22 旅立ち

 旅館を抜け出て、砂浜に寝ころぶ。今日は満月で月明かりがまぶしく、星はあまり見えない。
 海の匂いと生ぬるい潮風が顔を撫でていく。眠れない夜は潮騒のなかに身を置くのが一番だった。
「約束が違うんじゃない?」
 目を開いて、すぐ近くに女の顔があった。大声を出しそうになって寸前ところで堪える。
 しゃがんだ状態でおれの顔をのぞきこんでいるのは、確かにルカだった。
「グッドウィルハンティングでは、いきなり居なくなったウィルは彼女に会いに行くんだよ。わたしもそれならいいかなと思って、深く聞かなかったでしょ。お店の掃除だって手伝ったし、相談だって乗ったのに、店長が出て行く日がいつなのかとか、どうしてなのかとか、何もきかずに見送った」
 占いであなたがいつか出て行くことは分かっていたんだよ、とルカは得意げにいった。
「四国はさすがに遠すぎるよ、一保くん。ここまで来るの大変だったんだから」
 呼び方を店長から一保くんに変えたのが気になったが、まあいい。目を擦りながら上体を起こす。投げ出したままの足の上に、ルカがどすんと座った。
「重いだろ」
「軽いもんでしょ。何十キロって酸素ボンベ背負ってんだから。………ねえ本当にひどいと思わない?あなたのことを好きな人がたくさんいるのにいきなり消えて、挨拶もナシ。いきなり店閉めて、何も成し遂げてないんだよ。せめて成し遂げてよ」
 何をだよ、と反論しようとしてやめた。ルカに嘘をついても無駄だった。
「あなたが手を握ってほしいなら、わたしがいくらでも握ってあげる。オリビアのようにね。でも、あなたが握りたい手は、つなぎたい手はわたしじゃないでしょう」
 膝の上に座ったまま、ルカがおれの手を両手で包み込むように握った。
「怖がらないで。傷ついたって死なないよ。でも、死んじゃったら二度と会えない。傷つくこともできないんだよ」
 空が曇ってきて、月も星も覆い隠してしまった。きっとおれの顔も見えないだろう。
「成一と、見えない糸でつながってると思ってたんだ。おれは運命なんか信じちゃいないが、そうとしか言いようがないぐらい強い縁で、唯一無二の片割れとしてつながってるって」
 彼女の頭がおれの肩にのせられたのが分かる。重くて熱い。おれはその髪に頬ずりをした。
「けど自分から切った。その縁が切れたときのことを思うと……失うのが恐ろしくなったから」
 他の誰もあんな風に愛せない。離れて、もがいて、再会して確信した。
 砂浜に倒れるほどの勢いでルカが抱きついてきた。きっとほとんどの人は恋人がじゃれているように思うだろう。それぐらい親密で近い。でも性的な熱は何もない。おれも彼女も。それがとても楽で、ありがたかった。
「星野さんの元奥さん、自殺を図ったの。今、意識不明の重体」
 勢いよく起き上がったせいで、ルカがおれの上から転がり落ちた。雲の切れ間から月明かりが差しこみ、彼女の顔を照らす。決然とした顔だった。
「いま行かないでいつ行くの。あなた以外に、誰が星野さんの手を握ってあげるの」
 身体の砂を落として立ち上がる。多分おれの顔もルカと同じだろう。
「……実は、成一にはがきを送ったんだ」
 ルカも立ち上がっておれを見上げた。その目には驚きがあった。
「何て書いたの?」
 旅館に向かって歩き出し、途中で小走りになり、最後は全力で走った。ついてきたルカは、ぜえぜえと肩で息をしている。こっそりおれの部屋へ招き入れると、帰り支度を整えるおれをぼんやりと見ていた。
「週末会いに行く、そう書いた」
 そう、おれはもう成一に会うと決めていた。ルカが来る前から。
 それを知ったルカは、わずかに眉を下げた。

「そうだったんだ。もう自分で決めてたんだね」

 会ってどうするつもりなのか、とルカはきかなかったし、おれも言わなかった。ルカはこじんまりとした赤い国産車を運転して橋を渡り、四国まで来てくれたのだ。その運転はなかなか板についていた。
「仕事大丈夫なの?」
「一応今日で一段落したし、明日から2日、休みなんだ。まだ仮採用だし」
 途中できれいな橋を車で渡った。夜中のドライブなんて久しぶりだ。そういった充実した私生活とは距離を置いていた、というか、このところ無縁だった。
「すげえ長い吊り橋だな」
「すごいでしょ~?これ、明石海峡大橋。わたし、この橋が大好きなの。人類の叡智の結集だよ。ロマンがあるでしょ」
 四国の陸地が遠ざかっていき、街の明かりが近づいてくる。
「長くなるから寝てて良いよ」
「いや、途中で運転かわるよ。おれも普通自動車運転免許ぐらい持ってるんでね」
「船舶も持ってるしね。バリスタも持ってる」
「おまけにイケメンときた」
 これはいつものやりとりだった。つい最近会社の人間にも言われた。おれたちは目を合わせて笑い合った。
「前見ろ、前。あぶねえだろ」
 ルカは楽しそうに笑ってアクセルを踏み込んだ。断ってから窓を明けると、湿度のある青い匂いが吹き込んでくる。海と夏の匂いだ。真っ黒なアスファルトをところどころ照らしている照明灯のオレンジが、先のほうまで続いている。
「音楽かけていい?」
 車はほとんど見当たらなくて、快適なドライブだった。夜中だから当然かもしれない。窓から吹き込んでくる強い風が、おれの髪もルカの髪もめちゃくちゃにかき乱して通り抜けていく。
 おれの返事を待たずに音楽が流れ始める。聴いたことのない歌だった。女性の歌手がささやくように歌っている。
「この歌聴くとね、一保くんと星野さんみたいだなって思うの。だから好き。カタワレって曲なんだけどね」
 楽しそうに一緒に歌っているその歌詞は、確かにおれの中の成一みたいな歌だった。『世界でたった一人だけのカタワレ』そう、おれの勘違いで思い込みだとしても。
「結ばれていた糸が切れちゃったなら、」
 ウィンカーを出すカチカチという音がする。ルカが、小さい声でこう言った。
「また結べばいいよ」
 

 神奈川に着いたらもう朝だった。
 明け方ルカにかかってきた電話で、知可が亡くなったことを知ったが、死因まではわからなかった。
 言葉少なく運転を交代して仮眠を取りながら、喪服や黒の革靴が置いてあるおれの実家に向かった。実家には3年以上帰っていないから、電話をしたときはちょっとした騒ぎになった。
「あなたいったいどこで、何してたの!?この親不孝者!!」
 自分のことで精いっぱいだったのだ、とは言えず、母親の罵倒と妹の号泣をそのまま受け止めた。ルカは何故か笑っていた。おれが絶対に勝てない存在を見つけて嬉しいのかもしれない。
「とりあえず生きてるし、仕事もしてるから」
 なんとか宥めたころにようやくルカの存在に気づいた母が、せっかくだから朝食を食べていって、と引き留めてくる。もともと連絡無精な方だったとはいえ、さすがに年単位で音信不通になったことは申し訳なく思い、ルカと一緒に朝食だけいただくことにした。
「お兄ちゃんマジでバカじゃない?公務員辞めちゃうなんて。どうすんの30過ぎてんのに。いくら顔がよくたってねえ、それだけで生きていけるほど人生甘くないんだよ!?」
 焼きたてのパンにピーナツクリームをやけくそのように塗りたくった妹が、頬張りながらおれを罵倒する。朝食を食べながらこれまでの生活を白状させられたおれは、ニヤニヤ笑っているルカの前で乱れた性生活以外の部分をかいつまんで説明した。
「仕事はなんだっていいわよ。何かやって食べていければ。一保は生きる力だけは強いから。でもね、それよりお母さんが怒ってるのは、連絡がなかったことよ。いくらなんでも息子から何の連絡もなく消息を絶たれると思わなかったでしょ」
 ほうれん草のソテーと目玉焼きをつつきながら、おれは言い訳のように唇を尖らせながら言った。
「たまに電話はしただろ」
 母と妹が顔を見合わせる。それからわざとらしい溜息。
「きいた今の?」
「信じられない」
 ルカに助けを求めたが、「自業自得でしょ」とばかりに目をそらされる。クソ。この場におれの味方はいないのか、だれ一人として。
「ルカさん、コーヒーのおかわりは?」
 うってかわって優しい声で母が問いかけると、ルカがにっこり笑って「ありがとうございます」と言った。お前も誰なんだよ。どんだけ猫かぶってんだ。
 席を立った母の後ろ姿を見送ってから、妹がおれをじっと見てまた目をうるませた。
「心配したんだよ。星野さんにもちゃんと謝ってね」
 いきなり成一の名前が出てきて、フォークを握る手が止まった。キッチンから戻ってきた母が椅子にゆっくり腰かけて、そうよ、と同意する。
「よほど辛い失恋だったんでしょうけれど」
「違うよお母さん。ふたりともまだ好きだから失恋じゃないよ、すれ違いイベントだよ」
 隣でルカがむせている。おれはその背中をさすってやりながら、地を這うような長い溜息をついた。
「どうして知ってるんですか、おふたりとも?」
 ルカの質問に、母がしたり顔で言う。
「一保のことだもの。分かりやすいったら」
「そうだよお兄ちゃん。何があったのか知らないけど、あんな素敵な人そうそういないんだよ」
 フォークで指さされて「やめろ」というのが精いっぱいだった。深雪はつづけた。
「仕事やめて家族の前からも姿消すなんて、ほんと、馬鹿の極みだよ。可哀そうな自分に酔ってんじゃねーって」
 ひどい言われようだが、かわいい妹にここまで言われてはしょんぼりするしかない。目に見えて落ち込んだおれを、ルカが面白いものを見るような眼でみている。
「深雪、言い過ぎ。やめなさい。ふたりにはふたりの事情があったんでしょう」
 食べ終わったころを見計らって、母が言った。
「喪服と革靴用意してあるわよ。詳しいことはきかないけど、終わったらうちに顔出しなさいね」
 これはお願いではなく命令だった。おれはおとなしく「わかった」と返事をした。
「ごちそうさまでした。突然お邪魔してすみません」
 ルカが頭を下げる。玄関先まで送ってくれた母と妹が、ルカには笑顔を向けて「また来てね」と手を振ったが、おれには能面のような顔しか見せてくれない。これも自業自得。仕方ない。
 車に乗り込もうとしたとき、「一保」と声をかけられた。
「誰も理解してくれないなんて思わないで。わたしたちは、いつもあなたの味方なんだから」
 照れくさくてそちらを見ることはできなかったが、かろうじて頷き返す。
 ゆっくり動き出した車の助手席から手を振る。母と妹は、おれたちの姿が見えなくなるまでずっと立って見送ってくれた。

 会場に着くまでの道はひどく混雑していた。どうやら事故があったらしい。時間が迫ってくるにつれて焦りだしたおれに、ルカが言った。
「先に行ってくれていいよ、あとで追いかけるから」
「それ追いつけねえフラグじゃねえの」
「大丈夫。なんとかする。わたしの仕事なんだと思う?」
「インチキ占い師」
 無言で上腕を殴られたが、甘えることにした。
「悪い。先行くわ」
 朝からよく晴れていた。まだ見送るには早すぎる知人の死にはふさわしくないほどの快晴だった。
 道すがら、知可が死んだ理由について考えた。そしてまた、ルカがそれをどうやって、誰から知ったのか気になった。成一と連絡先を交換していたのだろうか?それなら不思議はない。おれは知可と酒を飲んだことがあるし、赤の他人ではないから、ルカを通じて知らせてくれたのかもしれない。
 今の仕事に就く前に、必要に迫られて携帯電話を買った。だが連絡先を仕事関係の人間以外に知らせていないので、成一から直接連絡をもらうことはできない。
 OASISの曲をききながら、おれはビールを、知可はエスプレッソを飲んだことを思いだした。そして成一の言っていた、彼女には思い続けている人がいるという言葉が頭をよぎった。ずっとその人の愛人をしている、と。
 本人からもきいた。あまりにもひどくて、耳を覆いたくなるような内容だった。
 そうしてふと、知可の死が病死や事故死ではない、本当の理由に思い至った。
「なんでだよ、畜生」
 死ぬほどのことじゃない、とは思えなかった。もし成一が本当に結婚していて、子どもがいたりしたら、同じ気持ちになったかもしれない。恋は理屈じゃない。コントロールできないものなのだ。
 誰でもいい、そんな相手なら死ななかっただろう。
 唯一無二だと、自分にとってのカタワレだと感じていた相手にとって、自分はそうではなかった。おそらくずっとそうだった、それに気付いて知可は死を選んだのだ。心に空いた穴が大きすぎて、何ものを持っても代えがたかったに違いない。
 どれほどの絶望だっただろう。
 渋滞している車の隙間をすり抜け、歩道に出てから、通夜の会場へ走った。時間がない。せめて少しでも寂しくないように見送ってやりたい。
 ブラックスーツのジャケットを脱いで腕にかけ、通行人をよけながら急いだ。汗がにじんで、鼻の奥がツンとした。

 会場に入ってすぐ、成一に声をかけられた。目の下が黒ずんでいて、明らかに眠っていないような顔をしていたが、想像していたよりも落ち着いていて安心した。
「ここへ座って」
「ああ」
 想像していたよりもずっと人が多いお通夜だった。そういえば彼女は社会人だったから、会社の人間が多く弔問しているようだ。みな一様に沈鬱な表情をしている。
「大丈夫…じゃないだろ」
「そうだね」
 おれは黙って成一の手を握った。周囲の視線なんて気にならなかった。いま成一の手を握ることができるのは、きっとおれだけだ。必要とされているかどうかはともかくとして、自分がそうしたかった。
「そばにいるよ」
 それ以外言葉が思い浮かばなかった。
「ありがとう」
 成一の声はかすれていたけれど、しっかりとしていた。
「喪主は誰なんだ?」
「彼女の遠縁の親戚だって。おれに連絡をくれたのは……、あの人だ」
 会場の後ろ、どうやら彼女の会社の人間がまとまって座っているあたりにいる男性を、成一はそっと振り返った。おれもそちらを見ると、目が合って目礼された。
「もしかしてあの男が、知可の」
「始まるよ、また後で話そう」
 前に向き直ってから、頭の中で男の顔を反芻する。
 顔立ちの整った壮年の男だったが、眼が冷徹で、蛇のような印象を受けた。あくまで見た目の印象だ。知可の話を聞いているせいで、先入観があるのだろう。
 僧侶が入ってきて、読経が始まった。