15 (成一)

 悲し気なメロディだ。
 ピアノの伴奏が付いていても、世界でひとりぼっちみたいに聞こえる。
『なんていう曲?』
 海辺でひとり、たたずんで練習しているほっそりとした青年が、古びたラジオカセットレコーダーのボリュームを上げる。ピアノの音が大きくなった。
 演奏が終わり、彼が弓を引く腕が動いて、閉じたまぶたがゆっくり開く。
『ヴォカリーズ。ラフマニノフの』
『好きなの?』
『僕が好きなわけじゃない。エルガーもラフマニノフも…』
 もっと質問しようとしたら、彼は弓をまっすぐこちらに向けて言い放った。
『早く行きなよ。終わったら、なんでも弾いてあげるから』
『ほんとに?じゃあ……』
 君が本当に好きな曲を弾いてよ。
 そう伝えると、いつかくんの顔がゆがんだ。
『分からないんだ。僕はいつも人に言われるままに弾いてきたから』

 ぐるりと世界が回る。
『そんなことない』とおれは叫んだ。
 君が、君自身が好きな曲が絶対にある。
 好きじゃないものを長く続けることなんかできない。どれほど辛く厳しいことでも、他人によって押し付けられたものでも、愛が全くなければあんな演奏はできないんだ。

 でも悲しいことに、どれほど愛していても同じように愛を返してもらえるとは限らない。おれがバレエを心から愛していても、才能がなかったのと同じように、家族からの愛情だって…――

****

 横浜の美しい夜景を背景に、一保さんが驚いた顔で振り返る。
――ひどい頭痛がしたけれど、今はそんなこと言ってられない。彼の腕を掴んで振り向かせているのはおれだったからだ。
 状況を理解するのに数秒かかった。横浜、驚いた彼の顔、掴んだ腕…。
 彼がヘリから降下してきたあの日、合同訓練の日だ。彼を呼び止めた。名前も連絡先も知らない彼を、帰したくないと思ったんだ。

「ちょっと、待ってください」
 息が上がるのは、『走って追いかけていた自分』に戻ってきたせいなのか、純粋に『やりなおした』せいなのか分からない。
「名前も、連絡先も知ってます。あなたの名前は村山一保」
 近づくと、彼の相変わらずきれいな猫の目が、まぶしげに細められた。
「お前、」
「おれから会いに来たよ。時間がかかったけど、あなたに」
 彼の見開いた眼に涙が浮かんで、するりと一筋頬を伝って落ちた。たまらない気持ちでその涙をぬぐい、人目も憚らずに抱きしめた。
 一保さんは少し抵抗したけれど、やがておとなしくなって、背中に腕を回した。
「おぼえてるのか」
「覚えてない。けど、あなたから聞いた」
「わかんねえ……どうなってんだ」
 戸惑うのも当然だ。
「そうだね、説明しなきゃいけない。でもその前に、話をしに行かなきゃいけない人がいるから。全部済んだら、家に行ってもいい?」
 海風の匂いがする。彼の体温が離れることを惜しくおもいながらそっと体を離すと、見上げてきた眼はもう、おれの言葉、全部を信じてくれていた。
「一人で平気か、何か手伝うことは?」
 ぐ、と胸に熱いものがこみあげてくる。そうだ、この人はいつもそうだった。困難な状況になっても、一度戦うと決めたら絶対逃げ出さない。それがたとえ、他人のことでも。自分のことみたいに関わって、手を取って、一緒に乗り越えようとしてくれる。
「こればっかりは、おれがひとりでやらなきゃいけないんだ」
――おれはどうだった?
 逃げてばかりいた。傷つきたくなくて、耳を塞いで口を閉ざして、遠く離れていた。おれは弱虫で、人に嫌われたくなくて、否定されるのを怖がってばかりいた。
「だから一保さんの勇気、分けて」
 きらきらしたネオンに照らされた一保さんの顔が微笑みに変わる。ゆっくり近づいてきた顔が、触れるだけのキスをしてはなれていく。
「……これでどうだ?」
 笑ってしまう。
「ありがとう。勇気100倍だよ」
 全く、あなたは最高だ。おれにはもったいないぐらいに。

 夜中の電車を乗り継いで、駅から走って、実家に向かった。お酒を飲んでいるせいで、足元がふらふらしたけど、絶対、今日会うと決めていた。この時間ならスタジオレッスンは終わっているはずだ。
 バレエを愛したことも、バレエに愛されなかったことも、後悔していない。親には多大な金銭的負担を強いてしまって、それなのに『才能』という形で返すことはできなかったことを、おれはずっと後ろめたく思っていた。申し訳なくて、消えてなくなりたいと感じたこともあった。
「母さん、話があるんだ」
 久しぶりに見た母は、眉をひそめてからダイニングテーブルへとおれを誘導した。お酒の匂いがするわね、とつぶやいたこの人は、まだ何も知らないんだよな、と考えて唾を飲み込む。怖い。でも、もう逃げたくない。
「何も言わずに最後まできいて」
 椅子を引いて腰かけた母の前に立ったまま、おれは言葉を選ばずに言った。

――好きな人がいる。
 かっこよくて、天真爛漫で、まっすぐで、情が深くて……一緒にいれば無敵だって思えるぐらい、大好きな人がいる。
 そのひとは男性なんだ。
 そうだよね、おれはいままで女の人としか付き合ったことがなかったし、性的指向は異性愛者だと思っていたよ。
 でも、今好きな人は男性だ。
 そんなのどうってことない、どうでもいいことだ。男性で、あのままの彼が好きなんだ。
 全部愛してる。絶対失いたくない、あきらめたくない、だれが何を言おうが――何を失おうが。

 母は口を開いたり、閉じたりを繰り返してから、冷めた眼でおれを見た。昔何度も見た顔だ。コンクールでミスをするたびにみた顔。この人の期待に背くたびに、この表情が無言でおれを責めた。
「そう。成一は…、結局一度もわたしの期待に応えてくれなかったわ。それどころか、あなたが今言ったことは、わたしのもつ教室や、夫の立場まで危うくしているのよ」
「何が、どう危うくなるのか分かんないよ」
 思わず笑いが漏れた。あまりにも想像通りの答えだったからだ。解を知っているつもりでも、もしかしたら、という思いが自分の中にもあった。それに気づいて、自分自身を笑いたくなった。
「後ろ指を指されるのはあなただだけではない、ということよ。どういうつもりか知らないけれど、わたしに認めて、背中を押してほしかったというのなら残念ね。認めるつもりはないわ」
 心は決まっている。もっと痛むかと思っていたけれども。
「いいよ。はじめからそのつもりだったから。……いままで、育ててくださってありがとうございました。これから先、二度とこの家の敷居は跨ぎません。母さん、あなたに会うこともありません」
 体を折って深々と頭を下げる。
 なぜだろう、分からないけど、こみあげてくるものがあった。追い求めて手に入らなかったものと、今得ている、かけがえのないもののことを考えた。
 やっぱり神様はいるのかもしれない。見てくれているのかもしれない。与えられなかったもののかわりに、愛してやまないものと出会わせてくれた。そう思えた。
「もういくよ」
 辛くないと言えば嘘になるけれど、それよりも大きいのは虚しいほどの喪失感だった。いつか分かり合えるかもしれない、そうなればいいという希望が消え去った今、胸の奥がスカスカになったような気もした。
 でも構わない。
 胸の最奥に、もっと熱い火がある。自分を支え、勇気づけ、前へ前へとすすませてくれる、生涯守るべき火がある。
 だから何も怖くない。
「成一、どうしてなの」
 リビングを抜けて玄関に出る。靴を履いていたら、後ろから肩を掴まれた。
「あなただって苦しむことになるのに。誰も認めてくれない、それどころか、気持ち悪いと罵倒されるかもしれない、それなのにどうして」
 振り払おうとして、そのあまりの細さに驚いた。母はこんなにも頼りない存在だったのか、と考え、そうではなくて、自分が成長したんだと思い至った。あんなに脅威だった母親が、今となっては細くて力の弱い女性に過ぎない。
 そっと手をとって引き離す。立ち上がれば、框の上に立っている母よりももう、俺のほうが背が高くなっていた。
「……はじめてね。あなたが正面から反抗してきたのは…」
「そうかな。…うん、そうかもしれない」
「いつか、期待に応えてくれる。そう思っていたわ。残念よ」
 溜息交じりに笑い声が漏れる。ああ、この人は――
「もう最後なのに。結局一度も褒めてくれなかったね。あなたに褒めてほしくて、笑顔が見たくて踊っていたのに。ただ、それだけだったのに」
 たぶん、おれは笑っていたと思う。笑えていたと思う。
 いつもみたいに。…すこし、前が霞んで見えたけど…きっと。

「さようなら」

 バイクに乗って彼の家へ飛んでいく。
 飛んでいく、って言葉がぴったりなぐらい、速度制限とか交通ルールとか全部無視して、最短で駆けつけていく。
 一保さんの宿舎でドアフォンを鳴らす前に、ドアが開いて腕がおれを捕まえ、そのまま中へと引き込まれた。もみ合い、廊下の壁にあちこちぶつかりながらキスして、抱きしめて、彼の首筋に鼻先をこすりつける。好きな人の匂いと体温が嬉しくて泣きそうになる。
 革のライダースジャケットのファスナーを下ろされ、中から持ってきた花が落ちた。もうシーズンが終わりそうな青い花を拾って、耳の上あたりにさしてあげると、彼は黙って、おれの服の中に手を突っ込んだ。冷たい手だ。緊張しているのかもしれない。
「一保さんが好きだよ。おれとずっと一緒にいてくれる?」
 花が似合うね。そう耳元でささやくと、彼の頬がかっと熱くなったのが分かる。
「返事は?」
「……おれのほうが、もっと前から成一が好きだよ」
 悔しそうな顔のあとですごく幸せそうに笑ってくれたから、胸がいっぱいになってしまった。
 服を脱ぎ、脱がせながら、これからやりたいことや会わせなきゃいけないひとたちのことがふと頭をよぎったけれど、後回しだ。
 彼をベッドに押し倒そうとして、ステレオのリモコンを踏んでしまった。流れ始めたのは、おれも一保さんも大好きな、The Beach Boysの『Wouldn’t It Be Nice』で、ふたり、口ずさみながら裸になって、キスして、触りあった。ブライアンが歌う。ふたりでできないことなんか何もないんだよ、と。
「こんな日が来るなんて、思わなかったな…」
 一保さんがあまりにしみじみというから、舐めていた彼のものから顔を上げた。彼は顔の上で腕を十字に組んで、声を出さずに泣いていた。
「まだはじまったばっかだよ。これからやらなきゃいけないことはたくさんある。水族館に行かなきゃいけないし、山に登らなきゃいけないし、夏になったらダイビングに連れて行ってくれるんでしょう?」
 あとは、謎めいた学者の夏樹さんだとか、イケメンジャズミュージシャンだとか、信じてもらえるかどうかわからないけど、彼の弟の生まれ変わりの男の子を探して好きな曲を弾いてもらわなきゃいけないけど、うん、それは追々解決しよう。ふたりで。
「なんだよ、そりゃ。…あ…」
 内腿にキスをして、腰骨、おへそ、胸へと登っていく。唇にたどり着いたとき、彼の手が伸びてきておれの頬を包み、抱き寄せて唇をなめられた。鼻筋を甘噛みされ、くぐもった笑い声をあげる。抱擁なんだかセックスなんだか分からないけど幸せで、くすぐったいぐらい楽しい。
 足を開かせなくても彼は自分から求めてくれた。大サービスだね、とつぶやいたら、「どんだけ待ったと思ってんだよ」とむすっとした顔を背けられた。
 愛してるという言葉は刹那的で、今伝えたい気持ちと違う気がする。それに代わる上手い言葉が見つからないから、好き、好き、と小さい声でずっと囁いている。
「今のおれ、だれとも寝たことねえから…」
「もちろん優しくする」
 恥ずかしそうな顔でローションを手渡された。ああ、可愛い。もんどりうって可愛いって叫びたいぐらい可愛い。地球上の人全員にうるさいって怒られるぐらい大声で言いたい。でもそれどころじゃないから、おれは濡らした指で、彼の奥を丁寧に開いた。胸が上下して苦し気な顔を見せる一保さんをなだめるみたいにキスしたり、硬くなった彼のものをさわったりしながら、ゆっくりゆっくり準備した。
「も、いいから……」
「うん、いれるね」
 狭い中を押し分けて入っていく。彼の中が慣れるまでしばらくじっとしてから、ゆるゆると腰を動かした。堪えるような低い吐息と、紅潮した頬が艶めかしい。
 彼の顔の横に両肘をついて、前髪をそっとかき分けた。汗ではりついた短い黒髪は相変わらずぴんぴんと跳ねていて、額にキスすると鼻がむずむずした。
「ん、ん……ふふ、この歌、ほんとバカみてーに甘いな」
 リピートされ続けている『Wouldn’t It Be Nice』は、キスも終わらずに続くとかずっと一緒にいられるって素敵だよねとか、それはもう甘ったるい言葉をたくさん、直截に歌っていて、でもそのまっすぐで飾りのない言葉が心を揺さぶって止まない。
 おれたちはこの歌詞みたいに結婚はできないかもしれない。祝福なんかされないかもしれない。けど、彼が好きだ。一緒にいてほしい。ずっと、死ぬまで、あなたの隣にいたい。健やかなるときも病めるときも…って言葉があるけど、まさにそう。
 不機嫌なあなたも、怒っているあなたも、そんなこと最初からなかったみたいに上機嫌で笑うあなたも、全部愛している。
「一保さん、こっちを向いて」
 猫みたいな眼。黒くてつやつやした、どこか挑発的な、大好きな眼がおれを見る。彼はやがて気持ちよさそうに喘ぎ声を上げ始めたけれど、決して目を離そうとはしなかった。激しく揺さぶり、ベッドが揺れて音を立てていても、彼はおれを見たまま背中に手を回し、抱きしめ、耳にキスをして「成一、好き」と何度も何度も言った。
 抱いているのはおれなのに、抱かれているみたいだ。きっと滅茶苦茶愛されているって感じるからだろう。
 ふたり同時に達して、そのあともどちらともなく求めあっては果て、抱きしめ合ったまま眠った。夢だったらと思うと怖くて、しばらく眠気に抵抗していたけれど、腕の中にいる一保さんは確かにあたたかくて、生きていた。彼の匂いや体温を何度も確かめてから、おれはすとんと意識を手放した。

 髪を梳かれる、やさしい感触に目を開けると、先に起きていた一保さんが寝そべったままおれをのぞき込んでいた。カーテンから差し込む光がまぶしくて眉をひそめたら、眉間にキスが落ちてきた。
「おはよ」
「……あー、なにこれ。夢じゃないよね?」
 うなじに手のひらを這わせて抱き寄せ、むさぼるようにキスをする。一保さんは笑いながら身をよじり、バーカ、と楽しげに囁いた。
「夢じゃないって信じられるように、毎朝起こしてやろうか?」
「なにそれ、素敵だな。仕事頑張れそう」
 まだ信じられない。一保さんが自分の腕の中にいることも、これから先、ずっと一緒にいられることも、何もかも夢だったらどうしよう。だってついさっきまで、彼は死んでいたのだ。冷たくなって、二度と会えなくなっていたのだ。
「そのためにもとりあえず…一緒に住もうぜ、成一」
 一瞬、言葉を忘れた。目の前の一保さんは、してやったりという顔をしている。
「ああ~~~!!おれが言おうと思ってたのに信じらんない!!先越された~!!」
 頭を抱える。一保さんはカラカラ笑っておれの腕を引いて起こし、真剣な顔をした。
「物件見つけるの、結構ハードだと思うぜ。おまえの豆腐メンタルで大丈夫か?」
 肩をすくめる。冗談めかしているけど、不安を感じているのが見て取れた。
「ひっどいな。いざってときは鋼のように硬いよ?昨日だって一保さんおれの硬いので喜んでたくせに~」
「朝から下ネタやめろや」
 ベッドから降りて、押し合いへしあいしながら歯を磨き、その間もずっとふざけ合う。下着の上から尻を撫でながら「うわあお前めちゃくちゃいい尻してんな~、そのうちいれさせてくれよ」と頼まれたり、「その日は永遠に来ないかな」と拒否したり。
 どんなことがあったって平気だよ。
 心の底からそう思う。悔しくて泣いたり、悲しくて落ち込んだりすることは、いくらでもあるだろうけど。
 隣にあなたがいてくれたら、他になにもいらない。