16 大切なともだち(ルカ)

 いつも他人のことばかり考えて生きてきたのかな。

 わたしが店長にそう言ったとき、彼は鼻で笑った。
「なわけねーだろ。だったら住んでた町も仕事も捨ててねえし」
「そう?それこそまさに『他人のことばかり考えていきてきた』証なんじゃないの?」
 彼は切れ上がった黒い眼をわたしに向けた。つやつやとしていて、それでいて鋭い眼。くせの強い短い髪は、まるで少年漫画の主人公みたいにつんつんとあちこちを向いている。
 主人公属性だ、と彼をみるたび思う。顔がかっこよくて、物言いがきっぱりしていて、訳アリの過去をもっているのに根暗な感じがしない。どこかきらきらしたオーラがあるのだ。生まれつき、周りの人の視線を集める、そういう人間だ。
「ルカ。合田さんから何かきいたのか?」 
「合田さん?ああ、あの動く山みたいな人か。きいてないよ。店長の夜バイト先に一度きた人だよね。あの人かっこいいわあ……でもゲイなんだろうなあ。女にまるで興味がないって顔してるもん」
 店長は少し笑った。笑うとやんちゃな少年みたいな雰囲気があって、整った顔に愛嬌を上乗せする。そりゃあ近所のご婦人みんな骨抜きになるよね。こういうのずるいと思うのよ、男の顔と少年の顔を使い分ける的なやつ。本人無意識だろうけど。
「お前も別に男に興味ないだろ」
「性的には、ないけどさ」
 彼はきびきびとした動きで酒をつくり、客に手渡す。そこにはバーテンダーらしい夜の艶、色っぽさは皆無だ。まるですべての酒が健全な生ビールのように見える。それなのに彼は人気だ。彼目当てに客が店をいっぱいにする。
「一保くん、ブルームーンちょうだい」
「かしこまりました」
 メニューで顔の下半分を隠して、女同士でひそひそと話しているのも店長の顔と雰囲気を褒めているのだ。あのひとすごくかっこいい。それなのに気さくで話しやすい。彼女いるのかな?とでも言い合っているに違いない。
 肝心の本人はといえば、夜のバイトの稼ぎがとうとうカフェを超えてしまったと嘆いていた。あくまでカフェが本業で、夜の仕事はサブなのである。彼特有のヘルシーで陽気な雰囲気は、少し失恋でやつれたぐらいでは抹消できないらしく、夜の仕事ならではの少し危ない雰囲気を消して余りあった。
「店長、ぜんぜんこの店合ってなくね」
「うるせえぞ未成年。勝手に店くんな、帰れ」
 樹くんにこの店を教えたのはわたしなので、責任をもってウーロン茶とコーラの瓶しか飲ませていない。そして真面目な店長は、彼を必ず日付が過ぎるまでに家に帰す。
「わかるよ樹くん。夜職ってふつう、特有のオーラが身につくんだけどねえ」
 わたしがそういうと店長は眉をよせて少し悩んだ顏をしたが、手元は動いたままだ。ブルームーンはマニュアルどおりにきちんとつくられて女性ふたりのうち奥側、真っ赤なルージュを塗っている若い女の子に手渡された。
「海の家でビール売ってるほうが似合うよな」
「わかるー」
 カウンターの端で氷を割り始めたところで、樹くんが耳元でささやいてくる。
「合田ってひと、前店長がアホほどヤッてたセフレかな」
 驚いてしまった。樹くんがニヤリと笑う。
「なんでそんなこと知ってんのよ」
「なんかそんときエロかった。雰囲気が」
「友達らしいよ。というか、尊敬している先輩?」
 ふうん、と樹くんが納得のいっていない様子で目を細める。
「友達ってときどきセックスもすんの?おれにはよくわかんないんだけど」
「まあ人間関係にもいろいろあるんじゃないかな。わたしにもよくわかんないけど」
 占ってあげよっか?と話を変えようとすると、樹くんはすぐにのってきた。これだから単純明快な男の子は大好き。
「じゃあおれの恋愛運占ってよ」
「タロットか手相どっちがいい?」
 雑談をしつつ店のドアをみる。予感があった。誰か来る。大きく流れがかわる誰かが。
 そうすると本当に店のドアが開いて、男性が中に入ってきた。とても洗練された雰囲気のひとだ。以前店長に言い寄っていた(からかっていた?)バレエダンサーと少し似ている。立ち姿が。
「こんばんは」
 物腰もやわらかい。目元のやさしい人で、育ちの良さが匂いたつような好青年だ。
「……いや、来るなよ……なんで知ってんだよどいつもこいつも」
 歓迎されているとはいいがたい彼は、気にした様子もなくスツールに腰かけた。
「生ビールください」
「ここはバーだぞ。野暮なもの飲むんじゃねえよ」
 悪態をつく店長を、彼はにこりと上品な微笑みひとつでかわす。
「そう?なら……モーニンググローリーフィズを」
 目尻がさっと赤くなるのを確かにみた。それは怒りか、それとも照れか?まあ、一瞬で消えたけど。
 彼は返事をせずにカウンターの隅へ消えてしまう。別の客の相手をするフリをして、心を落ち着けようとしているのだ。
「さっき話していたことなんですけど、本当ですか?」
 こんばんは。一度お会いしましたね、と柔らかい微笑みと共に挨拶をされて、気圧されてしまう。善良で、紳士的な好青年。そういう印象から少し外れた、好戦的な色が目にちらちらと見える。
 まったくとんだ男狂わせだ、と心の中で嘆息した。本人にそんなつもりがないのだから余計始末が悪い。
「どの話っすか」
 樹くんが入ってくる。ややこしくなる前にわたしが彼の手をとって手相を適当にさえずった。ゆっくり見ている時間はない。
「一保さんと合田さんが……」
「セフレ?」
 彼は上品な眉根を陰らせた。
「聞こえて心配になってしまって。おれは一保さんとの付き合いが長いので」
 腕時計をみる。もうじき夜の10時を過ぎそうだ。
「そろそろ帰った方がいいんじゃない?樹くんはおねむのじかんですよ」
「は?こども扱いすんなし。そうそう、なんかいやらしーい大人の付き合いしてたんですよ、何日も泊めて。朝は店も開けずにね」
 店長の視線が痛い。この場のおさめろと命令されている気がする。
 幸い女性二人組はノーブルな彼が入ってきた時に入れ違いで帰ったので、店にいる客はわたしたちと、カウンターで二人の世界にトリップしている中年男と若い女の不倫カップルだけだった。彼らがこの話をきいている恐れは全くない。さっきから女が中年男の太ももを撫でまわしたり、キスをしたりしている。普段なら悪態のひとつもつきたくなるのだが、今は感謝しかない。
「帰らないとママに電話するからね」
 スマホを手に彼を脅す。彼の母親は最近新興宗教(比較的害は少ない)にはまっていて、素行の悪い彼を入信させようと躍起なのだ。
「あ、きたねえ。大人はこれだからダメだ。おい、やめろってまじでめんどくせえからあの女。帰る、帰るから!」
 スツールから飛び降りた樹くんは、店長にむかって「そのうちおれにもさせてくれよな!」と叫んでからカウンターに千円札を置いて飛び出していく。全然足りないので私がそこに千円足した。店長は「一生ねえよ」とつぶやいてから不本意極まりないといった顔でカクテルを置いた。彼の前に置かれた美しいカクテル。
「えっちだな……モーニンググローリーフィズなんて」
 わたしの囁きに、彼は目を細めた。
「星野といいます。あなたは?」
「占いを生業にしているルカです」
 彼はとても感じのいい微笑みを目元に浮かべた。それから「友人ですか?」と問いかけてきた。
「ええまあ。あなたは……当てましょうか、占い師らしく。店長の元彼?」
 琥珀色をした眼がわずかに見開かれる。きれいな眼だな、と思った。
 星野さんは、カクテルをひとくち飲んでから、「甘い」とつぶやく。たしかに、見た目からして甘そうだ。
 ウィスキーをベースとしたカクテルは彼の目の色に似ている。
「カクテル言葉をご存知ですか」
「もちろん。だから注文したんです」
 いたずらっぽく笑う。その表情をみて、店長が彼を好きになるのは無理ないな、と思った。そしてその失恋がどれほど痛かったのかを想像して胸が苦しくなる。
 カクテルには、それぞれ物語ともいうべき「カクテル言葉」というものが存在する。モーニンググローリーフィズは主に夜のお誘いに使われるもので、意味は「あなたと朝を迎えたい」。大人しそうな顔をして肉食じゃないの。わたしはほとんど初対面に近い星野さんをすぐに気に入ってしまった。
「占い師ということは、お金を払えば占ってもらえるのかな」
「もちろん。そのためにいるんだもの」
 じゃあ、おれの恋に見込みがあるかどうか占ってください。そう彼は言ってから店長のほうをちらりと盗み見た。店長は不倫カップルの会計を済ませて店の外まで見送ってから片づけをはじめており、こちらの会話をきいているのかいないのか判然としない。
 店長は食器を洗ったりグラスを磨いたりしてから、わたしと星野さんの前に立った。こうして近くでみると、やはり彼はとても魅力的だ。真っすぐな眉、くっきりとした平行二重に、切れ上がった眦。燃えるような強い眼はほとんど黒に近い鳶色で、つんと高い鼻梁。薄い唇から除く歯は白くきれいに並んでいて、うんざりしたような口調で「電気を消しても続けるつもりか?」と言った。
「言っとくけど、お前と朝を迎えるつもりはないからな」
 店長が先制攻撃をすると、星野さんはさらりと言った。
「一緒に帰りたいだけだよ。外は暗いし」
「自転車なんだよ。だいたい30過ぎた男に暗いもへったくれもあるかよ」
 彼がここまで感情をあらわにするなんて、とわたしは驚いていた。ほかのだれかに言い寄られたときは、いつも皮肉をいうか、冗談であいまいにするか、そんなのばかりなのに。
「自転車ならわたしが乗って帰るから」
 助け船のつもりだったのに、思いきり睨まれてしまった。怖い。顔がいいと迫力が違う。
「余計なお世話だ」
 星野さんが笑った。
「そんなに警戒しないで。べつに取って食おうってわけじゃないんだから」
「警戒なんかしてねえよ」
「そう?」
 余裕があるように見えるけれど、わたしには分かる。彼は必死なのだ。店長とよりをもどしたくて必死。
「チッ。歩きなら一時間以上かかるけどいいんだな?」
「もちろん、そのために来たから」
 店長の負けだった。星野さんは、みているこちらが顔をあからめたくなるような甘い笑みを浮かべた。
「片付け手伝おうか?」
「客に手伝わせる店があるかよ。いいから座ってろ」
 ほうきやら何やらを取りに店の奥に引っ込んだのを見送ってから、星野さんに声をかける。
「すごい。店長の頑固さっていったら、それはもう、河川敷に何十年も前から転がってる岩みたいなものなのに。本当にあさを迎えられるかもしれませんね」
 応援のつもりで言ったのだが、星野さんは苦笑した。
「一緒に帰るだけですよ。信頼を取り戻すには時間しかないと思うので」
 でも手ぐらい握れたらいいな。そういう彼の横顔は、ただの恋する青年そのもので、わたしはというと、「はあ」という間抜けな相槌しか出てこなかった。
「あなたを信じていないわけではないのでは」
 つい助言めいたことを言ってしまって、後悔したもののあとのまつりだった。星野さんは不安に揺れる眼でわたしを見た。そこには不安と一緒に期待も混ざっていた。
「人と交わる勇気がないだけです、多分」
 交わるって変な意味じゃなくて、と説明しようとすると、彼は「分かっています」と言った。
「変わることも、変えることも怖い。そういうことですよね」
 星野さんのまなざしは柔らかくて、でも明確な意志が宿っていた。
「おれのせいだって考えるのは、傲慢なことなんだと気付きました」
「そうですね。彼自身の心の問題です」
 わたしの答えに、星野さんはじっと考え込んだ様子をみせた。
「離れていた間に、一保さんには色々なことがあったんですね」
 少しためらったあとで、わたしは言った。
「仕事やめてふらふらしてた店長を拾って、住ませてくれた人がいたんです。彼が今働いている、カフェの前オーナーでした。わたしもその人が好きだった」
 片付けを終えた店長が、私服に着替えてこちらに歩いてくる。星野さんは耳をすませたまま彼を見つめていた。
「肺がんでした。次第に弱っていくその人をずっと看病して、最後を看取ったんです」
 その人が死んでから、と言いかけて、わたしは口を閉ざす。これ以上余計なことを言うべきではない。分かっているのに、星野さんには聞いてほしいと思った。
「店長はタバコをすごく吸うようになりました。お酒の量も増えたかな。何度か注意したんですけどダメでした。あんないい人間が死んでしまうなら、もう長生きなんか目指すだけ無駄だろ、って言うんです」
 あのころの店長、チンピラみたいなアロハシャツ着て店に出てました、とわたしがいうと、星野さんは少しだけ目元をゆるめた。
「一保さん、顔が整ってるから迫力があっただろうね」
「それはもう。でも、誰とも交流しようとしなかった。名前すら教えてくれるのに時間がかかりました。前のオーナーの遺影の前で何時間もぼんやり座って、タバコを2箱も吸って。お酒に酔ってはひとりでむせび泣いたり。かと思えば妙に明るく振舞ったりしてね」
 人の死を乗り越えるのは簡単なことじゃない。それはわたしにもよくわかった。そう、実感を持って。
「少しずつ弱っていって、抗がん剤で毛髪もなくなって。ガリガリにやせて、それはもう別人みたいになって……死んでしまいました。最後は殺してくれって店長に何度も頼んだそうです。ホスピスに入ってたんですけど、薬で朦朧としたまま。殺してくれ、頼むって」
 憎いです、とわたしは言った。
「あんなに気丈な人を変えてしまった、病気が、心から憎い」
 ルカ、と声をかけられて、顔をあげた。真面目な顔で店長が言う。
「自転車頼む」
 わたしは満面の笑みを浮かべた。
「合点承知」
「お前本当は50歳ぐらいなんじゃねえの」
 店長の言葉に、星野さんが顔を横に向けて笑いをこらえている。女性の年齢なんて永遠の21歳でいい。別に若作りしているわけじゃなくて、記号にすぎないんだから。