エピローグ

「サンドイッチでも持っていく?」
 おれと一保さんの皿にもりもりとサラダ(今朝ファーマーズマーケットで買った、新鮮なオーガニックのレタスやトマト!)を盛り付けながら、伯母さんが笑った。
 一保さんは「いい。向こうでキャンプすっから。帰ってくんの3日後だからよろしく~」と手を振る。彼とおれは、燻製にしたチキンと、カレー風味に炒めたキャベツの千切りをバゲットに乗せる作業で忙しい。


 

 夏だ。
 日本とはちがう、渇いた、けれど日差しはまさに夏そのものの強さの。
 彼と再会してから1年が過ぎた今、おれたちは念願の『バークレーとヨセミテ国立公園への旅』を実現させることができた。
 夏期休暇と年休を合わせて1週間、あちこちに調整して回ってなんとか取得したのだが、その価値は十分すぎるほどあった。堂々と手をつないで街を歩けるなんていう当たり前のことがすごく幸福だったし、伯母さんは『一保の恋人なら私の家族も同然よ』と熱烈に歓迎してくれた。
「ファーマーズマーケット、とても楽しいところでしょう?」
 にっこり笑って声をかけられ、おれも微笑み返す。英語が得意じゃないおれのために、日本語で会話してくれるのがありがたくて申し訳ない。
「ええ、どの野菜も新鮮ですごく美味しそうでした」
「オーガニックなのよ、体にとてもいいわよ。――ジャムはもっと?」
「いえ、ありがとう」
 土足の文化に慣れるには時間がかかりそうだ。
 アメリカンスタイルの大きなおうちのリビングで一緒に朝食をとる。伯母さんは食事前の祈りを済ませてから、おれと一保さんは手を合わせていただきますをしてから、遠慮なく頬張った。
「成一くんってとっても優雅よね。姿勢もきれいで、テーブルマナーも素敵。まるでヨーロッパの貴族の末裔みたい」
「だろ?成一はいいところの子だからな。バレエ長いことやってたからスタイルも超いいし。あ、成一コーヒーおかわりするか?これミルクな、温めてあるから」
「ごめんね、ありがとう。――そんな、めっそうもないです……」
 伯母さんは満足そうに頷きながら「バレエときいて納得だわ。体幹が安定していて、だからすべての動きがなめらかなのね」と言い、一保さんに「わたしにもいれてくれる?」と指図する。はいはい喜んで、と肩をすくめてコーヒーをいれてから、彼はそっとおれにウィンクをした。こういう日本人ならとてもできないような仕草も、彼がするとめちゃくちゃ様になっていてきゅんとする。テントって……セックスできるのかな…とか考えてしまう。
 今日の夕方からサンフランシスコに行って、一日観光をしてそのままホテルに泊まり、まだ暗いうちにグレイハウンドに乗ってマーセドに向かう。マーセドは、ヨセミテ国立公園への拠点になっている小さな町だ。夏季は、世界中から観光客が集まってくる。
「さて、腹いっぱい食ったし、最終確認して行こうぜ」
「そうだね」
「成一、なんか忘れてねえ?」
 え、なに、と問い返す前にキスされた。おはようのキスがまだだろ?と目を細めて笑われて、その場にしゃがみこんでしまう。伯母さんは「あらお熱いのね」とすまし顔だ。こちらじゃキスなんか挨拶だっていうし、大したことじゃないのかもしれない。

 日本じゃみたことがないような快晴だ。
 湿度のないさらりとした風は肌寒いぐらいで、おれたちは登山用の服装でヨセミテバレーに立っている。
 嗅いだことのない深い緑の匂い――それも日本の森林とは若干異なる――を胸いっぱいに吸い込む。隣に立っている一保さんは、目をきらきらさせて颯爽と歩いていた。すごくワクワクしているってことが、何も言わなくても伝わってくる。
 まずはビジターセンターを訪れ、天気やキャンプサイトの混み具合を確認する。テント泊の準備は用意万端だが、テントをはるところがなければ元も子もない。
「天気は大丈夫そうだ。虫よけは準備したか?」
 レンジャーと話しこんでいた一保さんが、ほっとした顔でこちらにやってきた。
「ばっちりだよ。もう使う?」
「ああ。蚊が大量発生してるってよ。ヨセミテだと毎年のことだよ、とくに7、8月はひでーんだ」
 ルートは、あらかじめふたりで相談して決めていた。今回はcamp4の登山口から入って、アッパーヨセミテ・フォールを経由してイーグルピークへ向かい、そこでテント泊をする。二日目はエル・キャピタンをとおり、タマラックキャンプグラウンドへ抜ける。距離にすると大体30キロ程度の道のりだけど、お互いにヨセミテは初めてなので、無理のないルートにした。とはいえ、ヨセミテにきてエル・キャピタンを踏まないわけにはいかない。さすがにロック・クライミングで登るのは無理だから、クライマーたちの下山ルートを逆走する形で登るのだけれど。
「どう、あこがれたヨセミテの地を踏んだ感想は?」
 次第に深くなっていく森を歩きながら、隣の一保さんに話しかける。彼は下唇を突き出し、首を振った。
「…ベアキャニスターがすげー邪魔。でも仕方ねえよな、クマを守るためだし」
「食べ物をここにいれないとクマが寄ってきちゃうからね。あ……狐だ」
「えっマジで!どこどこ」
 ふたりで息をひそめ、通り過ぎていく狐を眺めた。親子連れの、世慣れしたような顔をした狐たちだった。おれたちの存在なんてまるで気にもとまらない、というように、急ぎもせずに森の奥へと消えていく。
「……鳥の声もする」
 ふたりでしばらくの間耳を澄ませた。きいたことのない音、鳴き声、木々のざわめき、そういったものすべてが神聖な気がする。清冽な空気がそう思わせるのだろうか。
 一時間半ほどで最初の分岐点に到着した。一応、おれたちは救助業務についている『素人ではない』人間なので、ふつうのハイカーたちよりはペースが速いし、息も上がっていない。
 そこから、ペースを守りながらイーグルピークへと登りはじめる。 淡々と登り、時折小さい声で鼻歌を歌った。一保さんの英語の鼻歌は、機嫌がいいときの証だ。決して楽な傾斜ではないのに楽しくて、おれもいつの間にかつられて歌っていた。
 ところがそんな様子も登頂するまでのことだった。
「……なんて、美しいんだ」
 絶景とはこれのことをいうのだろう。視界の中央に悠然と待ち構えているハーフドーム、左にはアッパーヨセミテ・フォール。その奥には、雪化粧の残った山々が見える。
「ヨセミテは…アンセル・アダムスの写真でみたのがはじめだった。こんなもんが同じ世界にあんのかって、信じられなかったけど…」
 光を反射して不思議な色に光る花崗岩の輝き。
 深い青空の下で、おれたちは長い間、そこに立ち尽くしていた。

 アメリカに来る前から、「絶対、たき火がしてえよな」と一保さんが言っていたので、キャンプポイントはファイアープレイスのある場所を探した。するとそんなに時間が経たずに、景色のいい場所が見つかったので、今日はそこでキャンプすることにした。
 食事場所はキャンプ場から離すのがセオリーだ。匂いの少ない食べ物(フリーズドライ)をふたりで温め、夕暮れが終わって暗くなった頃、一緒に食べた。大したものは食べられないというのに、美味しくて仕方がないのは、この場所にこの人と一緒にいるからだろうか?
 食べ終わったごみをベアキャニスターに入れ、近くの沢でくんできた水を使って、一保さんがコーヒーを淹れてくれた。すごくいい香りだ。夜になると10度近くまで冷え込むから、こうして温かい飲み物を飲めるのは本当に助かる。
 暗くなるにつれ、見えなくなった景色とひきかえに、落ちてきそうなほどの星が空一面に広がってみえた。おれたちはテントから顔だけを出して空を眺め、ただ黙って、時々星が落ちるのを指さしたりした。近くで、焚き火のオレンジの炎が揺れて、ぱちぱちと音をたてている。
「静かだな」
「何か、鳥が鳴いてる。西アメリカフクロウかな」
 幸福そうな横顔をずっと眺めていたいところだけど、それじゃ目的が果たせない。おれは、ポケットの中をごそごそと探った。ここで渡そうと決めてから、もう1か月も経っている。何度も頭の中で練習した言葉を再生してから、思い切って声をかけた。
「ねえ、」「なあ」
 ふたり同時に話しかけてしまった。おれたちは目を合わせて、それから、声を上げて笑った。
「なあに、先にどうぞ」
「いや、成一から言えよ」
「気になるなあ、一保さんから言ってよ」
「いいから」
 なんだか出鼻をくじかれてしまった感じがするが、咳払いして仕切りなおす。
「おれ、あなたと一緒にいて、知ったことがたくさんあるんだ」
 恥ずかしくて眼をみれない。星を見上げたまま、おれは声を出す。
「たとえば、ビールを缶のまま飲むこと。行儀の悪いことだと思ってたし、そうしつけられて育ったんだけどね、一保さんと一緒にソファで飲んでさ、あなたがもたれかかってきて…その重みを感じながら、空き缶を積み上げて遊ぶのが、たまらなく楽しくて。だから、行儀がいいとか悪いとか、そんなことどうでもよくなったんだ」
 手が繋がれた。その温かさと力強さに励まされて、話をつづけた。隣をみて微笑みかけると、一保さんの眼はいたずらっぽく笑いながら「それで?」と続きを促している。
「ほかにも、食事中に話をするなんて、実家じゃ厳禁だった。テレビもみないし、話もしない。それが普通で、いつも食卓は静まりかえっていたよ。けど一保さんとごはんを食べたら、いつもすごく賑やかで、映画を観たり、読んだ本の話をしたり、仕事中のちょっと笑えた話とか…どれも、深い意味なんてないし、終わってからでもいいのにね、楽しくて、ずっと話していたいと思うんだ。あなたを見ていたくて。笑ったり飲んだり突っ込みいれたりさ、忙しいんだけど。一保さんとなら、何を食べても美味しい」
 ひとりでも平気だと思っていた。誰かに自分をさらけだすのも、その上で愛してほしいと望むのも、恐ろしかった。
「あなたとみる空も星も花も、いままでだってきれいだと思っていたはずなのに、全然違ってみえる。すべての色が鮮やかで、匂いがして、触れられそうなぐらい生き生きしてる」
 黙ってきいていた一保さんが、「おれも、おなじだよ」と小さくつぶやく。
 ポケットの中の四角い箱を取り出して、言った。

「一保さん、少しの間だけ、目を閉じて」
 風で木々が揺れてざわめく音が、まるで星の落ちてくる音のように聞こえる。少し怖くなって、つないだ彼の手を強く握った。

(おわり)