13 (成一)

 千葉さんと連絡先を交換してから、一保さんの実家を訪ねた。
 彼の実家の連絡先が分からなくて、非常識だとわかってはいたけれど、直接訪問することしかできなかったのだ。
 なりふり構っていられない。時間がない。間もなく一保さんの遺体は実家に移されることになり、2、3日中には火葬されてしまう。
 冷たい風の中、波の音がする道を通って、彼の実家のドアフォンを鳴らした。
「……ほ、しのさん」
 出てきてくれたのは、妹の深雪さんだ。きれいな目は真っ赤に血走り、目の下にクマが浮かんでいた。
「こんなときに訪ねてごめんなさい。ちょっと聞きたいことがあるんです」
 彼女は小さく驚きの声を上げて、ドアを開いて招き入れてくれた。
「お茶でいいですか?」
「いや、お構いなく。ありがとう」
「お話、お兄ちゃんのそばでお伺いしていいですか、お母さんのそばについていないと心配で…」
「うん、ごめんね、非常識だよね、おれ…」
「お兄ちゃんの彼氏なんだから、私たちの家族みたいなものですよ。遠慮しないでください」
 深雪さんは痛々しいほほ笑みを浮かべて、リビングへと案内してくれた。一保さんの遺影だとか、たくさんの花だとか、そういうものを見ないようにしながら彼の遺体がおさめられた棺のそばに座った。一保さんのお母さんは憔悴しきった青白い顔で座り込んでいて、おれと目が合うと頭を下げてくれた。
「お茶、わたしが入れてくるから。深雪は星野さんとお話があるんでしょう?」
「お母さん、少し眠ったほうがいいよ。昨日からずっと寝てないでしょう?」
「…そうね、じゃあ少し横になろうかしら。星野さん、来てくれてありがとう。一保喜んでると思うわ」
「おれ、見ていますから、休んでらしてください」
 2階に上がっていったお母さんと入れ違いに、深雪さんがキッチンからお茶をいれてもってきてくれた。
 どうぞ、と手渡されたお茶をいただいてから彼女を見ると、心配そうに2階へとつながる階段のほうを眺めている。
「大丈夫?」
「すいません。母、ときどき変なことをいうから気になって…。お話って?」
 一保さんの事故の状況や分かったことなどを手短に質問して、驚いた。彼女の口から伝えられた情報は全部、合田隊長が教えてくれた情報と同じだったのだ。一保さんの事故現場に札束の入った封筒が落ちていたこと。そのうち一つは帯が切れて、現場に散乱していたこと。事故にあったとき一保さんは、女物の高級そうな傘を手に握りしめていたこと。
「わたし、事故の直前にお兄ちゃんと電話で話したんです。ごはんごちそうしてってお願いしたら、いいよって言ってくれて。何がいいかって聞かれたから、お寿司って答えたらお兄ちゃん笑ってた」
 涙をこらえながら深雪さんが言った。おれは俯き、彼女のハンカチを握りしめている手をながめた。
「今からじゃだめなのってきいたら、約束があるからダメだって…。わたし、てっきり星野さんと会う約束をしていると思ったんです。でも珍しく歯切れが悪くて。誰と会うのか、結局教えてくれなかった。多分、その人を追いかけていたと思うし、傘もその人の忘れ物じゃないかなって」
 その人に会うことができれば、何かわかるかもしれない。
「心当たり、ないかな。直前になんの話していたのか分かれば、回避できるかもしれない」
「回避?」
「あ、ごめん、なんでもないんだ。じゃあ、だれかは分かんないんだね?」
「はい…すみません。ちょっと元気がなかったから、あまり会いたくない人だったのかもしれないんですが…わたし、お兄ちゃんの交友関係詳しくなくて。あんまりそういう話はしない人だったから」
 星野さんの話はよくきいていたんですよ、と目を細められて、胸がつまった。でも、今はダメだ。悲しむ時間も惜しい。
「わかった、ありがとうございました」
 彼の家を辞してバイクにまたがると、深雪さんが追いかけてきて叫んだ。
「星野さん!」
「どうしたの」
 慌てて走ってきたのか、彼女は黒いパンストのまま靴も履いていなかった。
「お母さん、昔、自殺しようとしたことがあるんです」
 振り返り、バイクから降りる。どんな言葉を返したらいいのかわからなくて、おれは俯いている彼女の、次の言葉を待った。
「理由がよくわからなくて。ある朝起きたら、すごく大事なことを忘れたって、それだけ覚えてたっていうんです。胸にぽっかり穴が空いたみたいな気がして、死のうと思ったんだって。でも、その日、お兄ちゃんが……」
 声を震わせ、目元をぬぐいながら、深雪さんがおれを見上げた。一保さんにそっくりな、きれいな眼だった。
「庭の木の根元を掘って、それから、――妹が欲しいって言ったそうなんです。それをきいて、お母さん、死ぬのをやめたんだって言ってました」
 わたしが生まれたのも、そのおかげなんだって、と彼女が言った。
 動揺を顔に出さないようにするのに苦労した。これはきっと、一保さんがいつか言っていた「庭の木のそばに埋められていた」、「航太郎くんの書いたノート」に書いてあったことに違いない。一保さんは、そこに書かれていた言葉を口にして、彼のお母さんが自殺してしまうのを防いだのだ。誰を亡くしたのかも分からないまま、ただ喪失感に打ちひしがれることしかできない一保さんのお母さんを、彼ら双子の兄弟で救った。
 何かを失った気がする。でもそれが何かは分からない。すごく大切なものだったはずなのに。悲しい。でもどうしてなのか分からない。
 一保さんに出会う前、朝が来る度に、おれは同じ気持ちを味わった。何よりも強く想っていた人がいた、確かにいたのに、それが誰だったのかは思い出せない。夢の中で会い、朝になると忘れる。
 あの人が一保さんだったことは分かった。けれど今だって、かつて彼と過ごした時間や日々のことは、わずかな断片以外何も覚えていないのだ。
 おれにとっては恋人だった。一保さんのお母さんにとっては、大切な息子のひとりを、周囲の記憶と共に失った。
 どれほどつらかったことだろう。
 さらに今、残された双子の片割れも失ってしまったのだ。
「深雪さん、お母さんについていてあげてね」
 おれの苦しみなんか後回しでいい。彼が生きる可能性があるなら、あとのことは全部どうだっていい。
 バイクに乗って、自宅を目指す。
 千葉さんから連絡が入っていたから、おれの家で待ち合わせることにした。

 家の前に立っている彼に軽く頭を下げる。いつも隠している場所から鍵を出して、そういえば一保さんが、どんなに言っても合鍵を持ってくれなかったことを思い出した。だからおれは彼に、自分が鍵を隠している場所を教えたのだ。
「不用心だな。鍵の場所がバレたら家に入られるぜ」
 千葉さんがぼそぼそとした声でそう言って、ソファに座る。それきり黙ってしまった彼を置いて、おれは勝手にコーヒーを入れた。
「盗まれて困るものないので」
 彼は鼻を鳴らし、黙ってコーヒーを飲んだので、おれもそれにならった。時計の針が動くカチカチという音と、風が窓を揺らすガタガタという音だけが、しばらくの間室内に漂った。
「警察の知り合いが言うには、運転手と一保の間に面識はないらしい。事故した奴の言い分がころころ変わるらしいけど、信号の件は時間を特定して信号機が赤だったか青だったかを確認することができるみたいだ。目撃者が何人か出てきて、やっぱり青で渡ってたって線が濃い。一保が追いかけてた誰か、についてはまだ名乗りでてくる人も目撃した人もいない。距離が開いてたのだとしたら、追いかけられてた本人が気づいてない可能性もある」
 ひと息に言って、千葉さんがこちらを見た。ラグであぐらをかいているおれは、彼の頬の傷や、タートルネックから見え隠れしている火傷の痕が目に入らないように、目だけを見つめた。
「……おれは、一保さんの妹さんと話しました。分かったのは、傘の件とか封筒に入ったお金のほかに、事故にあう直前にやっぱり誰かと会ってたってことぐらいです。新しいことは何も」
 舌打ちされても、情報は増えない。おれは手の中にあるカフェラテが次第に冷めていくのを感じながら、一保さんがいれてくれたものは、やっぱり特別だったんだ、と思った。
 テーブルの上に置いた携帯電話が鳴ったとき、一瞬体が震えてしまった。女の子とのことだけじゃなくて、一保さんの事故のこともあったからか、携帯電話がすっかり恐ろしいことを伝えるツールのように思え、音がするとおびえてしまう。
「…はい」
『合田だ。追加情報がある』
 目の前で千葉さんが目を細めたので、スピーカーにして再度ローテーブルの上に置いた。
『村山から手紙をもらったことはあるか』
「手紙…?いえ」
『メモは?置手紙だとか』
 それなら覚えがあった。まだ彼と付き合う前、2度関係を持ったことがある。たしか2回目の日、彼は置手紙を置いて行ったはずだ。短い文章だったけれど、刺さる内容だったし戒めにしたくて、大切にしまってある。大雑把な彼には不似合いな、きれいな字だった。
「あった気がします。探してみます」
 画面をタップして電話を切ろうとしたとき、急ぐように呼び止められた。
『星野は、本当のことが知りたいか』
 すぐ近くから、怪訝な顔をした千葉さんの視線を感じる。なぜか喉の渇きを覚えて、つばを飲み込んだ。
「知りたいです」
『お前が傷つくことになっても?』
「どういうことですか」
 たまらずといった様子で千葉さんが口を挟む。合田隊長はしばらくの間沈黙して、低い声で言った。
『詳細は知らないが多分、村山が最後にあっていたのは、星野の関係者だ。知人、友人、身内で、会いに行きそうな女はいないのか』
 目の前が暗くなった。身に覚えが、ゼロではなかったからだ。けれど、なぜなのか分からない。どうしてそこまで?
「……わかりません」
『そうか。まずはメモを探せ。あるのかないのか確認するんだ。千葉、そこにいるな』
「はい、ここに」
『真実がどうだったとしても、星野に罪はない。星野が殺したわけじゃないんだ。そうだろう?』
「それは…わかっています」
『お前は頭がいい。それに冷酷なまでに周囲を見ている。その力を生かせ。怒りだのなんだのを星野にぶつける時間も余裕もないはずだ。いいな、任務だと思え』
「それは命令ですか」
『ああ。そう思って楽になるなら。できるな?』
「いままであなたの命令を完遂できなかったことがありましたか」
 合田隊長が少し笑った気配がした。
『そうだな。――もうひとつ命令だ――少し寝ろ。今が何時だかわかるか、もう夜中の2時だ』
 電話が切れた。
 信頼関係の重さと強さが、今の会話だけで伝わってくる。彼らは文字通り、仕事で命を預け合っているのだ。
「手紙、どこにある」
 チェストの前に立ち、小物をいれている段をあけて探す。――ない。ここにいれていた、彼のメモだけじゃない、彼がおいて行った小物の類(彼が職場から持ってきたまま放置していた給料明細だとか、支払った後ごみ箱に捨てようとしていた公共料金の支払いの領収書だとかを預かっていた)の一切が見当たらない。
「見つからない、ここにあったはずなのに」
「どけ、探すから」
 おれを押しのけて、引き出しの中を居間にひっくり返す。散乱した小物類を一緒になってかきわけ、必死で探す彼の姿を見ていると、今までの千葉創佑という男の印象が根っこから揺らされてしまう。いやな男でいてほしかった。大嫌いだったのに。
「ほかには持ってたのか。なにか…あいつの個人情報が分かるようなものを」
「給料明細とか、公共料金のはがきとか…一保さん、うちにきたときごみ箱に捨てようとするから預かってたんだ。メモだけじゃなくて、そういうの全部なくなってる」
「あいつが?基本的には几帳面なやつだぞ」
 そう言った後でおれを睨み、小さい声で自嘲するように言った。よっぽどお前を信頼してたんだな、と。
「おい、言え。心当たりあるんだろう、おおかたお前が上手く切れなかった女とか、そういうんじゃねえのか」
「一体どういう意味ですか」
 薄々感じてはいたけれど、面と向かって指摘されて怯んでしまう。千葉さんは目を細めて立ち上がり、ソファに座った。そのまま足で、目の前にあるローテーブルを蹴りあげた。
「これでも我慢してるんだ。とっとと吐けよ」
 のろのろと立ち上がり、彼の前に立つ。まるで断罪されるような気持ちで、相田さんのことをすべて打ち明けた。
 彼は時々いらだったように爪を噛んだり、舌打ちをしたりしたけれど、話は最後まできいた。
「……思い込みの激しい女だったとしても、そこまでするか?相手の家にまで行って……お前とは付き合ってたわけでもないし、寝てもないんだろ、本当かどうかは知らねえが」
 確かにそうだ。そこまでのつながりはない。
 彼女とは居酒屋で隣の席になり、友人に――なったつもりだった、彼女のほうは違っていたみたいだけれど――それからは、好かれているというよりも依存されているといったほうが近かった。おれは何度も断ったし、最後には彼女もそれを受け入れたと思っていた。
「一保の情報だとか、メモだとか、そういうものが盗み出された方法は分かる。後をつけられでもして、鍵の場所がバレたんだろ。お前がいないスキに家の中に入って、私物を漁って持ち去った。その程度なら誰にだってできる、女にも男にも可能だ」
 だが動機が分からない、と千葉さんが唇に指をあてて考え込む。
「大体、金…金はなんだったんだ?300万も…あれは何か別のことで一保が手に入れたのか?だめだ、わかんねえな」
 とりあえず寝ようぜ、と千葉さんが言った。この時間から帰ってくれというほどひどい人間ではないので、彼が当然のように泊まろうとしていることに、異を唱えたりはしなかった。
 時計を見る。夜中の3時を過ぎていた。今日の午前10時から、一保さんのお通夜がある。そして明日は告別式で、そのまま彼は火葬されてしまう。時間がない。でも少しでも休まなければ、頭が働かなくなっている。
「バスタオル置いてあるので、よかったらシャワー使ってください」
「悪いな、借りる」
「布団、ここに敷いていいですか。千葉さんの身長だと、ちょっと足がはみ出すかもしれないけど」
「なんでもいい。どうせ仮眠程度にしか寝れねえし」
 気だるげに立ち上がった千葉さんは首の後ろに手をあてて歩いていく。この人が女性にモテるのはひょっとすると、この後ろ姿とか立ち居振る舞いのせいかもしれない。肉食獣みたいな、ゆったりとした余裕のある仕草とがっちりとした肩、大きな手のひらや薄情そうな顔、そういう「魅力的な屑のオーラ」が好きな女性は一定数いるのだ、と一保さんが深雪さんのことを説明しながら語っていた。
 布団を敷き、ローテーブルの上に使い捨ての歯磨きセットとハンドタオルを置いて、寝室に引き上げる。ベッドにあおむけに横になるとまもなく、眠気というよりも暗闇と疲れに押しつぶされるようにして意識を失った。

 人の唸り声のようなものが聞こえて目を開けた。
 荒い息と押し殺した声。居間のほうからだった。足音を立てないように静かにベッドを抜け出し、声のするほうへ近づく。
「…う…うぅ……」
 声は千葉さんだった。苦しそうに夢にうなされ、自分の首元を掻きむしっている。
「してくれ……」
 起こそうと手を伸ばしたとき、それが聞こえてたじろいでしまった。
「一保を連れていかないでくれ。かわりに…おれを、殺してくれ」
 パジャマがわりに置いて行ったスウェットの袖がめくれ、彼の手首に残るタバコを押し付けられた痕や、刃物で切られた無数の傷跡が月明りに照らされ、あらわになっていた。明らかに故意につけられた傷、それも相当古いものばかりだ。
 救急隊に所属していたとき、何度も見た傷だった。救えなかった子どもとその母親の顔が頭をよぎる。
「どうして」とつぶやいていた。
 どうして。
 あなたは偉そうで、感じが悪くて、いやな奴でいてほしいのに。そうでないといけないのに。
 彼が蹴り飛ばしていた羽毛布団を、そっとかけなおす。
 一保さんが救わなければ壊れたままだったという千葉さん。彼の心は修復されたのだろうか?とてもじゃないけれど、そんな風には見えない。
 ふとんをかぶると、彼の声は次第に静かになっていった。タオルで汗をぬぐい、枕元にミネラルウォーターとコップを置いておく。こうすれば、目が覚めたとき遠慮なく飲めるだろう。
 人間ひとりの生き様や性質のすべてが、環境のせいだとは思いたくない。人格を形成するのは遺伝や環境だけではなく、自分自身が「どうありたいか」「それに向けてどれだけ努力をしたか」も重要だ。そうでなければ、生まれたときから人生が決まっていることになる。そんなのはあまりにも絶望的じゃないか。
 けれど、彼の古い傷――明らかな虐待の痕を目にしてから、彼を責める気持ちにはどうしてもなれなかった。幼いころの過酷な体験が、人との接し方、距離の取り方、依存性、すべてに暗い影を落とすこともまた事実だから。
 いつかくんの言葉を思い返す。
 彼は、「千葉さんが変わった」と言った。かつての彼、つまり一保さんに救われる前の千葉さんは、壊れていたのだと。そしてその傷を修復し、立ち直らせたことで今、可能性が芽生えたのだと言っていた。
 もう眠れる気がしない。
 音をたてないように千葉さんの側から離れ、キッチンでミネラルウォーターをグラスに入れて飲み干す。そのままシンクにもたれて、部屋の奥、中庭に面したガラス戸から見える細い月を眺めた。空は薄明るくなり始めていて、淡い黄赤色と濃紺が混じり合い、朝を知らせていた。
「水、助かった」
 音もなく近づいてきた千葉さんが、空になったペットボトルを持ってシンクのそばにやってきて、そのまま手と顔を洗った。置いてあったタオルで顔をぬぐい、彼は少しぼんやりした顔でこちらを見た。昼間みるよりもずっと無防備で、心細そうな顔をしていた。
「一保に言われたんだ。お前は必要だと…お前にしかできないことがある、と」
 はっとして、隣の千葉さんを見た。彼は暗い顔でシンクの隅を睨みつけていた。
「それまでおれは、生きることが苦痛でしかなくて、この苦痛はいつまで続くのかって思ってた。けど、あいつにそう言われて……。タイムリープだとか未来を書き換えるだとかはじめは信じがたいことだと思ったけど、でもそれなら全部繋がる。あのときおれを救ってくれたのは間違いなく一保だって思える。あいつを失ってから分かるなんて、ほんと今更だけどな」
 やりなおしとやらの前、おれが何をしていたのかを聞いたことがあるか、と千葉さんが問いかけてきたので、おれは「少しだけ」と答えた。彼は自嘲するように笑い、天井を仰ぎ見た。おれはケトルを火にかけ、コーヒーを淹れることにした。仮眠は取れた。もう動き出さなければいけない。
「あいつを殺そうとしたり、しまいには心中しようとしたなんて、信じたくねえけど…」
 コーヒーを手渡すと、彼はありがたそうに口をつけ、溜息をついた。
「こう言っちゃなんだが、おれならやりかねないと思った。だって男同士なんてな、未来もねえし、人に言えないだろ」
 どんな返事をすればいいのか分からなくて黙っていると、焦れたような声で千葉さんが言った。
「お前はどうなんだよ星野。どう考えてる。今はいいかもしれないが、これから先はどうするんだ。見たところなかなかのお坊ちゃんのようだが、親に紹介するのか?彼がおれの恋人です、とでも?」
 痛いところを突かれたような顔をしていたかもしれない。勢いを得たように、マグカップをシンクに置いた千葉さんが目の前に立って言った。
「かつてのおれは確かに卑怯で最低だったかもしれない。記憶にはないけどな。けどお前はどうだよ。向き合うことを避けてることに違いはないだろ。結局気持ちのいいところだけ欲しいんだ。あいつと一緒にいれば楽しい。セックスが気持ちいい。好きだから一緒にいたいってか?いつまで続けるんだ?お前も一保も年を取るし、周りが黙っちゃいないだろ」
「うるさい、あなたに関係ないでしょう!」
 ひとの襟首をつかむのなんて初めてかもしれない。掴んで持ち上げたまま睨みつけると、彼は憐れみの眼でおれを見て言った。
「逃げてんだろ?責めはしない。誰だってそうだ。だってお前はゲイじゃないんだろ。覚悟なんかねえもんな。向き合わずに済むならそうしたいのも当然だ。いいじゃねえか。かつてのおれと同じように、女と結婚でもするか?」
「おれはあなたとは違う」
 掴んでいた手を離して突き飛ばすと、彼はそのまま床に尻もちをついた。
「どう違う」
 今度は立ち上がった彼がおれの襟首をつかんでシンクに押し付けてきた。ものすごい力で首がしまって、うめき声をあげる。
「お前とおれ、何が違うっていうんだ。ああ、育ちか?星野、お前はさぞご立派な両親に育てられて何不自由なく生きてきたんだろうな。人を殴ったことも、殴られたこともないんだろうが、今日分かっただろ。殴られたらこんな味がするんだってな!!」
 いきなり右頬を強かに殴られて、歯を食いしばる暇もなかった。頭がグラグラして倒れ込みそうになり、なんとかシンクを掴んで耐える。口の中で鉄っぽい味がした。
「……殴ったり、蹴ったり、脅したり…無理やり自分のものにしようとしたり。そういうことしたって、何も分からないし手に入らないのに、どうしてそれが分からないんだよ」
 口元を拳で拭う。唇の端が切れているらしく、じんじんした。
「待てよ…」
 千葉さんの言葉で、引っかかるところがあった。
 怪訝な顔をしている彼に手のひらで「待ってくれ」の合図をして、おれは彼の発言を頭の中で巻き戻してみた。
 親。親に紹介する…。
「まさか、そんなはずない。あのひとはおれに興味なんかないし…」
 親に紹介するのか、という言葉から思いついた内容に、背筋がぞっとした。顔を覆ったおれの姿を見た千葉さんが、「おい、まさか」と声を荒げて立ち上がる。
「一保と会ってた女。もしかしてお前の母親か?紹介してたのか」
「いや、してない。会ったことも話したこともないはずです、そもそもここのところずっと実家には帰ってない」
 千葉さんが唇を湿した。さっきまであらわになっていた感情が眼の中から消える。こういうところは素直にすごい。この人は当たり前みたいに自分を殺したり出したりできるのか。
「仮にそうだとしたら、なんとなく筋書きが見えてくるだろ。例えば300万」
「一体どんな筋書きですか…」
「手切れ金を持ってきた。そんな風に考えたらどうだ。胸糞悪いけどな」
 性格が悪い奴のことならおれのほうが想像できるだろ。そういって千葉さんが目を細める。
「新しい住所教えてないんです。大体彼と付き合ってることも知らないのに」
 さすがに飛躍しすぎか、と千葉さんが肩をすくめたけれど、おれは全く笑えなかった。
――やりかねないと思ったからだ。
「お前のママが息子の家を家探しするなんて可能性は?」
 どう考えても揶揄されていたが、構っていられない。おれは首を振った。
「それはないです。プライドがすごく高いし、そもそも自分から積極的に子どもにかかわっていくような人じゃないから」
 だとしたら、なぜ。誰が。
「傘を見ればわかるか?現場に落ちてたってやつ」
「正直言って自信がありません。家を出て長いですから」
 また舌打ちされた。
「お前は役立たずか。時間がねえんだよ、考えろ」
 口の中が痛くて思考が回らないのはあなたのせいだろ、と思ったが口にするのはやめた。コーヒーを飲むのをやめて、冷たい水を呷る。事実だけを整理すると、一保さんの個人情報が盗まれていた。現場には女物の傘と300万。
「……まてよ。繋げて考えればいいんじゃないか?」
 例えば、と千葉さんが仮説を並べ始める。
「お前に未練のあった女、相田だったか、そいつがお前のあとをつけて家を知った。そのうちお前の家に出入りする一保のことを知って、お前のママにチクった」
「そんなことをする理由がないでしょう…大体うちの親は、何の証拠もなくそんなことを言ったって信じないですよ」
「面白いな。自分の親は手切れ金をもっていくような人間じゃありません、とは言わないのが興味深い」
 言葉に詰まって唇を噛んだ。
 母は…自分のためならやりかねない。そういう人だ。
「なくなったメモにはなんて書いてあったんだ?」
 忘れるはずがない。けれど言いたくなくて目を背ければ、千葉さんが容赦なくおれの足を蹴った。
「……『お前と寝ると寂しくなる』」
「ああ、好きだとも言わずに抱いてたんだろ。案外クズだな、おれもひとのことは言えないがな。そのメモ、あとは名前や個人情報の分かる領収書の類、全部あれば信じる、というか信じざるを得ないだろ。自分の息子があろうことか、男と付き合ってる、って」
――まだなんの証拠もないし、母に話を聞いたわけでもない。それなのに、絶望に頭の中が真っ白になった。
「お前、家の鍵あんなところに置いてたもんな。場所さえ分かればだれでも入り放題だろ」
 胸を押された。逃げ場がないからシンクにぶつかる。
 目の前で冷たい無表情の千葉さんが言い募る。
「お前のせいだ」
 喉がひりひりした。否定する言葉が出てこない。
「お前のせいで一保は死んだ」
 いっそおれも死んでしまいたい、消えてしまいたいと思った。でもその前に、やるべきことは決まっている。
「まだ分からない。でも確認することはできるし、はっきりすればやり直せる」
 本当は泣きそうだった。おれのせいだ。千葉さんの言ったとおりだ。一保さんに好きだといわずに関係を持ったのも、最後まで優しくできないくせに相田さんとかかわってしまったのも。全部自分の甘さと弱さのせいだ。
「朝になったら、会いに行きます。会って確認します」
 千葉さんの体を押しのけて着替えを取りに行く。まさかそんなはずがない、とは思わなかった。おれのためにそんなことはしない。理由もメリットもないから。でも自分のためなら平気でする。自分の母親はそういう人間だ。だから兄は、母が気にいっていたアンティークの食器をすべて割って、家の中を無茶苦茶にしてから家出同然に飛び出したし、今でも実家に寄り付かない。
 後悔に胸が押しつぶされそうだった。早く好きだといえばよかった。あんな不誠実なことしなければ良かった。
 ひどい言葉を投げつけられたんじゃないだろうか。それが一番怖いし辛い。一保さんはどんな思いで聞いていたんだろう。もしも、本当にお金を渡されたのだとしたら、どんな気持ちでいたんだろう。
 母に会い、確認しなければと思うのに、ものすごく怖い。恐怖で息が上がるほどに。でもおれは知らなきゃいけない。知って、いつかくんに伝えなきゃいけない。
「確認したら一保の家に来い。今はそこにいつかがいるらしい」
 まだ朝日が昇ったばかりの時間、家の前で千葉さんが言った。おれは黙って頷きバイクにまたがる。
 泣くのは一保さんに再会できたとき。それまでお預けだ。
 奥歯を食いしばって、ギアを一速に入れた。クラッチを繋いで発進すると、朝焼けの道にホーネットの声が響く。
 ヘルメットもせず、信号も無視して、最短で実家へと向かった。