18 Life goes on

 真夜中に、こんなに酒を飲むのは久しぶりだった。合田さんが親を亡くした日、一緒に酒を飲んだけれど、あれ以来だ。
 おれたちは冷蔵庫に入っている酒が全部なくなるんじゃないか、って勢いでビールを飲んだ。ブルームーンを飲み、ヴェデットを飲み、ハートランドを飲んだ。リビングのラグには、空になったビール瓶がごろごろと転がっていた。
 次第に緩んできたのは気分だけじゃなくて口も同じだった。波留の話になったのは必然だったかもしれない。成一は知っているものだと思っていたので、その話をしてしまったことは少し後悔した。
「波留の家な。裕福じゃなかったらしい。あいつ姉がいたろ、バレエ教室にふたりもやるなんて無理だったんだ。それで、弟のお前が辞めるって言ってこいって言われたんだと。父親にも男がバレエなんて気持ち悪い、とも言われたらしい」
 成一の驚いた顔をみて、しまったと思ったけれど遅かった。
「でも、波留さんは……」
「うん、辞めずにすんだのは、月謝払ってなかったんだ。つまり、お前の母ちゃんはタダでみてた。波留の才能を育てないのはバレエ界の損失だって言って。レッスンのない日も見てくれたんだと。コンクールの交通費まで全部出してもらって、それで今の波留はいるんだってよ」
 ただの嫉妬だよ、とおれは言った。成一の表情にどこか納得したような、あきらめたような色が浮かんで消える。
「自分はのどから手が出るほど欲しかった環境を、成一は生まれながら持ってた。しかもそれを、いらないって放り出しちまった。波留にとっては、お前は憎たらしくて甘ったれたお坊ちゃんだったってわけ。その嫉妬を、おれ使って晴らそうと思ったんだろ。下らねえな。だから成一は何も悪くねえし、嫌われたんじゃなくて劣等感ぶつけられただけだ」
 くだらない。でも気持ちはわかる。きれいな感情だけで生きられるように人間はできてないのだ。そうなるには、極限まで人間に無関心になるしかない。けれど感受性の高い人間ほど、他人に無関心に生きることができない。そういう風にできている。
「おれからしたら、波留さんのバレエの才能、うらやましくて仕方なかったのに」
 まあ彼はすぐにスカラシップとって日本から出て行っちゃったから、嫉妬してる暇もなかったけどね、と成一が言った。
「思い通りにいかないことなんか山ほどあるけど、その先も人生は続く」
 Life goes onだよ、とおれが言うと、成一は笑った。それから「どのアーティストの?」と軽口を叩いた。酔っていたおれは物置からギターをとってきて、ソファに腰かけたまま適当に弾いた。
「he says,”I would like you to lie for me”~」
「BTSでも平井大でもなく、ラブサイケデリコなんだ」
「好きなんだよ、放っとけ。……Life goes on~」
 ギター弾けたんだね、と成一が少し驚いたような顔で言うので、失恋した後どうすればいいのか分からなくてギターを弾いていた時期がある、などととても言えずに「まあな」、と濁す。いくらなんでも、失恋で血迷ってギター弾いてたなんて恥ずかしくて言えない。でもよくあることだよな?失恋したら楽器を弾きたくなる、なんてのは。少なくとも、失恋で手首を切ったりガス自殺を図ったりするよりはマシなはずだ。
「音楽を流すものがひとつもないから、もう聴かなくなっちゃったのかと思った」
 あたり、と心の中でだけつぶやく。でも今、久しぶりに歌ってみたら、案外平気だった。目の前に成一がいるからかもしれない。ひとりで歌をうたったり、聴いたりする勇気はまだなかった。
「リクエストしてくれりゃ歌ってやるよ。限りなく少ないレパートリーの中でな」
 成一も酔っているのか、「じゃあザ・ビーチ・ボーイズの『素敵じゃないか』をうたって」とリクエストしてきた。失恋してからもっとも聞きたくなかった曲ベスト1位をいきなりリクエストしてくるとは。さすが、やるじゃないか。長い間付き合っていただけある。おれのことなんかお見通しってわけか?
 おれは適当にギターをかきならしながら、やけくそ気味に「素敵じゃないか」をうたった。英詞だから、成一には意味がわからないかもしれない。おれにはめちゃくちゃ分かるけど。酔って心が麻痺しているからか、泣いたりせずに唄えた。成一は手を叩いて喜んでいた。なんだこれ?
 朝はおはよう、夜はおやすみ。一日中一緒にいて、毎日抱き合って眠る。ハッピーエンドの曲。おれはこの歌を信じていたことがあったのだろうか?成一とそうなれたらいいとは思っていたけれど、心のどこかで、それはおれの人生に用意されていない幸福だと決めつけていた気がする。
「一保さんは、声までイケメンだね」
「だろ。よく言われる」
 ギターを雑に部屋の隅に蹴りやって、おれはもう一度酒を煽った。
「飲みすぎじゃない?」
「タバコも吸いすぎだしな。いいんだよ、長生きしてどうなる。この世は生きれば生きるほどクソだ」
 仰向けになったままタバコに火をつけると、成一がギターを持ってきて、たどたどしく弾きはじめた。それはおれたちが出会った頃によく聴いていた、大橋トリオの「A BIRD」だった――あまりにも不器用だったから、たぶんだけれど。
「あなたに振られたあと、つらさを持て余してギター弾いてた時期あったんだよね。バカみたいでしょ、笑っていいよ。でも全然上達しなかった。才能ないんだ、おれ」
 あまりにも驚いてしまって、急に起き上がったせいでタバコの灰が顔めがけて落ちてきた。危ない。
「マジかよ」
「マジだよ。自分でも嫌になるぐらい、これといった才能がない平凡な男なんだよなあ」
 あなたは何でもできるのに、と成一がいった。
 離れたところで同じようにバカなことをして苦しんでいたなんて。こんな偶然あるだろうか。
 何もできない、と喘ぐように言った。おれは何もできない。本当に好きだと思った人間を、信じて愛しぬくことすらできなかった。自分を守ることばかり考えていた。傷ついたから何だ。死ぬわけじゃない。そんなこと良く分かっていたのに。
「実はおれも。お前と別れて苦しかったから、ギター弾いたりしてた。頭おかしいよな、ったく。なんだろうな……」
 笑いと一緒に涙が込み上げてきた。おかしくてしかたがなかった。酔っているせいだけではなく。
「人間って失恋したらギターが弾きたくなる生き物なのかな」
「きいたことねえな。そんな偶然おれたちぐらいじゃねえの――シャワー浴びてくる」
 成一の前で泣くのはもう二度とごめんだった。タオルを掴んで冷水のシャワーを頭から浴びて、汗と昂った感情を洗い流した。時計はもう夜中の四時だった。もうすぐ朝が来る。
 おれと交代で成一にシャワーを浴びさせ、使い捨ての歯ブラシと歯磨き粉を洗面所に置いた。歯を磨きながらリビングを片付けていると頭が少し冴えてきて、一体おれは何をやっているんだ?と自己嫌悪と可笑しさが交互に浮かんでくる。前の男を家に入れて、波留の話をして、ギターを弾いて歌っていただけ?何なんだ?
「布団こっちに敷くから。ソファじゃ寝ずらいだろ。それかおれのベッド使ってもいいけど。おれがこっちで寝るし」
 戻ってきた成一も酔いが冷めたのかしんとした顔をしていた。冷蔵庫から水のボトルを取って投げて寄越すと、しばらくそれを手の中で眺めてからのろのろと飲んだ。おれと同じように、一体ここで何をしているのだろう、と自問しているような顔だった。
「一保さんのベッドはちょっとキツイな。変な気持ちになりそう」
「そうか。ならこっちで寝ろ。冷蔵庫の中のものは勝手に飲んだり食ったりしていいから。鍵はテーブルに置いとく。たぶん明日はおれが先に出るから、カギ閉めてポストいれといて。OK?」
「……お店、辞めちゃうの?」
 ずっとききたかったことをようやくきいた。そんな様子で成一が言った。
「潮時だしな。おれ夜の仕事向いてねえわ。睡眠時間大切」
 このカフェも閉めようと思っていた。もともと、ずっとやるつもりではじめたわけじゃない。前のオーナーにも、「ケリがついたら本当にやりたいことをやれ」と言われていた。十分羽を休ませてもらったと思う。
 布団にシーツをかぶせる作業を手伝いながら、成一がこちらを見た。手を伸ばせば届きそうな距離に、星座の配置のそばかすが見えた。大好きだった目、それに笑うと優しく広がる唇。
「これからどうするの」
「さあ。しばらく旅でもすっかな。マチュピチュとか、オリンピアの古代遺跡とか、タージマハルみたりしてな」
 布団の上に横たわった成一が、ぼんやりとライトを眺めている。
「はがき送るよ」
 おれがそう言うと、まるで信じていないような顔で「待ってるね」とつぶやく。それから、あっという間に目を閉じて眠ってしまった。