17 きれいだ(成一)

 仕事の立場が変わると、感じるストレスの質も変わる。
 部下を持つのと後輩を持つのでは責任が違うし、自分の行動や発言の重さも感じる。
 一保さんが歩いている横顔を見ながらそんな話をした。緊張していたから、あまり上手く話せなかったけれど、彼は黙ってきいてくれた。
 月の明るい夜だった。彼の、耳のそばだけ明るく染められた髪は、昔と変わらず自由に跳ねていて、おれはその跳ねている毛先すら嬉しかった。こんなに側で、息づかいすら感じることができる。奇跡だ。
「お前は向いていると思うよ」
「えっ」
 上司、と短く彼は言った。
「きっとすごくいい上司になれる。つらいことが多かった人間のほうが他人に優しく出来るから」
 夜はすっかり更けていて、もはや電車もバスも動いていない時間だ。けれど、夜独特の不安な気持ちが全く湧いてこない。そうだったな、とおれは思い出した。彼といたら、おれは無敵だと思っていたのだ。長い間ずっとそうだった。
「そうなれるように、頑張るよ」
 入校していた消防大学校はもうすぐ出なければいけない。無事試験がパスできたら、そうしたら、会いに来るのに時間がかかるようになる。耐えられるだろうか。
「成一の嘘の妻。どうするつもりなんだ?」
 突然核心に触れられて、おれは立ち止まってしまった。
「……チカのこと?」
「ああ。利害が一致してるから結婚してることにしてるんだろ。お前はそう言ってたけど」
 これ以上近寄るな、という牽制のように思えて悲しくなったが、彼は淡々と続けた。
「あの子はお前のことが好きだと思う。おれにちょっかいかけてる暇があんなら、そっちとちゃんと話し合え」
 立ち止まっているおれに気づいて、彼も止まった。いつも胸を張って、足早に歩く彼。堂々とした生き様がとても好きだった。今でも好きだ。
「自分を偽っててもいいことなんか何もねえよ。周りのためだっつって、一番自分を守ってんだ。最後には周りも自分も傷つく」
 正しかった。だからおれはうつむいた。
「責めてるわけじゃねえから。おれだって人のこと責められるような人生送ってねえし」
 少し笑った気配がして、顔を上げる。彼は目元を細めて腰に手を当てていた。
「心配してるだけだ。何しろ、遊びが高じて職場で刺されそうになったやつを知ってるからな」
 ふ、と息を吐く。彼は吐息のような柔らかい声で「帰ろうぜ」と言った。

 
 消防大学校は敷地内に寮がある。土日は外泊できるため、チカと暮らしている神奈川の家に帰っていたが、次第に足が遠のいていた。
 一保さんはチカがおれのことを愛している、といった。おれはそれを否定しなかった。もしかすると一部正しいかもしれない、と思ったからだ。
『今週末も帰ってこない?』
「うん。訓練で疲れていて、寮でゆっくりしたいんだ」
『わたしがそちらに行くのは駄目?』
「ダメじゃないけど、こっちは何もないよ。寮で面会することもできない」
『宿を取るわ』
 ここまで粘ってくるのは初めてだった。チカの感情が愛や恋ではないと、おれは知っている。だが他の人間から見たとき、その違いを分かってもらうのは難しいだろう。
「宿……あるかな」
 おれの言葉にチカが少し落ち込んだような空気が、端末越しに伝わってくる。他意はなかった。本当に、泊まるところがあるか怪しいものだ。このあたりは、駅前にすら何もない。
「チカ、もうやめないか」
『……何を?』
「逃げるのを」
 ひそやかに息をのむ音がした。チカは分かっている。おれよりもずっと賢い人だ。それなのに行動は愚かな人。だからこそ、おれたちは一緒にいたのだ。頭で分かっていることを、身体と感情が裏切る。止められない。だから誰かに見ていてほしかった。許してほしかった。
「お互いに、見ないふりをしてきた問題と向き合おう」
 端末の向こうからぱたぱたと音がしている。雨が降っているのかもしれない。こちらはさっき雨が上がったところで、雲の隙間から光が差し込んでいて美しい。
『会って話しましょう』
 声が少しかすれていた。おれはうん、と頷いた。
「おれがそちらに行ったほうがいいと思うんだけど、本当にくたくたなんだ」
 少し笑った気配がした。
『訓練、厳しいって有名みたいだものね』
「すごいよ。気を失いそうになる」
 チカの声が好きだった。低くてなめらかで、少し湿っていて。
『公園やカフェはあるの?』
 一保さんの店が思い浮かんだけれど、すぐに打ち消した。
「湖のある公園があるよ。ボートで話をしよう」

***

 乱暴なように見えて、調和のとれた話し方をする人ね、とチカが言う。
 何の話、と問う前に、彼女は透明な無表情でオールを漕ぎながら「村山一保さん」とつぶやいた。
「容姿が整った人が嫌いだったの。だって彼らは苦悩を知らないでしょう。いつも自分たちの思い通りにことが運ぶと思っている。微笑みひとつでなんでも上手くいくってね。そういうところが我慢ならなかった」
 おれはチカの相手のことを詳しくは知らない。悲惨といっていいほど手ひどい扱いを受けてもなお、彼女が好きでいるぐらいだから、きっと魅力的な人物なんだろう。
「でも、あの人と話していて分かった。すごく苦しんできて、いまだって苦しんでる。それでも、性根がきれいなの。間違っても迷っても、潔くあろうとする、その姿勢がとても美しいの」
 9月の終わり、チカは湖の匂いを吸い込むように鼻をすこし動かした。水音と、ボートがオールと接触する、ことことという音がする。おれは同じようにオールを漕ぐ手をとめて、彼女の声に耳をすませた。
「だから、素敵だなって思うと同時に嫉妬した。ほとんど気が狂いそうなぐらい。だってあんなふうになれないもの。わたしは。いつも人を羨んで、憎んで、欲しがってばかりだった」
 チカがボートの上で立って、ううんと唸って身体を伸ばした。危ないよ、と言ってボートを両手でおさえていると、彼女は座っているおれをすがすがしい笑顔で見下ろして言った。
「長い間あなたを利用してごめんなさい。でももう大丈夫。寂しさをひとりで引き受けていけるぐらいには、強くなれたと思うから」
 彼女の手を握ろうとして、やめた。そうだね、とチカがささやく。
「あなたが握りたい手はわたしの手じゃないでしょう」
 でも、さようならの握手ぐらいなら許されるよね。
 そう言って手を伸ばしてきた彼女のてのひらは、細くてやわらかくて、しっとりと温かかった。

 事実婚を解消するのは実に簡単だった。区役所で手続きをすればそれで終了、戸籍にも住民票にも、あとかたも残らない。あとは指輪を外して、彼女の引っ越しを手伝って、おれも一人暮らし用のマンションに引っ越した。職場はやめない限りずっと神奈川県だから、地元の駅から一駅離れた、海に近いところに。
 両親はおれの離婚(そもそも入籍はしていなかったが)について、特にコメントしなかった。両親も最近離婚したばかりだったし、彼らの関心の中心はおれにはない。
 公務員には離婚歴のある人間が珍しくない。消防士の場合、不規則な生活で家族とすれ違いになり、子どもが独り立ちしたころに妻から離婚を通達される男性が多かった。それゆえ、おれが2年という短い婚姻歴を終えたときも、周囲の反応は落ち着いたものだった。
「一度結婚しとけば、もう親も何も言わなくなるからさ、楽だよ」
 研修が終わって、新たに配属された南署。上司の沼田司令は、手酌でビールをグラスに注いでから溜息まじりに言った。
「……よし!!おれがおごってやるから風俗いこう風俗」
 何が「よし」なのか全く分からなくて、苦笑しつつ断った。
「結構です。そのかわりここ、奢って下さいよ」
「当たり前だろ。ここは奢る、だが風俗も奢る。安心しろ、星野司令補」
「苦手なんですよね、知らない人に触られるの」
 正直に言うと、沼田さんはげらげら笑った。
「大丈夫だって。若くてかわいい子がいる店に連れてってやるから」
 高いけど心配すんな、といわれて焦った。
「いや、本当に。お気持ちだけで」
 ざわついた店だが、魚介の美味しいところで、かつての上司、六人部隊長とも何度か来た事のある店だった。大漁旗が飾られた店内には客がすし詰め状態で、酒に酔った客たちはみな大声で話している。
 湿度の高い風が店の中に入ってきて、おれはため息をついた。上司は突然はっとした顔をしてから、にやにやと笑った。
「あっ!!お前もしかして……童貞か!?」
「もうそういうことでいいです」
「じゃなきゃホモか。ははっ、まさかな」
 侮蔑的な言葉に、背筋が冷える。冗談にもならない悪質な言葉。でも、こんな言葉は巷にあふれている。
 唐突に一保さんのことを思いだし、彼が逃げたかったものについて、おれは痛いほど理解した。上司は悪い人間ではない。デリカシーに欠けるところがあるけれど、仕事自体はよくできる人だ。人を見る目もあるし、温厚で人情みあふれていて部下にも好かれている。それでも、こんな冗談にもならないことを言う。
 彼の恐れは愛情の裏返しだったのだ。うぬぼれだと、彼は怒るだろうけど。
「気持ちのないセックスに快感見いだせないんです」
 上司は眉を上げ、それからやれやれ、と肩をすくめた。それは一保さんがするような板についたものではなく、ひどくわざとらしくて目障りなジェスチャーだった。
「嘘をつくなよ。ヤるのに感情なんか関係あるもんか。生理現象だ」
 趣味はナンパで、年に3回性病にかかる人間は言うことが違いますね、と心の中で罵倒する。口には出さないだけの分別があった。
「生理現象なら自分で解決したらいいって思うんですよ」
「ばっか、そりゃお前、気持ち良さが違うだろ」
「出すものは同じでしょ?」
「身もふたもねえな」
 残っていたビールをぐっと飲みほしてから、上司はどこかしらけた目でおれを見た。それから、「やっぱりお前はいいとこのボンボンだなあ」と揶揄してから金を置き、ひとりで風俗街へと繰り出していった。

 女狂いの上司の話をすると、一保さんがふふっと低い声で笑ってくれた。彼の同性愛者への偏見と侮蔑については言及せず、性病と風俗通いが原因で妻に離婚された話をした。
「おれは本気で人を好きになったことないんだよな、なんていうんだよ。結婚してたのに。信じられないでしょう」
 一保さんはマティーニを作り、やさしく微笑んで隣の男性に手渡す。彼はすこしぽうっとなって一保さんの顔を眺めてから、どうも、と頭を下げた。胸にチリチリしたものが走って、おれは俯く。白いシャツを着て、猫みたいな目を艶っぽく細める彼は、健康的で似つかわしくないからこそアンバランスでセクシーだった。
「性欲を満たすためだけに風俗いったりナンパしたりするのかな」
 氷を作り終えた一保さんは、グラスを磨いている。ひとりごとのようなその声に、おれは勢いよく返事をした。
「心の隙間を埋めたい、とかわけわからないこと言うんだ」
 憤慨したおれの声に、一保さんがまた笑う。
「隙間ねえ。そんなもん、誰にでもあるよな。埋め方は人それぞれだけど……そう考えると、その上司にとって隙間を埋める方法がゆきずり女との肉体関係しかないのかもな」
 空虚だ、とおれが言うと、一保さんが巻き込まれる方はたまったもんじゃねえな、と同意した。
「村山くん、ちょっといいかな」
 オーナーが店の奥から一保さんを呼び、頭を下げた彼が席を外す。目の前のビールを飲んでグラスを置くと、隣の青年がひそひそと話しかけてきた。
「この店、たたむんじゃないかって噂があるんです」
「えっ」
 とても成功しているように見えるのに、とおれがなんとか声を絞り出すと、青年は困ったように眉を寄せた。
「実際、売上はいいみたいですよ。でもオーナーがね、知ってます?ここのオーナー、もとは歌舞伎町で有名なホストだったらしいんですよ。で、そこで恩のある人にね、店譲るからやってくれないかって頼まれたんだって話です」
 ほかの客には聞こえないように、かなり落としたボリュームで囁いた青年は、とても残念です、とため息をついた。
「僕、村山くんのファンなんですよ。ゲイってわけじゃないんですけど、目が離せなくて。どんな美女やお金持ちの男に誘われてもなびかないところなんて、気まぐれな猫みたいで最高で」
 はなにもかけてもらえないんですけど、と彼は言って、嬉しそうに鼻を擦った。
「オーナーもかなり気に入っていたみたいで、店に誘ったけど断られたそうです。まあ、噂なんですけど」
 どうなんだろう。一保さんは確かにとても整った顔立ちをしているけれど、夜の仕事に向いているかといわれると適性があるとは思えなかった。もちろん、彼がどんな仕事をしても自由だ。おれがとやかく言う権利はない。誰にだってない。
「そうなんですか。残念だな……」
「村山くんの入れるコーヒー、すごく美味しいですしね」
 何年か前までは、当たり前のように彼が朝いれてくれるコーヒーを飲んでいたのだ。おれが一口飲んで、
おいしい、ありがとう、と声をかけると見せてくれる、眼を細めた笑顔が好きだった。
「彼がやっているカフェも、地元じゃ有名ですよ。知ってます?」
「ええ。ごはんもおいしいですよね」
「有名なバレエダンサーも通ってたんです」
 頭の中に波留さんの姿を思い浮かべる。おれは彼に嫌われていたんだろうか。だとしたら、そのせいで一保さんに多大な迷惑をかけてしまった。
 時々自覚なく他人に嫌われることがある。それはおれの生まれ育ちのせいなのか、性格のせいなのか分からないけれど、どこかしら他人の神経を逆なでするような無神経さがあるのかもしれない。もっと若いころは、そのことに酷く傷つき、焦り、なんとかしたいと足掻いたりもした。でも今は仕方がないと思う。全ての人間に好かれることなんてできやしないのだ。そんな必要もない。そう一保さんが教えてくれた。
「ラストオーダーになりますが」
 戻ってきた一保さんが、感情の読めない淡々とした声でひとりずつ声を掛けている。おれはビールを飲み切って、彼がこちらにやってくるのを待った。

 帰り道で、チカと会った話をした。
 彼は黙ってきいていたが、最後に小さい声で「本当にそれでよかったのか」とつぶやいた。それはとても頼りなく低い声だった。おれは頷き、甘えていたのはこっちだったんだ、と正直に言った。あのころ、孤独に耐えかねていたのは事実だった。
 店の話をしたかったけれど、できなかった。チカの話が終わった後は、波留さんのことを話した。ダンサーとしての彼を尊敬していること、でもおそらく彼はおれのことが嫌いなこと、そのせいで一保さんに迷惑をかけてしまったことを申し訳なく思うことなど。
 一保さんは真剣に聞いてくれていた、と思う。言葉少なく相槌が返ってくるだけだったけれど。
「研修が終わったから、あまり来られなくなるけど、また連絡してもいいかな」
 もちろん、友達として。
 とってつけたような言葉になってしまった。おれは彼を見ることができずに、足元の影をみていた。月明りで伸びた自分の影だ。ことさらゆっくり歩きながら、こうして二人で歩くことができるのはもう最後かもしれない、と絶望していた。
 長い沈黙が流れた。スニーカーのゴム底がアスファルトに擦れる音と、街灯が立てるジジジという音だけが聞こえた。川も海もない街。一保さんが選んだこの街の夜は、息を潜めたくなるほど暗くて、救いがないほど静かだった。
「……、もうやめたほうがいい?」
 苦笑が混じってしまう。何も面白くなんかないのに。いや、自分が滑稽ではあった。いつまでもあきらめることができない愚かな自分が可笑しかった。
「成一が誰かに……時々嫌われるのは、お前のせいじゃないよ。相手のコンプレックスが刺激されてしまうだけで、相手の問題だ。気にしなくていい」
「コンプレックス?」
「持たざるものの劣等感、ってやつ」
 立ち止まった一保さんが、寄ってくか、と尋ねてくる。それが彼の家のことだと気付くのに時間がかかった。最近はずっと、家の手前で別れていた。もっと一緒に居たいという気持ちを感じなくて済むように。
「明日休みなんだろ。泊ってけよ、ソファでよければ」
「いいの?」
 こちらを振り向いた一保さんは、皮肉っぽい笑みを浮かべてこう言った。
「お前が家にいる人間を誰彼構わず犯したりするなら帰ってもらうけど」
「誰彼構わずすることはないね、一保さんだからちょっとムラムラはしちゃうかもしれない。でもそれは自制心があるからなんとかするよ」
 正直かよ。そう言って、一保さんは少し笑った。
「腹減らねえ?あ、成一は真夜中メシ食わねえんだっけ」
 ウェイトのコントロールに力を入れていたのは確かだけれど、彼とごはんを食べる機会を逃すわけがない。それに実際、空腹を感じていた。
「何か買って帰ろっか」
「適当でよければ作る。明日の仕込みもあるし」
 もう触ることが許されない彼の髪が、月明りに照らされて鈍く光っている。耳の後ろの金色に染まったところだけが、おれの知らない色をしていた。強くて自立した目も、薄い唇も、何も変わらないままこちらを向いているのに。
 腕時計を見ると、もう夜中の3時を過ぎていた。普段この時間に食事をとることはない。店の鍵をあけて中に入った彼は、手招きしてから電気をつけた。店の1階、木のカウンターをぼんやりとした白熱灯が照らす。
「上に住んでるから……知ってるよな、シャワーも上。先に上がってろ。適当に持っていくから」
 手伝いを申し出ても断られてしまったので、言われた通り2階に上がる。
 彼らしく片付いた居室だった。物が少なくて、写真やオーディオが見当たらない。あまりじろじろ眺めるのもマナー違反だと分かっていながら、どうしても眺めてしまう。
 一緒に住んでいたころ、お互いたくさん持っていたCDやレコードは、一保さんが全て置いて行ったのでおれの家に全部のこっている。あの頃、音楽を聴かない日は一日もなかった。仕事から帰ってきて、ごはんを食べる短い時間、朝起きてコーヒーを飲む短い時間、おれたちは必ず何か曲をかけていた。鼻歌を歌いながらビールの栓抜きを投げて、王冠を引っこ抜いて飲みながら料理した。言い争うときすら音楽があった。
 そう、最後の日ですら。
 いま、彼の家には何一つ音楽がなかった。音楽雑誌すらない。本棚に並んでいるのは実用的な、仕事に必要な本ばかりだった。料理、コーヒー豆、台所道具、野菜。旅の雑誌。
 リビングには簡素なソファが置いてあったので、おれはそこに座った。ひとりに耐えかねて甘えていた間、一保さんはずっと、ひとりで生きてきたのだ。自分の足で立って、生活をしてきた。

 きれいだ。
 潔くて、まっすぐで、ほんとうにきれいだ。涙が出そうなぐらい。
 おれなんか、まるでふさわしくない。

「ビールでいいか?適当なもので申し訳ねえけど」
 やってきた彼はラグに腰かけ、ビール数本とパッタイ、トマトスライスと塩、野菜スティックを並べた。
「暑いから辛いもの食いたくてさ。乾杯」
「ありがとう、作ってくれて。乾杯」
 瓶をぶつけあってから、手を合わせる。いただきます、とつぶやいたおれに、一保さんが少し笑った気がした。