19 起きろ鈴木

ピースオブケイクに出てくる、三嶋顕が医師として出てきます。
成田が実家に帰ろうとした日に起こった事件。基本は影浦×成田です。

 目の前で突然人が倒れたとき、おれはとっさに時計を見てしまった。今が何時で、この人を助けている時間はあるのか、そもそもおれに何ができるのか、一瞬で様々なことが頭の中を駆け抜けた。時間にすると数秒だったと思う。
「大丈夫ですか」
 地元に帰って来たのは久しぶりだったので、由記駅の構内がずいぶん整備されていることに感銘を受けていたのだが、そんな気持ちは吹っ飛んだ。時間なんかよりも命が大事に決まっている。
ホームに倒れ込んだ自分と歳が変わらないように見えるサラリーマンに声をかける。彼は突っ伏したまま応じず、倒れた拍子に切れたのか、頭部から血を流して倒れたままだ。
 誰か、と助けを求める前に、後ろから走ってきた男が「あなたはAEDを探してきてください」とおれに指示を出してくれた。返事をして駅員のところへ走り、事情を話して彼らと一緒にAEDを持参する。同じように「あなたは救急車の手配をお願いします」と頼まれた若い女性が、うろたえながらも端末を片手に電話をかけていた。
 濡れたような黒髪が揺れて、しゃがみこんでいた男の顔がこちらに向いた。――彼は、その顔を認識した人全員が息を呑むほど美しい顔をしていた。
「ここは通行の妨げになりますから、もう少しホームの真ん中に運びたいので手伝ってください」
 声は柔らかくて低く、落ち着いていた。年齢が分かりにくいのはその顔にシミやしわがひとつも見当たらないせいで、長年の営業経験から推察するに、おそらく30代半ばぐらいではないかと思われた。
 駅員の男性2人とおれの三人で、倒れている男性を担架に乗せ、仰向けの状態でホームの中心部分に運ぶ。運び終えると、美しい男がしゃがみこみ、男性の口元に耳を寄せた。おれは持っていたタオルを彼の頭に当てて圧迫止血した。スポーツをやっていたので、外傷の手当なら少しは心得があった。頭部の出血は幸いにもすぐに止まった。
 呼吸無し、と男がささやくと、駅員が慌てたように言った。
「あの、いま息を!しゃくりあげるみたいに吸ってましたよ」
「これは死線期呼吸ってゆうて、心停止直後にみられるもんで呼吸とはみなさへん」
 駅員が慌てて叫ぶ。「きゅ、救急車!」
 美形の男は頸動脈に指をあてて時計を眺め、心臓に耳をあてている。忙しい彼のかわりにおれが「さっきほかの女性が呼んでくれました。――野次馬が増えてきたので、そちらを整理してはどうですか」と返事をした。
 ちょうど帰りのラッシュ時間にあたっていたため、電車から吐き出される人が次から次へと周囲を取り囲み、じろじろと眺めてから消えて行く。なかには携帯端末で写真を撮ろうとするものまでいて、苛立ちのあまり「撮るんじゃない!」と怒鳴ってしまった。怒鳴られた若い男は首をすくめて逃げ出し、こういうとき顔が怖いと役に立つなと感じる。
 駅員のうち若い方のひとりが、通行誘導をはじめた。もう一人の男はおどおどした様子でAEDのフタを開いている。
「そこの君、時間をはかってくれへんかな。今からでいい。30秒ごとにおれに知らせて」
 美形の男が男性にまたがり、胸に両手を当てて心肺蘇生法を始めた。慣れた様子で手のひらを胸骨のあたりに押し付け、そんなに沈んで大丈夫かと心配になるほどの速度と強さで圧迫しはじめる。
「……30秒経過」
 おれの言葉を聞いた美形は、胸骨圧迫を止めてから男性の顎を掴んで上を向かせ、ためらいなく人工呼吸をした。
「君…ええと、名前は」
「成田です……1分経過」
「成田くんな。心肺蘇生変わって。おれはAEDを使うから」
 男が「リモコン取って」と同じぐらい当たり前のような口調でそういうので、はい!と返事をしてから青くなった。
「やったことがありません」
「大丈夫、指示するから。君が一番体格がいいし、持久力ありそうやからな。こっちきて!あ、おれは三嶋。ちなみに救急医なので安心してください」
 三嶋と名乗った男は、不安気にうろうろしている駅員のひとりにそう声をかけた。途端に駅員は目に見えて安心した様子をみせる。
 三嶋に指示されるがままに、男の横から心肺蘇生をはじめる。力が強いので肋骨を折ってしまいそうで心配だったが、「万が一折れても緊急時やし責任問われへんから安心して押し続けて」と淡々とした声で安心させてくれた。
「悪いんですが、ほかの人はちょっと立ってもらって、ジャケットか何かでこの場所を囲ってもらえますか。今からこの人のシャツを脱がせるかもしれないので、周りから見えないようにしてもらえたらありがたいんです」
 周囲で心配そうにしていた通りすがりの男女が、いわれたとおりジャケットをバスタオルのように広げながら立って、男の周囲を取り囲む。三嶋は力づくでシャツを破り前をはだけさせてから、白いパッドのようなものを胸部と下腹部に張り付けた。
『心電図の解析中です』
 機械的な音声がそう告げると、三嶋が少し大きい声でおれに言った。
「成田くん、一旦離れて。誰も触らないようにしてください」
 しばらくすると、AEDがピーと電子音を出した。
『電気ショックを与えてください』
 間髪入れず、まったくためらいなく三嶋がオレンジ色のボタンを押す。
「――よし、心肺蘇生法を再開、救急車が来るまで交代しながらやるぞ」
「はい!」
『心肺蘇生を再開してください』という声にふたたびおれが胸骨圧迫をはじめ、1分ごとに交代しながら救急車を待った。ときどき三嶋が叫ぶ「今何分?」に答えつつ必死で救命措置をしていたら、やがて救急隊員たちが走ってきた。彼らはおれに礼を言ってから三嶋の顔を見て「三嶋先生!?」と驚き、「驚いてる時間ないやろ!はよ運べや!」と叱られていた。
「おれが同乗するから、君は連絡先だけ置いて帰ってええぞ。お疲れ様でした」
 ストレッチャーを救急車に載せ終わってすぐ、三嶋は慣れた様子で後部座席に乗り込んでそう言った。おれは首を振って、倒れた男の荷物をすべて拾ってから隣に乗り込む。
「見届けたいので、行っても構いませんか」
 三嶋は眉を上げてから、それはもう、こちらの心臓が止まりそうなぐらい魅力的な微笑みをみせた。
「うわー、惚れそうなぐらいええ男やん。――隊長、発進して!」
 隊長と呼ばれた男が「了解!」と返してすぐに、救急車はサイレンを鳴らしながら動きだした。

 倒れた男の名前が「鈴木真一」だと分かったのは、病院についてからスタッフが荷物を確認したおかげだった。帰宅途中に突然倒れた鈴木には妻がいるが、妊娠しているため里帰り中で、すぐにこちらには来れない、ということだった。
 鈴木、頑張れ。まだ死ぬには早すぎるだろう、と同い年だと判明した鈴木を心の中で励ましながら、救命センターの待合所でじりじりと『手術中』と点灯している部屋を眺める。
 偶然なのかそれともわざとなのか、運ばれた病院は三嶋の勤め先だったらしく、初療室に運ばれていくストレッチャーに付き添いながら説明をする彼に、ほかのスタッフが「さっき職場を出たばかりなのに」「丸1日寝てませんよね、大丈夫ですか」と驚いた顔をしていた。三嶋自身は慣れているのか、「バイタルはさっき伝えたとおり。経過は隊長からきいて。着替えてくるから後よろしく」と言ってどこかへ消え、しばらくすると緑色のパジャマのような服(調べるとスクラブというらしい)に着替えてから初療室に駆け込んでいった。

 帰るはずだった実家の母から何度か電話がかかっていたので、一度外に出て連絡をした。「急用ができたから今日は帰れないかもしれない」とおれが言った後、しばらく重い沈黙が続いたが、根負けして「遅くなっても必ず帰るから」と付け加えると、「わかったわ」と納得して電話を切ってくれた。
 口数が少ない人間同士なので、「実家に帰ってきてほしい」と突然しつこく食い下がってきた母の真意をおれは知らないし、きかなかった。少し前に周平が「お義母さんの誤解、解いといた」と何気ない様子でおれに伝えてきたから、それに関することなのかもしれない。
 外は蒸し暑かったが、病院の中は少し肌寒いぐらい冷房が効いている。院内のコンビニで買ってきたホットコーヒーを飲み、電車での移動用に持っていた文庫本を開いた。こんなときに読書をするなんてどうかと迷ったが、おれが本を読もうが読むまいが、鈴木の容態が変化するわけではない、と思い直して黙々と読んだ。
 本は義父が出したもので、日本の音楽史に触れながら近年の傾向について書いていて、興味深い内容だった。彼の人間性やこれまでのふるまいについて思うところがないわけではないのだが、本が送られてくると必ず読んだし、感想をメールで送ったりもした。作家がどんな人間であろうが、書く本が面白いのなら仕方がない。音楽でも同じだった。ミュージシャンの人格や行動に全く興味がない。作る音楽さえ素晴らしければ、あとのことはどうでもいい。
 腕時計を確認した。病院に入ったのは確か午後七時過ぎだったと思うが、すでに九時を過ぎている。
 初療室での処置のあと、慌ただしく隣の手術室に運ばれていった鈴木の安否が気になったが、おれは彼の家族でもなんでもなくただの通りすがりなので情報を得ることができない。仕方がないと思いつつも、鈴木の妻はいつ到着するのだろう、到着したときその容体を妻伝えにでも確認することができるのだろうか、と気になってしまう。
 本を読んだり、携帯端末でニュースを読んだりしていると、着信が入った。それは影浦からの電話だった。忙しい影浦は電話をしてくる時間も深夜になりがちだ。
 移動してから電話を取ろうと考えていると、呼び出しが途切れた。メッセージアプリで説明しようと入力しはじめたところで手術室の扉が開いて三嶋やスタッフたちが出てきたので、慌てて途中で送信してしまった。
「ああ、成田くん。ずっと待っててくれたんや――こんばんは」
 おれの後ろに向かって三嶋が声をかけた。振り返ると、息を切らせた臨月に近いような妊婦が、涙を目にためて頭をさげた。
 鈴木の妻が容態や処置について説明を受けている間、おれは初療室近くの待合ベンチで焼きそばパンを食っていることしかできなかった。三嶋の様子から察するに手術や処置は成功し、一命はとりとめたものと思われるが、誰もはっきりとした説明をしてくれないので、説明が終わってから彼の妻に問いかけてみようと考えていた。
「こんばんは。あなたが心肺蘇生でつないでくれた人ですね。三嶋先生はいま家族に説明中ですかね?」
 話しかけてきた軽薄な雰囲気の若い医師に、そうです、と答えてから質問してみた。
「あの、彼の容態はどうですか」
 男はおおらかな様子で笑って言った。
「一命はとりとめました。VFのあと、処置が早かったのが功を奏しましたね」
 あなたのおかげです、と笑いかけられて、身体から力が抜けた。
「……VFって?」
 首にかかっている身分証を確認すると、『救急科 乾』という名前と、いささか軽薄ではあるが、整った彼の顔写真が見えた。
「ああ失礼。心室細動のことです。鈴木さんの持ち物から舌下ニトログリセリンが見つかりまして、狭心症を患っていらっしゃる方だったみたいなんです。異形狭心症を患っていると、VF、心室細動のリスクが高くなります。迅速な除細動とCPRが今回の人命救助につながったんです」
 影浦を思わせる、育ちのいい人間特有のおおらかな笑顔で、彼はおれをねぎらってくれた。
「三嶋先生が優秀な先生だからでしょう。まだ若そうなのに…私よりも年下じゃないかという若さで。すごいですね」
 おれの言葉に、乾医師はぱちぱちと瞬きをしてから顔をそむけて笑った。
「よく勘違いされるのですが、三嶋先生はもうアラフォーですよ。見えないですけど」
 驚いて声が出なかった。確かに立ち居振る舞いは落ち着いていて三十代のそれだと思ったけれど、自分よりも年上だとは思わなかった。
 三嶋、と頭の中で呼び捨てにしていたのをすぐに三嶋先生、と修正した。人間、見た目で年齢は測れない。
「でも安心はできません。心臓の状態があまりよくないので……今晩、明日あたりがヤマだと思います」
 声をひそめた乾医師が、椅子に置いたままの携帯端末を指さした。
「さっきからずっと、影浦という人から着信が入っていますよ」
 それでは、失礼します、と頭を下げて消えて行った乾医師に立ち上がって礼を言い、端末を確認した。影浦からの呼び出しはすでに切れており、折り返すべきだろうかと迷ったが、ちょうど三嶋先生が小部屋から出てきたので後回しにした。
「お待たせしてごめんなあ。ちょっとあっちでコーヒーでもどう?奢るから」
 近くでみると、息苦しくなるほどに美しい顔だった。黒く濡れた毛先のはねた髪と、知性を秘めた形のいい双眸、溜息をつきたくなるような、完璧な形をした鼻梁と口角の上がった薄い唇。
 圧倒されてしまって、頷くことしかできず彼のあとをついていく。本当にコーヒーを奢ってくれようとした彼から水を買ってもらい、『濃いめ』で抽出したカップのコーヒーをがぶがぶのんでいる三嶋先生とふたり、待合所に座った。
 夜の病院は静かで薄暗い。救急用の入口付近と、初療室や手術室の近辺だけ電気がついているが、おれのほかに待っている人は鈴木の妻以外見当たらない。
 しばらくの間黙って水を飲んだ。隣の三嶋先生も、何か物思いにふけっているのか、上の空でコーヒーを呷っていた。
 携帯端末が震える音がまた鳴り響きはじめ、手に取って眺めるとやはり影浦からだった。今は電話に出られない、と思いポケットに仕舞いこみ、三嶋先生が何か言葉を発するのを辛抱強く待った。

「――帰らんでええの?」
 顔に似合わないイントネーションだな、と感じながら首を振った。
「もう少ししたら帰ります。――あの、鈴木さんは今夜がヤマって本当ですか」
 三嶋先生が眉を上げ、それから怖い顔をした。
「乾か。あいつ……。まあ、成田くんには言うてもええか。そうですね。心臓がかなり弱っているので、予断を許さない状況です。ここを耐えて持ち直したら、植え込み型除細動器を心臓に着ける手術をすることになりますね」
 まだ若いのに、とつぶやきそうになって、こらえた。今一番つらいのは鈴木の妻だろう。無関係なおれではなく。
「…何もできなくて悔しいです。頭の中で、鈴木、起きろ、まだ死ぬな、って呼びかけることぐらいしかできない」
 おれの言葉をきいた三嶋先生が、眼を細めてにっこりと笑った。
「あなたがいなければ彼は救命することができなかった。おそらくDOAになっていたでしょう。医師としてお礼を言います、ありがとう。――にしても君は、見た目よりもずっと優しいんやなあ。ギャップ萌えやわあ」
 あまりにも顔がきれいな人間というのは、直視しているのが辛くなるのだと知った。おれは視線をそらして俯き、はあ、と気の抜けた返事をした。彼はおれを元気付ける意味で言ってくれているのであって、気のあるそぶりをみせているというわけではない。そう分かっているのに表情や話し方に妙に色気のある男で、これはふつうに生きるのが難しいタイプではないか、と推察した。
「心室細動はショック適応なのでその点は運が良かった。あとは彼の生命力ですね」
 理知的な医師の顔で頷いてから、にこりと笑った。
「携帯ふるえてるで」
 ささやくような声に動揺して端末を床に落としてしまった。わざとおれをからかっているのか、三嶋先生はクククと意地の悪い笑みを浮かべてから身をかがめ、端末を拾ってくれた。
「あれ、なんかこの発信者、名前に見覚えがあるなあ」
「え」
 驚いたおれが身を乗り出した拍子に三嶋先生と頭をぶつけてしまった。痛って、と頭をおさえてよろけた彼がとっさにおれの肩に手をのせる。
「すみません、大丈夫ですか」
「ごめんごめん、成田くんこそ大丈夫?」
 つめたい指で頭を撫でられて、背筋がぞくっとした。おれの反応を楽しんでいる風の彼の指を退けようと、腕を掴んでやめさせようとしたとき、救急用の出入り口が開いて、誰かが息を切らせながら入ってきた。
 三嶋先生がおれのそばから離れて、その人のところへ歩いていく。電話をかけなおすために立ち上がって出口に向かおうとしたとき、その人物の声が聞こえて、大きい声を出してしまった。
「こちらに成田悠生が運ばれていませんか」
「……仁!?」
 おれの声に、影浦だけでなく三嶋先生も振り返った。よほど慌てて出てきたのか、髪はぼさぼさで服装もラフ、みたことがないスニーカー姿だった。
 影浦の表情は驚きのあと、すぐに怒りに変わった。
「お前!!なんでこんなところにいやがんだ、心配しただろうが!!」
「申し訳ないんですが病院内ですのでお静かにお願いします」
 こちらにつかみかかって来ようとする影浦の前に立ちふさがるような形で、三嶋先生が制止の声をかけた。眉を寄せ、何かを言おうとした影浦が、三嶋先生の顔を見て口を閉じる。
「――失礼、少し取り乱してしまいました。そこの友人が誤解させるようなメッセージを送ってきたもので、てっきり彼がここに入院でもしているのかと」
 業務用の微笑みを浮かべ、影浦は肩をすくめたが、眼がまったく笑っていない。三嶋先生は「なるほど」と何か面白いものを見つけた子どものような眼でこちらを見た。
「ずいぶん急いでこられたようですが、水分は取っていらっしゃいますか。また熱中症で倒れては大変ですから、成田くんと一緒にそこに座って、少し休まれては?」
 影浦は「ぐ」と言葉を詰まらせ、苦虫をかみつぶしたような顔でおれの隣に座った。顔を手でおさえて溜息をついてから、じっとこちらを見つめてくる。
 端末を確認すると、影浦あてのメッセージは『救急車で由記市の救命センターに』のところで止まったまま送信されていた。これは確かに、誤解を招いたかもしれない。
「心配してくれたんだな。……悪かった」
 誰かに心配されたという記憶がかなり昔にさかのぼらないと見つからなくて、そんなときの正しい反応が分からない。
「ありがとう」
 申し訳ないという気持ちよりも、嬉しいような、くすぐったいような気持ちのほうが強くて、顔がゆるんでしまいそうになる。表情に気をつけながら座ったまま頭を下げると、影浦は「フン」とそっぽを向いてしまった。
 三嶋先生がこちらに来ようとして、胸元の電話を取り出す。どうやらPHSに呼び出しが入ったらしい。
「成田くん、お迎えも来たしもう帰りや。影浦くんも大きい声出したらあかんよ」
 まるで子どもに対した物言いだった。三嶋先生はおれたちの返事をきくことなく病院の奥へ消えて行った。

 ひととおり事情を説明し終えると、影浦は長椅子にもたれて腕を組み、天井を仰いだ。
「もうお前にできることは何もないだろ。なぜ帰宅しない」
「ここまで来たら、納得がいくところまで見届けたいんだ。お前はもう帰っていい、明日も夜、パーティがあるんだろ」
 日本社会においてこんなにパーティが存在していたなんて、この仕事につくまで知らなかった。華やかなイメージのある場だが、実のところ、あれは肝臓を犠牲にしながらくぐりぬける戦場なのだ。
 影浦はわざとらしく片眉をあげておれを睨んだ。
「お前の頑固は誰譲りなんだ。確認するためにおれも実家に同行してやろうか?」
 言葉とは逆に、影浦は長い脚を組みなおして椅子に深く座り、長居するかのような雰囲気を出した。履いているスニーカーはおれもよく履くスポーツメーカーのもので、普段影浦が履いている靴の10分の1程度の価格で買えるものだ。意外と似合っていて面白かった。
「行きたくないから、かもしれないな。やっぱり帰りづらいから」
 もちろんそれだけではない。鈴木の病状が気になるのも事実だ。けれど、純粋にそれだけではないことは、おそらくあの頭のいい医師にもバレていただろう。だから彼は「家に帰れ」と言ったのだ。
 壁にもたれたままこちらを見ている影浦と目を合わせる。黙っていたが、その眼は「珍しく素直じゃないか」と言っている気がした。
 暗い病院の中、唯一といっていい灯かりがおれたちのいるあたりを照らしている。さきほど涙ながらに礼を言いに来た鈴木の妻は、少し離れた場所で毛布にくるまって眠っていた。
「もし、両親が謝罪をしてきたらどうするんだ?」
 正面を見たまま、影浦が言った。
 おれは、椅子の上に投げ出されている影浦の手を見た。手のひらを重ねると、影浦の身体がびくっと動いて緊張してから、溜息とともに弛緩した。
「もう、彼らに怒ったり恨んだりはしていない。ただ、心の開き方や甘え方が分からない。何を話せばいいのか……。長い間、笑い合うこともなかったから」
 指が絡まってきてぎゅっと手を握られた。さっきの緊張が嘘のようだ、と思ったが、隣をみると頑なに正面を見たままだったので、影浦なりに照れているらしかった。
「おれも昔、家族を信じられなくなったことがある。当時はそれなりに悩んだが、」
 身体ごとこちらを向いた影浦につられるように向き合う。乱れた髪を整えてやると、影浦は気持ちよさそうに目を細めてからおれの手の甲にキスをした。
「所詮家族も他人だ。別々の人生がある。期待するから裏切られたように感じるだけだ、それが分かればどうってことねえよ。向こうが何を言おうが、お前はお前だ。思うように振るまえ。無理に許したり、心を開く必要はねえ」
――お前にはおれだけがいればいいんだよ。そうだろ。
 声は真摯なのに内容があまりにも傲慢で影浦らしくて、心臓が高鳴ってしまった。恋の病とはかくも恐ろしきものである。
 おれが笑ってしまったのを、影浦は見逃さなかった。こちらをのぞきこんできたかと思うと、肩を抱かれて軽く唇を重ねてきた。
「そうだ。おれの前だけで笑ってりゃいい。クソ家族の自己満謝罪なんかわざわざ聞いてやるなんざ時間の無駄としか思えねえが、お前は頑固だからな。おれが何言ったって好きにすんだろ」
 相変わらず辛辣だったが、その言葉には温かさが込められていた。影浦なりの分かりにくい叱咤激励。礼の代わりに周囲を確認してからキスをし返してやった。
「三嶋先生と知り合いなのか?」
 眠そうにしている影浦に気になっていたことを訪ねると、薄目をあけて楽し気な顔で「なんだ嫉妬か?」と返ってくる。
「違う。言いたくないなら言わなくていい」
 三嶋先生は異性愛者ではないだろうな、となんとなく察していた。同類だからこそ感じる、というと迷信じみているが、彼のおれをからかう視線や口調の中に、少し性的なものを感じたのだ。いかにも海千山千といった様子の美形男からすれば、からかいやすかっただけかもしれないが。
 かわいくねえな、とつぶやいてから、どこか嬉しそうな声で影浦が言った。
「……熱中症で救急搬送されたことがあるんだよ。その時の主治医だ」
 そういえば前に聞いた気がする。
「チェスで一度も勝てなかった?」
 影浦はあくびをかみ殺しながら頷いた。
「ああ。一般病棟に移ってからも何度か様子みにきたからそのときチェスをやったんだ。これまでの人生でおれよりも顔がきれいだと思ったのは、あいつぐらいだな」
 そうだろうか?
おれにとっては影浦のほうがきれいだし、ずっと見ていたい、三嶋先生は少し怖い、などと言えるわけがなかったので黙ってきいていた。
 影浦は伸びをすると、腕を組んで目を閉じ、本格的に寝る体制に入った。おれも目を閉じて壁にもたれる。眠れるかどうかは分からなかったが、握られたままの左手があたたかくて安心だった。

 

 バタバタと騒がしい足音で目が覚めた。
 腕時計を確認する。夜中の5時。すっかり眠り込んでしまっていた。
「ご家族を呼んで」
 三嶋先生の押し殺した声に、ぼんやりとした頭が瞬時に覚醒した。肩にもたれて眠っている影浦を揺さぶり起こす。
「鈴木……、」
 慌ただしくICUに駆け込んでいくスタッフや妻の様子をみていると、思わず祈るような声が出た。そんなおれを眺め、目を擦りながら、冷静な声で影浦が言った。
「友達じゃあるまいし。昨日会ったばっかだろ」
 そうだ。友達でも知り合いでもない。それでも、
「起きろ鈴木。子どもが生まれるんだろ、起きろ!」
 ガラス張りになっているICUの窓に張り付いて、何度も言った。心から祈った。拳を握りしめ、息を吸い込み、神に祈った。これといって信仰を持っていないので、漠然とした「神」に、ではあったけれども。
「悠生」
 隣から声がきこえる。影浦の声だ。俯いていた頭を上げると、黙って中を指さす。
「良かったな」
 指先に視線を移すと、意識を取り戻したらしい鈴木が、家族に手をにぎられて苦しそうな笑みで応えていた。

 レクサスLSの動きは重そうな見た目に反してなめらかだった。朝の光は夏の色を帯びていて目に痛いほどまぶしい。
 影浦は実家の前までおれを送り届けてから窓をあけ、立っているおれに向かって不敵な笑みを浮かべた。
「待っててやるから早く済ませろ。おれは忙しいんだ」
 ハンカチで汗をぬぐう。
「ああ。腹も減ったしな」
「とっとと終わらせてメシにしようぜ」
 影浦一流の仕切り文句である。これをきくと、おれは必ず笑顔になってしまうのだ。どんな難儀なクレームも顧客の無理難題も、となりでこの言葉をきくだけでなんとかなる気がして、笑い交じりに返してやる。
「身体も洗いたい」
 影浦が目を細めてあけた窓越しにおれを見上げた。その眼には淫靡な光があった。
「部屋をリザーブしといてやるよ。……行ってこい」
 薄情なおれは本当にそうしようと思った。母親の謝罪も義父の謝罪もどうでもいい。それで気が済むなら受け入れる。何も説明しようとしなかったおれにも非があるのだから誰も責めるつもりはない。
 家の門扉を開き、よし、と気合をいれた。
 早く済ませよう。影浦が待っているから。  

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おわり。好きな子(初恋の子)にだけ甘い影浦でした