
「つまり仕事に没頭しろってことですね?」
「村山は物分りがいい」
 言われなくても、仕事は大大大好きだ。ワーカホリック一保と呼んでくれ。
 眠くない頭を眠らせるべく、おれもおとなしく仮眠室に向かった。歯を磨いてから、ごろりと横になる。
 このまま、どうか海難が発生せずに終わりますように、と祈りながら。

 

 

 

 

 

 

 発生せずに終わるわけがなかった。
 極限まで体力を搾り取られたころに、今日の当直勤務が終わった。釣り人の海難、船同士の衝突、タンカーの沈没。日本中のあちこちにヘリやジェットで乗り付けて海に飛び込み、救助、救助の1日だった。
 大体、ヘリとジェットがあるからって守備範囲日本列島全域(2200キロ)は広すぎるだろ。いや、いいんだけど。本当に遣り甲斐のある仕事だけど。
 30を目前にして、今後のキャリアについて考えることが多くなった。肉体的に極限の状態を求められる特殊救難隊は、ほとんどが3、4年で除隊になり、各地方にある機動救難隊(キッキューなどと呼ばれる)に班長として散っていく。
 おれたち保大出身者は最速で30歳で係長級に昇任する。それを機に、体力的に限界を迎えて、船を降りる者も少なくない。
 実はおれも、語学力を買われて本庁の国際担当から声が掛かっている。まだ、誰にもそれを明かしたことはないし、今のところ応じるかどうか決めていないけれど。 
「お疲れ様でーす……」
 基地を出た頃には、酷使されまくった雑巾みたいにボロボロになっていた。シャワーは浴びたけれど、潮風と海水にやられた髪はパサパサだし、日焼けした鼻がジンジン痛んだし、携帯電話は相変わらず鳴らない。踏んだり蹴ったり。
 ひとまず明日は休みだから、気力と体力を振り絞って宿舎に向かう。
 きのうの大時化が嘘のように、今日はすっきりとした秋晴れだ。
 基地を出て、最寄駅から横浜の宿舎に向かう途中で、もう携帯電話のことは忘れることにした。あまりしつこくして気持ち悪がられるのも嫌だし、別のことを考えよう。

 イヤフォンを携帯に差し込んで、音楽を流して目を閉じた。通勤ラッシュの時間帯は終わっているので、電車の中は空いていて、さわやかな朝日が差し込んでいる。
 周辺の人たちは居眠りをしたり、本を読んだり、携帯電話の中を熱心にのぞき込んだりしていた。
 携帯の画面上では、まだ若いヴァイオリンソリストが「愛の挨拶」を弾いている。彼の演奏をはじめてきいたのは、ついこないだ、BSの音楽番組がきっかけだった。
 新進気鋭のジャズピアニスト、生野千早とのセッション。
 驚いたのは、彼がジャズだけではなくクラシックも弾けることだった。
 最近アメリカで発売された、前衛的なオリジナルアルバムですっかり生野千早にハマってしまったおれは、昔彼が日本で組んでいたバンドの動画からデモテープまで、一生懸命集めて聴き込んでいたのだ。まだ露出の少ない彼の、貴重な映像が見られるということもあって、BSの番組も意気込んで録画した。もうひとりのヴァイオリニストのことは、全く知らなかったけれど。
 彼等が奏でる音楽は、何の知識も教養も必要としていなかった。ただ美しく、もの悲しく、繊細で、甘かった。とくに線の細い美形のヴァイオリニストが弾く「愛の挨拶」は、古くから胸の奥に残ったままの傷を探し出してひっかくような、鮮烈で苦しい切なさが溢れていた。
 どうみてもまだ十代に見える彼が、ここまでひとのこころを揺さぶる演奏ができるのはどうしてだろう、と考え、これが『才能』というやつなのか、と納得する。
 生野千早に至っては、音楽大学も出ていないらしいから、子どもの頃から英才教育を受けてもプロになることのできないたくさんの人間のことを考えると、才能というものの持つ残酷さに震えが走った。

 

 

 

「桜木町につきましたよ」
 身体を揺さぶられ、慌てて立ち上がった。
 目の前でおだやかに微笑んでいる青年の顔をみて、お礼を言うのも忘れてしまった。
「降りないんですか?いつもここで降りてらっしゃるでしょう?」
 ――なっちゃんだった。
 おれのことを覚えていない、航太郎の半分が存在していない、なっちゃん。すごく顔色がよくて、元気そうで、おれは目の前が涙でうるんだ。なっちゃん、おれだよ、一保だよ!と叫んで抱きつきたくなった。しないけど。
「すみませんでした、おります」
「すごく熟睡してらしたから。お疲れなんですね、気を付けて」
「ありがとう」
 電車から降りる。ホームから、宿舎に近い出口を目指して歩いていると、なっちゃんが同じ方向に歩いてきて、「ちょっとまってくださーい」と声をかけてきた。
「な、なんでしょう」
 まさか、覚えていたりするんだろうか?
 そんなはずはないのに期待してしまう。だって彼のいれたコーヒーも、彼の飼っていた文長のスイの鳴き声も、いつか頬をなでてくれた冷たい指のことも、おれは全部覚えているから。
 この10年、忘れられないことばかり抱えて生きてきた。
 一度愛してしまったら、それが恋愛でも親愛でも、簡単には消えてくれない。相手がおれのことを忘れたからって、おれの気持ちは変わらないのだ。
 なっちゃんは、相変わらず美しい眼をしていた。うっすらと微笑んだまま、ポケットから名刺を取り出しておれに差し出した。
 両手で受け取り、しげしげと眺める。そこにはアメリカでアイビー・リーグと言われている著名な大学の名前と、深層心理学者という肩書きとともに「水川 夏樹」という名前が書かれていて感動してしまった。
「深層心理学、ですか」
「ええ。なかでも僕の研究分野は夢なんです。あなたは、居眠りをしながらこうつぶやいていました――『おねがい、わすれないで…セーイチ』と。とても興味深くて、こうして追いかけてきたわけです」
嬉しかったが、同じぐらい怖いと感じた。寝ている時に成一の名前を呼んでしまうなんて…危険だ。万が一、あいつの知り合いにそんなところを見られたら…。
 止めた足を無意識に動かして、おれは歩きながら「聞き間違いですよ、それは」と返事をした。なっちゃんは、不思議そうな顔のまま「夢に好きな人が出てくることも、寝言で名前を呼んでしまうことも、そう珍しいことではありませんよ。なぜ警戒するんですか?」と尋ねてきた。
「すきなひとって」
「違っていたならすみません。実はね、僕の夢にあなたに似た人がよく出てくるんです。帰国して、この電車であなたをはじめて見かけたとき、とても驚きました。僕が子どものころ――いまよりも身体が弱くて眠ってばかりいたころ――夢の中にでてきた『ともだち』に、あなたはよく似ていたから」
 立ち止まって、振り返る。
 それはもしかして、航太郎のことを言っているのだろうか。
 なっちゃんは、航太郎のことを覚えている?
「彼が出てくる夢を頻繁にみるようになってからしばらくすると、僕は病気が治って…すっかり元気になりました。そして、二度と彼は夢に出て来なくなった。不思議で、哀しくて、気になって……こうして研究者にまでなってしまった、というわけです」
 駅の構内を出る。宿舎の本当の最寄駅は京急「日ノ出町駅」なのだが、今日は買い物をして帰るつもりだったので、桜木町に寄っていたのだ。週に2、3回は買いものや用事のために桜木町に出るので、彼はそれを見ていたのかもしれない。
 彼がおれの肩をつかもうとした拍子に、イヤホンのコードに手がひっかかり、携帯電話が地面に落ちた。表示されていた画面をみて、おれは笑って言った。
「コネチカット州だよな、大学。――おれも、5年ほどアメリカに住んでたんだ。カリフォルニアのほうだけど」
 まさか、彼も生野千早のファンだとは。日本ではまだそこまでメジャーなジャズピアニストじゃないはずなのに、これも何かの暗示だろうか。
 なっちゃんは、それまでの学者のような表情をやめて、無邪気に微笑んだ。
「それはまた、真反対だねえ」
「しかも、おれも生野千早のファンなんだ。こんな偶然ってなかなかないよな。おまけに、おれはあなたの夢にしょっちゅう出てくる……ヤツに似ている、だろ?」
 笑った顔のまま、なっちゃんが肩をすくめる。馴染み深い、あのジェスチャー。
「じゃあ、こないだのBSも録画したの?あれって奇跡なんだよ、ヴァイオリニストの彼はとても有名だから、彼の紹介でテレビ出演が実現したんだ」
「もちろん。もしもおれが今アメリカにいたら、間違いなくライブに行きまくってるね」
 おれは右手を差し出して、にっこり笑った。なっちゃんは、その手を両手で強く握り返してきた。
「僕らはひょっとしたら、良い友人になれるんじゃないかな」
「なれると思うね。もしかして、水川さんは…」
「夏樹でいいよ。ええと、…」
「おれは一保。村山一保、呼び捨てでいいよ。じゃあ、なっちゃんって呼ぶ。なっちゃんはさ、ひょっとしてお酒がダメで、コーヒーが好きだったりしない?」
 眉を上げ、驚いた顔も優雅で、相変わらずだった。
「一保さんは…サイコメトラーかなにかなの?」
 声をあげて笑う。まさか、自分がPSIだと言われる日が来るとは思わなかった。
 最終的に、なっちゃんとは連絡先を交換して、今度ふたりで美味しいコーヒーを飲みに行こう、と約束をして別れた。
 桜木町から宿舎への徒歩15分の道のりを急ぎながら、偶然と奇跡と運命の相互関連性について考えていた。これらすべてのことが、偶然だとはとても思えない。実際、成一とは再会するために色々と動いてはみたのだ。たとえば神奈川と東京との合同訓練の話を、合田隊長に提案してみたり。
 けれど、なっちゃんとの再会は、まったくの偶然だった。彼がいつアメリカから帰国したのか分からないが――数多と走る電車の、あの時間、あの車両で出会う確率って、これはもう奇跡でも片づけられない、運命としか言いようのないものではないだろうか。
 なくしたはずの過去との邂逅は、喜びとともに一抹の不安を感じさせる。これが、いい方向へと動いてくれるなら願ったりかなったりだけれど、過去が繰り返されるようなことに、ならなければいいが。
 狭くて壁の薄い宿舎に帰りついた。シャワーで汗を流して、すぐにベッドに横になる。肉体の疲労が、あっというまにオレを眠気の中へといざなってくれた。抗いようもなく。

 

  

 

 

 

 ベッドが低音で揺れている。がばりと起き上がって枕元に置いていた携帯電話を引っ掴んだ。画面には、『星野成一』の文字。おおー返信かあ、と思って横になり、またすぐに起き上がった。
 これは返信じゃない、着信だ。
「もしもし!」
 返信が来ない、と気にしていたのは、おれが今時の女子高生のように携帯ばかり見ているから……じゃない。おれの知っている星野成一は、大概のコンタクトには素早く、丁寧な返信が返ってきた。仕事で返信が無理なときでも、少なくとも翌日には。
 返信がないことよりも、おれの知っている「成一の本質」が変わってしまっているかもしれないことが不安だったのだと、画面の中、通話ボタンをタップしてから気づいた。
『星野です。――すみません、返信が遅れてしまって。ちょっと実家の方でいろいろゴタついていまして…。いま、すこしだけ時間大丈夫ですか?』
 柔らかい声と丁寧な口調に、心が凪いでいく。
 たかが返信が遅いだけのことで、ビビッていた自分が情けない。
「いいぞ、10秒だけな」
 おれの悪ふざけに、成一がかすかに笑った。
『もうちょっと時間をください、さすがに10秒では、遊びにも誘えませんから』
 焦った声までかわいいと思うなんて、おれの脳はどこまでやられてしまっているのか。こうして平然としているフリをできるだけでも、大人になったものだ。
「いつ、どこにいく?」
『急で申し訳ないんですが、今から、時間ありませんか?』
「今日は用事が…って言いたいところだけど、残念ながらヒマなんだ。いいぞ。東京でも由記でもいいけど」
 自分でも恥ずかしいほど、声が浮かれていた。なんだってこんなにウキウキしているんだろう、別にはじめて彼氏とデートするわけでもあるまいし…と考え、まあそれに近いものはあるか、と心を落ち着かせる。
『実はいま横浜にいるんです。知人を送ってきたので…桜木町の駅にいます』
 おれは気づくべきだった。こんな朝っぱらに送ってくる知人なんて――
 携帯を耳にあてたまま、ベッドを下りてせわしなく部屋の中を歩き回る。
「OK、そっちへいく。20分ぐらい待てるか?」
『だいじょうぶです。では駅の…どうしようかな、おれあんまり横浜詳しくなくって』
「どっかの改札出てそこにいろよ、見えるもの言ってくれたら迎えに行くから」
『すみません、助かります』
 電話を切る。洗面所に走って行って、ひどい寝癖をなんとかしようとして諦め、手近にある服を手早くまとった。長袖のボーダーカットソー、グレイのパーカー、ネイビーのチノパン、靴下。左右違う柄を履いていることに気付いたけれど、どうでもいい。
 靴ひもを結ぶ時間も惜しんで、おなじみのVANSのスリッポンに足を入れる。家を出ようとして、慌てて財布と携帯を尻ポケットに突っ込んだ。
 成一に会える。偶然じゃなくて、約束して、ゆっくり話ができる。
 前にふたりで飲んだ日は、再会で頭がいっぱいになっていて、眼も合わせられなかったし、話した内容もろくすっぽ覚えちゃいなかった。成一の終電の関係上、時間が無かったし、舞い上がっていたし、緊張してもいた。
 今度は違う。約束して、友人として会うのだから。
 駅に向かう足は次第に早足になり、最後はランニングになっていた。空はよく晴れていて、気持ちのいい昼下がり、風は涼しく澄んでいる。
 長年住んでいた由記市を離れて横浜に移ってしばらく経つけれど、今日ほど「この街が好きになってきたかも」と思ったのははじめてだ。恋は人を変える、いい意味でも悪い意味でも。
「一保さん!」
 駅を行き交う人々の中で、目が合った。
 おれが何かを言う前に、成一が走り寄ってくる。以前は後ろにかき上げていた生まれつき茶色い前髪は、眉毛の上で無造作に下ろされていて、知っている彼とは違うひとのようだ。
「昼間っから飲める店がぴおシティの中にあるんだ。そこでいいか?」
 ずっと会いたかった。その眼に映りたかった。声をききたかった。でも、それを伝えるわけにはいかないので、万感の思いをこめて、目の前の成一を見上げた。
 成一は返事をせずに、黙っておれを見つめ返した。何分か…そんなに長い時間ではなかったけれど、そうしてから、指を伸ばし、おれの後頭部の寝癖を撫でて、目を細めた。
「おれはどこでもいいんです、あなたと話せるなら」
 頬がかっと熱くなった。動揺して、俯いてしまう。
 きっと、この言葉に深い意味なんてない。わかっているのに。
「……よく、そういうハズカシイこと言えるね、お前」
 拳をつくって、軽く肩を殴る。
 まるでおれの行動の意味を見透かしているかのように、成一がくすっと笑った。