20 Have You Never Been Mellow

「延命はしないでくれ」
 視線を上げる。付き添っているうちにいつの間にか自分も寝てしまっていたらしい。
「なんだって?」
「胃瘻はしたくない。食えなくなったら死ぬ、それは人も動物も同じだ」
 強い痛み止めのせいで意識はもうろうとしているはずなのに、はっきりした声で言った。
「頼む」
 おれの手を握る大きい手のひらはすっかり薄くなっていた。おれは店主の目をみて強く頷いた。
「分かった」
 安心したのか、彼は何度か頷いてふたたび眠りに入る。深い眠りだった。

 病室を出ると男が一人立っていた。見たことのない男で、暗くて卑屈な目をしている。
「こんにちは。彼のお見舞いですか?」
 盗み見るようにおれに視線をよこしてくる。返事がないので、切り上げるように言った。
「面会は18時までです。いま眠ったところなのでもう少し時間をずらしていただけますか」
「アンタ、ここ何年か兄貴の家に出入りしてるらしいな。何が目当てだ、店の土地か?あいにくあのクズには貯金なんかないぞ」
 通り過ぎようとした足を止める。深く息を吸い込んでゆっくり吐いた。ここは病院だ。人を殴る場所では決してない。
「あんたの兄貴が入院してから半年、闘病は1年半になるが、その間アンタの顔なんて一度も見たことないな。本当に弟だとしたら今まで何してたんだ、長いクソか?便器に尻がくっついてたとしか思えねえな」
 控えめに言ったつもりだったが、男は怯えたように半歩後ずさった。
「あそこの土地は、おれにも権利がある。親の土地だ」
「そうか。だったら兄貴が死んだらお前のものになるな。良かったじゃねえか。さ、出口はあっちだ、今すぐ失せろ」
 鼻先にギリギリ当たらないように脅しで右ストレートを見せてやると、男は「弁護士を雇うからな!」と言いながら走って逃げていった。
 

***

 雪が降っていた。ルカが先に病室に入っていて、花を生けたり、店主の話し相手をしていた。
「今日は顔色がいいな」
 ベッドを起こすと、店主は目を細めてへっ、と笑った。枕元には古いラジオが置いてあって、めずらしく音楽が流れている。
「懐かしい歌だねえ」
 ルカが笑って、メロディを鼻歌でなぞった。Have You Never Been Mellow、オリビア・ニュートン・ジョンの歌だ。確か1970年代に活躍したカントリー歌手。
 お前の本当の年齢は一体、いくつなんだ?問いかけたくなったが、心中にとどめておいた。
「良い歌は何年経ったって良い歌なんだよ」
 おれが言うと、店主は黙って窓の外へ視線を投げた。このあたりの冬はとても冷える、と聴いていたが、確かに神奈川とは雪の勢いが違う。
 曲が変わって、今度はスティービーワンダーの「Living for the City」に変わった。懐かしい音楽特集か何かか?
 指でちょいちょいと顔を寄せるよう指示され、背をかがめて耳を口元に近づけた。もう普通の声量を出すこともままならず、ささやくような声で話すのが精一杯なのだ。
「めいわく、かけたな。あいつが、きたんだろ」
 空気を察したように、ルカが「飲み物買ってくるね」といって病室から出て行く。その後ろ姿を見届けてから、おれは首を振った。
「あいつは、おれを、うらんでる。おれが家を出たせいで、町工場なんて継がされたって」
「フン。いやなら弟の方だって家放り出して逃げりゃよかったんだろ。負い目に思う必要なんかねえよ、あんたらしくもない」
 おれが即座にそう返すと、彼は空気だけで笑った。
「あの店をやる。でも、きがすんだら売って、旅立てよ」
 まるで遺言のようだった。縁起でも無い、と笑い飛ばすには真剣な表情だったので、おれは黙って店主の手を握った。
「止まり木、みてえなもんだ。わかるか?」
 有難い申し出ではあったが、受け入れるわけにはいかなかった。
「気持ちは嬉しいけど、おれにそんな権利も資格もないだろ。ただの流れ者なんだから」
 店主は深いため息をついた。それはとても長い、洞穴に向けて息を吐いたみたいな深さだった。
「この2年、たのしかったな」
おれは目を伏せて笑った。
「美化すんなよ。ケンカばっかしてたろ」
店主は俺を睨みつけ、どうしてお前が来たんだったかな、と囁いたのでありのままを伝えた。
「あんたが外国人の客の注文に四苦八苦してて、たまたま店にいたおれが助けて差し上げたんだよ。忘れたか?」
「そうだった」
仕事も行くところもなかったおれを拾って、そのまま店に雇い入れるなんて、今考えるとどうかしている。
「なんで雇ったんだ?」
「こまってたろ」
それだけで理由になるのかよ、と言いかけてやめた。多分なるんだろう。だからおれは、この口の悪い店主が好きだった。
「おれには家族がいなかったが、息子がいたらこんな感じかと、よく想像した」
 初耳だった。やめろよ、と言おうとしても声がうまく出なかった。
「さっき、オリビアの曲が流れてたが」
 曲名を伝えると、店主は目を閉じた。
「おれが若い頃の曲だ。金髪のきれいなねーちゃんが歌ってて、それだけで聴いてた」
「不純だな。良い歌なのに」
 どんな歌詞だ?と問われて、おれは言った。
「あくせく働いてるアンタみたいな人に、オリビアが言うんだよ。少しゆっくりしたらどう?歌を歌ってハッピーになったり……」
 ううん、と考え込んだおれに、店主が掠れた声で言った。
「コーヒーをいれたり?」
 笑って同意する。
「そう、コーヒーをいれたり。手を握ってくれる誰かが、アンタには必要だ、そういう歌だよ」
 そうか、と店主。知らずに聴いてたのかよ、と憎まれ口を叩いてからサビの部分を歌うと、店主はうれしそうにゆっくり瞬きをした。
「映画もいっぱいみたな」
 彼の声が小さくなっていく。握る手を強くして、その声に耳を傾けた。
「解釈でしょっちゅうケンカしたけどな」
いかないでくれ、と、とうとう声に出してしまった。店主はぼんやりとおれを見つめて、「グッドウィルハンティング。覚えてるか」と苦しそうに言った。
「ああ、アンタとみた映画は全部覚えてる。若いマット・デイモン、最高だったな」
握った手から力が失われていく。
 ルカを呼ぶと、彼女ははじめからこうなることが分かっていたみたいに、落ち着き払った様子でおれの隣に座った。
「あの映画のラスト、みたいに、ある日突然いなくなってるお前をみたかったよ」
 気を抜くと涙と鼻水が出てきそうだったので、歯を食いしばって言った。
「いつまでもこんなところにいたらぶん殴るっておれに言うのか?」
「ああそうだ」
 だいじょうぶだよ、とルカが言った。
「わたしがちゃんとみてるから」
 彼女がそういうと、店主は安心したように唇の端を笑みの形にした。

「頼んだ」