19 苦い人生

 こんなに猫がいる場所に来たのは生まれて初めてだ。
 なにしろおれは長い間犬派だった。いつか飼うなら、絶対に保護犬だと決めていた。あのつぶらな、黒目がちなきれいな目。賢くひとなつこい様。散歩だってトレーニングになるし、ちゃんと名前を呼べばこっちに来る。
『村山、こちらは作業完了した。どうぞ』
 超音波無線から、一緒に潜水作業しているダイバーの声が聞こえてきた。
『了解。こちらも終了した。まもなく浮上する。船上への連絡はこちらが行う、どうぞ』
 

 四国の海に潜るのは初めてではないが、海上保安官として救命のために潜るのと、海中作業員としてコンクリートを打設したり溶接作業したりするのとでは全然違う。あの頃は、海の色や透過具合に注目している暇などないのがほとんどだった(仕事上必要な場合を除けば)。けれど今は、作業の合間に顔を上げて、水面から差し込んでくる光の粒子に目をこらすぐらいの時間はある。
「お疲れ様。ねえ、あの件考えてくれた?」
「いや……もう少し時間を頂いても良いですか。決めかねていて」
「まだ試用期間だしね。もちろん待つさ。でも、悪い条件じゃない。むしろ、破格の好待遇と言ってもいいぐらいだ。なあ、木原」
 水中30メートル下での作業を終え、おれとバディの木原、それに磯部は、海辺の防波堤に座り込んでタバコを吸っていた。たくさんの猫がおれたちの周りにやってきては、タバコの煙に顔をしかめて距離を置く。だが中には奇特な猫もいて、のろのろと歩いてきたかと思うと、防波堤に足を投げ出して座っているおれの膝にどっしりと座り込んできた。ずっしりと重く、それでいてあたたかく、さわると液体のように柔らかい。
「村山ァ、おれの初任給教えてやりてえよ。手取りで言えば18万ぐらいしかなかったんだぜ」
「そうだそうだ。おれなんか高卒採用だから手取りなんて14万ぐらいだったよ。どうやって暮らせっていうんだって途方にくれたもんだ」
 木原と磯部が抗議するのを、作業責任者が手で制する。
「村山の経歴を考えりゃあ分かるだろ。何しろ海上保安庁の潜水士様だぞ。それも海上保安大学校卒」
 からかうように木原が続ける。
「乗船歴も長いし、一級航海士の資格だって持ってるしな。あ、いまは海技士の航海っていうんだっけか」
 おれとこいつは、あまり折り合いが良くない。木原は悪い人間ではないのだが、学歴コンプレックスをこじらせており卑屈なところがあって、おれの経歴や容姿を良く思っていない。
「小型船舶どころか、でかい船まで操縦できる。おまけに見ての通り、イケメンときた」
 磯部は面白がった様子で煽ってきたが、おれは黙って猫をなで続けた。はじめの頃と違って、遠慮することなく、それでいてやわらかい手つきで額をくすぐる。猫は気持ちよさそうに首を回し、他の場所も撫でるよう催促した。
「水中作業だってお手の物だしな。なあ、試用期間なんか飛ばしちまってかまわないって上は言ってるから。な?前向きに検討してくれ」
「ありがとうございます」
 猫。あまりにやわらかい身体と、片手におさまる小さい頭骨がおそろしく、この島の作業が始まった頃はおそるおそる触ることしかできなかったのだが、慣れると猫はとても愛おしい存在になった。彼らは静かで、争いを好まず、気配もなくそこにいる。自由に動き回っていて、見た目が美しい。
 どうしてまた海に戻ってきたんだろう、などと考える必要はなかった。結局のところ、おれは海から逃れられないのだ。
 木原から放出される険悪な雰囲気を感じ取ったのか、猫は膝から逃げ出し、少し離れた場所で毛繕いを始めた。クリーム色と白の虎模様をしている猫は、片耳が三角にカットされていた。
 去勢済か。おれと同じように。
 唇を舐める。
 シャワーは浴びたはずなのに、確かに海の味がした。

***

 小管海洋技術株式会社に就職したのは海保OBの紹介だった。
 潜水士として海中建設作業や海洋調査などを請け負うのが主な仕事内容で、前々職で得た技術がそのまま役に立った。
 海も川も山もない街から、極端な職場に変更となったわけで、しばらくの間おれは、過去の亡霊と向き合うハメになった。人命救助の幻影や、肌が焦げるような太陽の光、それに過去の恋愛などがちらつく日が続いたが、それもやがて慣れた。過去の連続が今のおれという人間なのであれば、逃れようとすること自体が愚かだったのだ。そう受け入れたほうが楽だった。
「また出て行きたそうな顔してる」
 滞在先になっている民宿の看板娘に話しかけられて、おれは苦笑しながら振り返った。
「ちょっと疲れてるのかもな。木原と磯部にしつこく風俗に誘われて断ったとこなんだ」
 うええ、と大げさに顔をしかめてから、看板娘はカラカラと笑った。
「そりゃそっか、ゲスな同僚から毎日風俗に誘われるんじゃうんざりするよね。まあ、こんなひなびた温泉街、風俗と温泉と酒、あとは釣りぐらいしか楽しみがないからさ」
 民宿は小さいが中庭がある。この宿自慢の温泉から出たおれは、ふるびた籐の椅子に座って、ぼんやりと中庭のししおどしと苔むした石を眺めていた。
「お客様、瓶ビールはいかがですか。団体の方がキャンセルになったので、今ならサービスいたしますよ」
「それはありがたいね。グラスはふたつ?」
「お返しとしてイケメンのお酌を受けられるってわけね。ご相伴にあずかります」
 海では夏の日差しが強く照りつけていたが、中庭は木が植えられていて、涼しげな夕暮れの木漏れ日が揺れていた。
 ――あれからもう一年。仕事をし始めてから、あまりにも一日が早い。
「あの木は……春楡?」
 看板娘のグラスにビールを注いでやりながら問いかけると、彼女は眉を上げてから頷く。
「そう。父が選んだシンボルツリー。私は桜を推したんだけど、花びらの掃除が面倒だとか、初夏になると虫がたくさんつくとか、父が反対したの。――緑は好き?」
 返杯されたビールを飲む。ハートランドビールはさっぱりとした後味で、一仕事終えた後にはちょうどいい。
「実をいうと、この仕事を始める前は世界各地の山を登ったりしてた。自然は大好きだよ。何しろ無駄なものがひとつもない。山で無駄なものといえば人間ぐらいだ。山に入るときは、いつも『お邪魔します』と肩身狭くいれてもらってたな」
 彼女は声をあげて笑った。
「元クライマーなの?結構筋肉ついてるよね」
「まさか。趣味で登ってただけ。山頂で飲むコーヒーは最高だった」
「素敵。その前は何してた?」
 おれは笑ってビールを注いでやってから、「人の過去ばかりききだそうとするのはマナー違反じゃないか?」と冗談半分に言ってやる。
 彼女は自分の膝を両手で打ってから、そうね、と言った。
「私は東京でエンジニアをやってた。大学を出てから7年ほどね。で、心が壊れた。だましだましパキシル飲んで頑張ってたんだけど、あるときプッツンして自宅マンションから飛び降りた」
 これそのときの傷。そういってスカートをたくしあげてみせられた膝頭には、大きい傷跡が残っていた。
「そのとき神奈川に住んでたんだけど、救命医の腕が良すぎて助かっちゃったんだな。意識が戻ってはじめてみた人間の顔がその主治医でね。すごく美しい顔をした医師だったの。ああこの人きっと何の苦労もなく、勝ち組イージーモードの人生送ってきたんだろうなあって思った」
 まさか、と思いながらも問いかけずにはいられなかった。
「もしかして、神奈川県由記市の救命センターか?」
「すごい。なんで分かっちゃったの?あたり。で、悔しかったし本当に病んでたんだろうね、絶対死んでやろうと思ってそれからも2回飛び降りたの」
 これがそのときの傷。そう言って見せられたのは、右足首だ。開放骨折の跡だろうか、やぶれた皮膚のような跡が残っている。
「そのときも死ねなかった。2回目のときは措置入院させられて、3回目は病院から飛び降りたんだけど高さがなくて捻挫しただけ」
 唖然としているおれに、彼女はあっけらかんとした笑顔をみせた。
「3回目のときね、どうなったと思う?」
「まさか、3回とも三嶋先生に助けられたのか」
 こんな偶然があるだろうか。いや、人生は、生きるというのはもしかすると、偶然と奇跡と不運と幸運が奇妙に絡み合って転がるように進むものなのかもしれない。
「知り合いなの?!ま、いいか。そうだよ。全部三嶋先生が助けてくれて、でも3回目のときはものすごい剣幕で怒鳴り散らされた。関西弁でね。顔に似合ってなくてすごく笑っちゃったな」

 死ぬんやったらおれの手の届かんところでやれや、少なくともこの街では、絶対に死なせへんからな。絶対に、何度でも助けたるからな。いい加減諦めてイヤイヤでも生きろ!!
 ってね。

「心を病んで、自殺未遂繰り返してる人にこんなこと言うなんて医師としては失格じゃない?」
 空気の抜けるようなため息しかでなかった。あの人の強さは、一体どこから来るんだろう。
「でも、私は救われたの。もう諦めようって思った。きっと三嶋先生が助けてくれる、そう考えて自殺未遂繰り返してたんだろうね。先生からすれば迷惑でしかなかっただろうけど」
 それで、仕事を辞めて実家に帰って、看板娘をやってる。結構合ってるみたいよ、予約システムだって私が作ったし、それですごく予約は増えた。最高のUIで作ってやったからね。
「私の話は終わり。あなたは?」
 彼女のあっけらかんとした笑顔の裏に、そんな人生が隠れていたなんて思いつきもしなかった。
「どうせ信じやしないよ」
「言ってみて」
 ひとは皆、人に言えない悲しみをひとつやふたつは抱えている。弱さに揺れ、過ちを犯し、苦痛のほうが多い生をなんとかこなしている。そう思うと、心の底がじわじわと燃えるような気がした。