11 友達になんかなってやらない

 成一と別れてから、忘れることの難しさを知った。
記憶は数珠繋ぎのように、思わぬところから引き出されて息を止めにかかってきた。
 音楽は聴くたびに思いだすからきかなくなった。家族に会うと成一のことを聞かれるから会えなくなった。仕事は――仕事に対する愛情や熱意は、海から離れたときに少しずつ失せていたから、成一のことを忘れるために辞めたとは言えない。
 でもあのとき、何もかも捨てたかったのだ。全部忘れて捨てて、ひとりになりたかった。誰もおれのことを知らない場所で、ひとりで生きていきたいと思った。
 別れると決めてから電話は3回かかってきた。いずれも出なかったし、家を出るとき携帯電話を解約してしまったので、それからは連絡がつかなくなった。あっけなくて拍子抜けするような別れだったが、あまりにもつらかったので当時の記憶がぼんやりしている。成一は家に来たのだったかどうか、思いだせない。来たのかもしれない。いずれにせよ、一方的に別れると告げたので、成一の言い分や理由を聞くことはなかった。
 たった一度浮気されただけで別れなくても、と友人には言われた。たった一度の浮気。本当にそうだったのかは分からないが、おれはそう思えなかった。
 どうして、という気持ちよりも、やっぱり、と納得してしまったことが辛かったのだ。
やっぱり、成一はあの人のほうが好きだったんだ、とか、どんな気持ちであの人を抱いたあとおれと会っていたんだろう、とか、言葉にすると湿度の高い、ドロドロとした怒りや恨みが再現なく湧いてきた。普段はさっぱりとした、やさしくて明るい自分をみせているのに、本当のおれはこういう人間なのだと思い知った。恋愛はおそろしい。人を根本から変えてしまう。
「星野」
 おれの声に成一が少しだけ顔をくもらせた。そういえば昔、やり直す前のことだが――星野と呼ばないでほしい、と言われたことがあった。かつて好きだった人にそう呼ばれていたことを思いだしてつらいから、と。もうおれには関係ないし、名前で呼ぶ間柄じゃないのだから仕方がない。
「用件は」
 自分のコーヒーを淹れて、キッチンの奥、壁沿いの冷蔵庫に腰かけた。成一から少しでも離れたかった。
「……名前も呼んでくれないんだね」
 どうしてそんな顔をするんだ、と叫びたくなった。お前は結婚したんだろう?
「関係性を考えると常識的な判断だと思うけどな」
 成一は黙ってうつむいた。そういう顔をしないでほしい。自分がひどい人間になったようで気が滅入る。
「用事なんか何もないよ。会いたいと思ったから、会いに来ただけ」
 ひそやかな声でそう言ってから、声のトーンを明るいものに変える。
「今付き合ってる人はいるの」
質問の意図がわからなかった。眉をひそめそうになったものの、顔に出したくなくて、たばこをくわえてごまかした。
「いたとしても、お前には言わない」
「友達にすら、おれはなれない?」
 ああ、そういうことか、とひどく落胆しそうになる自分を戒めた。結婚して、幸せになって、おれとああいう終わり方をしたことが気にかかって、きれいな友人関係に戻したいとでも思ったのだろう。
 そうすれば成一の気持ちが楽になるのか。おれとのことは男と付き合っていた愚かな過去として清算されて、前向きな人生を歩めるのか。そう考えて、久しぶりに心が真っ赤に燃え上がるようだった。
――絶対に友達になんかなってやらない。
「そりゃあそうだろ。なんでお前とお友達になれるんだよ?」
「……一保さん」
 声が悲しそうで目をみることができなかった。おれはうつむいてタイルの目地を眺めながら言った。
「おれたちがしばらく疎遠になっていた友人だったなら、こういうきっかけでまた飲みに行くこともあるだろう。でも違っただろ――まてよ、お前は友達とセックスするのか?」
 にらみつけるように視線を合わせる。おれたちは『恋人』だったのではなく『友達』だったのか、と問いかけたつもりだったが、成一は変わらないきれいな眼をすこし見開いて、おれをじっと見つめた。そして苦しそうな声で、「変わったね」とつぶやいた。
「変わったんじゃない。本来、こういう人間なんだ」
 性格が悪くなったとかひねくれたとか、そういうことじゃない。
何も知らなかったのだ。
海にいたころ、おれの生活はシンプルだった。いいことも悪いこともあったが、それらは全体でみるとバランスが取れていた。
千葉は確かにおれを傷つけたけれど、それは一部、おれのせいだった。千葉のことを自分なりに大切にして、心をこめて愛したつもりだったけれど、その愛し方が間違えていたのかもしれない、そう気づいたころにはもう遅かった。たどり着いたのはもう取返しのつかない場所で、心は冷えてしまっていた。
10年の恋が終わったあとで、成一を知った。成一と過ごした日々は初めてのことの連続だった。あんなに大切にされたのはうまれてはじめてだったと言い切れる。おれも彼を心から愛した。生きるよろこびを感じるほどの幸せを味わった。
けれど、最後は裏切られた。
どこかおかしいのかもしれない。
おれの愛し方が、なにか間違えているのかもしれない。パートナーを不安にさせたり、増長させたりしてしまうような、間違った愛し方をしているのかもしれない。
もう誰かを愛する自信がなかった。
仕事に行くのも人と会うのもつらかった。成一の存在は心の奥深くに食い込み、自分の一部になっていたのだ。その気持ちを捨てたとき、自分自身の一部も永久的に欠けてしまった。
そんなとき、おれを拾ってくれた人がいた。たまたま入ったこの店で、体調が悪そうな店主の客あしらいを手伝ったら、雇ってくれた。住むところを貸してくれて、いろんな話をきいてくれた。おれは彼を兄のように慕った。口が悪くて言葉数の少ない人だったが、本当の意味で強くて、優しい人だった。看取る直前、痛み止めの麻酔で朦朧とした中でも、彼はおれのことばかり心配していた。
彼を亡くしてから、おれはほとんど笑うことがなくなった。一体何が楽しくてあんなに笑っていたんだろう?と昔の写真をみるたびに思った。写真もそれをつづったアルバムも、幸福そうな自分の顔が煩わしく、全部捨ててしまったけれども。
成一と別れ、知ったのだ。
人生をひとつの料理に例えたら、その大部分が苦いということを。
生きることは、苦しいことや切ないこと、やりきれないことのほうが多いのだということを、濃くいれたコーヒーよりも、ずっとずっと、生きることのほうが苦いのだということを、知ってしまった。誰を愛しても、どれほど大切にしても、やがてみんないなくなる。そのたびに身体を裂かれるような苦しみを味わう。
タバコの煙を吐き出す。排気口の中に吸い込まれていくそれをじっと眺め、煙がなくなってから掠れた声で言った。
「むかしはいつも明るくて元気だったのに、とか思ってんじゃねえだろうな。あの頃は何も知らなかったから、能天気に生きてただけだ」
 知らないほうが良かったかもしれない。失うことを知らないで生きていけたら、もっと心のままに動くことができただろう。
「お前のせいだって言ってんじゃねえよ。おれにも……、足りないところがあったんだろう。でも知りたくない。もう、誰の事も深く知りたくねえんだ」
 声が震えないように、腹に力をこめ、奥歯をかみしめる必要があった。
「恋愛は、もう、一生ごめんだ」
 立ち上がった成一が、おれの隣に立った。立つだけで様になる、元バレエダンサーの肉体は、おれが知っていたころと少し違っていた。何が、とうまく言葉にできない。どことなく荒れたような、渇いたような雰囲気があった。
「少し、外を歩かない?」
 拒絶しようと思えばできた。相手が波留だったら、きっと「嫌だ」「帰れ」とこたえただろう。
 でもおれにはできなかった。泣きだしそうな目で見つめられて、懇願するような声で誘われたら――、いや、違う。
成一だったから拒否できなかった。
「それで、お前の気が済むなら」
 注がれる視線を振り払うように、成一の側をすり抜けて店の入り口に立つ。彼は短い小さな溜息をついてから、「ありがとう」とつぶやいた。

 つい先ほどまで雨が降っていたらしく、アスファルトは濡れていた。
季節や感傷をなるべく感じないようにして過ごしていたのに、成一の隣を歩いていると、思いださずにはいられなかった。よくふたりで散歩したこと、緑の匂いや、空の色が季節によって少しずつ違うという話をしたこと、旬のものをふたりで食べるのがとても好きだったことなどを。
 おれは口を開かなかったし、隣を歩く成一も長い間黙っていた。時折盗み見た横顔は、気をつけないといつまでも見つめてしまいそうだった。雨の日に、ひどく濡れた犬が歩いているのをみかけたら、こんな気持ちになるのかもしれない。優しい言葉をかけたい、と思う気持ちと、もうおれと成一はそういう関係じゃないんだ、と自分を押しとどめる気持ちが、交互にやってきてひどく疲れてしまった。
――成一にはもう自分の家庭がある。余計な言葉を発しそうになると、彼の左手薬指に光る指輪が、何度となくおれを押しとどめてくれた。隣を歩いているだけでこんなに胸が詰まりそうになるなんて、おれの今までの年月は、成一を忘れるために過ごしてきたこの長い月日は、一体なんだったんだろうと泣きたくなった。これはもうダメだ。死ぬまで治らない病だ。
「そこの公園にボートがあるんだ」
 落ち着いた声で成一が言った。隣に視線を動かすと、顔がひりひりしそうなぐらい強い視線が返ってくる。
「こっちが駅で、お前が向かうのはそっちじゃない」
 かろうじて理性を引きずり出してそういうと、成一はぐっと唇を噛んでその場に立ち止まった。そしておれが何かを言う前に、手首を掴んで走り出した。
「っ、おい!」
「人のいないところで話がしたいんだ。一保さん、お願いだから付き合って」
「分かった、いくから!お前が走ってたら目立つんだよっ」
 腕を振り払うことはできなかった。成一は疑うような眼差しでこちらを見てから、おれの腕を掴んだまま早足で歩いた。そっちには確かに大きい池と公園がある。海も山もない地味な街で、唯一のデートスポットだと樹がいつも言っていた。
「それからもうひとつ。星野なんて呼ばないで。成一って呼んでよ」
「ああ、六人部さんのことを思いだすから嫌だって、昔お前、言ってたもんな」
 言ってから気付いた。「やり直した」せいで、成一はそのことを知らないのだ。
 けれど威力はあったらしく、つらそうな顔で眉を寄せたまま彼は黙った。嫌味な口調。まるで嫉妬深い女のようだ。本当に嫌な性格になった、と自己嫌悪で消えたくなった。
「それで、ボートの上で話でもするのか」
 晴れていて、風がきもちいい昼下がりだった。初夏はおれも成一も好きな季節で、夏になったら何をしようか、といくつもいくつも計画を練って笑い合っていた。そのときと、今の違いは、どちらも笑っておらず、付き合ってもいないということだった。
 成一は無言でボートに乗り込み、おれが乗ろうとすると当たり前のように手を差し出した。その手はもうおれのものじゃない。見ないフリをして、ひとりでボートに乗った。
 休日なのに、おれたち以外にボートに乗っている人間は見当たらなかった。成一は黙ってオールを持ち、池の真ん中を目指してオールを動かした。ほかにやることもないので、おれも同じようにした。伏し目がちにボートを漕ぐ成一を見ないよう、池の上にいる鳥や、水草を眺めながら水音をきいた。ボートはするすると池の真ん中へと進み、成一の言うとおり、誰もおれたちの話を聞く人間がいない場所にたどり着いた。
 ボートが止まる。オールから手を離した成一は、まっすぐこちらを見た。
「おれは、死んでるんだと思う」
 言葉の意味を問うように、成一を見つめ返す。彼は目をそらさなかった。みたことがない激しさを宿した眼で、おれを刺し貫いた。
「あなたと別れた日に、多分、自分の一部が永遠に死んだ。自業自得なんだけどね」
 何をしていても薄い膜越しのように思えるんだ、と成一は薄く笑って言った。自分のことじゃないみたいに。何もかも霞んで、手ごたえがない、と。
「どうしてあんなことしたんだろうって、すごく後悔した。あの人のことを……、特別に思う気持ちはあった。確かにあった。心の中で、一保さんとは違う場所で、尊敬する人として思っていればよかっただけなのに」
 どれだけ謝ってもあなたは許してくれないだろう、そう思いながら謝った。そしてあなたはおれを許さないまま消えてしまった。
「もう死んでしまいたかった」
 責める気持ちになれなかったのは、成一の目から涙が落ちたからだ。結婚したくせに、おれ以外と幸せに生きているくせに、そんな言葉を口に出せないほど、彼の泣き顔は切羽詰まっていて嘘がなく、きれいだった。
「許すも許さないもないだろ、お前は、もう……」
 別のひとを見つけて、おれのいない世界で生きてるじゃないか。この言葉が喉の奥に引っ込んだのは、突然強く抱きしめられたからだった。
「おれとやり直してほしい。友達からでも、知り合いからでもいい。あなたの側にいたい」
 胸を押してもびくともしない。当然といえば当然だった。第一線から遠ざかってしまったおれと、レスキューの中で生き残り、出世コースに乗った成一では、もはや勝負にならない。
 首元に埋められた唇がつめたい。背中をかきだくように手のひらが這いまわり、それだけで身体の奥が溶けそうなぐらい興奮した。うなじから成一の匂いがする。この匂いをかぐだけで、およそどんなわがままでもきいてあげたくなる、それぐらい心底やられていた。
 逃れようと動くと、ボートが大きく揺れた。沈むことはないと分かっていてもおそろしく、動きが緩慢になる。成一がそれを計算して誘ったのだと気付いたときにはもう遅かった。
「友人なんかごめんだな」
 おれの声に、成一の身体が震えた。鼻先がふれるほど近い距離で、ぬれた目がおれを伺うように見すえてくる。
「おれをヤりたいならやればいい。セフレにならなってやるよ。感情はもう、誰にも向けたくない」
 ぐっと握りしめる左手に指輪が光っていた。お前が怒る権利なんてないだろう、と笑いだしたくなった。自分は安全な場所に立ったまま、未練のある男を好きにできるならその方が都合がいいだろうに。
「ほら、来いよ。たまってんだろ。……好きにしていいぞ」
 男の抱き方覚えてるか、とわざと耳元でささやく。成一は先ほどまでの哀しそうな目から一転、軽蔑と怒りをない交ぜにしたような、きつい眼差しでおれを睨んだ。
「ただ、勘違いするな。お前が妻を抱くのと同じで、おれも寝たいヤツと寝る。いいよな?」
 ボタンをはずそうとしたところで、成一が覆いかぶさってきた。そのあまりの勢いで、ボートが揺れて水がかかる。
 まるで捕食するみたいに成一の歯が首筋を噛んだとき、おれは目をそらして、その柔らかい髪をそっと撫でた。