23 もう一度むすんで(成一) 完結

 顔をみることはできなかった。
 記憶の中の彼女を覚えていてほしい、と喪主は言った。その言葉に、仕事柄色々なことを察した。一保さんも同様で、黙ったまま外へおれを促した。
「外の風にあたろう」
 焼香の匂いがただようなか、彼女の職場のひとびとが会場を後にしていく。
「告別式はなしなんだね……ねえ、飛び降りだったんだって」
「だから言ったのに。あの子、全然人のいうこときかないから」
「シッ、課長に聞こえる」
 出口の近くにいたおれと一保さんを振り返り、彼女たちは急ぎ足で去っていく。
「あなたが星野さんですね」
 真後ろに彼がいた。知可を愛人にしていた男だ。
「少し歩きませんか」
 冷たい蛇の目がおれを見上げる。隣で、一保さんが「外そうか」と声を掛けてきた。
「彼もいっしょに、構いませんか。おれにとって家族のような人なんです。知可とも顔見知りでした」
 おれの言葉に、男はどうでもよさそうに一保さんを一瞥し、先に歩き出す。外の日差しに、汗が吹き出し始める。強い光は、一睡もできなかった瞼の裏にじんじんとした痛みを誘った。
 彼は会場の近くにある公園へ入っていった。人口の小川が流れていて、木が多くて涼しい場所だ。木陰になるベンチに腰かけてから、隣のベンチに促される。彼のベンチから2メートルほど離れたところで、横並びになる形で、おれと一保さんが座った。
「彼女に伝言を頼まれました。『あなたのせいではない。わたしがこの心ない人の本性を見抜けなかっただけ』だそうです」
 隣の一保さんは、斜め下をじっとみつめて黙っていた。なるべく気配を消そうとしてくれているのだろう。
「心ない人……」
 男は冷徹な無表情でこちらを見た。
「私のことでしょうね。彼女を長年弄び、たびたび堕胎を迫った男、そんなところでしょうか」
 他人事のような口ぶりに戦慄した。この人のことじゃないのか?
「あなたのことですよね?事実と異なるところがあるんですか」
 男はブラックスーツのジャケットからタバコを取り出し、口にくわえて火を点けた。
「いいえ。全て真実です。ただひとつ、言わせてもらうのであれば……」
 ふう、とタバコの煙を吐き出し、彼は言った。
「私は何度も別れを告げました。あなたと結婚する前も、何度もです。けれど彼女が追いすがった。私には妻子がありますし、自分の家族を愛していましたから、それも伝えましたがダメでした。別れるぐらいなら死ぬ、と何度も脅されました」
 隣で一保さんがピクリと揺れたのが分かる。彼の表情は逆光で見えなかったが、左手の拳が強く握りしめられていた。血管が浮くほど強く。おれはその手を、彼から見えない角度でそっと握った。
「あなたの主張は、彼女に脅されて仕方なく関係を続けていた、という主旨ですか。どうしておれに説明をする必要があるんですか?もう彼女はいないし、既におれと彼女は離婚している。あなたを訴えるような立場にないのに」
 声が震えた。怒りだけではなく、恐怖もあった。あまりにも自分と違う人間に、凍えるような恐怖を感じていた。言葉の通じない動物と話しているようだった。
 男は眉を上げ、それから、くつくつと笑った。ほっとしたような笑みだった。
「なんだ、そうなんですか。私はまた、てっきり。彼女が星野さんには全て打ち明けていたと、死ぬ直前に言ったものですから。離婚していたことも知らなかったな。あなたは特段彼女を愛していたわけではない、ということですね?安心しました。訴訟でも起こされるのかと」
 男の声はそこで途切れた。一保さんが、ものすごい勢いで男の襟首をつかんで地面に叩きつけたのだ。
「何をする!」
「一保さんダメだ」
 羽交い絞めにしたおれをあっという間にふりほどき、男に馬乗りになった一保さんは、圧倒的な力で男の首を締め上げた。男が足をばたつかせ、ものすごい形相で暴れる。
「なにひとつ好きじゃなかったのに、なんで十年も知可の時間を奪った」
 お前人間じゃねえな、殺すぞ、と一保さんがささやくと、男の顔色は真っ青になった。
「そんなことはない!愛していたさ、顔は好みだったし、身体の相性もよかった……、あいつだって楽しんでいたはずだ」
 こんなに恐ろしい顔はみたことがない。それぐらい、殺意のにじみ出た横顔で一保さんが言った。
「屑が」
「だめだよ、この人を殺したって、あなたの人生が台無しになるだけだ」
 おれが後ろから一保さんを抱きしめると、彼は一筋の涙を流した。
「そんなものは愛じゃない。お前は微塵も彼女を愛しちゃいなかったんだ。利用して、搾取して、いらなくなったら捨てた。彼女はバケモノみたいなお前のことを全部愛してくれていたのに」
 男は慌てて弁明を始めた。どれも聞くに堪えない言い訳だったけれど、一保さんのものすごい力に怯えて必死だった。おれは一保さんを抱きしめ続け、男の弁明の声が小さくなってきたころ、ようやく手を離した。
 誰かが見ているのではないか、と周囲を見渡したが、何人か会場でみかけた、知可の会社の人間が、青ざめた顔でこちらを凝視していた。けれど、警察を呼ぶ気配はない。それぐらい、一保さんの表情は恐ろしかった。
「認めろよ。自分がクズだって。きれいごと言うなよ。気持ちに嘘ついてキレイな物語にしようとすんな。死者への冒涜だ」
 立ち上がった一保さんは、男のみぞおちを上から強く踏みつけた。小さい悲鳴が聞こえる。
「そこにいるそいつ。星野成一、おれが好きな男なんだけど、どこが好きだったか分かるか?」
 突然自分の話になって、おれは呆然とした。一保さんは真剣な、おれと男にだけ聞こえる程度の声で続けた。
「おれはさ、そこの品のいい顔した男、テーブルマナーだって完璧なそいつが、白いシャツ着てるときに限ってトマトソース飛ばしちまうのが好きだった。なんか飛ぶんだよ。すげえ気を付けて食ってんのに絶対飛ぶんだ。たっけえシャツにシミついてさ、めちゃくちゃ情けない顔で「またやっちゃった」って言うんだ。そういうところが、たまらなく好きだった」
 一保さんは、ひとでなしの男の襟首をつかんで上半身を引っ張った。それから顔を近づけて言った。
「セックスしない日は手を繋いで眠りたいとか言ってくんだ。何歳だよ。かわいいかよ。めっちゃつないだわ。ガキかよって思いながらも愛しくてたまんなかった。普段はキリっとしてんだぜ。思いやりも気遣いも人一倍あるやつだから。でもおれにだけ、」
 顔が熱かった。胸が苦しい。
「おれにだけ、情けない顔も甘えた顔も見せてくれる。だめなところも弱いところも、成一を構築しているかけらのひとつひとつ、全部が好きだ。愛しいよ。そういうもんじゃねえのか、愛って。なあ、違うかよ?」
 言葉が出てこない。目頭が熱くて、涙が止まらなかった。
 こんな言葉をもらう資格が、本当に自分にあるのだろうか。――なくてもいい。
「いた、一保くん……って何してんの!?」
 走ってきたのはルカさんだった。状況が呑み込めなくて目を白黒させている。
「やめなよ、ちょっと。うわやばい。人が集まってきた。星野さん、一保くん連れて逃げて!」
 おれは肘で顔をぬぐって、一保さんの腕を掴んで走った。言葉どおり、その場から逃げ出したのだ。

***

 
 もういいだろ、と後ろから声をかけられて、ようやく気付いた。混乱してずいぶん遠くまで走ってきてしまっていた。
「知可の見送り、おれたちでちゃんと、別でしてやりたい」
「うん、そうだね」
「なんだよお前……、泣いたのか?」
 湿気を帯びた風と潮の匂いで、海辺まで来てしまったことに気づく。
 腕を離さずに、防波堤の上を歩いた。彼はまるで猫のように軽やかに飛び乗り、ぐっと腕を引いて、おれに立ち止まるよう促した。
「大丈夫じゃないんだろ」
 手を繋がれた。温かい手だった。かつて何度も、数えきれないほどつないだ手だ。嬉しい気持ちで、悲しい気持ちで、切ない気持ちで、あたたかい気持ちで、彼の手をつないだ。
「……何もできなかった。知可のために、何もできなかった。おれもあの男と同じだ」
 海にはまぶしいほどの太陽が降り注いでいた。水面が、眼を開けていられないぐらい白く輝き、地平線を縁取っていた。
「成一、それは違う。彼女が愛していたのはあのクズだったんだ。どうしようもない男を、どうしようもなく愛してしまってた。あの子の恋愛は、コンクリートに水をやってたみたいなもんだった。辛いし、苦しいけど、それが事実だ」
 一保さんの視線は哀しいぐらいにまっすぐだった。だから涙がまた出てきて止まらなくなった。
「どうしてだろう。どうして幸せにはなれないってわかっていても、その人をあきらめることができないんだろう。そんなのってあんまりじゃないか」
 彼の髪が潮風になびいて、鈍く光った。
「仕方がないんだ。愛してしまったら。それを他人が不幸だとか、可哀そうだとか、判断を下してなかったことにはできない。彼女が選び、そうした。その時間や献身を、おれたちが否定しちゃダメだ」
 否定されて断罪されるのはあのクズだけだ、と一保さんが吐き捨て、おれはこどものようにこっくりと頷いた。
「座らねえ?おれ四国から車で来て、ちょっとばかし疲れてんだよな」
 防波堤を少し歩いたところに、休憩場所が用意されていた。屋根とベンチがあって、海を眺めることのできる場所だ。彼はそこを指さし、おれの手を引いた。この時間がずっと続けばいいのに、そんな風に思いながら彼の後を歩く。
 後ろから、穴があくんじゃないかというぐらい、彼を眺めた。美しい黒髪の、以前金色に染められていた部分は黒に戻り、海にいたころのように、首筋が健康的に日焼けしていた。
「あっちいな、こんな日の正午に海の側にいるとか、狂ってるよ。何やってんだおれら」
 一保さんはベンチに腰掛け、海の方を見てから、おれのほうへ顔を向けた。それから苦笑いして、おれの頬を指でぬぐった。
「痕のこってる。これ使え」
 真っ白なハンカチを手渡されたが、持ってるから、と首を振って自分のポケットからハンカチを出し、顔をぬぐった。
「一保さんは、知可の通夜のためにきてくれたの?」
 彼はまじまじとおれを見てから、指でおもいきりおれの額を弾いた。……ものすごく痛い。でもこの痛みすら懐かしくて甘いのだから、おれは相当いかれている。
「はがきおくったろ。まさか読んでねえのか」
 はっとした。そういえば、上着のポケットに入れたはずだ。まさぐって慌てて取り出すと、そこには『今週末会いに行く』とだけ書かれてあった。
「……週末じゃないよね」
「こんなことがあったから前倒しにしたんだよ」
 何も分からなかった。
 いや、希望を持っていいのだろうか。さっきの言葉だけでも、一生抱きしめて生きていけそうなぐらい嬉しかった。もっと望んでもいいのか。
「ダメなんだ。どれだけ時間がたっても、一保さんのかたちに穴が空いたままになる。ずっと心が痛いんだ」 
 一保さんの肩を抱くと、あのきれいな、黒々とした目がおれを射抜いた。ただ目が合っただけで、ずっと感じることのできなかった、彼だけがおれに与えることのできる高揚感が、全身を貫いて通り過ぎていく。

「もう一度、おれを選んでほしい。ダメだとしても、おれはあなたのことだけが好きだ。たぶん、死ぬまでずっと」

「いいよ」

「…………、えっ?」
「だから、いいよ。おれも離れてみて分かった。お前じゃないとダメだって」
 じゃあ、メシ食いにいこうか、とあくび混じりに言って立ち上がった彼に、おれはもう一度大きい声で「ええ!?」と叫んだ。
「世界でたった一人の片割れ。それが成一なんだってわかったとき、腹くくろうと思ったよ」
 目が合う。ゆるく目を細めた彼は、おれが大好きな笑顔でこう言った。

「切れてしまった糸を、今度は切れないように結び直せばいい。毎日すこしずつ積み重ねていこう」

 一緒に寝て、一緒に起きて、ごはんを食べて、たまにはケンカもするだろ。つらいことがあったらそのたびに打ち明けて、ふたりで作っていこう。
 前よりも強くなるように。
「生活は恋じゃなくて愛で、愛は積み重ね、だろ?」
 おれも立ち上がって、彼の隣に並ぶ。
 
 あなたの強さが好きだった。やさしいところも。喪失に臆病で、それなのに虚勢をはるところも。寝相が悪くて寝言がひどいところも、寝癖がつきやすいくせっけも。
 おれも同じだったんだ。あなたを構成しているもの、そのかけらひとつずつが愛おしい。生きていてくれて、本当に嬉しい。
「あなたがいたら、無敵だと思ってた。そう思いたかった。けど気付いたんだ。無敵の人間なんていない、傷つく時も逃げたくなる時もある。誰にだってあるんだって」
 一保さんが瞼を伏せた。彼の下瞼の縁がしっとりと濡れている。それだけでもう、おれは心臓がギュッとなった。
 おれの心臓をあなたに差し出したい。そうすればわかってもらえるだろうか。おれが生きていくためには、どうしてもあなたが必要なんだってことが。
「痛い時は痛いって言えばよかった。寂しい時は寂しいって、成一に打ち明けたらよかった。後悔したよ、何度も。強いフリしたり逃げたりすんのはもうヤメだ」
 急に険しい顔になって、一保さんはおれの胸を強く叩いた。呼吸ができなくなるほど強く。それから、大きい声で叫んだ。
「お前があの人と寝て、ものすごく嫌だった!!悲しかった、傷ついた、信じたくないと思った!!ひどいよ、お前、こんなにおれを好きにさせて、お前なしじゃ生きてるかどうかすらわかんない、そんなふうにしといて、マジでふざけんな!!」
 叫んだ後で、彼こどものように声を上げてうわーと泣いた。骨が折れるんじゃないかってぐらい強く何度もおれの胸を叩き、抱きしめようとするおれの手を何度も振り払った。
「本当にごめんなさい」
 他に何を言えば良いのかわからなかった。あまりにも強い打撃に咳込みながら、おれは必死で謝った。
「寂しかったからってして良いことじゃ無かった。でもあのときは、気が気じゃなかったんだ。あなたの心が自分から離れていくのがわかって、どうすれば良いのかわからなかった」
 そんなのわかってるよ、おれだって悪かったよ、でも、忘れらんない、と彼は言った。
「店やめてから、おれは不能なんだ。どう頑張ったってたたない。お前のこと満足させてやることもできないかもしれない、それでもいいのか」
 無理やり抱きしめた一保さんの体は、熱くてとても硬かった。男性の身体だ。誰がどうみたって、彼は生き生きとした、かっこいい男性だ。
「あなたが生きていて、その姿を側でみつめることができたら、それでいい」
 一緒に住むことができなくてもいい。身体を重ねることができなくてもいい。別々の場所で、違う仕事をして、お互いに自分の足で立って歩いて、その上であなたがいてほしい。

「愛にだっていろいろある。なにも性愛だけじゃない、そうでしょ?」
 
 自分で言いながら、果たして我慢できるだろうか、と自信をなくしそうだった。
 なんとかそれを押し隠したつもりだったけれど、美しい目を見開いてから横にギュッと細めた一保さんが「さっそく自信なさそうにしてんじゃねえよ、バカ」と言って破顔した。

(おわり)
この後の話を少しだけ書く予定です。ありがとうございました。