18 次で降りろ

成田が痴漢に遭う話。もちろん影浦が出てきます。 

 東京メトロの白金高輪駅に差し掛かったころ、尻に違和感を感じた。何しろ朝の満員電車の中なので、偶然手が当たったのかもしれない、と考えてしばらく放置していたが、明らかにその手は、スラックスの上から尻を撫でまわしていた。
 ほかならぬおれの尻を、である。
「……」
 もしかして誰かと間違えているんだろうか?周囲をそっと見まわしてみると、おれの前で眠そうに目を閉じている若い女性や、熱心にスマートフォンをのぞき込んでいる女性がいて、ひょっとしていまおれの尻を撫でまわしている奴は、そのどちらかの尻だと勘違いしているのかもしれない。だとしたら、ひとり性犯罪被害にあう女性を減らすことに貢献しているともいえる。奈乃香から朝の満員電車における痴漢被害を聴くたびに、しばらくの間一緒に乗ったり周囲に目を光らせたりしていたことを思いだし、ならばここはおれが引き受けよう、という気持ちで足を踏ん張って耐えた。
 手のひらは繊細なタッチで尻を撫でまわし続けている。おれはつり革の上、網棚を掴みながら(背が高いので、つり革はまったく高さが合わない)手触りで分からないのか?と疑問に思った。男の尻だぞ。女性と比べたら明らかに硬いだろう。
 次は白金高輪、というアナウンスと同時に、ポケットの中で端末が震えた。それは影浦からのメッセージを知らせるもので、『白金高輪から乗る。何両目だ?』という内容だった。
『現地集合でもいいんだが。〇〇両目、進行方向側のドアだ』
 取引先に行くためにどこかで集合しようという打ち合わせは前もってしていたが、まさか電車から一緒になるとは思わなかった。影浦が電車に乗ること自体が珍しい。影浦は電車が嫌いで、滅多に乗らないのだ。
『わかった』
 ドアが開いて、何人かが降車し、影浦が乗り込んできた。離れた場所からでも、あいつのことはすぐ認識できる。おれだけではなく、周囲の人間が一様に視線をひきつけられ、影浦がこちらに来ようとすると自然とスペースが空いた。どういう仕組みなんだ?
 影浦が隣に立ち、同じように網棚を掴んでこちらを見た。さっきまで隣にいた眠そうな女性は、すっかり目が覚めた様子で熱心に影浦を見つめている。ほかの人間も同じようなものだったが、影浦自身は慣れているので淡々としたものだった。
「どうしてもあの工場は外せねえ。今日は気合いれろよ」
 影浦がおれに声をかけた瞬間、後ろの手が止まった。そのことに違和感を覚えたものの、おれは平静を装って返事をした。
「分かってる。代表がお越しくださって百人力だ」
 影浦が鼻で笑ってこちらにもたれかかり、肩に体重をかけてきた。
「心にもねえこと言うんじゃねえよ。まあ、おれが行って取り逃がすなんてこたあり得ねえけどな」
 目を閉じ、今日のことを頭の中でシミュレーションし始める。邪魔をしてはいけないので、おれも同じように黙って窓の外を眺めた。地下鉄の窓の外なんて暗闇しかないので、どれほど眺めても面白いものは何もなかったが。
「……!」
 ふたたび動き出した痴漢の手が、今度は尻ではなく、前を探りはじめた。前には女性、左右には影浦やほかたくさんのサラリーマンが密集しているから、誰にも見咎められることなく手のひらが厚かましさを増していく。股間をまさぐられ、ようやくおかしいということに気づいた。さすがに女性じゃないことぐらいもうわかるはずだ。
 振り返る。誰だ、この中に犯人がいる!と推理小説のようなことを考えたが、何しろ朝の満員電車、誰が俺の尻を触っているのか全くわからなかった。すべての男が怪しく、またすべての男が無実のようにみえた。誰もかれもこの布団圧縮袋のような空間に嫌気が差しており、早く脱出したい、そんな感情が露わだった。
 電車が揺れて足元がおぼつかなくなり、痴漢に背中を押し付けるように密着してしまったとき、耳元で男が囁いた。
「抵抗しないでくっついてくるなんて積極的ですね、お兄さん」
 それは思っていたよりも若い声で、興奮をおさえているのか息が荒くて気持ち悪かった。とっさに振り返ると、その男と目が合った。どうみても大学生ぐらいにしか見えない、若い男だった。
「シャツぱつぱつだね。やらしい身体……すごい好み。ねえ、次で降りようよ」
 片手で股間をまさぐられ、もう片方の手でシャツ越しに胸を揉まれた。ここ半年で一番気持ち悪く、不快だ。女性は普段こんな目に合っているのか。
 声を出せば目立つし、足を踏もうにも誰の足か分からない。とりあえず手を振り払おうと身動きしたとき、隣から腕が伸びてきて痴漢の手首をつかんだ。
「次で降りろ」
 影浦だった。声だけで身体がすくみそうになるほどの迫力に、おれだけじゃなく、痴漢も固まった。

「おいっ、一体どうするつもりだ!」
 ホテルの客室で、椅子に縛り付けられた痴漢男が叫んだ。俺も全く同じ気持ちで隣の影浦をみた。
「お前の望みを叶えてやろうとしてんだよ。警察に突き出されるべきところを、ありがたく思え」
 ここは麻布十番駅からすぐの三つ星ホテルだ。男を電車から引きずり下ろした影浦は、無理矢理おれたちをこのホテルに連れてきた。片手に痴漢、片手におれの腕を掴んだままホテルに入り、総支配人を呼ぶと、彼に向かって軽く頷いただけで部屋が用意された。記帳も、本来あるべきはずのチェックインの時間帯といったルールも、何もかも無視されてカードキーが手渡された。
「こいつの顔を見るのは3度目だ。悠生、気づいてなかったのか?おれは覚えてるぞ」
 怒ったような声で問われて、おれは素直に首を振った。
「いや……、まったく見覚えがない」
 影浦は「だとよ。残念だったな、クソ変態野郎」と目を細め、両足を開かされた状態で椅子に固定されている男の股間を、革靴のつまさきでゆっくりと踏みつけた。
「いっ!やめろ、いてててて!悪かったよ、あんたの男だなんて思わなかったからさ!顔も体も好みだなって、みてただけ……いってえ!!」
 影浦は無言のまま足を椅子から下ろし、おれをみた。おれは男の顔を見ていた。これまでも同じ路線に乗っていたということだろうか?白金高輪には影浦の家があるのでときどきあの電車に乗ったが、まったく気付かなかった。
「こんなやつ見るんじゃねえ。おれを見ろ」
 影浦の命令にそちらを向くと、あろうことか影浦はおれのネクタイをひっぱってベッドに押し倒した。
「なにを……」
「見せてやるんだよ」
 影浦が底冷えのするような笑顔でのし掛かってきた。抵抗するよりも早く影浦の手がおれのシャツにかかり、勢いよく左右に開かれる。ブチブチと音を立ててボタンが飛び、あっという間にシャツは肩にかけているだけの状態になった。
 事態が把握できなくて唖然としているおれの後ろに回って、影浦が無理矢理おれの足を開かせる。ベルトに手をかけスラックスから引き抜くと、抵抗しようとしたおれの両腕をベルトで縛った。
「みたかったんだろう、こいつの裸を。触りたかったんだろう?よく見ろよ。……ああ、言わなくても食い入るようにみてるな」
 不意に頰を掴まれて口付けられた。舌を出せ、と小声で言われ、その声のとおりにおずおずと舌を出す。ベッドに座ったまま足を開き、影浦と長いキスをした。唇はしつこくおれの舌を吸い、呼吸もままならないほど激しくされて、唾液が唇の端から流れ落ちていく。その間に影浦の手のひらはおれのスラックスを脱がせ、シャツを脱がせて、下着だけにした。影浦はジャケットすら脱いでおらず、靴も履いたままだというのに、
「ギリシア彫刻のように美しいだろう。筋肉の付き方といい、骨格といい……」
 ぎくりとした。影浦はおれの体を開きながら、男に話しかけていた。
「感度もいいぞ。おれがそんな風にしたからな」
 後ろから伸びてきた指が乳首を撫で、そのあときゅっと摘んだ。
「あっ、……仁、やめろ」
 声が上ずる。影浦はまったく言うことを聞かずに耳の下をきつく吸った。
「ほら、もう濡れてきた」
 下着の上から性器をなでられ、布地にジワリとシミができた。知らない男の前でこんなことをされて、恥ずかしいし怒りが湧いているはずなのに、影浦に触れられると身体はまったくおれの言うことを聞かなくなる。
 長い指が下着の中に入ってきて、ぬちゅぬちゅと音を立てておれのものを擦り上げる。おれは男に向かって足を開いたまま、背後に座っている影浦にもたれて体を震わせた。下半身が熱くて頭の中がしびれた。
「ん、んんっ、ンッ……仁」
「もっと名前を呼べ」
 自分で呼べと言っておいて、影浦が唇を寄せてくる。柔らかい唇が、舌が、おれの口をふさぐ。
 ひたむきな顔で切なく見つめられると許しそうになる。自分だけほとんど裸にされている。とんでもないことをされているのに。顔が良いのは本当にずるい。
 激しく擦られて達しそうになる。羞恥から足を閉じようとすると、膝裏を持って強引に開かれた。
 腿が痙攣して、下着の中が濡れた。
 痴漢男に絶頂した顔を見られるのだけは嫌で、拘束された腕で顔を隠す。影浦はキスや口淫だけでなく、手淫も上手い。あの手に触れられると、驚くほど早く昇りつめてしまう。
 後ろの影浦にぐったりともたれかかったまま呼吸を整えていると、拘束されたままの痴漢男が椅子の上でもぞもぞと膝を擦り合わせているのが見えた。
「別の男にヤられるのを眺めるのはどんな気持ちだ?」
 痴漢男は黙ったまま顔を歪めてうつむいた。おれは影浦の質問の意味が分からず、射精後のぼんやりする頭を持ち上げて後ろを振り返った。影浦は悪魔のような笑みを浮かべていた。
「惚れてたんだろ。あの路線で成田目当てに張り込んでたんだもんな?」
 立ち上がった影浦は椅子に座っている痴漢男の股間を再び踏んだ。男は悪態をつきながら影浦を睨みつけたが、革靴のつま先に力が入るに連れて、顔色を悪くして押し黙った。
「よせ」
 おれの言葉に影浦の足が椅子から降ろされる。ベッドから降りて男の手足を椅子から解放してやった。
「もう痴漢はするなよ」
 男は泣きそうな顔でじっとおれを見た。たぶん、ほんの数秒ほど。
 それが気に入らなかったのか、影浦が椅子の男を蹴り倒した。
「消えろ。次におれの視界に入ったら、命はないと思え」
 腕を組んだままそう言い放つ。
 男は真っ青な顔で、部屋から転がり出るように逃げていった。

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おわり

(仕事はどうなったのだろう)