20 人が恋に落ちるのは、万有引力のせいではない

※影浦の秘書、三城視点の影浦と成田です。 

 三城、とわたしを呼び止める声は、まるで声の仕事を生業にしてるみたいに色気と湿度のある美声なのだが、振り返るとげんなりした。
「ちょっと来い」
 顎をしゃくられて溜息をつく。無視したいところだが、彼はわたしの雇用主なのでそういうわけにもいかない。
「はい、すぐに」
 目の前でわたしに魅了されている、若い営業の男性に申し訳なさそうに微笑み、その場を後にする。彼は代表が呼びつけてきた接客室に入るまでわたしを見ていた。間違いない。視線を背中に感じた。ドアを閉める直前、上司である成田さんに「仕事しろ」といって書類で頭をはたかれていたけれど。
「お呼びでしょうか」
 我らが会社の代表様、影浦仁は、三つ揃えのスーツ姿で窓辺に立って外を眺めていた。ブラインドのすきまから差し込む光が、彼の美しすぎる横顔を物憂げに演出している。肌の色が白いので、まるで輝いているみたいにみえた。
「二週間先に予定しているドイツの出張だが、滞在期間が長すぎる。半分に調整し直せ」
 こちらに振り返った代表……、いや、鬼、悪魔の仁くんは、平然とそんなことを口にした。――なんですって?この時期にリスケ?きき間違いかしら。
「チケットも宿もすべて手配済なのですが」
「取り直せばいい」
 こめかみに力が入って頭痛がしそうだった。わたしはばれないようにそっと拳を握りしめながら言った。
「簡単におっしゃいますが、現地の調整は容易ではありませんよ。ご存知だと思いますが。理由は何です」
 仁くんは肩をすくめてから言った。「長い。日本をそんなに長く離れるわけにはいかないんでな」
 わたしは頭の中で仁くんにジャイアントスープレックスを決める妄想をして心を整えた。
「ご予定のない期間に調整させていただいたはずです」
「予定変更はいつも突然だ。羽瀬が……、」
 とつぜん出てきた羽瀬代表の名前に、私は首を傾げた。
「ニューヨークに長期滞在中の羽瀬代表ですね。どうされました?」
 仁くんは言いにくそうに顔をゆがめ、舌打ちをした。
「予定を切り上げて戻ってくるそうだ」
 苦い顔をしていても仁くんの顔は完璧だった。
 わたしは長い間返事をすることができなかった。目の前の仁くんは本当に仁くんなのだろうか?許嫁がいるのにわたしの友人すべてと寝た、貞操観念も社会的常識もモラルもすべて顔面偏差値に持っていかれた、ソシオパスぎりぎりの従兄、そういう認識が木っ端みじんに吹っ飛んでいくのを感じる。ただの恋する男の顔をさらして、そのためにわたしの仕事を増やすと言ってくる。
「羽瀬が戻るならおれは日本に滞在する必要がある。あいつはおれのものにちょっかいをかけることに無上の喜びを感じるらしいからな」
 いろいろな言葉が頭に浮かんだ。マジで言ってます?恋愛で脳が腐ったんですか?
「仕事最優先で成果を出してきた、そういうところが成田さんの心をとらえたのではなかったのですか?」
 わたしの言葉に、仁くんは顔をしかめて吐き捨てた。
「成田は関係ねえ。自分の持ち物に他人が手を出すことが許せないだけだ」
 だから、成田さんに羽瀬代表が手をだすかもしれないから、それが心配だから日本にいなきゃいけない、って言いたいわけですよね。ハッハア!!ふざけんなバーーカ、顔が良ければなんでもゆるされると思うなよ、このクズ!!
 わたしの殺気を感じとったのか、仁くんは妥協してやっているとでも言いたげに肩をすくめた。
「何もいかないと言ってるわけじゃない。期間を短くしろと言ってるだけだ。――以上、おれの指示は終わり」
 出ていけ、とドアを指さされる。いい根性してるわー、本当にこれ、給料が安かったらとっくに辞めてますね。それもふつうに辞めるんじゃなくて、仁くんの股間を全力で蹴り上げて使い物にならなくしてから辞めますね。

 殺気立った様子で電話とメールをしまくっているわたしをみんなが遠巻きに見ている。きわめて同情的な視線だ。代表のわがままに一番振り回されているのがわたし(次が成田さん)なので、「本当にお気の毒に」という視線をありありと感じることができた。どうもありがとう。良ければ手伝ってくださる?
 様々な調整をひと段落させたころには、日がくれていた。代表に呼び出されたのが朝一番だったので、実に丸一日を調整に費やしたことになる。
「お疲れさま」
 顔に影がさして、デスクにコーヒーが置かれる。弊社はフリーアドレスなので(席が決まっていないこと)、代表を含め、社員は毎日違う場所にパソコンを持って行って仕事をするのだけれど、わたしはだいたいこの場所に座っていた。
「成田さん、ありがとうございます」
 そう、つまり成田さんのすぐそばの席だ。
 彼は立ち上がってお礼を言おうとした私を手で制して、立ったまま自分も持ってきたらしいコーヒーに口をつけた。仁くんが無理やりあてがっている、フルオーダーのぴったりとした青いシャツが、厚い胸板や引き締まった腰を魅力的に引き立たせていてとてもセクシーだった。
 この会社に来て一番ラッキーだと思ったことは、成田さんがいたことだった。彼はわたしの理想をそのまま引っ張りだしてきたような外見と性格を持っていた。一目ぼれだった、と言っても過言ではない。
「また仁がなにか無茶を言ったのか」
 表情を曇らせた顔もまた素敵だった。成田さんは何も悪くない。完全無罪。悪いのはすべて、あのヤリチン変態我儘野郎の仁くんだけなんです。気にしないでください。
「いつものことですから」
 なんとかそういって微笑むと、成田さんが少し困ったような顔をした。かっこいい……。かっこいいのに可愛い。抱きしめたい。いますぐ入籍してほしい。

 入社してすぐのころだった。地震があって、ロッカーの上に置かれたものがわたしめがけて落ちてきたとき、成田さんはまったくためらわずにわたしの上に覆いかぶさって守ってくれた。落ちてきたのは女性社員のパンプスだったので、幸い彼にケガはなかった。
「あの、ありがとうございます」
「ケガがなくてよかった」
 男性からいやらしい目で見られることには慣れているつもりだった。実際、わたしは品がありながらもセクシーな服が好きだ。自分の顔や体の魅力をよくわかっているから、それを最大限引き出し、利用できる服装をよくしていた。
 でも彼は、至近距離でわたしを見ても、なんなら身体が触れ合っても、まるで興味がないような様子だった。わざと胸の谷間が見えるようにしたのに、彼はすぐにその場から立ち去ってしまった。
 ニコリともしない、それなのに人に慕われている彼。その理由はすぐにわかった。一見無表情にみえるけれど、成田さんは内にものすごい情熱を秘めている人だった。仁くんが認めて会社に引き入れただけのことはある。
 顧客の顔や性格、特徴を覚えるのが早い。商品説明が簡素で分かりやすく、相手の求めるものをそつなく提供できる。何より、見た目や雰囲気から想像できないほど気が強くて負けず嫌い。彼にとって、営業は天職なのだろう。 

「成田さんが上司で羨ましい」
 わたしがそうこぼすと、会社で一番仲のいい更科さん(営業、女性)がにこにこ笑いながら首を振った。
「成田リーダー結構頑固だよ。厳しいところもあるし。自分が仕事できるから、部下にも淡々と数字求めてくるし。――あの代表と親戚なことのほうが羨ましいよ!」
 一緒に残業をしてから軽く飲んで帰ろう、となることが多い彼女と、彼女の「恩着せ」の店で飲食をする。わたしたちは散々飲み飽きた自社のクラフトビールで乾杯してから、ワインのボトルを入れて話に花を咲かせた。
「あの代表って、仁くんのこと言ってる?今日わたしが残業した元凶だよ、よくそんなこと言うよね」
「でもあれだけきれいな顔で命令されたら聞いちゃうよ~~~、しかも影浦代表って笑顔出し惜しみしないもん。元気でないからスマイルください、っていったらウィンク付きで笑ってくれるもんね、大好き。一生ついてく」
 ここにも仁くん信者がいた。
 あの男のスマイル0円はときに高くつくわけだけど……まあ、知らなければ知らないで幸福なことなのかもしれない。
「上司交換してほしいよ」
 ため息まじりにいうと、更科さんは笑いをかみ殺した声で言った。
「うーん、親戚にはなりたいけど直の上司はいやかも。上司は成田リーダーでいいや」
「『成田リーダーで、いいや?!』贅沢者、あの胸板と腕まくりしたたくましい腕を間近に見られるなんて神の恵みと思いなよ。あと仁くんは見た目以外すべて最低最悪の男だからあんまり近寄らない方がいいからね。気を付けて」
 追加の注文をするために手をあげると、男性のウェイターが遠くから素早くかけつけてくれた。適当に注文をしてから笑顔をひとつ。彼は数秒わたしに見とれてから店の奥へと消えて行く。可愛い。成田さんがああいう男の子なら攻略が簡単なのに。
「代表と親戚だったら、間違いなく好きになっちゃいそうなものだけど。三城さんすごくきれいだし背も高いから、代表と並んでると迫力あるよね。顔も似てるからかな」
 空になったグラスをワインで満たす。こういうとき、仁くんがいつも言っている、「ワインは男が注ぐものだ」といういまいちよく分からないセリフが頭に浮かんでくるのだが、あれはつまりレディファーストの社会においての話なのだろう。仁くんは偉そうな男だけど、女性をエスコートすることにかけては抜群に上手い。「ハイヒールを履いた女を歩かせるな」とか「男が金を払うのは当然だろう。女は身支度に金がかかる」とか、一見男尊女卑のようなことを言うのだけれど、その実、わりと的を得ていたりもする。いくら男女平等、割り勘が普通になった社会といえど、そういうことが当たり前にできる男が洗練されているように見え、モテることに変わりはないのだった。
「全然タイプじゃないの。仁くんはとても美しいけれど、世界が滅びそうなとき、何もできなさそうじゃない」
 わたしの言葉に、更科さんが笑った。
「確かに、成田リーダーのほうがそういうとき頼りになりそう。……もしかして、好きなの?」
 心底驚いた、というように目を丸くする彼女に、私は軽く肩をすくめた。
「好きだった、だね。もうめちゃくちゃタイプで、ありとあらゆる手段を使ってモノにしようとしたけどダメだったの。こんなのってはじめて」
 更科さんは二の句が継げない、というようにしげしげとわたしの顔をみた。それから、「確かに、かっこいいけど」とだけ言った。何よ。わたしの男性の趣味に何か文句があるわけ?
「三城さんでもフラれたりするんだね……成田リーダーのくせに生意気だよ」
 わたしを励ましてくれている更科さんの言葉に笑顔がこぼれる。そうか、仁くんがあまりにも鮮烈すぎて、隣にいる彼は地味に見えるのだろうか。わたしにとってはあんなにも非凡で、かっこよくて、輝いてみえるというのに。
「告白したわけじゃないんだけどね。付き合ってる人がいることを知ってしまったの。偶然に」
 更科さんは体を前に乗り出して言った。
「奪っちゃいなよ。できるんじゃない?あなたなら」
 普通の相手ならそうしてたんだけどなあ〜〜と大いに嘆きたくなった。あまりにも恋敵が強敵すぎるのと、成田さん自身の好みに自分があてはまらないのだ。こればっかりは、どれだけ努力してもどうしようもない。
「無理なんだよね。はあ、いっそ好きになったのが仁くんなら、弄ばれる女のひとりぐらいにはすぐなれたと思うんだけど。いかんせん、あの頑固で一途な成田さんが好きだからね、どうしようもないよね」
「そんなに代表って女癖悪いの?」
 わたしの言いっぷりに、更科さんが眉をひそめる。そうそう、大いに警戒すべきよ、あの男は。
「そうだよ。なぜか恨みを買うことはないんだけどね……最近は」
 仁くんは一夜限りで女を捨てるけれど、その一夜にたっぷりと夢をみさせ、相手に(ほとんど)恨まれないのだ。それは過去、女性を弄んだ結果、わたしに「多大なる迷惑をかけたという借り」があるから。そのことを思い出すといまだに腸が煮えくり返るし仁くんを去勢すべきでは?という気持ちに駆られる。 

※※※ 

 

 初めて仁くんをみたのはまだ小学校に入る前のことだった。
 当時から群を抜いて美しい子供だった。長いまつげは色素が薄く、ふわふわとしていて、それなのに目を見ると聡明な子だとすぐにわかる。白くて丸いほおは薄桃色をしていた。気品のある、正統派の美少年だ。親戚の女の子は、みんな仁くんのことが好きだったと思う。
 わたしは――少し彼に同情していた。仁くんには自由がなかった。まだ子どもなのに、習い事も将来の道も、愛する相手まで決められていて、かわいそうな子だと思っていた。
 仁くんはすべての親戚と「礼儀正しい」距離を置いてつきあっていたのに、私に対してだけはあけすけだった。おそらくほかのこどもたちがしないようなこと、つまり意見をするということを、物怖じせずにしていたからだろう。海外生活が長かったことが物珍しさを呼んでいたのかもしれない。
 自分を好きにならない女が珍しかったのか、わたしは仁くんと友人になった。彼のご学友(いつも皮肉をこめてこう呼んでいる。彼らは幼稚舎からずっと同じメンバーだ)を紹介してもらって一緒に食事会をしたり、わたしの友人を紹介することもあった。通っていた学校がお嬢様学校だったので、わたしの友人たちは揃いも揃って大人しくて品のあるご令嬢だったけれど、彼女たちは異性に免疫がなかったので、もれなく仁くんを好きになった。そして大学3年のとき事件は起こった。

「影浦さんと連絡がつかない」
 そういってさめざめと泣いた友人をみて驚いたのは私だけではなかった。その場にいた、同じ女子高から持ち上がってきた友人たち(4名)が全員真っ青になって悲鳴を上げたのだ。
「嘘でしょ、あなたもなの?!」
「わたしはまだ連絡を取り合っているから、あなたたちと同じじゃない」
「あなただってもうまもなく捨てられるのよ」
 敷地内のカフェテリアで突然始まった女同士のつかみ合いのケンカに、わたしは呆然とするほかなかった。さめざめと泣いていた彼女も、いつの間にかそのバトルに加わっている。止めることをあきらめて、私は足を組んで飲みかけのアイスティーを飲み干した。周囲が騒然とし、誰かが仲裁に入って彼女たち全員が泣き叫んでいても、わたしの明晰な頭脳は冷静だった。
 油断ならないと思っていたけれど、あの男。
 従妹の友人全員と寝るとは。信じられない。
「これは高くつくわよ、仁くん」
 胸ポケットに隠してあったタバコを取り出し、火を点けてから煙を深く吸い込む。いまだに甲高い声で言い争っている彼女たちに煙をフーッと吹きかけると、全員が咳込んだあとでわたしを強く非難した。
「ちょっと!?どういうつもり」
「あなたタバコなんて吸ってたの?」
 わざとヒールの音をたてて立ち上がると、その場が急にしんとした。
「ひとりの女を共有した男のことを穴兄弟、なんていう下品な言葉があるけれど。さしづめあなたたちは棒姉妹ってところかしら。醜い争いはおやめなさいな、姉妹なのだから」
 彼女たちは息を飲んだあと、顔を赤くしてわたしを罵ろうとし、それが仁くんに伝わることを恐れて黙り込んだ。あんな男をまだ好きだなんてどうかしている。
「この件はわたしに任せてくれない?彼に事情をきいてみるから」
 まるで本命彼女のような言い分に、彼女らが鼻白んだのが分かる。けれど結果的にわたしを頼るしかないので、しぶしぶ言うことに従った。
「これを機に、男を見る目を養うことね」
 わたしがこのような捨て台詞を吐いたのには理由があった。まもなくイギリスに留学する予定であったことと、こんなバカな女友達は全員いなくなっても構わない、という打算だ。責任を感じてはいるので、仁くんに落とし前はつけさせるけれど、それで彼女たちとの付き合いも終わりにしてやる。 

 仁くんは全く言い訳せず、悪びれる様子もなかった。抱いてくれと頼まれたから抱いてやった、思い出がほしいとしつこくつきまとわれた、食事に連れて行ってほしいと何度もいわれて数回付き合った、など、状況を細かく確認してメールのやり取りなども見せてもらった結果、確かに仁くんが彼女らを騙して乱暴したというような事実はなかった。強いて言うなら「ファンを食った」という状況に近い。これがアイドルならSNS炎上の上処分ものだが、始末の悪いことに仁くんは一般人なので、何の批判も浴びることがない。——倫理観という観点以外では。
「あなたには倫理観とか貞操観念というものがないの?!セックスは好きな人とするものでしょう!」
 わたしの言葉が終わるより少し前に、仁くんは首を傾げて笑った。それはそれは優雅なしぐさで、殿上人が平民を前に「愚かなことをいうものぞ」とでも言いたげな表情だった。
「おれは他人に恋愛感情を抱いたことがないが、勃起はするぞ。恋愛感情を抱いたことがあって、その人間と「お互い以外とは寝てはいけない」という約束のようなものがあればおれの行為は責められても仕方がないが、そもそもおれは誰のものでもないし、おれが寝た女も別におれのものじゃない。おれの倫理観のどこに問題があるのか教えてほしいものだな」
 なるほど、とわたしは思った。普通じゃない人間に普通のことを教えることがこれほど難しいとは思わなかった。これは、どれほど言葉を尽くしても無駄だろう。自分で痛い目に合うしかない。 

「そう。じゃあ行為の結末がどうなるか、自分で味わってみればいいわ」 

 携帯端末をポケットから取り出して、メールを一斉に送信する。そのメールには仁くんの家の住所と、プライベート用の別の携帯電話の番号、別荘の住所が書かれていて、送り先は仁くんが弄んだ女友達全員だった。 

****

 

 過去のことをかいつまんで更科さんに説明すると、さすがの彼女も絶句していた。そうね、それが正しい。
「今はまったく、そんな風に見えないのに」
 彼女は好きなアイドルのスキャンダルを耳にしたかのように落ち込み、肩を落として帰って行った。その後ろ姿をみていると、余計なことをいってしまったような罪悪感にかられたけれど、わたしは正しいことをしたのだ、と首を振る。仁くんが、会社の同僚(それも、とてもいい子)に万が一でも手を出したりしないように、必要な情報提供は今後も積極的に行っていく所存である。
 おしかけて来た女4人に、仁くんどういった復讐を受けたのか。詳細までは知らない。ただ、その後二度とわたしの周囲で遊びまわるようなことはなくなったので、彼なりに懲りたらしい。隠すのが上手くなっただけかもしれないけれど。
「コーヒーでも飲んで帰ろうかな」
 表通りに出る。酔いを醒ますためにぶらぶらと歩いていると、コーヒースタンドが目に入ってきた。
 せっかくなので立ち寄って、カフェラテを注文した。アルコール以外の飲み物は基本、ホットドリンクしか飲まないわたしは、筋金入りの猫舌だ。ふうふうと冷ましながら近場のベンチに座る。顔を上げて、しまった、と後悔した。酔っていたのか、自社の目の前まで戻っていたのだ。
「最悪」
 しかも、立派なビルの入り口から颯爽と出てきたのは、さきほど散々罵っていた対象者、天上天下唯我独尊男の影浦仁。嘘でしょ。こんな偶然ある?
 みつからないように、ジャケットの襟を立てて顔を反らす。道路を挟んで向かい側なので、仁くんはまだこちらに気づいていなかった。
 仁くんは昔からの習慣で、公共交通機関をほとんど利用しない。彼の育った環境下においては、それが常識だった。トラブルに巻き込まれるのを避けるため、誘拐のリスクを回避するため、他にもいろいろと理由があるけれど、とにかく、彼が車に乗らずに外にいるということは、このあとに予定があることを意味する。会席だとか、会合だとか。曲がりなりにも会社の代表なので、仁くんはとても忙しい。
「今日は何も予定はなかったはずなのに」
 最も大切なものは時間だ、と言ってはばからない彼が、用もないのに会社付近をうろつくわけがない。が、仕事がらみならすべてわたしが把握しているはずなので、つまり……。
 周辺を見渡す。仁くんは、人を外で待ったりしない。特にプライベートでは。
 待つ必要がありそうなときは、自分の居心地のいい室内で悠々と時間を過ごし、相手を来させる。そもそも待つのが嫌いな人だ。
 それが、こんな夜更けに、外で待つなんて。相手はひとりしかいない。
 仁くんはイライラと腕時計を何度も眺め、ビルの前、歩車道境界柵にもたれるようにして立っていた。行き過ぎていく会社員の女性や男性が、みんな振り返って仁くんをみつめ、連れとはしゃぎながら通りすぎていく。黙って通り過ぎるだけならただの美しい無害な男なのよ。関わりさえしなければ。
 ビルの1階、ガラスの扉が開く。息を弾ませ、慌てた様子で走ってきたのは想像どおり成田さんだった。そこまでは別に驚きはなかったのだけれど、わたしが目を疑ったのはそのあと、仁くんの表情を見たとき。
 きっと怒るのだろう、と想像していた。なにしろプライベートで仁くんを待たせる人なんて、これまでいなかったはずだ。仁くんは人を待たない。自分よりも好きな人なんてこれまでいなかったし、自分の次に大切なのは時間だったから。
 それが、成田さんをみたとき。
 その姿を認識したとき、彼の横顔は息苦しそうな、けれどどこか満たされたような、待ちわびたものにようやく出会えたかのような――、いままさに恋に落ちたかのような顔をしたのだ。
「あらあら……まあまあ……すっかり恋しちゃってるじゃない」
 写真でも撮ればよかった。その表情はごく一瞬で、成田さんを目の前にすると不遜な笑顔に変わってしまったのだけれど、こんなかわいい顔をみられる日がくるとは思わなかった。