1 (成一)

 夜になると落ちつかない。
 またあの夢を見ることができるのか、不安になる。

「――……」

 夢によく出てくる人物はふたりいた。
 ひとりはかつての上司で、見事に振られてしまった六人部隊長。彼の夢を見ると、おれはいつも悲しい気持ちで目が覚める。好きだったのに、もうあの人を自分だけのものにすることはできないんだ、と絶望する。
 彼の夢はだいたい仕事中で、斜め後ろから横顔を盗み見ているようなシチュエーションが多かった。
 凛とした、意志の宿った横顔。救急車の中だったり、駅のホームだったり、病院の前だったり。
 指示をする時だけ唇は薄くひらき、迷いない視線がレーザービームみたいに正確に、強烈におれを射抜く。
 隊長バッグを肩にかけた彼は振り向いてくれないし、待ってくれない。夢だから、呼び止めても意味がない。六人部隊長はどんどん先に行ってしまって、走って追いかけても追いつけなくて、最後は三嶋先生と手を取り合って何処かへ消えてしまうのだ。
 目覚めた時、悲しくて暗い気持ちで朝を迎えて、一体何日経てば立ち直れるんだろう、と絶望する。
 そこまではいい。失恋したら普通のことだと思う。
 問題は、もうひとりの方だった。

 そのひとは声を持たない。顔も見えない。それなのに、特別な人だったことを覚えている。
 名前も声も、顔もわからないのに。
 夢の中で、彼の後ろに見えるのはいつも海だった。きらきらと眩しい朝の海。泳ぐのが苦手なおれは、海なんか好きじゃなかったはずなのに、毎日夢に海が出てきた。ある時は楽しげに泳いでいて、ある時は浜辺で座って話し込んでいる。隣には、いつも顔の見えない、声の聞こえない男の人がいて、おれはその人に向かって一生懸命話している。仕事のことや、上司のことや、 ――かつて好きだった人、六人部隊長のことを。
 一緒にお酒を飲んでいることもあった。大体ビールを飲んでいて、その時は海じゃなくて古い家の中で、ふたり、縁側のようなところに腰掛けて月を眺めていた。 
 彼の夢を見て目覚めた日は、いつも泣いていた。
 それなのに、どこか救われたような気持ちになっているから驚く。
「……走ろ」
 涙を拭って目覚まし時計を止める。レスキュー隊に配属されてから異例の早さでHR入りの辞令が出たのは、救命に特化した救急救命士ばかりの隊が今年度から新設されたからに他ならない。一期生の実力が足りなければ、来年度以降この隊はなくなってしまう。
 苦しみにも悲しみにもふたをして、仕事に打ち込む。それが、社会人ってやつなのだ。泣いたりヘタレたりするのは、仕事が終わってから。
 勢いよく起き上がってシャワーを浴びて、ランニングウェアに着替えた。頬をパーンと両手で叩き、その仕草すらどこかで見たような気がして戸惑いながら、朝日が昇ったばかりの街に飛び出す。

 1年半を想定していた海外派遣だったが、なぜか半年で呼び戻された。
 帰ってくるなりレスキュー隊選抜試験を受けに行かされ、なるほど、これが上の意向かと納得したのは、翌年度からハイパーレスキューの中に救急救命士だけの隊が2隊、もうけられることになる、と聞かされてからだ。どうやらおれは、そこの一期生として放り込まれるべく、日本に戻されたらしかった。
 選抜試験は無事にパスした。これは、派遣中もずっと勉強、運動をしていた努力の賜物だ。派遣中も、六人部隊長のことを思い出すと胸がかきむしられる→レスキュー隊の勉強をする→想い出す→かきむしられる という地獄のループをなんとか訓練と運動でやり過ごし、必死に勉強した甲斐があった。時間を見つけてはロープワークを練習し、走り込み、腕立て伏せや腹筋を鍛えていた。筋トレなんか嫌いだけど、体を動かしていないと失恋の悲しみと文化の違いに、飲み込まれそうになったのだ。
 受験一回目にして選抜試験をパスしたことでかなり自信をつけそうになったおれを、叩きのめしたのはやはり六人部隊長だった。筆記試験、体力試験、面接と全ての試験でほぼ満点を取ってパスしたかつての上司の話を人づてに聞くと、眉を寄せて口を結び、「さすがです!!」としか思えない。悔しい。でも好きだし、リスペクトが止まらない。
 六人部隊長、あなたはどうしていつも六人部隊長なんですか。おれが失恋してもがき苦しんでいても、あなたのクオリティはまるで落ちることがない。それどころか、夢の中みたいに追いつけない速度で前に進んでしまう。おれが必死で走って追いつこうとしても、いつもその先へと。

 大変だったのは特別救助技術研修、通称「地獄の25日」だ。訓練についていけなければ即脱落のサバイバルな状況で、精神、肉体ともに極限まで追い詰められる。正直おれも脱落してしまいそうになった。たった25日の間に、口内炎が5個できて、歯茎から血が止まらないという謎の病気にもなった。それでも耐え切れたのは、六人部隊長との約束、だけではなく、夢の中に出てくるあの人のおかげだった。彼の夢を見て目覚めると、おれはいつも少しだけ救われるのだ。
 そして強く思う。

 絶対、あなたを見つける。探し出す。
 そして見つけたら――
 走って、捕まえてみせる。

***

 実質的にレスキュー隊で仕事をしていたのは、数ヶ月のことだった。
 なんと年があけてすぐの四月、人事異動でハイパーレスキュー隊に異動が決まったのだ。
 救命特化隊ができるときいていたし、いずれは行くだろうとは思っていたが、あまりにも強引な手法じゃないだろうか。まだレスキュー技術だってモノになっていないのに、これ、本当に大丈夫なのか…?いくら人事は水物といえ……。
 そんな驚きと、少しの不信を抱えて異動したおれを待ちかまえていたのは、さらなる驚きと運命の残酷さだ。
 HRに配属されて上司になったのは――
 かつての上司で振られた相手、六人部隊長だった!
 朝、配属されて直立不動で挨拶したおれに、六人部隊長は言った。
「待っていたぞ。お前が信じた道が、おれの道と同じで嬉しい」
 この人はまだ、こんなに短い言葉で、おれの心を奮い立たせることができる。それが怖くて、嬉しくて、動揺した。

***

「……野。星野、星野!!」
「ファッ、……はい!!」
 とびおきる。周囲を見渡して、ここが神奈川消防局、ハイパーレスキュー隊の拠点基地であることを思い出す。仮眠室の固くて狭いベッドと、安っぽく青白い蛍光灯の光と――
「む、た、な………」
 六人部隊長、なんでここにいるんですか。
 仮眠の時間なのに、なんでおれの顔を至近距離で覗き込んでいるんですか。
 そう言おうとしてつっかえてしまって言えないおれに、彼は目を細めて笑った。
「またお前が部下になって嬉しい、と伝え忘れていたから」
「あ、えへへ」
 おれのあいまいな笑みに、隊長は不思議そうな顔をした。その顔をみて、イヤな予感がよぎる。
 もしかしてこの人、おれに告白されて振ったこと忘れてるんじゃないか?
 いやまてよ、覚えててここまでナチュラルに振る舞えるというのは、逆にすごいぞ。ふつう、振った相手と一緒に仕事をするなんて(しかも相手は男だ)イヤに決まっているのに。
「どうした?」
「や、なんか。六人部隊長って、そんなに笑う人だったかな、っておもって」
「うれしいんだろうな。正直浮かれていると思う」
 天然人タラシっぷりは、相変わらずだ。わざとじゃないからよけいに手に負えない。もうなんか、めまいがしてきた。あーだめだ。診断書出してください。出勤不可、出勤不可です。
 彼は目を細めて、おれの頭をくしゃっとかきまぜた。その仕草が一年前と全く変わっていなくて、胸の奥がぎゅっと苦しくなる。
 額にかかる短い黒髪、少し眠たげな、切れ長の目、精悍な鼻筋と口元。
 気取らない男性的な色気は、以前よりも増している気がする。
「あの…なにしろレスキューからハイパーにくるまで時間がなかったので、ご迷惑おかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」
 立ち上がって頭を下げると、六人部隊長がわずかに笑った気配がした。
「そうだな。まあそのあたりは折り込み済だろうから、多少動けなくてもはじめは気にしなくていい。救急救命士主体のハイパーレスキュー隊を2隊配置する構想、これはおれも目標だったことだが、できてすぐに引っ張ってもらえるとは正直おもってなかったし、予想外だった。だから、星野がいてかなり心強い」
 ふたりなら、必ず出来ると信じている。こちらこそ、よろしく頼む。
 そういって、六人部隊長もきれいに体を折って頭を下げる。あまりの信頼と低姿勢に、おそれ多くて、「そういうのやめてください」とわたわたしてしまった。

***

 仕事中は、不思議なほど六人部隊長を意識せずに済んだ。
 というのも、慣れない仕事だし、出動のない日は一日訓練に明け暮れているから、あまり考える暇がないのだ。出動があったらあったで、ハイパーがでるほどの現場というとそれはもう大事故なので、かなり緊迫した状況のため私情を挟む余裕なんか全くない。
 毎日があっという間にすぎた。
 2、3の変化を自覚している以外は、全く順調に。

***

「おい、成一、きいてんのか」
 いつの間にかまたぼんやりしていた。
 失恋したと親友の藤巻に伝えたら、それがあっという間に周囲に伝わり、同期、大学の同級生からやたらとコンパに誘われるようになった。今もその真っ最中で、女の子4人とおれたち4人は居酒屋の中で表面的な会話とぎらぎらしたやりとりを繰り返している。
 おれは、そのテンションと雰囲気についていけなくて、目の前のお酒が飲めない女の子が使っているストローの、毛虫みたいにくしゃくしゃになった包装紙を、テーブルの上の水滴の上に置いて伸ばして遊んだり、彼氏がずっといないと言い張っている斜め前の女の子の、指輪の日焼け跡に注目したりしていた。いやいや、嘘でしょ、直近まで指輪つけてた跡だよそれは、と思いつつも言う勇気はない。だってあの子にそんなに興味がないし。なんで嘘をつくのか、には興味があるけど。
「星野くん、元気ないねー?」
「そいつふられて1年近くたつのにまだそんななんだよ。誰か慰めてやってよ~」
 どっと巻き起こる笑い声。
「一年って……長くない?」
 ひそひそとやりとりしている、藤巻の前に座った女子二人、聞こえてるから。
 藤巻~おまえ~……人をネタに場を盛り上げてるな。まあいいけど。ネタにされるぐらいしか、お役に立てそうにないし。
「偶然だね、わたしもだよ」
 目の前の女の子(名前は覚えてない)が苦笑しながら小声で言った。お酒の飲めない子だから、さっきからずっとオレンジジュースを飲んでいる。肩までの栗色の髪や白い指には手入れが行き届いていて、なんだか幸薄そうな顔立ちをした女の子だった。
「忘れたくていろいろやってみたけどだめだから、出会いにきてみたんだよね」
「うん、一緒」
 おれの相づちに、女の子はにっこり笑った。笑うと、白い頬にかわいいえくぼができる。特別美人だとか、かわいいというわけじゃないけど、この子は男にもてるタイプだろうな、とぼんやり考えた。
 周囲の喧噪をよそに、おれは隣にやってきたその女の子と、しんみりと語り合った。彼女は小さい声で、ささやくような話し方をした。
「でもさ、出会えば出会うほど、あの人じゃないなあって気付くだけなんだ」
 濡れたような目で、おれをじっと見ながら彼女が言った。
「わかる。いい子だけど、あのひとじゃないんだよなあって思うよね。そんなの当たり前なのに」
 手元のビールを空にすると、注文する前に女の子がベルを押して店員さんを呼び、ウーロン茶を頼んでくれた。
「ビールでいいのに」
「君、結構飲んでるよ。もうやめておいたら」
 話し方に、ふと浮かんだ疑問を口にした。
「ねえ、もしかして君って年上なのかな」
「わたしは29歳だよ、君がどうなのか知らないけど」
「じゃあひとつ上だね。なんとなく、そうなのかなって思っただけ」
 29歳、ひとつ上。そのフレーズが胸に残って、おれは眼を閉じた。そのまま机に突っ伏していると、細い指で頭をなでられた。冷たい指が、ほてった額にあてられて、気持ちいい。
「慰めてあげようか?」
 耳元でささやかれた言葉に、すうっと酔いがさめる。
 手のひらをそっとどけて、顔を上げた。彼女は酒を飲んでいないし、ふざけている風には見えなかった。
「それって、やらしい意味?」
「ほかにないでしょ」
 体を起こして、周囲を伺う。みんな自分の獲物に夢中で、こちらをみている人は誰もいない。
「それって、失礼だと思うよ」
「…あなたに?」
「君に」
 彼女は一瞬目を見開いて、ぱちぱちとまばたきをしてから、声をあげて笑った。
「君、かっこいいのに、まじめなんだねえ。もっと遊んでるのかと思った」
 感心したような声に、おれも笑った。それから、名前は?ときくと、彼女はさっき言ったけど、といいながらも「相田実日子」と教えてくれた。
「遊びで女性は抱けないな、ほかのひとはどうかしらないけど」
 だいたい、よく知らない人を裸にしてさわって、なにが楽しいんだろう。大半の男は欲望と心を切り離せるらしいけど、おれはそうじゃない。むしろ、好きであればあるほど、簡単に手なんか出せない。
「男の人を誘って、断られたのはじめて」
 なんだか落ち込んでいるように見えて、おれは申し訳ない気持ちになった。
「ごめんね。君に魅力がないとか、好みじゃないとかそういうことじゃないんだよ。好きじゃないひとを、抱けないだけなんだ。少なくともおれは、そういうことできない」
 テーブルに肘をついて、物珍しげにおれをじろじろと見てから、彼女が言った。
「そんな男性いるの」
「いるんだよ。ほら、たとえばさ、絶滅寸前の動物って、すごく少ないけど存在はしてるってことでしょ。それと一緒だよ」
 自分でもなにを言っているのか、よく分からなくなってきた。
 運ばれてきたウーロン茶を一息に飲みきり、ふう、とため息をつく。
「好きじゃなくても、いれたら気持ちがいいのが男でしょ?ちょっとした気分転換になると思うけど」
「そんな理由で抱かれて、君はうれしい?」
 おれの質問に、彼女は沈黙した。それから少し考えて、「言われてみれば、いやかも」とつぶやく。
「もし君が」
「相田ね」
「相田さんが、そんな風に思って生きてきたのだとしたら、その責任の半分は男にあるよね」
 会話はそこまでだった。お開きをしらせる藤巻の声がして、おれはのろのろと立ち上がった。
 店をでる直前、相田さんがおれの携帯を奪って、無理矢理LINEのIDを交換してさっさと出て行った。もっと驚いたのは、ひとことも話していない斜め前に座っていた女の子も、おれの連絡先を聞きたがったことだ。別に芸能人でもなんでもないから、聞かれれば教えるけどこれは少し不思議でもあり、「やっぱり」という感じでもあった。
 由紀駅近くの居酒屋をでて、歩いて自宅に向かいながら、2、3の変化のうちのひとつに確信を深めた。
 そう、失恋してから、異常にもてる。
 なぜだか全然分からないけど、女の子が次から次へとやってきて、連絡先を聞きだし、用もないのにメッセージを送ってきたり、飲みに誘ってきたりする。でもおれはそんなに彼女たちに興味がないし忙しいから、既読スルーしたり適当に返事を返しているうちにメッセージは入ってこなくなる。
「なんか色気とかでてるのかな……」
 自分の顔をなでてみる。自宅についてから、鏡の前で自分の顔を観察してみたけど、特に変わったところは見あたらない。
 生まれつきの茶色い髪と明るい眼になんら変化なし、と確認して、急にばかばかしくなってしまった。
「なにやってんだか」
 夜のランニングをしてから寝支度をして布団に入る。
 寝る前にカレンダーを確認すると、9月が終わり、10月にさしかかっていた。

 

 

 

 

 毎日を一緒に過ごすうちに、六人部隊長への想いにまた火がついてしまったらどうしよう、と危惧していたのだが、それは杞憂に終わった。
 彼の尊敬できるところをひとつみつけるたびに、「このひとと恋愛関係にならなかったことは、むしろよかったのかもしれない」と考えるようになった。
 恋人になれば、いつか別れがくる。
 相手のどこかに嫌気がさしたり、おれのどこかが嫌われたりして、必ずいつか離ればなれになる日がくる。
 けれどそうじゃなければ、尊敬の心を一生持ち続けることができる。上司として、先輩として、目標として追いかけ続けることができる。
 たくさんある人間関係の中で、恋愛だけが絶対的に尊いわけじゃない。尊敬や、親愛や、友愛、それらすべてが合わさったもの、いろいろな形があってもいいはずだ。
「星野、よくやったな」
 そういって六人部隊長がほめてくれるたびに、おれは自分の中の、ドロドロとしたものが少しずつ溶けて消えていった。
 やっぱり好きだ。
 恋愛じゃなくて、ひととして。
 ひとりの人間として、この人のことがきっと、一生好きだろうな、と思った。

 

  

***

 

 あいかわらず、毎日のように夢をみたけれど、次第に六人部隊長が出てくる数は減っていった。
 その代わりに、彼の出現頻度が増えた。
 いつも海と一緒に出てくる彼の。

「ねえ、名前教えてよ」

 問いかけはいつも、宙に浮いたままだ。

「おれの名前は星野成一、あなたは?」

 肩をつかんで揺さぶっても、彼は、なにも言わない。

「せめて、顔だけでもみせてよ。そうしたらきっと、思い出すから」

 やくそく、したろ。

 唇が動く。その動きを読むと、彼はそう言っているように見えた。

 しんじろって、やくそく、したろ。そしたら、おまえは、

 どこにいても、はしってあいにいくって、いってくれたろ。

 

  

***

 

 

 

 いつもここで目が覚める。
 見慣れたマンションの天井が、涙のせいでにじんでいた。思い出せそうで思い出せない、声も顔も手も体も、知っている気がするのに。
 誰なんだ。どうして、こんな気持ちにならないといけないんだ。なんで朝一番にかなしくてかなしくてとてもやりきれない(コトリンゴさんのカバーをBGMに流したい)気持ちにならなきゃいけないんだ。こんなのは理不尽だ。
 いい加減、顔をみせろ。名を名乗れ。
 そんな理不尽な怒りすらわいてくる。
「……よし、思いついた」
 今日は非番だ。つまり、丸1日自由ということ。
 起きあがってベッドからぬけだし、携帯電話を確認する。
 時間は朝の8時すぎ。
 興味のないLINEを全部無視して、携帯電話にイヤホンを突っ込んで耳にひっかけた。白シャツ、グレイのチノパンに、おろしたての黒のNIKEのスニーカーに足をいれた。
 玄関には、派遣されている間、中央署で預かってもらっていた観葉植物が、青々と葉を茂らせている。
 霧吹きでさっと水を与えてから、自転車に飛び乗った。こんな日は、ロードバイクを思い切り漕ぐに限る。

 イヤホンから、カーリー・レイ・ジェプセンの「I Really Like You」がきこえる。ここ最近、歌詞に深い意味なんかない、洋楽のポップスばかりきいていた。オリー・マーズとかジャスティン・ビーバーとかテイラー・スウィフトとか。音楽をきくのは気分転換のためなので、いま、きいて落ち込むような哲学的なものとか文学的なものとかバラードはいらない。
 こないだぼんやりと由記駅の商店街を歩いているとき、OASISの「Live Forever」が流れていて、なんとなく聴き入っているうちにどばーっと滝のように涙があふれてしまった。それからは、大好きだった洋楽のロックやオルタナからは危険だから遠ざかっている。このぶんだと、邦楽にもいくつか地雷が埋まっていそうで怖いので、中学の頃から聞いているラジオの音楽番組も、いまは視聴お休み中だ。
 自転車にまたがって、もといた中央署の近くにあるワンルームマンションを訪れた。幸い天気はよく晴れていて、真夏のような暑さはもうない。
 男の一人暮らしということもあって、このマンションにはオートロックなんてものはない。駐輪場に自転車をとめて、8階の部屋に直接訪れ、ドアフォンを鳴らした。
 ドアの前で、シャツの裾をのばしたり、ぼさぼさになった頭を整えたりする。この相手にそんなことをする必要はないのだけれど。
「はい」
「おれだよ、成一。いまちょっといい?」
「……いまはちょっとだめだ」
「つめたっ!もしかして……おれたち実は血がつながってなかったとかそういうことなの」
「血はつながってるぞ、残念ながら。いまは取り込み中だ」
 みょうにひそひそした声が、ドアフォン越しにそう告げてブツリと切れた。
 その焦りっぷりといい、普段にない様子といい、おれはピンときた。
 これは、アレだ。恋愛沙汰に違いない。
「そういうことなら帰るけどさあ」
 もうとっくに会話は打ち切られているし、ドアすらあけてもらっていないのにひとりごちる。みずくさいな、はっきり言ってくれたらいいのに。別にねたんだりそねんだりせずに祝福するのに。
 ぶつぶつ文句をいいながら、兄のマンションを後にする。話をきいてもらおうと思った相手に袖にされて、さてどうしようかと、自分のロードバイクにまたがったまま考え込んだ。
 藤巻に話すような内容じゃないし、かといって、この相談内容を話す相手は結構重要だ。相手を間違えれば、おれは「頭がおかしい人」だと思われてしまう。
 とりあえず、由記駅に向かおう。

 由紀駅はこの街で一番大きいターミナル駅だけれど、なにせ基本になっている山手が全部「高級住宅街」なので、駅前独特の汚さやごみごみした感じはあまりない。
 そのわりに商店の数は多く、高架下や駅からすぐの商店街にはところ狭しと飲食店、居酒屋などが並び、駅には百貨店が併設され、人の往来はかなり多い。
 自転車をダブルロックにして(ロードバイクはすぐ盗まれる!)、地下にある駐輪場にとめた。駅のロータリー前にあるコーヒーショップの前を通り抜けようとしたとき、なぜか後ろ髪引かれる思いがして、おれは何度か入ったことのある、駅からすぐのコーヒーショップの中へと入っていく。歩道に面した外壁はガラス張りになっていて、天井が高く、とてもおしゃれな構造をした建物の店だ。カウンターで注文してお金を払うと、席まで頼んだものを持ってきてくれる仕組みになっている。
「カフェラテください」
「かしこまりました」
 店の中では、ソニー・クラークの「COOL STRUTTIN’」が流れている。カフェではよくあるジャズのBGMに、なんとなく違和感を抱いた。
 この店って、前からこうだっけ?
 なんかもっと、流行りの洋楽
ポップスメイン
が流れている店じゃなかったか?
 もやもやする気持ちのまま、カウンターの中にいるひとをながめる。女の子がひとり(名札には新見さんとある、……前の署に同じ名字の同期がいたけど、まさかね)、アフロ頭のファンキーなおじさん(口ひげが似合っている)がひとり、おしゃれなめがねをかけた、物静かそうな若い男のひとがひとり。

 …なにか足りない気がするのはどうしてだろう。
 この店の魅力の、決定的な部分が欠落している気がする。

 思い切って、カウンターの中にいた女性に訪ねてみた。
「このお店って、前からずっとこんなでしたっけ?」
 おれの質問に、彼女はめを丸くしてのぞきこんできた。
「どういう意味ですか?」
「オーナーが変わったとか、社員がひとりやめたとか、そんなことってありませんよね」
「ありませんけど。オーナーに聞いてみましょうか?」
「いえ、そこまでは。ありがとうございました」
 歩道に面したテーブル席に座ってしばらくたつと、ホットのカフェラテが運ばれてきた。歩道や道路を歩く人々をながめていると、いつの間にか彼らの服が真夏のものから秋のものへ移り変わっていた。仕事や運動にばかり意識を注いでいたから、大好きな服も最近は買えていない。
 カップに指をのばした瞬間、テーブルの上で携帯電話がふるえた。
 画面に現れたメッセージの送信者の名前は、「野中奈緒子」となっている。メッセージアプリを立ち上げて、おれはすぐに内容を確認した。
「最近、義父の様子がおかしい気がするんです。どうすればいいでしょうか」
 野中さんとは、海外派遣中もはがきや手紙のやりとりを続けていた。彼女のいまの気持ちは正直分からないが、おれにとっての彼女は、妹や家族に近い。しっかりしているのにどこか抜けていて、無口で我慢強いから周囲に助けを求めるのがへたくそで、放っておけない。
 返事をしようとしたとき、なにか頭にひらめくものがあって、書き掛けたメッセージを消し、新しいメッセージを送った。
「家をでたほうがいいんじゃない?いやな言い方だけど、なにかあってからでは遅いと思う。一人暮らしってたくさん学べることがあるし、一度やってみたらどうだろうか」
 カフェラテをひとくち飲んでから、携帯電話の画面をにらみつける。なぜか、自分の言葉に妙な確信があった。そうしたほうがいい、絶対に、という根拠のない自信があった。
 5分ほどしてから、野中さんから返信があった。その中身は意外なもので――それなのに、すとんと胸に落ちてくるものだった。

「最近すごく、海の側に住みたいなあと思うんです。海をみていると、なにか大切なことを自分が忘れてしまった気がします。ずっとみていたら何か思い出せるのではないか、とよく考えるようになりました」

 海の側で、物件を探してみようと思います、という野中さんの返信をたどっていると、胸がざわつくような、ひりひりと焦げるような気持ちがわいてくる。

 コーヒー。
 海。
 海岸沿い、まぶしいほどの陽光。

 三つのイメージが頭のなかにあふれてきて、携帯を握りしめたまま眼を閉じた。
「わかる。おれもそうなんだ。海なんかほとんど行ったことないはずなのに。どうしてだろ」
 野中さんに送ったメッセージにはすぐに既読がついたけれど、返信はなかった。 
 店を出てから、スーパーに寄って家に帰りつくと、兄から数件着信が入っていた。邪険にされたことに少し拗ねていたのだが、こういうところがあるから嫌いになれない。あの無骨な兄も、なんだかんだいって弟がかわいいのである。まったく。知ってるけど。許してやるよ、おれよりもてるの本当にしゃくに障るけど。
 家に入って洗濯物を取り込みながら、兄に折り返し電話をした。日差しはすでに夕暮れにさしかかっていて、橙色の光のなかに、電線の黒と烏の黒が映えていて美しい。
 発信音が流れている長い時間、電線の上からベランダの手摺にやってきた烏に話しかけてみた。
「今日もお前の羽きれいだな~。そんな髪の色に生まれたかったよ」
 烏はとても賢い鳥だときいてから、ベランダやすぐそばの電線にやってくる彼らに声をかけている。するとそのうち、向こうも友達だと思ってくれるようになって、きれいな金属の破片や、ボタンや、木の実なんかをときどきベランダに置いて行ってくれる。
 今日は名前のわからない木の実が、ころころとベランダの手摺の上に置かれていた。
「いつも手みやげ持ってこなくていいのに。手ぶらでいいよ」
 ちいさな生き物の何気ない気遣いが心に沁みる。
 捨てるのも忍びないので、それらは集めて、ばあちゃんにもらったブリキの缶の中に入れてある。
「もしもし……誰に話してるんだ、成一」
 電話がつながって、兄が怪訝そうに言ったので、おれは慌てて返答しつつ、ベランダから部屋の中に入った。
「あ、ごめんごめん。ちょっと友達に話しかけてた」
「友達?人がきているのに電話していていいのか」
「大丈夫、相手は通りすがりの烏さんだから」
 しばしの沈黙。そのあときこえてきた声は、思いやりと同じぐらい不審をあわせもっていた。
「本当に大丈夫なのか、お前」
「元気だよ。ちょっと失恋から立ち直れてないだけ。なんなら歌でも歌おうか?」
「遠慮する。用件はなんだったんだ」
 ソファに座って、深呼吸をした。それから、思い切って訪ねてみた。
「真剣にきいてよ。おれ、もしかしてここ最近、交通事故にあったり、頭を強く打ったりした?」
「記憶がなくなったとでもいうのか」
 即座に帰ってきた返事に、おれは思わず指を鳴らした。
「兄貴は話が早い!そうなんだよ、そんな気がするんだ。すごく大事なことを、忘れてしまっている気がするんだ。だから、ひょっとしてとおもって。ねえ、思い出さないのがおれのためだ、とかいって、忘れてる記憶とか大事なこととか隠してたりしないよね?よくあるじゃん、そういうの」
 さっき話そうとしたのはそれか、と問われて、うん、と返事をした。
 それからしばらくの間、きまずい沈黙に耐えた。もともと口数が多いわけではない兄の、重々しい沈黙。
「ほんとうに大切なことなら、そのうち思い出すだろう」
 ややあって口を開いた兄は、意外にもまじめな口調でそう言った。
「そうかなあ」
「もしくは、向こうからやってくる。そういうものだ。やみくもに探しても、そういうものを見つけることは難しい」
 珍しく抽象的な物言いだったが、心に響くものがあった。
「うん……そうかもしれないね」
「成一」
 あらたまった口調で名前を呼ばれて、思わずソファの上に正座した。
「はい、どうしたの」
「近々、家族で集まることになるかもしれない」
「え!!」
「そのときはまた連絡する」 
「ちょっと、」
 一方的にそういってから、兄は電話を切ってしまった。どういうことだろう。あの兄が、実家(主に母)を毛嫌いしている兄が自ら言い出して家族で集まるなど。冠婚葬祭しかあり得ないと思っていた。
――まさか。本当に誰か身内が亡くなったんだろうか。
 いやいや、それならおれにも個別に連絡があるはずだ。
「なんだよ、もう」
 携帯電話をラグの上に放り投げて、ソファに横になる。テレビボードの上、卓上カレンダーに視線を飛ばして、少し憂鬱な気持ちになった。
「うわー、もうあさってじゃん。はあ、やだなあ。また兄貴と比べられるのか~」
 あさって。10月半ばの土曜日は、特別な日だった。
 東京消防庁、それに海上保安庁の特殊救難隊と三所属合同訓練の日だ。
 異動からこっち、必死で訓練についてきたものの、正直おれはまだ完璧に仕上がっているとは言いがたい。怪我して入院までしていたはずの六人部隊長が、あそこまで仕上がっているのは異常だ。ちょっと普通じゃない。
 多分、六人部隊長には野心があるのだと思う。おれと違って、目先のことだけを考えているような小さい人ではないから、どんどん出世して上に上がり、やりたいことがあるのだろう。
 なんとなく、それが何か、おれにはわかる。はっきり聞いたことはないけれど。
 開いた窓から、秋の風が吹きこんでくる。
 久しぶりにFMを聴きたくなって、リモコンでプレイヤーの電源を入れた。自慢のスピーカーから、陽気なアメリカのポップミュージックが流れてくる。はあ、とため息をついてから立ち上がって、冷蔵庫の中をながめた。何はともあれ、ご飯は食べなければいけない。

 

 

***

 

 

 

 

 装備を身につける。今日は接岸している大型客船内での消火・救助訓練を3所属合同で行う日だ。
「星野、ぼんやりするな。始まるぞ」
「あ、はい!」

 俺たちがナンバーワンだ、というギラギラしたライバル心をむき出しにしている東京消防庁のHR
ハイパーレスキュー
の連中と一線を画している六人部隊長の普段どおりの様子に、おれは心が励まされた。まあ、名実ともに東京消防庁のレスキューがすごいっていうのは、アピールされるまでもなくよく知っているんだけど。人前で競争させられることは、昔から苦手だ。勝ち負けでギスギスするぐらいなら、おれの負けでいいよ、とすぐに腹を見せたくなってしまうのだ。それについてヘタレ野郎と言われれば返す言葉もない。
 ここ数年で少しは改善した、と思うけど。
 洗練された都会だな、なんて思いながら、海辺の風景をみわたす。横浜は神戸と比べられることが多いけれど、規模という意味では比較のしようもないよな、と思った。
 神奈川に生まれ育ちながら、横浜に来ることはほとんど無い。由記市でほとんどのものがそろってしまう、というのもあるし、横浜に出るのにかかる1時間あれば、東京に出ることができるので、昔デートで何度か来たことがあるぐらいで、ほとんど土地勘がない。祖母の時代から横浜に育った、純粋なハマっ子の元彼女は、バレエをやる子にありがちな、育ちのいい綺麗な子だった。その育ちの良さと他地域を見下す地元愛が、時折鼻についたけれども。
「田舎者みたいにキョロキョロするんじゃない」
 言葉だけ捉えるととてもキツイように聞こえるが、笑いを含んでいるからおれも笑った。
「だってほとんど来ないんですもん、横浜」
「その様子だと緊張はしていないみたいだな」
 雲のない、抜けるような青空と海、それに真っ白な客船。
 今年から始まった合同訓練が、新設された【救急救命士特別隊】の実力や必要性を証明する材料にされることは間違いない。けれど、緊張はしていなかった。どちらかというと、ワクワクしている、と言ってもよかった。
 朝から、何かとてもいいことがあるような気がしている。あんなに面倒で、嫌だったはずなのに。
「六人部隊長も、普段と変わりませんね」
「こんなのはまだ助走みたいなものだろう。おれ達が日々訓練しているのは、人に見せびらかす為でも、誰かの評価や判断を仰ぐためでも、ましてや勝ち負けを競うためじゃない」
「助けを必要としている要救助者のため、ですよね」
「ああ。こんなところで尻込みしてたら、置いていくぞ」
「もちろん、尻込みなんかしてませんよ。――やるからには、勝ちたいですよね」
 ニヤッと笑うと、六人部隊長が眉を上げ、それから同じように笑い返してきた。
「その調子だ。強くなったな、星野」
「特に兄貴の隊には負けたくねえなって」
 重い装備は、10月の朝であっても相当暑くて動きづらい。それでも。
「無論だ。東京消防庁の連中にも、ましてや連中の力を借りて設立された特殊救難隊にも、負けてたまるか」
 勝負なんて馬鹿馬鹿しいが、負けるのは嫌いだ、と六人部隊長が言い放つ。涼しい目元に宿る、ギラリとした闘志。かっこいいよなあ、と見惚れてから、おれも気合を入れ直した。

 巨大な客船の中でも、おれたちの配置場所は捜索に有利な、客室への入り口から最も近い甲板の上だった。
 動くヘリから降下してくるという、派手なやり方を見せつけてくる特殊救難隊のヘリを見上げ、眼を細める。晴れた空からは、朝であっても強い日差しが遠慮なくおれたち全員を防火服の中をサウナ状態にし、蒸し蒸しにしてくれた。
 汗が流れてきて、目に入りそうになるのを、指で拭う。動くヘリから落ちてきた一本のロープは、上甲板の狭い部分にピンポイントで落ちてきて、ものすごい速度で人が降りてくる。彼らの身につけているのは、おれたちと同じような防火服だ。10キロを超える装備を身につけているとは思えないほど軽やかな身の運びで、男がひとり、甲板の上に降り立った。

 防火服の少ないスキマから見える、短い黒髪、遠目にもわかる、日に焼けた、整った顔立ち。
 こんなに離れているのに――なぜか、視線が強く引き寄せられた。まるでおれがS極で、彼がN極の磁石になったみたいに。
 彼から目が離せない。
 知らないひとなのに、今日初めて見たひとなのに。

「星野……、?!何を泣いてるんだ、どこか痛いのか」
 ハッとして、ほおに手を伸ばすと、何とおれは泣いていた。何が、どうしたのかわからなかった。嬉しいのか悲しいのか、それすらもわからない。
 ただ彼を見ていると、涙が出てきたのだ。
 名前も知らないのに。
「すみません、目にゴミが入ってしまって」
 ヘリに向かって何かを叫び、合図を送っている彼を、食い入るようにみつめてから、両手で頬を叩く。
「行きましょう」
 今は、まず仕事だ。終わってから飲み会があると聞いているから、その時に彼に話しかけてみよう。

 

  

***

 

 

 

 訓練が終わってすぐあの人を探したかったけれど、姿を見失ってしまった。六人部隊長は東京消防庁の知り合いと盛り上がっていて、おれはおれで、兄に捕まってしまった。兄は、特殊救難隊で有名な人物だという、合田さんを紹介してくれた。名前はきいたことがあったが、会うのははじめてだった。
 硬そうな短い髪と、まっすぐで太い眉の下の、鋭い目。猛禽類をおもわせる強い視線に、自然と背筋が伸びた。
「このあと懇親会と称した飲み会があるんだが、くるか?」
「いきます!!」
 食い気味で返事をしたおれに、合田さんが歯を見せて笑った。
「おれの部下も来るんだ。たぶん、君と同い年ぐらいだから、話が合うんじゃないかな」
 特殊救難隊のメンバーは、合田隊だけが参加するらしい。ということは……彼も来る、ということだ。
 バクバクする心臓をおさえて、汗を流してから着替えを済ませる。合田さんは、強面の外見から想像できないほど気さくで、おもしろい人だった。着替えやシャワーは横浜の海上保安基地を借りて行ったのだけれど、合田隊長は数歩歩けば誰かに声をかけられる、というような人気っぷりだった。
 特殊救難隊といえば、2万人いる海上保安官の中でも、36人しかいない、エリートの中のエリートなのに、全く気取ったところも傲慢なところもない。こんなひともいるんだなあ…紹介してくれた兄に感謝しなくては。
 横浜市内の懇親会場に着くと、すでにはじまりの乾杯が終わっていた。広いフロアを貸し切って行われている飲み会はすでに、体育会系独特の雰囲気が漂っている。それはつまり、「DRINK OR DIE」である。輪を広げたければあの中に飛び込まなければいけないが、必ず「DIE」に近い目に遭う。それを避けるには飲み物を供する側に徹すればいいのだが――そう、さきほどからきびきびと動いている彼のように――ひたすら飲み物を注いでは渡す、という作業に従事していれば、自分は飲む暇がないので死なないでいられる。
 この中では十分な下っ端なので、会場に入ってすぐ「供する側」に回ろうと決めた。六人部隊長やほかの隊員は、それぞれ知り合いに挨拶をしたり、席で酒を飲んだりしている。
 ドリンクサーバーに近づくと、焦げ茶色の、海と紫外線に焼けた髪をした、りりしい男がこちらを振り返り、「あ、お前も下っ端枠?」と笑ってから両手のジョッキをかかげて見せ、去っていく。出遅れた。
 こちらに背を向けて、ビールを注いでいる男からジョッキを受け取ろうとしたとき、彼が不意にこちらを振り返った。
 彼だった。
 ヘリから降下してきた、あのひとだった。
「…っあの、お手伝いします」
 とっさに出てきた声に、自分でも安心する。下手したら、なにもいわずにじっと見つめてしまうところだった。
 短いはねた黒髪の下で、猫のような眼がぐっと見開く。
 高い鼻梁、薄い、すこし生意気そうなくちびる、まっすぐな眉。
 何よりも魅力的なのは、猫のようにきりっとつり上がった、美しい眼。
「……!」
 なぜか彼は、ひどく驚いているように見えた。
 おどろいていて、……なにか、正解を探すみたいな眼で、おれを見た。
 お前の中に答えがあるはずだ、と問いかけられているような眼で見つめられて、とたんに息苦しくなる。目の前にいるのに、おれをみていないような眼だと思った。
 その眼は、「お前を知っている」と語っていた。
 でも――
 彼のことを、おれは知らない。
「どこかで、お会いしましたか?」
 名前を知りたい。声を知りたい。そうしたら、思い出すかもしれない。
 藁をもつかむような気持ちで問いかけると、彼の眼が揺れて、そっと伏せられた。
「いや…ちょっと。知ってる人に似てたから」
 傷つけてしまったのだ、と分かって、それなのに、おれの胸はドキドキと高鳴った。気の強そうなまなざしが不安げに揺れるさまに、正直、ムラッとしてしまった。
 最低だ。そもそも、おれってこんな、衝動で動くタイプだっけ?
 そう思いつつも、瞬間的な「さわりたい」という欲望の高まりにあらがえなくて、彼の鼻先にふれる。
「泡がついていましたよ」
 嘘だった。
 彼は眼をぱちぱちとさせて、それからぷいっと背を向けてしまう。あの、とさらに話しかけようとしたとき、六人部隊長がやってきておれを誰かに紹介したいと持ちかけてきた。後ろ髪引かれながらその場を離れてしばらく経つと、彼はいなくなっていた。ひどい盛り上がりを見せる会場の中で、なんとか合田さんを探し出して後ろから声をかける。彼は人だかりの中心にいて、話を聞くのはなかなか大変だった。
「あのっ、合田隊長の隊にいる……こう、顔がかっこよくて…眼が猫みたいな人。どこにいったか分かりますか?」
 ビールをしこたま飲んでいるというのに、顔色が全く変わらない合田さんは、虚を突かれたような顔をしてから、ものすごく人の悪い笑みを浮かべた。そして耳元で、「惚れたか?」と笑い混じりに問いかけてきた。
「そんなんじゃないです」
「そう照れるなよ。先に帰るって挨拶してきたから、今出たところだろ。近くにいると思うぞ」
 会場の出口付近まで案内してくれた合田さんが、走り出そうとしたおれの後ろから声をかけてきた。
「おい、星野弟」
「それやめてください」
 笑い声。振り返ると、合田さんは思いの外まじめな顔でこちらをにらんでいる。
「軽い気持ちで近づいて傷つけたら、許さないぞ」
「ただの部下にしては、思い入れが強すぎませんか」
 合田さんは、腕を組み、立っているだけで迫力がある。
 居酒屋の前の歩道はかなりの幅員があるのに、仁王立ちしている彼が恐ろしいのか、みんな大きく逸れておれたちを避けて歩いていく。
 日はすっかり落ち、暗くなった繁華街には、人があふれていた。
「あいつは、おれにとって特別かわいい存在なんだよ」
「かわいいっていうより、かっこいい顔だと思うけどなあ」
「愛おしい、という意味のかわいいだ。分かるか?」
「どう考えても部下に向ける感情じゃないですよね、それ」
 率直なおれの意見に、合田さんは眉を寄せた。
「どういう意味だ」
「そのままの意味です。あと、泣かせたりしません。友達になるだけなんだから」
 まだ何か言いたげな合田さんを残して、おれは走って街へ出た。
 彼が歩いていったという、海辺の方へ向かって。