21 彼からのはがき(成一)

 楽しいことしかないなんてありえない。

「救急車に乗るとき腕が当たってあざができたんだよ。どうしてくれるんだ?」
 急性アルコール中毒患者が暴れて、搬送でトラブルになるのはめずらしいことじゃない。おれは神妙な顔で、けれど部下を後ろに下げて、消防署に乗り込んできた元・傷病者と向き合った。
「治療費を払え」
「申し訳ありませんが、それはできません」
「なんでできねえんだ?お前らがケガさせたんだろうが。みろよこのアザ!!」
 それはあなたがあばれたからですよ、と言いたかったがやめておいた。部下は何か言いたげに口を歪めていたが、おれが目配せすると、口をへの字にしてぐっとこらえている。昔のおれみたいだ、と笑いそうになった。
 醜い顔だな、とおれは思った。造作のことではない。公務員ならどれだけクレームを言ってもいいと思っている、いう権利が自分たちにはあるのだと思っている、その精神構造こそ醜いし、他に話を聞いてくれる人がいないのかと思うと、憐れみすら湧いてくる。
 電話やメールで『市民の意見』を上げてくる人々も似たようなものだった。全てのクレームが間違っているとは言わない。正しいものものある。おれたちが反省すべき点も。けれど、大半は無価値で、ただ時間だけが奪われる、誰も得をしない内容ばかりだ。救急隊員がコンビニで飲み物を買って救急車の中で休んでいた、そんなことをしている暇があるなら病人のひとりでも運んだらどうだ、無意味に建物のまわりを走り回っている時間があるなら病人を運べ、来るのが遅かった、病院にもっと早く運んでくれたら身内は助かった、心肺蘇生の時間が足りない、生き返るまでやれ、エトセトラ、エトセトラ。
 おれの困った顔に満足したのか、それとも心ない謝罪で留飲を下げたのか、元傷病者は捨て台詞を吐いて事務室から出て行く。後ろで部下が長い溜息をついたのがきこえた。

 やりがいなんて、ないですよ。
 おれがそういったとき、署長はひどく傷ついたような顔をした。昔のおれと違う、そういいたかったのかもしれない。六人部隊長と組んでいたころの、熱くて前向きだった自分を知っているからだ。
「でもやるべきことはきちんとやります。仕事ですから」
 クレーム処理を終えて署の外でぼんやりしていると、署長がやってきてコーヒーを奢ってくれた。ここは喫煙所だが(外から見えない場所にひっそりと設けられている)、いまは公務員は仕事中にたばこを吸うことができない。職務専念義務に違反する、らしい。おれはもともと吸わないのだけれど、ここで時々息抜きをしている。伸びをしたり、ストレッチをしたりしながらまずい缶コーヒーを飲むのだ。
「なあ、星野はどうしてこの仕事を選んだんだ?」
 こういう話題は嫌いだった。後に説教や武勇伝が続きそうな気がした。
「兄の影響ですね。兄はおれよりも立派な意志と思想を持っていましたけど。本当は何でもよかったんです」
 投げやりな物言いにならないよう、丁寧に笑みを浮かべて言ったが、署長は不満そうな顔をした。それから、ふところから今時珍しい紙たばこを取り出し、「秘密だぞ」と言ってにやりと笑った。
 おれが火を点けると、彼は上手そうに深々と煙を吸い込んだ。よく晴れた空に煙が吸い込まれていくのを、だまって眺める。かつて好きだった夏の匂いも、いまや気だるさしか感じない。生命の息吹を強く感じると、心がしんどくなる。
「お前はよくやってくれてるよ。六人部とは違うが、優秀だ。いい眼を持ってる。判断が的確で冷静だしな」
「ありがとうございます」
「でも心がねえな」
「必要ですかね。いいじゃないですか、心なんかどうだって」
 正確に状況を把握して迅速に搬送する。それがおれの仕事だ。必要な処置をし、品分けして、搬送。慣れた業務手順。どんどん熟練して早くなってきた。それでいいじゃないか。
「離婚したせいじゃねえだろ。お前ハナっから嫁さんなんざ愛しちゃいなかったしな」
 これにはさすがに息が止まった。伊達に長年生きてないな、と苦笑する。
「今のお前を六人部が見たら、残念に思うだろうな」
 あの人の名前を出されると、まだ心がざわついた。恋心からではなく、すさんだ自分の中に残る、まだきれいな部分が悲鳴を上げるのだ。
「残念もなにも、期待なんかされてないですよ」
 署長は眉を上げた。
「あいつは、誰がみても分かるほどお前に入れ込んでたよ。いつも鉄仮面みたいなやつで、感情なんかないと思ってたけどな、違った」
 タバコを指でピンと弾いて、灰を落としてから署長はつぶやいた。
「六人部は自分の技術と知識を惜しみなく全てお前に託した。それに恥じるようなことはするなよ」
 タバコを地面に落として、かかとで踏みつけてから署長が去っていく。
 おれはしばらく空に漂っている煙を目で追ってから、吸い殻を拾い上げてごみ箱に捨てた。それから深呼吸をひとつして、署に戻った。

 眠る直前、このままひとりで死ぬのかな、とふと考えることがある。
 誰かといても、死ぬときはひとりだ、と彼は言った。そのとおりだと思う。短命か長命かの違いはあれど、人間は必ずひとりで死ぬ。
“ずっと続くものなんてない”のだから。
「じゃあ、どうしてこんなに寂しいんだろう」
 ひとりごとは天井に吸い込まれて消える。電気の消えた灰色の部屋で、蛍光灯がある場所だけがうっすらと白く浮き上がっている。
 冷房の効いた快適な部屋。かりそめの「妻」がいなくなってからも、おれは同じ仕事をして同じ毎日を送っている。
 ――どうせ最後はひとりで死ぬなら、寂しく思う機能なんてつけないでほしかった。
 目を閉じようとしたとき、枕元で充電している携帯端末が震えた。壁の時計を見ると夜中の2時だ。こんな時間に鳴る電話が、吉報なはずがない。
 スリーコールで通話をタップすると、知らない男性の声がした。
『星野成一さんですか』
「そうですが」
 あなたは、と問う前に、その男性は淡々とした声で言った。

『知可は死にました。明日が通夜になります。場所は――』

 電波が遠くなったのか、急に周囲の音が聞こえなくなった。足下がふわふわする。目の前が暗くなって、そうだ、これは貧血の症状と似ている、と他人事のように分析した。
「待ってください。あなたは誰ですか」
 知可に両親はいない。早くに亡くなったときいている。身内もほとんど疎遠だ。だから彼女は、いつも誰か側にいてくれる人を求めていた。
『……、知可の好きな花はご存じですか』
 彼の声は少し疲れていたけれど、冷静だった。おれは自分を落ち着かせようと、彼女が好きだった花を必死で思い出した。いつも花を飾っていたが、特に多かったのは……紫色の花だ。名前が思い出せない……。
「スカビオサ。スカビオサです。彼女がよく生けていました」
 彼は黙っていたが、タバコでも吸っているのか、長いためいきのような音がした。
『ありがとう』
 前触れなく電話が切れる。間抜けにも話しかけようとしたおれの声が、無機質な電子音の中にこだました。

 ***

 別れた後、知可がどうしているのか知るすべはなかった。彼女は電話番号を変えて転居し、SNSのたぐいも一切やっていなかった。
 彼女は言った。もう大丈夫だと。「寂しさをひとりで引き受けられるぐらいには」強くなったと。
 おれはそれを信じた。
 いや、違う。
 そうあってほしいと願った。
 彼女の心にはどうしようもなく脆い部分があることを分かっていた。けれど、おれではそれを埋めることができないということも知っていた。
 一睡もできないままベッドから抜け出て、喪服を身にまとう。別れてそれほど時間が経っていないのに、頭に浮かぶ彼女の表情はすでにぼやけたものになっていた。なんてひどい人間だ。一度は暮らしを共にしたひとなのに。
 黒い革靴を履き、日々のルーティンで郵便ポストを確認する。広告のチラシを機械的にゴミ箱にすてていくと、最後にはがきが1通残った。流れでそれも捨てそうになって、差出人を見て慌ててつかみ直す。

『村山 一保』

 読むのが怖い。でも知りたい。
 ふたつの気持ちがせめぎ合う。深呼吸をしてから、ジャケットの胸ポケットにそっとはがきをいれた。