13 賞味期限切れの恋愛

 喪服が似合うなんていいことじゃないだろうが、合田さんには確かに似合っていた。
「今日だったんですか」
 お悔やみを述べる前に店のドアを閉める。数メートル離れているのに、彼から焼香の匂いがした。
 もたれていたカウンターから腰をあげて、人差し指をくるりと回す。店の鍵がチャラリと音を立てるのをみて、おれは顔を覆った。そういえば、「日本戻ったときいつでも寄れるように鍵がほしい」といわれた。何しろセックスでドロドロに溶かされて無理矢理肯定させられたので、今の今まで忘れていたが。
「ああ。通夜に出ようと思ったんだが」
 彼は視線をおれから外し、腕時計を外してカウンターの上に置いた。
「断られた?」
「その通り」
合田さんの家庭の事情は知っていた。彼の両親は、息子の性的指向を認めず、勘当を言い渡したのだ。
「母親の通夜に出席することすら許されないとは。ゲイの人生はつらく険しい」
 さらりと言った言葉が胸に刺さった。彼自身はすでに覚悟を決めていたのか、平然として見えたけれど。
「ご冥福をお祈りいたします。……お疲れの出ませんよう」
「ありがとう。まあそういうわけで、休暇が余ったから来たんだ」
 頭を下げたおれに、合田さんは笑い混じりに言った。おれは黙って前に立ち、視線をあげた。
「何かできることは?」
 彼の視線は全く揺るぎないものだった。母をなくしたばかりだとは、とても思えないほどに。
「そうだな。美味いコーヒーと」
 スツールを引き、勝手に腰掛ける。おれはその隣で立ったまま、合田さんの要求を待った。まるで部下だったころのように。彼の一挙手一投足に耳を、感覚を研ぎ澄ませながら。
「酒だな」
「了解。とっておきのウィスキーを用意してあるんです。飲みましょう」
合田さんはしんとした笑みを浮かべた。それはやはり、いつもの自信に満ちあふれたものとは違っていた。

 夜中の2時を過ぎてから飲み始めたので、いつでも眠れるよう、寝支度をととのえて自宅のリビングで飲むことにした。別々に風呂に入り、寝間着に着替えて、ラグの上であぐらをかいて乾杯した。彼は灰皿をラグの中心に置いて、マッチを持ってきてたばこに火をつけた。ウィスキーを飲みながら、たばこの煙を吸い込む。おれもそのたばこを分けてもらい、しばらく黙って酒を味わった。
「無理せず、お前は水割りにしろ」
「そうですね。明日も仕事だし――もう午前は休んじまおうかな」
 煙を細く吐き出してから、合田さんが言った。
「このたばこを一本吸い終わるまでには気持ちを整理する」
「無理しなくていいですよ。親が死んだんだ」
 合田さんに勧められるウィスキーを手に入れるのは少し苦労した。今ジャパニーズウィスキーは値段が高騰していて、酒をふるまう店で働いていなければ無理だっただろう。夜のバイトについては何も伝えていなかったから、銘柄をみたとき、合田さんは少し怪訝な顔をした。それから、目を細めて喜んだ。うまい、と低い声でつぶやく声をきくと、なんとか手に入れることができて本当によかった、と胸をなで下ろした。
「無理をしているわけじゃなく、その程度のつながりしかなかったんだ。涙も出なかった」 灰を落とす仕草にすら色気がある。この人がモテる理由は多分、200個ぐらいあるだろう。彼は灰を落としたたばこを灰皿に置き、長いため息をついた。
 おれは水割りを煽り、灰皿に置かれたたばこを自分の口にくわえた。それから大きく煙りを吸い込み、顔を背けて煙を吐いた。おれも合田さんも、電子たばこが大嫌いだった。あんなものを吸うぐらいなら未来永劫、ニコチンパッチでも腕につければいい。
「海で死にたいな」
 短くちびたたばこをくわえ、合田さんが言った。
「遺体も上がらないぐらい、深い海の底で死にたい」
 たばこを奪い取り、灰皿に押しつけて火を消す。それから膝立ちになって、合田さんの頭を抱えるようにして抱きしめた。
「頼むから、じいさんになるまでは生きてくれよ。合田さんが死んだら、おれ、十年は立ち直れない」
千葉が言っていたことがあった。「おれも合田さんも、きっと海で死ぬ」。おれにはそれが羨ましくて、妬ましくて、まぶしかった。
 おれにはできない。海に選ばれなかったから。
 海には神様のようなものが住んでいて、本当に愛された人間は連れて行かれてしまう――何の根拠もなくそんな風に考えていた。生の苦しみから解放されるかわりに、海に捕まる。
「楽しさだけを追求して生きていくには、人生はあまりにも長すぎる」
 彼はぽつりとそう言って、おれの背中に腕をまわした。力強い腕だ。なのに縋り付いているように感じた。こんなことは初めてだった。
 連れて行かれたほうが幸せかもしれない。でも、生きていてほしい。たとえ苦しみばかりだとしても、その先にあるかもしれない光を追うことをやめてほしくなかった。あまりにもありきたりな言葉になってしまうけれど、「幸せになることを諦めないでくれ」と強く思った。あなたが、生きていて良かったと幸福にむせび泣く日が来るのを見届けたい。おれがそうだったように、たとえ一瞬でも光が手に入る瞬間を知ってほしい。
 合田さんの髪は硬くて、海水で傷んでパサパサしていた。おれはそれを何度も撫でた。外では細い雨が降り始め、窓の外をぼんやりと濡らしていた。

 目が覚めると朝だった。おれはベッドで寝ていて、裸ではなく、下の階から香ばしいにおいとたばこの香りがした。
 起き上がってのろのろと歯を磨き、顔を洗う。洗面台に合田さんの時計と、彼が使ったらしい歯ブラシが置いてあった。昨日着ていたTシャツは、当然のように洗濯機の中に放り込まれている。
 汗をかいていたので、おれも服を脱いで洗濯機の中にいれた。適当なスウェットとデニムを履いて、しばらくの間ドラム式洗濯機がパシャパシャと衣類に水をかけているところを観察した。見ていて飽きないし、全自動洗濯機はスイッチひとつですべて完了させてくれるから大好きだ。高いと文句を言っていた自分を蹴飛ばしてやりたいぐらい気に入っている。
 階段を降りていく途中で、調理場に立っている合田さんが見えた。この人料理なんかするのか?イメージにない。少なくとも作ってもらったことは一度もない。
 たばこをくわえたままベーコンを焼き、マフィンの上にのせてからゆでた卵(正確には、酢をいれた湯でゆでる)を重ねる。
「エッグベネディクト?」
「ああ。コーヒーは頼む」
「わかりました。あ、サラダぐらい用意した方がいいですね、並行して作ります」
 おれもたばこをくわえて火をつけ、何度か煙を吸い込んでから隣でサラダを作りはじめる。自分の朝食だけならここまでこだわらないが、彼の肉体は財産だ。財産の価値を維持するためには、食事が何よりも大切だし、その維持された価値が人命を救うのだから手抜きできない。
 サラダを作りあげる前に湯が沸いたので、冷蔵庫から水にひたしたネルを取り出してネルドリップでコーヒーを煎れた。これももてなしのひとつだった。自分が飲むときはもっぱらペーパードリップだ。客がきたときや、店でネルドリップを指定されたときしか作らない。

「料理をする者がたばことはな」
「潜水して人命救助する者に言われたかないですね」
 カウンターに並んで手を合わせてから、はじめて気づいた。合田さんは上半身裸のままだった。
「昨日おれたち何かありましたっけ?」
 何もなかったことはわかっていながら問いかけると、彼はにやりと笑ってこちらを向いた。
「どうだと思う」
「どっちでもいいけど服は着た方がいいですよ。体が冷える」
「着替えを持ってくるのを忘れたんだ」
 おれが笑うと、合田さんもつられて笑った。あわい笑みではあったが。
「せっかくベッドで確認してもらおうと思っていたのに」
「何をです」
おいしかったです、ごちそうさま。そう言って皿を下げるためにカウンターの中に入る。洗い物と一緒にランチの下ごしらえもしてしまうつもりだった。
「コーヒーうまかった」
 合田さんがカウンター越しに洗い物を手渡してきた。受け取ってから「確認って?」と問いかけると、真面目な顔で彼は言った。
「陰毛に白髪を見つけたんだ。見間違いかもしれないから村山に確認してもらうつもりだった」
 笑うと思うつぼなのに声を上げて笑ってしまった。彼は心外だというように首を振った。
「確認して、抜いてもらうだけだ。いやらしい意味はない」
「いや絶対それかけてるでしょ、別の「抜く」とかけてるでしょ」
「受け止め方はいろいろあるからな」
「ごまかすなっての」
 合田さんが苦い顔で「意外とショックなんだぞ、陰毛に白髪を見つけるのは」と言うので、おれはしばらくの間笑い続けてしまった。天下の合田瞬も加齢現象には勝てない。

 Tシャツを取りに行って階段を降りると、カウンターに成一が座っていた。
「せ……星野……!お前、仕事は?!」
「休みだよ。合田さんと同じだね」
 合田さんはレンジフードの下でたばこを吸っていた。上半身裸のままで堂々と。どうみてもおれの情夫のような立ち居振る舞いで、面白そうにおれと成一を眺めてから、「お前も座ったらどうだ?」と椅子をすすめてくる。誰の店だと思ってんだよ、おれのだよ!
「何しに来た」
「いつも会ってる日だよ。土曜日。――前日に場所を決めて待ち合わせするでしょ。でも昨日一保さんから何の返信もなかったから、」
「店には来るなって言ったろ」
 硬い声が出たけれど、成一は頓着しなかった。
「合田さんは来るのにね。鍵まで持ってる。付き合ってるの?」
「お前には関係ない」
「ある。だっておれはあなたのことが好きで、元に戻りたいと思ってる」
 遠慮がちだった成一はどこに行ったんだろう。おれは少し唖然としたまま成一をみた。彼はおれを見据えた。その目は、記憶の中にあるどんな成一の顔にもないぐらい、怒りや憎しみに満ちていた。
「結婚」
 突然合田さんがそう宣言したので、おれと成一はそちらを向いた。
「幸せじゃないのか?」
 彼は自分の左手薬指を右手の人差し指でトントンとたたいて成一を挑発した。おれは頭を抱えたくなったがなんとか我慢した。
「ストレートが男にはまるとやっかいだな」
「黙ってください」
 冷やかすような声に、成一の声がひややかなものに変わった。
「ハマるのも無理はない。村山の中はすごいからな、アスリートらしく締まりがよくて最高だ」
「やめろ!!」
 成一が怒鳴るなんてはじめてみたかもしれない。合田さんは眉を上げて、「星野にも怒りという感情があったんだな。安心したよ」と余裕の笑みでささやいた。
「正直なところ、ずっとあなたを目障りだと思ってたんだ。今すぐここから消えてくれるかな」
 冷たいだけではなく、鋭さも秘めた声で成一がそう言い、合田さんを睨んだ。合田さんは好奇心に胸躍るという感情を殺しきれない顔でおれをみた。おれはため息をつき、Tシャツを合田さんに投げつけた。
「少し散歩でもしてくる。その間に話し合うなり、殴り合うなり、抱き合うなり好きにしてくれ。その前にひとつ。誤解されているようだが、おれと村山は別に付き合っていないぞ――セックスはしたけど」
 完全に最後は余計だった。成一の目に冷たさだけではなく険しさも宿ったのを、おれは間近で見た。こういう顔もできるんだな、穏やかな顔か、最後の泣き顔しか記憶になかったけど。
「本気にするなよ。おれの味方をしてくれてるだけだ」
 合田さんとは数日だけ関係を持ったが、あれは彼なりの励まし、癒やしだったんだと解釈している。彼は恋人でも友人でもない。定義できない関係の人だ。普段は干渉せず見守ってくれて、一番つらいとき、そばにいてくれる。いつもはおれが力になってもらうばかりだったので、昨日頼ってくれたときはうれしかった。
 成一と別れてすぐのころは、何もかもがつらくて忘れたかった。だからあえておれを探さず好きにさせてくれた。
 合田さんは猫みたいな人だな、とよく思う。押しつけがましくない。ひとりにしてほしいときはそうさせてくれる。ぬくもりがほしいとき、心を読んだみたいにひっそりとそばにきて、高い体温で安心をくれる。
「セックスもする味方?便利だね」
 愕然とした。成一がこんな物言いをするなんて。
「お前……変わったな」
「先に変わったのはあなただよ」
 話はこれまで、と言うかのように成一は立ち上がって調理場に入ってきた。肘を掴まれ、居室につながる階段を無理矢理連れて行かれる。
「店開けねえと!離せよ」
 成一は振り返ってこちらを見た。それから、店の入り口に行って勝手にクローズの札を出してしまった。
「おい星野ふざけんな、飯食えなくなんだろうが」
  肘を掴まれたまま2階へ連れて行かれる。靴を脱ぎ、廊下の壁に押しつけられて、叫ぶ間もなく唇を塞がれた。
「成一って呼んでくれないと、ここで最後までする」
 低い声で耳を舐めるようにしてささやかれる。背筋から頭の中までぞくぞくした。
「嫌だ……」
「本当に嫌なら、殴って止めて。あなたならできるはずだよね」
 怪我したっていいよ。そう笑った顔があまりにも切羽詰まって暗いものだったから、おれは抵抗する気力をなくしてしまった。
「なんでだよ」
 手のひらはあのころと変わらずやさしい。悔しさと悲しさで涙が出そうだった。おれの2年間はなんだったんだろう。どれほど忘れようと努力しても、成一は指先ひとつでおれを思い通りにできてしまう。成一の前で心を殺すことなんてできない。あの眼で、声で、指先ひとつで息が出来なくなる。
 シャツの中にはいってきた冷たい指が、背骨をなぞっていく。骨のひとつひとつを確かめるみたいに、長い指が官能的に背筋を這った。
「なんで、忘れさせてくれないんだよ」
 胸を叩くと、成一がうつむいたまま言った。
「あなたに忘れられるぐらいなら、死んだ方がマシだ」
 シャツの中から手を抜き、左手の指輪を外す。声を出す暇もなかった。成一は玄関のそばに置いてあったゴミ箱にそれを投げた。放物線を描いたプラチナが、コツンと小さな音をたてて底に落ちる。
「嫌われも憎まれてもいい。でも、忘れないで」
 ずるい。いや、ずるいのはどっちだろうか。拒絶しようと思えばできるのに、そしてきっと本気で拒絶すれば成一は諦めるのに、そうしないおれが一番ずるいんじゃないか。
「……成一」
 名前を呼ぶだけで心が震えるほど好きだった。今でも好きだ。どれだけ逃げても、その気持ちを消すことはできなかった。
「やっと呼んでくれた」
 鼻先が触れる。いま、再会してからはじめて、成一に触った気がした。

 恋愛に賞味期限があるとしたら、完全に切れているはずだ。新鮮味も、刺激も、何もかもとっくになくなっているはずだ。それなのにどうして、初めてしたときのような緊張と興奮があるんだろう。
「濡れてるね」
「うるさい……」
 下着越しにさわられて身をよじる。もう逃げるつもりはなかったが、成一がいやに丁寧に、観察するように触れてくるので、おれはぎゅっと目をつむったまま枕を噛んでいた。
「ああ、かわいい」
 ため息をつくように言われて、顔を見せることができなくなった。そういえば成一と寝るときはいつもこうだった。ずっと「好き」と「かわいい」をささやき続けてくるのだ。飽きもせずに、するたびにずっと。そうされるたびに心の奥深く、傷ついたところが治って満たされていくのが自分でも分かった。
 おれも好き、と言うようになると、成一はあの甘い顔をとびきりうれしそうな笑顔にしておれをみつめてきた。熱がこちらまで移ってきそうなぐらいの甘い顔だ。そして「うれしい」と素直に言うのだ。その言葉が本当にうれしそうで、きくたびに胸が詰まる心地がした。この顔が見られるなら、何十回でも何百回でも言ってやろうと思っていた。死ぬまでずっと、何度でも。

「それ、やめろ」
 今はとても応じられない。昔とは違うし、もうかわいいなんて年じゃない。タバコと酒で寿命を縮めているから、きっと肌だって昔とくらべたら老化してる。
「だって本当にそう思うから」
  下着を抜かれて体重をかけられる。引っ越したとき買い換えたセミダブルのベッドがギギッと音を立てて、はしたないほど開脚させられたおれの間に成一が入り込んでくる。
 成一は容赦なかった。明るいところで体を開かれ、全身を舐められて、おれにいれてほしいと哀願させた。正面から貫かれたときには、罪悪感も後悔もなく、ただ早く動いてほしかった。おれのことを一番知っている体が好き勝手に動いて、背筋が反り、体が跳ねる。逃れようとしても引き戻されて追い詰められ、最後は落下するように達してしまった。
「やだ、もうやめて」
 嘘だった。もっとしてほしかった。成一はおれの嘘を無視して膝の上にのせて、対面座位のまま動くよう要求した。
「あ、ああっ、だめ、だめ」
「ごめん、おれもいく、一保さん」
 腰を掴まれてめちゃくちゃに動かされる。首にすがりついていた手が激しさで外れて、ベッドにもたれるようにして手をついた。腹の裏側が性器の先でしつこく擦られて、悲鳴を上げながらまたいってしまう。中がつよくしまって、成一のものが震えたのが分かった。
「好きだ」
やめろよ。そういう代わりに背を向けて寝転がる。聴きたくなかった。
「おれはずっと、あなたのことだけが好きだ」
じゃあどうして。その言葉を飲み込んで体を丸める。しばらくの間おれの言葉を待っていた成一は、諦めたのか寝たまま後ろから挿入してきた。しがみつかれたまま動かれて、何もできない。硬いものが中を擦り、いやらしい声が漏れた。その声をとがめるように、後ろから回された成一の指が舌を、歯をなぞり、口の中を犯していく。
「呼んで」
 強く深く突き刺されて顎がのけぞる。後ろからのぞきこんできた成一が、舌を噛んで強く吸った。
「成一」
「もっと」
「せいいち、も、いく」
「いいよ。いっぱい出して」
 気持ちいいね、と耳を舐められて吹き込まれ、恥も外聞もなく達してしまう。
 気持ちよかった。多分、好きだから特別に気持ちよかった。