14 成一の妻

 船上でみる花火は真下でながめるよりも遙かに小さい。けれど邪魔になるものが何もないからいい。自分たちのためだけに投げられた宝石みたいだ。あたりに人はおらず、しんとしていて、ただ底の深い暗闇の中にときおり閃光がぱらぱらと点る。
 千葉とみる花火は無言だった。たぶんふたりとも、この関係をどこかで花火のようなものだと感じていたのだと思う。激しくもえて美しく光って、あっという間に消えていく。そういうものだと頭のどこかで理解していた。だから何も言わなかったし、おれにとって花火は「せつない気持ちになるからあまり好きじゃないもの」になってしまっていた。

※※※

「勝負しよっか。先に落ちた方が負け」
 あれはいつだったか忘れた。多分別れる数ヶ月前だ。成一が花火をしようと誘ってきたことがあった。花火大会に誘われるたびにさえない返事をしていると、「じゃあ家の前でやろうよ」と提案してきたのだった。
「線香花火か。ガキのころ以来だな」
 実家のすぐ裏手が海だったので、手持ち花火は子どもの頃よくやった。母親は季節のイベントが大好きな女だったので、夏は花火にスイカ割り、ハロウィンはカボチャをかぶってトリックオアトリート、とにかくくだらないことを全力で楽しんでいた。
「負けたらどうするんだ?」
「相手のいうことをひとつ、なんでもきく、っていうのはどう」
「いいけど。何を願うつもりだよ」
 波の音が聞こえた。まだはっきりと覚えている。潮風の匂いや、少し恥ずかしそうな成一の横顔を。
「おれが勝ったら、」
 線香花火がパチパチと音をたてて火花を散らす。成一のひそやかな声に耳をそばだてていると、彼は小さい声でこう言った。
「朝まで手をつないで眠りたい」
「そんなの、いつでもしてやるのに。バカだな」
 このころ、お互いに触ることが付き合いたての頃に比べて激減していた。成一との別れについて考えてみると、出会いや付き合った経過のドラマチックさに比べるとあまりにも陳腐で笑えてくる。激務、環境の変化からくるセックスレス、相手の浮気、そして別れ。なんだこれ。くだらなすぎて今時ドラマのテーマにもならない。数十文字で事足りるだけの、くだらなくて馬鹿馬鹿しくて、でも思い出すと未だに胸の奥がキリキリ痛んでくる。まだ現実の傷だった。目をそらしていただけの傷跡は全然現役の傷で、血がだらだら流れていて意識した途端に痛くて仕方ない。
「約束だよ」
 勝負はおれが勝った。でもあのとき、どうしたか覚えていない。結局手をつないだのか、どうだったのか。

※※※

 それで、と合田さんが先を促したのに、おれは返事のかわりにタバコをくわえて火をつけた。この話はここで終わり、の合図だ。なにしろ本当に覚えていないのだし。
「かわいそうにな」
「そうですかね」
「星野が、だ」
 てっきり自分の味方だとばかり思っていた元上司の意外な言葉に、思わず眉を寄せる。
「お前が星野とまた寝た、そうきいたとき分かったんだ」
 コーヒーを淹れる手が止まってしまう。ききたくない、と思ったものの、止めるすべはなかった。
「村山は信じてなかったんだろう」
「やめてくれ」
「心のどこかで、星野を信じ切れてなかった。それが伝わっていた、だから」
 コーヒーを置く手が乱暴になる。カウンターの上で音を立てたカップから、黒い液体が漏れた。
「――お前から距離を置いた、そうだろ」
 恥ずかしくてその場から消えたくなった。
「相手の気持ちを試すために距離を置くなんて、独りよがりで恥ずかしい好意だとは思わなかったのか」
 合田さんは続けた。声はおだやかだったが、怒りはにじみ出ていた。
「星野を試して、追い詰めて、浮気をされたことだけは想定外だったか?逃げたくなったのはお前だろう?相手の未来が恐ろしくなって、先に逃げたのは、お前だ。置いていかれて孤独に耐えかねて他の女と結婚した、星野を責める権利なんてお前にはない」
 それ以上聞き続ける勇気はなかった。閉めたばかりの店から、財布だけを握りしめて逃げ出した。文字通り、まさしく遁走だ。走って走って、引っ越してきてから一度も乗ったことがない電車に飛び乗った。

 電車に乗らなかったのは避けていたからだ。実家にも帰らず、街にも出ない。すべて思い出すのが怖かったから。日本中、いたるところに成一との思い出があったから。
 夜の列車に人影は少なく、故郷に向かう線路だというのにまるで終着点が「絶望」であるかのように重い気持ちで先頭車両に乗っていた。電車は当たり前のように前へ進み、故郷へと近づき、やがて到着する。どこか投げやりな「まもなく由記駅、由記駅です。鎌倉方面へ起こしの方は、次でお降りください」という声が聞こえてきて、操られるようにふらふらとホームに降りた。
 匂い、音、ホームから見える風景、すべてがあの頃となにひとつ変わっていなかった。足はすぐにその場になじみ、迷うことなく駅の出口に向かう。改札を出てロータリーの前にあるコーヒーショップを通り過ぎたとき、あのベンチが視界に入ってきた。
 あそこではじめて成一に話しかけられた。「やり直した」せいでその記憶は成一から消えてしまったけれど、千葉の結婚式の帰りにあそこで傘をさし向けられたのだ。今でも鮮明に思いだせる。傘の色は赤で、雨の勢いは強くて、全身が鉛のように重かった。
 ベンチには女がひとり座っていた。年の近い、上品な雰囲気の、どこか覇気がない女だった。年齢は同じぐらいで、うつろな目でロータリーの中をぐるぐる回っては街へ出て行くバスを眺めていた。いや、眺めていないのかもしれない。そちらに視線は向けていたが、頭の中では別のことを考えている。そういう顔をしていた。
 ベンチは横に長いので、逆側の端に座った。コーヒーでも持っていれば待ち合わせのフリができたのに、と少し後悔していたが、もしもあのコーヒーショップにアフロがいたら、かつての上司がいたら、おれはもう泣いてしまうかもしれなかった。BGMでMAROON5が流れたりしたらどうする?散々避けてきたすべての思い出と気持ちの奔流に飲まれてしまう、そんな自信すらあった。
 ぼんやりと座っているうちに時間がすぎていき、バスはその間隔を次第に長くして人の往来が減っていく。そういえば今日も夜のバイトがある、と思い出したものの、どうしても出勤する気持ちにはなれなかった。何もしたくない。ずっとここに座ったまま少しずつ薄くなって消えることができたらいいのに。
「ここ、好きなんです」
 女が話しかけてきたのだと気づいたのは、声が聞こえてから数分してからのことだった。彼女はおれの返事を待っているようなそぶりを見せなかったので、少しヤバい独り言かなと思っていたが違ったらしい。あの、と声をかけられて、はじめてベンチの逆側、端に座っている女を正面から見た。幸薄そうな雰囲気の、ほっそりとした女だと思った。
「奇遇だな。おれもここ、思い出の場所なんだ」
「どんな思い出ですか?」
 細い声で、自信がなさそうに話す。悪い男に引っかかりそうな女だと感じた。
「手ひどく振られたあとで新しい恋人に出会った場所」
 女は目を瞠ってからゆるく微笑んだ。
「同じような経験だったのでびっくりしました。わたしもここで夫……に出会ったので」
 物語には得てしてできすぎた偶然があるものだが、さすがに自分が当事者になると言葉が出てこない。黙っていると、女が言った。
「もしよければ、すこし付き合っていただけませんか」
 女の意図する「付き合う」が何のことか分からなくて困惑した。だが誰かと話をしたい気分だったのはおれも同じだった。彼女が立ち上がったとき、おれもそうした。そして「知り合いの店で良ければ付き合うけど、酒は飲めるのか?」と尋ねた。彼女は酒は得意ではないし、ああいった場所も苦手だと申し訳なさそうな顔をした。確かに、男好きする系統の顔や身体つきだ。白くてうすい身体をしているのに、胸や腰まわりは艶めかしい。きっとバーにいい思い出がないんだろう。
「女はまるで相手にされない場所だから、安心してくれていい。それにコーヒーも飲める。もしマスターが忙しければおれが淹れてやるしな」
 彼女は少し迷ってから後をついてきた。暗い夜道を女と二人で歩くなんて何年ぶりだろうか。そもそもそういったシチュエーションに興奮を覚える性指向ではないので、ひとごとのようなリアリティのない感覚だった。
「奇妙な感覚です」
「どんなふうに?」
「見知らぬ男性と、雑居ビルの中に入っていくなんて」
「そういった経験は少ない?人生は長いぞ。色々あってもいいだろ」
 ドアを開くと、藤堂さんの顔が驚きで固まった。ほんの数秒だ。すぐに落ち着いた声で「いらっしゃいませ」と返ってきた。
「おれはギムレット。なあ、あんた……そうだ、名前は?」
「チカです。知るの「知」に可能性の「可」」
「チカは何を飲む?」
「それじゃあこの……エスプレッソをください」
「かしこまりました」
 カウンターに座っているのはおれたちだけだった。珍しいことだ。藤堂さんの店はいつきてもそれなりに繁盛していた。
「お元気でしたか」
 マスターの藤堂さんは、相変わらず渋い声でそう言った。簡潔な言葉が彼らしい。
「元気じゃなくても生きるしかないからな」
「死ぬまではね」
「そう、死ぬまでは」
 チカは目の前に出されたこじんまりとしたエスプレッソを舐めるようにちびちびと飲んだ。おれはギムレットをすぐにあけてから、ハープを注文した。この店にはアメリカの薄いビールがやまほど置いてある。そういうところが好きだった。
「村山さんを探して様々な方が店にいらっしゃいました」
「そうか。迷惑かけてごめん」
「迷惑は特に。多少心配はしました」
 そこで藤堂さんは黙ってしまった。彼は隣に座っているチカをちらりと見た。
「世界が広がったんですか?」
 バイセクシャルになったのか、と問われている。おれは手を振って否定した。
「相変わらず狭い茨道で生きてるよ。たぶん死ぬまでそうだろうな」
 藤堂さんは唇の端を持ち上げて笑った。悪くない表情だった。
「安心しました」
「彼女とは道で出会って。たまたまだよ。何もなかったしこれからも何もない」
「人妻と道で出会ってバーに来る。それはもはや事件が起こってますよ」
「しかし世界は広がらない」
 チカがこちらを見た。よこからじっと顔を見つめられて落ち着かない気持ちになる。
「今気づいたんですが、あなたはとても魅力的な外見をしているんですね」
「ありがとう。よく言われるよ。でも惚れられても困るな、おれはゲイだから」
 ゆっくりとまばたきをしてから、チカが笑った。
「それは残念です」
「心にもないことを」
「素敵な夫がいますから。私は彼に夢中なので」
「はいはい」
 おれの受け流しに藤堂さんも笑った。
「旦那さんどんな人?あそこにぼーっと座ってたのはその素敵な夫が原因の悩みじゃないのか」
 さりげなくその場を離れて行った藤堂さんは、生野千早のアルバムを流してから離れた場所でグラスを磨き始めた。それを見届けてから、ビールで口の中を湿らせる。
「失恋をした、とさっき」
「ああ、言ってたな」
「その人と10年以上付き合っていたんです。人生の大半を彼と過ごしました。動物的にいえば、発情期を迎えてからすべての人生に彼がいた、とでもいいましょうか」
 あまりにも身もふたもない言い方だったので、なんとこたえていいか分からず黙る。彼女は構わず続けた。
「その人のことが心から好きでした。何をされても許しました。彼は次第に私を奴隷のように扱うようになりました。何を言っても逆らわず、受け入れる女。つまらないですよね。侮りたくなるのも無理はありません。けれど、わたしには彼がすべてでした。嫌われるのが怖かった。だから避妊を嫌がる彼の言うとおりにして3回妊娠し、言われるがままに堕胎しました」
 おれが彼女を責めたり非難したりできるはずがなかった。あまりにも彼女はおれに似ていた。いや、人間はみんなこんなものかもしれない。正しい行動だけを選び取れる人なんてどれぐらいいるだろう?感情というエラーのせいで道を踏み外し傷つきつくす人間なんて、物語にならないだけでありふれているのだ。
「彼は私が一番仲が良かった後輩の女の子と浮気をしました。そして彼女を妊娠させてしまい、わたしと彼は別れることになりました。すぐに受け入れられるわけがありません。ありとあらゆる手を使って引き留めました。けれどダメでした。最後は……、とても惨めなものでした。当たり前ですよね。自分の価値を相手にゆだねていたらそうなります。雨の強い日、わたしはそこにあったベンチに腰かけてぼんやりしていました。彼女にも彼にも謝罪されましたが、これから先どう生きていけばいいのか分かりませんでした」
 自分の輪郭がとけてぐにゃぐにゃになったような気分でした、とチカは言った。おれは掠れた声で「わかるよ」とだけ言った。彼女は強い眼でおれを睨んだ。そして言った。
「あなたのように容姿に恵まれた人に、わたしの気持ちがわかるはずありません。きっといろんな人に大事にされて生きてきたんでしょう?」
 反論するよりも先に、彼女は目を細めて溜息をついた。
「ごめんなさい。――そこで夫に出会いました。夫は、濡れそぼっていた私に自分の傘をさし向けてくれました。たしか赤い傘です。見上げると、やさしい犬のような眼で微笑まれました」

 違う、と叫びそうになった。
 違う。
 それはおれの「物語」だ。
 おれが未来を変えたせいで歪んでしまった、おれの「物語」の片鱗だ。

 けれどそんなことを言えるわけがない。たまたま同じような経験をしたというだけで、こんな難癖をつけられたらチカもたまったものではないだろう。
「彼はいままで出会ったどんな男性とも違っていました。あんなにやさしく、包み込まれるように愛されのははじめてでした。彼はわたしが求めるまで、指一本触れようとしませんでした。泣いていたら髪を撫でてくれて、朝まで抱きしめて眠ってくれました。雨の日になると悲しい気分になる、そう伝えると、雨の日の夜は抱いてくれるようになりました。とても慎重に、やさしく触れて溶かしてくれます。女性にうまれてきてよかったと思えたのは、夫に出会えたからです」
 彼女はあわく微笑んでから。おれに言った。
「成一くんは、わたしの宝物です」