14 (一保)

思い出せないんじゃないだろう、と合田隊長は言った。

「すべて俺に話せ」
「嫌だ……覚えていないんだ」
「本当に?」

――本当に?

****

 小学生のころの思い出は、アメリカに渡ったことと、自分がゲイかもしれないと打ち明けたことしか残っていない。
 よほど頭の中そのことでがいっぱいだったんだろう。ほかの記憶はきれいに抹消されていた。渡米してからのことは隅から隅まで覚えているのに。
 とにかく決死の思いだった。
 ところがゲイかもしれない、と打ち明けたとき、母ちゃんの第一声は

「なんだそんなこと。とっくに知ってたわよ」

 だったし、「心配して損したあ」と安心した顔でダイニングテーブルから立ち上がって鼻歌交じりにカレー作りを再開した。これは本当のことだ。嘘でもなければ誇張でもない。
「大事な話があるなんていうから、何事かと思ったわよ。隣のお兄ちゃんにずいぶん懐いてたものね、見てたら分かっちゃうのよね」
 ぽかんと椅子に座ったままだったおれに気づいた母ちゃんは、慌てた様子で近づいてきて椅子ごとぎゅっと抱きしめてこう言った。
「男が好きだろうが女が好きだろうが、一保は一保。お母さんは一保を愛してる。話はとっても簡単で、何も悩むことないの」
 あの瞬間だけは、素直に思った。かなりあわてんぼうで抜けたところのある母親だが――料理だっておれよりも下手だ――この人の元に生まれてきて本当に良かった、と。
「不安なら、もっと広い世界を知るといいわ」
 そう言って道を開いてくれたのも、背中を押してくれたのも、いつも好き勝手に生きてろくに実家に帰りもしないおれを見守ってくれたのも、この人だ。
 おれにとっての『母親』は、口うるさくて、面倒で、果てしなく優しい理解者だった。そういうものだと思っていた。誰の母親もみんな、そういうものなんだと。

 だからあの日、あの人に突きつけられた言葉が、ずっと胸に突き刺さって抜けない。
 ナイフを突き立てられたみたいに。八つ裂きにされたみたいに。
 車にはねられた瞬間の痛みよりも、あの時のほうが、ずっと痛かった。

****

 午後からの降水確率は60パーセント、とテレビの中で美女がにこやかに予報していた朝、帰宅してすぐにシャワーを浴びてベッドに横になった。その日は成一と会う約束をしていたけれど、時間にはまだ余裕があったし、電話の確認も後回しにした。なにしろ、前日の業務はかなり過酷だったのだ。冬の救助業務で楽な日なんて無い。いよいよ、自分が船を降りる日が現実味を帯びてくるような、きつい一日だった。
 シャワーを浴びたおかげで、自分から海のかおりは消えていた。目を閉じると、海中から空をみあげたときの、光がゆらゆら揺れる光景が浮かんできた。そのまま重い、泥のような眠気に身をゆだねようとしたとき、携帯電話が震えた。
「知らない番号だな…」
 知り合い以外の電話には出ないことにしているが、電話は震え続けて切れた。確認してみると、留守番電話サービスに2件録音データが残っていた。
 そのうち1件は成一からで、昨日の勤務時間中に残されたものだ。あとでゆっくり聞くことにして、もう1件を再生する。
『いきなり電話してごめんなさい。今日、お会いして、お話したいことがあります。朝の10時頃お伺いしようと思っているの。突然で申し訳ないけれど、そこしか時間に空きがなくって。すぐ終わる話よ。在宅していていただけると助かるわ』
 覚えのない声と番号だ。おれは首を傾げ、心あたりのある女性陣の顔を思い浮かべたが、声が違う。
 顎に手をあてて考え込んでいると、いま顔を浮かべた人間のひとりである妹の深雪から電話がかかってきた。今日の昼ご飯を奢ってもらおうとする妹に、歯切れ悪い理由で断りを入れて切る。人と会う予定があるといいながら、誰なのか分からないなんて、自分でもおかしいと思った。
 首の後ろがぞわぞわするような、妙な予感があった。
 約束の時間まではあと5分を切っており、一体誰が来るのか、そもそも本当に来るのか、と考えながら、ベッドに座ってドアを睨みつける。
 ドアの外で人の気配がしてすぐに、ベルが鳴った。
 のろのろと立ち上がり、ドアへと向かう。映像の見えるドアフォン、なんて気の利いたものはついていない。ドアスコープから外を見ると、朝の光のせいで、だれが立っているのかよくわからなかった。
「…どちらさまです?」
 ただ、女性だということは分かった。セールスという可能性はあるが、警戒する必要はあまりなさそうだ。
 ドアを開いて声をかけたあとで、どこかで見たことがあるような顔に眉を寄せた。
――まさか、この顔は。
「はじめまして、になるわね。私、星野成一の母で、星野有理香と申します。お話したいことがあるのだけれど、少しお時間よろしいかしら」
 目じりの下がった、優し気でノーブルな顔立ちに、すらりと長い手足。微笑んでいるかのように口角の上がった薄い唇に、根元から茶色い髪。誰がみても高いと分かる、上質なウールとカシミアのコート、右手にバッグ、左手に繊細な、ハイブランドの傘。
 親子だと言われて疑う者はいないだろう、それほど、彼女は成一とそっくりだった。
「は、い……どうぞ」
 彼女の指示や言葉は、丁寧なのに逆らえない高慢さがあって、いつの間にかおれはいいなりになって家の中に招き入れていた。
 テーブルの上を片付けて、お湯を沸かしてコーヒーを淹れる。リビングに座ってもらうよう伝えると、彼女は逡巡したものの、きれいに足をそろえて、ソファの上に腰を下ろした。
 きっと60近いんだろうに、まったくそうは見えない。姿勢がよく、メリハリのある体をしているうえに、肌が透き通りそうに白くてきれいなのだ。
 ドリップしながら深呼吸をした。聞きたいことはいろいろあるし、何もかも分からないが、こんなときは自分からいろいろきくよりも、相手の話を聞いた方が安全だろう。
「砂糖とミルクは必要ですか?」
「いいえ。ありがとう」
 隣に座るわけにはいかないので、コーヒーを置いてから正面のラグの上に座った。無意識に正座してしまう。一体、どんな用件なんだろう。
「いきなりお伺いしてごめんなさいね。驚くのも無理はないわ。率直にきくけれど…」
 目を伏せたあとで、まっすぐこちらをみて、成一の母親は言った。
「あなたは成一とお付き合いしているの?つまり……そうね、男女のように性的な関係にあるのかしら?」
 おれがよほどひどい顔をしたのだろう。彼女は溜息をついて首を振り、コーヒーを一口飲んだ。そして言った。
「ぶしつけな質問をしてごめんなさい。まだ、少し信じられないでいるの。勘違いだったらそう言っていただけないかしら」
 おれは、迷った。
 ここで成一の許可なく、本当のことを伝えていいものかどうか。
 自分はいい。家族にはカミングアウトしているし、付き合うのはいつだって男だし、いずれ周りに知られることもあるだろうと覚悟をしている。
 けれど成一は違う。あいつはストレートだ。これまで異性としか付き合ったことも肉体関係を持ったこともない。おれとのことを、勝手に言うのは危険だ――成一がどうしたいのかも分からないまま――いや、怖がっているだけかもしれない。知られてしまって、どんな反応が返ってくるのか分からないから、ただ純粋におびえているのかもしれない。
「成一は、仲のいい友人ですが…」
 掠れた声が出た。彼女は長いまつげに縁どられた優し気な眼を細め、憐れむように首を傾げた。
「本当に?……このメモを書いたのは、あなたではないということ?」
 あまりにも小さくて用途を満たせそうにないバッグの中から取り出され、ローテーブルに置かれたもの、それは、おれが成一の家に残した書置きのメモだった。

『お前と寝ると寂しくなるよ。おれたちはこれからどこに向かおうとしてるんだ?
 今日は帰る。

 一保』

 喉がぎゅっとしまるような感覚があった。

 小さな紙片を凝視しているおれをみて、彼女は小さい声で言った。
「その様子だと、本当なのね。あなたが成一の、付き合っている男性だというのは」
 否定も肯定もできなくて、絞り出すような声で質問する。
「ど……うして、これを」
「持ってきてくれた女の子がいるの。誰かは言えないけれど、その子はあなたと成一の仲が可笑しいと言って、いろいろな証拠……決して褒められたことではないけれど、あなたたち二人の写真だとか、あなたの給与明細だとか、そういうものを持ってきてくれたの。成一と関係を持ったことがあると、その子は言っていたわ。家の合鍵も持っていたと。けれどある日、成一から一方的に関係を解消してほしいと言われたそうなの」
 まあ、何が本当なのかは分からないけれど、と彼女は冷めた眼でおれをみつめた。
「もちろん、その子の言葉だけを真に受けて言っているわけじゃないわ。あなた、成一の家の近くでよく見かけられているでしょう?あなた目立つものね、生徒のご両親が…ああ、わたしはバレエスタジオでバレエを教えているのだけれど、…『成一くんとすごく親し気な、とてもハンサムな男の人を見たけれど、お友達ですか』ですって。…ふふ、あなたには分からないでしょうけれどね、男性ふたりがあまりに仲がいいと、奇異に映るものなのよ。何と答えていいものか悩んだわ。その手の上品な脅迫や詮索には、なれているけれど」
 彼女は背筋を伸ばして、体ごとおれに向き直った。
「別れてくださる?あなたと付き合っていることは、成一のみならず、私たち家族にまで悪影響しかないの」
 おだやかな声。その内容が耳を通じて意味を理解するまで、数分かかった。多分、防衛反応だろう。
 黙ったまま何も言わないおれをみて、彼女は軽く首を振った。
「勘違いしないでね。わたしはホモフォビアじゃない。海外生活が長かったし、偏見もないわ。もし成一がゲイだったなら、あなたとの関係もあきらめたと思う。だって仕方がないもの」
 淡々としたことばのひとつひとつが、信じられないほど高い攻撃力をもって正確に胸を貫き、気力を奪い去っていく。
「でも、あの子は違う。そうでしょう?いままで、何人もの女の子と付き合っていた」
 知っている。成一がゲイじゃないことなんて、おれが一番よく知っている。
「あなたは成一に何を渡せるの?そして何を残せるの?」
――やめてくれ。
「今はきれいな顔をしているけれど、歳をとったらそれもなくなる。あなたには、成一をつなぎとめ続ける材料なんてない。結婚もできない。だから権利もない。成一が死んだり病気になったりしたとき、あなたには何もできない。日本では同性同士を保護するものが何もなくて、いまだに偏見が根強いわ。家を借りることや、買うことにも苦労する」
――ききたくない。そんなことは、おれが一番よくわかってるんだ。
「あなたはね、成一に何もできないの。奪うだけ。子供がいたかもしれない未来や、その子どもにあったかもしれない才能、安定した、祝福される結婚生活、そういうものをすべて奪ってしまうだけ」
 耳を閉じてしまいたいのにそれもできなくて、おれはただ、呆然と彼女の唇を――成一の、母親の唇を眺め続けた。なめらかに言葉を紡ぎ続ける、形のいい、ほほえんだような唇を。
「それどころか、あなたたちのことが近所に知れたら……わたしたち家族まで迷惑する。あなたたちを理解する人なんて…そういないもの。いい噂の的よ」
 まばたきのやり方を忘れてしまったみたいに、目は潤むんじゃなくて渇いていく。
 何も言えなかった。ただ黙って、言葉で切られるってこういうことなんだな、と実感していた。これがもし目に見える傷なら、おれは血まみれになっていたことだろう。
 ソファの上にいた彼女は、静かな声で問いかけてきた。
「……ずっと黙ってるのね。何か、言いたいことはないの?」
 苛立ったような声に、はじめて少し笑えた。言いたいことなんて、今言って何になるというんだろう?この人のなかで結論が出ている話に、おれが、どう関与すればいい。
「ひとつ、いいですか」
「ええ」
「どうして、成一なんですか」
 おれの質問に、彼女は眉をひそめて問い返してきた。
「どういうこと?」
「だってあいつは、次男でしょう。お兄さんが確か祥一という名前だったし、どうして成二じゃないんだろう、と思って」
 何の関係もない質問に、拍子抜けしたのだろう。彼女はソファで足を組み、そこに肘をのせて、眉間をそっとおさえた。
「名前の話をする前に、わたしの伝えるべきことを先に言わせて」
 彼女はソファから降りると、おれの前に正座して手をつき、頭を下げた。
「ここでやめにしましょう。別れてほしいの。あなたと成一は違う世界の人間で、同性愛者ではない。同性愛者は、同性愛者同士で付き合うべきだと思うわ。だって片方だけがすべて奪われるなんてフェアじゃないもの。とくにあなたのように、覚悟も何もない、今さえ楽しければそれでいい、というような人に、成一を任せることはできない」
 いま、この瞬間、はっきりと『この人は成一の母親なのだ』と理解した。どこか非現実的だったこの時間が、くっくりと自分の心に刻印された瞬間だった。
「ひどいことを言っている自覚はあるわ。殴られても構わない。訴えたりしない。大声を出したっていいのよ、そんなわけはない、成一を愛しているんだ、そんな風に」
 顔を上げた彼女の眼には涙がたまっていた。おれは石のように座ったまま、この言葉に何も返せない自分に絶望した。
 本当のことだったからだ。
 おれには覚悟がない。成一からすべてを奪う覚悟も、家族や周囲に何を言われても嫌われても自分の気持ちを貫き通すという覚悟も、何もない。そんな人間が、一体今、何を言えるというのだろう。
 長く続いた沈黙に、彼女はそっと涙をぬぐってから体を起こす。そして正座をしたまま、かすれた声で言った。
「さっき聞いたわね。どうして「成一」なのかと。そんなの簡単よ、祥一も成一も、どちらも私にとっては1番で、大切なこどもだと思ったからよ。理解し合うことができなくても、期待外れの子どもであったとしても、幸せであってほしいと願っている」
 成一から母親の話をきくたびに、『ほんとうに成一を愛していたとは思えない。子どもを自分のエゴの道具にしていただけじゃないのか』、そう考えていた。だが違う。この人はこういうやり方でしか子どもを愛せなかっただけで、この人なりに愛していたのだ。本当に自分のことしか考えていないなら、わざわざおれのところに頼みに来たりしない。
 すべての言葉が真実だ。おれを痛めつけて立ち上がれなくするほど、容赦のない真実だった。好きだとか、愛しているとか、そんな言葉じゃこの人を説得できない。
 息が苦しかった。泣くことができれば楽になるのかもしれないが、涙なんて1滴も出て来やしなかった。本当に叫ぶことができれば良かったのに、それすらもできない。声なんてひとつも出ないのだ。首を絞められ、つるされているみたいに。
「足りなければ連絡して頂戴」
 暗い声でそう言って、彼女は小さいバッグの中から茶封筒を取り出し、おれの前に置いた。名刺のようなものと一緒に手に押し付けられたそれは、ずっしりと重くて、でもおれの関心を全く引かなかった。内容は分かっている。多分、金だろう。
「雨が降ってきたわ。昼からだといっていたのに…。それは、手切れ金とでも、迷惑料とでも、お好きなようにとっていただいて構わない」
 立ち上がり、スカートのすそを一度手のひらで払って、固まっているおれを見下ろす。
 何も言いたくなかった。もう、すべてのエネルギーを奪い去られた抜け殻みたいだった。
「ごきげんよう、お元気で」
 彼女は立ち上がり、おれを振り返ることなく、そのまま家を出て言った。ドアが閉まるガタンという音に我に返り、おそるおそる封筒の中を確認すると、そこには本当に現金が300万円、帯がついたまま入っていた。
「なんだこれ……ハハ、ドラマかよ」
 そのまま横になる。もう立ち上がるどころか、息をするのも億劫だった。
「違う世界の人間、そうだよな、わかってたはずだよな」
 幸せになれる気がしていた。お互いに好きで、必要で、それ以外のことなんて、見ないようにしていた。けれど見なかっただけで、そこに「あった」のだ。彼女が…成一の母親が突きつけた事実は全部、初めからそこにあった。
「成一」 
 声が聴きたいと思った。でなければ、このまま崩れて消えてしまいそうだった。
 ローテーブルの下に置いてあった携帯電話を寝ころんだまま手に取り、録音データを再生する。ピー、という電子音の後、成一の穏やかな声が話しはじめる。
『……いつかくんの言葉のせいかな、少し声が聴けないだけで、心配で仕方ないよ。お願い、家についたら電話して』
 こいつ、あんなの信じてるんだ。おれが死ぬとか……風邪だって何年も引いてねえってのに。
 クスリと笑った自分に驚く。さっきまで、生きるのもしんどいとすら思っていたのに。
 しばらくの間、彼は黙っていた。呼吸をしている気配を感じる。おれは目を閉じ、電話が切れるのを待った。

『愛してます』

 このメッセージを消去するには「3」を、もう一度再生するには「2」を、保存する場合は、「1」を押してください。
 機械の音声に従って、迷わず1を押した。保存だ。
 電源が入る――まさに、そんな気分だった。
 おれは飛び起き、両手で顔を叩いて封筒を掴み、玄関まで走った。雨が降っているという言葉を思い出して傘立てに視線を移すと、あの人が持ってきた高そうな傘が、刺さったままになっていた。
「生きてりゃいつか、分かってもらえる。そう思うしかねえよな」
 気持ちは決まっている。この火を消すことができるのは、たぶん成一だけだ。あいつに「別れよう」「ほかに好きな人ができた」そんな風に言われたら、おれは自分の、燃え盛っている心の火に、水をぶっかけるしかないだろう。
 けれど今はその時じゃない。
 傘と封筒を手に、寮の階段を走り下りる。追いつけるかどうかは分からないが、駅までは距離がある。もし電車で帰るのなら、全力で走ればなんとかなるかもしれない。
 信号が変わるのを足踏みしながら待って、大通りを渡る。周囲をきょろきょろ見まわしながら走って最寄り駅の近くまで来たとき、道路の向こう側であの人がタクシーに乗ろうとしていた。
「待ってください!!これ、返します!」
 大声で叫んで手を振る。彼女は一瞬こちらに視線を寄越したけれど、すぐに後部座席に乗り込み、タクシーのドアは閉じてしまう。
 するすると車の間を通り抜け、タクシーはあっという間に見えなくなった。
 信号が青に変わった。走って横断歩道を渡ろうとしたとき、だれかの悲鳴が聞こえてきた。それに聞き覚えのある音――ブレーキを踏んだ車のタイヤが、道路にこすれる音。

 振り返る前に、ものすごい音と一緒に自分の体が仰向けに吹っ飛んだ。
 最後にみたのは、雨粒、手切れ金の万札が無数に舞う、曇った空だった。

*****

 むらやま、と合田隊長の唇が動く。おれの実家、自分の棺桶に腰かけながら、目の前で正座している上司の顔を眺めた。
『なにも言わないでください』
 どうやら母ちゃんは2階で横になっているらしい。寝ずの番を一部引き受けてくれたらしい合田隊長が、暗い家のぼんやりとした明かりの中、硬い表情でおれをみていた。
「お前が何も言わなくても、星野は真実を見つける」
『…やめてくれって言ってんだろ』
 大体、なんでこの人にはおれが見えるんだ。霊媒師か?霊感が強い方なのか?なんでもいい。もう何が起きても驚かない。未来予知できる弟の生まれ変わりだの、幽霊が見える男だの、もうたくさんだ。
「傷つくことになっても、真実が知りたいと星野が言っていた。好きな相手の苦しみを知らないままでいることがどれほど残酷なことか、お前には分からないのか」
 声がわずかに震えていた。怒りがにじんだ声だった。
『怖くて何が悪いんだ。傷つきたくない。覚悟なんか…ないんだよ!』
「傷ついたって死なない。でもこのままじゃお前は死んで消えていなくなる」
『それでもいい』
 知ってほしくない。おれが迷ったことや、今でも覚悟なんてないこと、なによりも成一の母親が金で解決しようとしたことなんて、知ってほしくない。なかったことになるなら、このまま死んでしまいたい。
 吐き出すように唇を動かすと、しばらく黙った後で合田隊長が絞り出すような声で言った。
「取り戻せない過去を悔い続ける、そんな人生を、お前に送ってほしくない」
 周囲に誰もいないのをいいことに、合田隊長は座ったまま腕をあげ、そっと、おれの頬を――正確には、頬のあたりを、指で撫でた。
「心についた傷から目を背けず、隠さず、堂々と血と涙を流せ。それを拭ってやるぐらいなら、おれにだってできる」
 リビングのすぐそばで物音がして、俺と合田隊長は同時に振り返った。そこに立っていたのはいつかだった。逡巡した後で、合田隊長の隣にあぐらをかいて座った。
『見えるのか』
 試しに声をかけてみたが、反応がない。やっぱり合田隊長しか見えていないみたいだ。相変わらず白い顔には表情が見当たらず、しばらくの間、黙っておれの遺影をみつめていた。
「…代わろうかと思って」
 どうやら合田隊長と交代しにやってきたらしい。隊長は首を振り、「人を待ってるんだ」と言った。
「千葉さんならもう来る、と思う」
「なぜわかる」
 いつかは黒いきれいな眼を合田隊長に向けてから、つぶやいた。
「きこえるから」
 そうして静かに立ち上がり、玄関の方へと歩いていく。扉が開く音と小さな話し声のあとで、本当に千葉が入ってきた。
 疲れ切った、使い古しの雑巾みたいな顔色をした千葉が、崩れるように合田隊長の隣に座りこんだ。それから両手で顔を覆い、長い溜息をついた。
「これが全部夢ならって思うけど、たぶん違うんだろうな……」
「何か分かったのか」
 間髪入れずに聞き返した合田隊長の声に、おれは身を固くする。千葉は膝を立てて座り、そこにひじをついて顔を覆ったまま「大体は」と答えた。
「そうか」
 短い答えだった。いつもの上司だ、と思っただろう、その眼の下にある、深いクマさえなければ。
「……明るくなってきたな」
 いつかが立ち上がり、リビングのカーテンを大きく開いた。
 この家は海のすぐそばに建っていて、窓からは群青に朱が混じった美しい朝焼けと、それに染まる冬の海が、冴え冴えと見て取れた。きっと外はすごく寒いのだろう、窓は結露し、水滴が窓枠にポツポツと落ちていた。
「きれいだな、こんなときでも」
 合田隊長が低い、小さな声でそう言うと、千葉は「そうですかね」と囁き返す。
「このまま、一保と会えなくなったら…おれ、分かんなくなると思います」
 寂しそうな横顔がふと目を伏せる。
「空がきれいだとか、飯がうまいとか、そういうのが全部」
 涙が一筋、その頬を流れて落ちた。すぐに腕で拭ってしまったけれど、確かに見えた。
 合田隊長がこちらを盗み見たのが分かる。おれの気持ちを見透かしているかのように、その眼はすぐに逸らされた。
 胸の中が熱くて、苦しいほど熱くて、おれの本当の気持ちが、外に出たいと叫んで暴れていた。
――もう一度会いたい。
 傷つき、傷つけて、最後には何も残らないとしても。
「バイクの音だ」
 いつかが立ち上がり、走っていく。
 朝の光と一緒に、成一が飛び込んできた。寒さのせいで赤くなった頬と鼻先のまま、大股に、合田隊長と千葉の方へと歩いていく。
「どうだった」
 千葉が視線だけを動かして成一を見た。成一は荒い息のまま大きく頷く。
「全部わかりました」
 その言葉が胸を抉るようで、泣きたくなった。ああ、お前に知ってほしくなかった…いや、違う。
「そう。知った上で、やりなおしたいんだね?」
 いつかの声に、酸素が足りなくなったような気がする。けれど、成一の様子は落ち着いていた。
「おれが『やり直す』ことってできるのかな」
 質問というよりは独り言のようなトーンで、成一が言った。
「できる、と思う。ただ……いつに戻りたいのか、はっきりイメージできるなら」
「大丈夫だよ」
「あと、やり直しは一度しかできないし、あなたたちが再会した後以降にしか戻れない。しかも失敗したら終了だよ。正確に、いつに戻れば回避できるか分かったの?」
「うん。おれが勇気を出せば、それで済んだ話だった。だから全部、話すべき人に話をしてくる」
「わかった。千葉さんも、それでいいんだよね?あなたはこれまでのことを忘れて、また失恋することになるんだよ。このことを全部覚えているのは、星野さんだけになる」
 千葉は黙って、成一を見た。
「星野」
 呼び止められた成一が、腰を浮かせた千葉を振り返った。
「……頼んだ」
「ありがとう」
 千葉が顔をしかめて吐き捨てる。
「お前のためじゃねえよ」
 少し笑ってしまった。合田隊長が、「もう行け」と促す。
「人生は長い。時がたてば、この大変だった一日もごく短い一部になる」
 俺は覚えていないらしいがな。そう言ってこちらを見て、合田隊長も少し笑った。成一は怪訝な顔をした後で、おれを…いや、おれのいる場所をじっと見て、はっきりした声で言った。
「今度はおれが会いに行くよ。もう、朝が来る度に泣いたりしない」
 止めることはできなかった。それはおれの心に背いているから。だって会いたい。成一に。千葉に。合田隊長に、母ちゃんに、深雪に、なっちゃんに会いたい。抱きしめて、その温度を感じたい。
「一保さん、待ってて」
 いつかに聞いた、『因果』とやらを断ち切れるのかどうか知らない。やり直しによって一時的に生き延びても、結局絡めとられて死んでしまうのかもしれない。
 助かったとしても、おれは成一のことを忘れてるのだろうか。水族館に行ったことも、スノボをしたことも、生野千早のライブで素晴らしい時間を過ごしたことも、全部…。
 だとしても、構わない。
 聞こえるはずがないと分かっているのに、おれは成一に声を掛けずにはいられなかった。
『成一、』
 思い出なんか、何度でも作りなおす。覚悟が足りないなら、打ち明けて、成一のを足してもらえばいい。おれは弱くて、完璧じゃないけど、それでも一緒に生きていきたいと思うんだ。
 ほかならぬ、星野成一、お前と。

『待ってる』