11 (成一)

 目の前の光景が信じられなくてぼんやりする。
 泣くとか悲しむとか、その段階にも至れない。全然、受け入れられていない。多分これは夢だ。現実じゃない。だって、約束した。また会うって、一緒にいろんなところに行こうって。

「……だから言ったのに」

 後ろから、いつかくんの声がした。千葉さんが立ち上がっておれの腕を乱暴に掴み、病室の中から連れ出そうとする。
「ちょっと来い」

 廊下に出てすぐ、千葉さんに頬を殴られた。まったく加減のない強烈な右ストレートに、たまらず倒れこむ。
「お前のせいなんだって?星野」
 口の中が切れて血の味がした。その動物的な感覚と痛みによる強制的なアドレナリンの放出で、ぼんやりしていた頭が一気に覚醒する。
「なにするんだ」
「綿谷からきいた。お前のせいなんだろうが、ああ!?」
 ものすごい力でセーターの胸倉を掴まれ、立たされる。けれど、千葉さんの眼にあったのは怒りじゃなくて怯えだった。愛する人を失うかもしれない怯え。それを誰かにぶつけて、安心しようとしている。やり方はおかしいと思うのに、気持ちが痛いほどわかってしまって、おれは何も言えなくなった。
「離してください…なんのことだか分からない」
――まさか、あのときいつかくんが言っていた言葉は本当だったのだろうか。
『星野誠一のせいで、村山一保が死ぬ』
 そんな、どうして。どこでそんなことになってしまったんだ。
 大声で怒鳴りながらおれのことを揺さぶる。ガクガクと揺さぶられているおれと、錯乱しているみたいな千葉さんを、いつかくんは腕を組んで壁にもたれたまま、静かに眺めていた。
「星野さんだけのせいじゃない」
 薄いくちびるが、まだ少し少年らしさを残した声でそう言った。
「……なんだって」
 急に手を離されて、廊下に膝をついてしまう。怒りと悲しみと混乱でギラついた眼をしたまま、千葉さんがいつかくんの前に立った。
「村山一保が死んだのは、星野さんのせいだけじゃない。あんたにも関係があるっていってるんだ、千葉創佑」
 千葉さんの顔が凍り付く。
 泣き声がきこえた。胸が張り裂けそうな声だった。一保さんのお母さんと、妹の深雪さんの声だ。
「場所を変えよう」
 いつかくんが背を向けて病院の出口へと歩いていく。おれは腕で顔についた血をぬぐって、彼のあとを追った。

 味のしないカフェラテが冷めていく。病院のすぐそばにあるコーヒーチェーン店に入ったおれたちは、一番奥、人が来ないソファ席に座った。千葉さんは苛立ちを隠さずにずっと足を揺すっているし、おれはカフェラテを両掌で包んでも一向に指先があたたかくならなくて困惑していた。好きな人が死んだのに、すごく愛している人を亡くしたのに、やっぱりまだ現実感がない。でも喉が渇いて仕方がなくて、カフェラテを飲んでも水を飲んでもその渇きは癒えなかった。
「因果という言葉を知ってる?」
 テーブルに置かれた食器がガシャンと音を立てて揺れた。千葉さんが拳で天板を叩いたのだ。
「そんな問答をしてる時間があると思うのか。さっさと必要事項だけ伝えろ」
 千葉さんは血走った目でいつかくんに食ってかかり、おれはそれを、違う世界の出来事みたいに思いながら見ていた。
「必要だから聞いてるんだ。因果、なんだと思う?」
「言葉、そのままだよね。原因と結果のこと」
 昔ばあちゃんから聞いた意味をそのまま伝える。声がかすれているのは、喉が渇いているせいかもしれない。
「そう。――この話をする前に、村山一保の秘密を伝える必要があるけど…お二人はそのあたり、もう聞いてるんだよね。信じているかどうかはともかく」
 あくまで淡々と話すいつかくんは、何年も前からこうなることをわかっていたみたいだ。
「信じるしかねえだろう。だからお前を呼んだ、捨てた連絡先、ごみ袋の中からかきわけてまで」
 そうだったのか。言われてみれば確かにおかしい。この場にいつかくんが、この早さでかけつけていることが。だって一保さんといつかくんはとても友達には見えなかった。
「村山一保には特別な力があった。その力の説明をするには、彼の消えた双子の弟を説明しなければならない――ああ、いろいろ言いたいのはわかるけど、ここから先は、何も言わずに一度聞いて」
 そう断ってから、いつかくんは話し始めた。それらはほとんどすべて、一保さんから聞いたことのある話だった。
 彼には双子の弟である航太郎くんがいたこと、航太郎くんは一保さんを助けるために「力」を使い果たして、この世界から消えたこと。その生まれ代わり、転生したのが綿谷いつかくんだということ。いつかくん自身がそのことを思い出したのは、深層心理学者と協力してカウンセリングを受けるようになってからだということ。
 千葉さんは愕然とした顔でいつかくんの顔を凝視していた。けれど、思い当たるところでもあるのか、否定したり止めたりはしなかった。
「村山一保は、もともと死ぬ運命だったんだ。それを無理やり変えたのが弟の航太郎だった。自分が死ぬことで因果の糸を断ち切ろうとした。村山一保に絡みついている因果の糸を、因果律を破ろうとした。それで一旦はうまくいったんだ…弟が死んだことで、因果は向かう先を失った。もう誰も死ぬ必要なんてなくなる、……はずだった」
 うつむいていた視線を上げて、いつかくんがおれと千葉さんを見た。
「でも、今度は村山一保が自分で因果を作ってしまった」
「どういうこと?」
 質問したのはおれだ。千葉さんは眉を寄せ、腕を組んで話に耳を傾けている。
「本来そうなるはずだった未来を、いくつも改変した。そしてその報いを受けた。時間やものごとの成り行きには、弾性があるからね」
「弾性って…」
 頭が働かない。なんのことだったか思い浮かばない。
「元に戻ろうとする力のことだ。そうだろ」
 低い声で千葉さんが言った。いつかくんは黙ってうなづく。
「そう。なかでも一番今回のことに影響したのは、千葉さん、あんたを助けたことだよ。村山一保は子どものあんたを助けて、希望を与えた。本当はね、千葉創佑って人間は、心の一部が壊れていたんだ。そうなっていないとダメだった。でもあんたを救って未来が変わった。あんたは村山一保と付き合わなかったし、死ななかったし、暴力も振るわなかった。――ほら、ずいぶん変わっただろう?」
 真っ青な顔をみれば、それが真実なのだとおれにも分かる。けれどつらいだろうなと思った。一保さんに暴力をふるったのは、「いまここにいる千葉さん」ではない。身に覚えのないことが原因だといわれても、どうしていいのかわからないに違いない。
「でも今回の交通事故の直接の原因は、星野さんにあると思う。航太郎くんの未来予知のとおりになっているから」
 ひゅっ、と息を吸い込んだ音がする。自分の出した音だ。けれど、落ち込んでいる暇はない。
「原因が分かれば、君ならどうにかできるってこと?もしかして、君もやりなおしができるの?」
 声が大きくなってしまう。
 おれの言葉に、千葉さんが「そういうことか」とつぶやく。いつかくんは目をそらして言った。
「僕がやり直せるのは1回だけなんだ。しかもこのノーヒントの状況で――だから、難しいと思う」
 味が、においが、色が戻ってきた気がする。
「それでも可能性はゼロじゃない」
 手のひらを握りしめていつかくんを見つめた。彼はゆっくりと首を振った。
「ひとりじゃ無理なんだ。そこまでは村山航太郎の予知で分かっているから」
「なら、おれと星野、ふたりで協力すればどうにかなるんじゃないのか」
 千葉さんの言葉に、いつかくんが目を丸くした。
「…そんな、あんたはそんなことしないはずなのに……そうか、村山一保があんたを変えたのか」
 はっとした。航太郎くんは、「今のおれ」や「今の千葉さん」のことを知らない。
 だから、もしかしたら、その予知には隙があるかもしれない。
「訳の分からないこと言ってる暇ねえだろ。一保が死ななくて済む方法があるなら、おれは、なんでもする。嫌いな奴とだって組んでやる」
 とても組むなんて雰囲気じゃない剣呑な目で、千葉さんがおれを睨んだ。上等だ。おれだって、この人と友達になるつもりなんて全くない。
「村山一保が死んだあとの予知、本当はここまで、全部そのとおりになっているんだ。でも、はじめて予知と違うのは、あんたたちが協力するって言ったことだ」
 千葉さんを睨み返して、鼻から息を吐いた。本当にいけ好かない。根拠の分からない自信に満ち溢れた態度も、粗暴な空気も、一保さんを昔も今も好きなことも、一保さんが彼のために命を懸けて未来を変えたことも、何もかも気に食わない。
 でも、一保さんにまた会えるなら、全部どうでもいい。
「分かった。じゃあ僕も覚悟を決める。――まずはこのノーヒントの状況で、どう動くか考えなきゃいけない」
 そこだ。おれと千葉さんが仮に協力することになったとしても、どうしていいのかわからなければ動きようがない。
「一保が事故にあった経緯はまだわかんねえのかな…」
 顎に手を当てて千葉さんが言う。確かに、まずは直接の原因を知ることからだ。
 いつかくんを目の前に残して、おれたちふたりは同時に立ち上がって店の出口に向かおうとする。肩がぶつかってしまって、「なんだ邪魔だどけ」「そっちこそどいてください」という言い合いをしながら、病室に走る。あの状況で、誰にどう聞くか考えただけで頭が痛むけれど、何もせずにはいられない。一保さんのお母さんに泣かれても、お父さんに殴られても、それでも聞かなきゃいけない、調べなきゃいけない。
「ビビッてんじゃねえぞ、お坊ちゃん」
「そっちこそ、冷静さを欠いて暴走しないでくださいよね」
 肘でおもいきり二の腕を殴られて、悲鳴を上げそうになったけれどこらえた。こんなもんじゃなかったはずだ。一保さんがいままで感じてきた痛みは。
「どうやらおれが今生きてんのも、それなりに楽しくやってんのも…あいつのおかげだったらしい。全然、覚えはないけど、」
 隣で千葉さんがひとりごとのようにつぶやく。
「今度は、おれが一保を救えるんだと思ったら――意味があったな、と思う。生まれてきた意味が。生きてきた意味が」
 セーターの襟元からみえる、裂創の痕に目が留まった。そういえば、手首にも火傷の痕がある。
 おれの視線に気づいた千葉さんは、セーターの袖を伸ばして傷跡を隠した。
 たくさんの傷跡は、このひとの暗い目と何か関係があるんだろうか。

 病院の霊安室に戻る途中、三嶋先生とばったり会った。
 千葉さんを視線で先に行くよう促し、声をかける。
「三嶋先生、ちょっと教えてほしいことがあるんです」
「せいちゃん…」
 周囲に視線を走らせた三嶋先生がおれの手首を掴んで、「こっち、ついてきて」と先に歩き始める。連れていかれたのは、病院の外にある喫煙場所だった。
「大丈夫、…なわけないよな。昨日から寝てないんやないの?」
「どうしてですか」
「目が赤い。脈拍が早い」
 さっき手首をつかまれただけで、そこまで見抜かれてしまうのか。おれは視線を落として首を振った。
「こんなときにすみません。5時間も執刀してくださった後だとお聞きしましたが、教えてください。一保さんが事故にあったときの状況について、何かご存知ありませんか」
 ぎゅっと細められた目が、おれの真意を探っていた。訝しまれても当然だ。恋人を失った直後だというのに、泣くでも、落ち込むでもなく、こんなことをきいてくるのだから。
 溜息をついた後でタバコを取り出そうとしてやめた三嶋先生に、「どうぞ」と声をかける。彼はのろのろと口にくわえ、細く長く煙を吐き出してから言った。
「札束」
「え」
「彼の事故現場、帯のついた札束ふたつと、散らかった万札がいっぱい落ちてたんやて」
 言葉がうまく呑み込めなくて、三嶋先生の横顔を凝視した。彼はそのまま、気が進まない様子でタバコを灰皿に押し付け、おれの頭をそろりと撫でた。
「警察も最初、一保くんがなんかヤバいことに巻き込まれてるんやないかって疑ってたみたいや。彼が、そんな人やないことぐらい、おれかって分かるのに」
 分からない。分からないことだらけで息苦しくなってくる。けれど、知らなきゃいけない。調べなきゃいけない。
「ほかに、何か…」
「事故があった時間、小雨が降ってた。車の運転手は、信号が赤やったのに一保くんが飛び出してきたって主張してるらしい。でも目撃者がおって、青やったって証言してる。彼は札束のみっつ入った封筒と、女物の傘を持って走ってた、ってことになるな」
 雨。女物の傘。札束。
 頭を必死で動かす。追いかけていた、ということは、直前に会っていた、もしくはみかけたのが、その傘の持ち主である女性なのだろうか?目立つ女物の傘の持ち主が男性だとは考えにくいし、一保さんは女物の傘どころか、ちゃんとした傘なんてひとつも持っていなかった。傘を差すのが嫌いな人だったから。だから彼のものじゃないことは間違いなくて、意味もなく彼が、女性ものの傘を持ち歩くなんて考え難い。
 忘れ物に気づいて届けようとした、まったく見知らぬ人だろうか?
 それとも、だれかと会っていたのだろうか。
「なあせいちゃん。知りたいことがあるんやったら協力はするけど…亡くなった人は帰ってこんのやで」
「まだそう決まったわけじゃない」
「ちょっと、ほんまに大丈夫か」
 立ち上がって頭を下げる。やり直すだの、調べるだの、そんな説明を三嶋先生が信じてくれるとは思えなかった。大体、やり直したらいまのこの世界はどうなるんだろう?そこで止まってしまうのか、別の平行世界として存在していくのか(つまり、一保さんが死んだ世界として?)もう、いろんなことがさっぱり分からない。分からないことを聞かれても答えられない。だから背を向けて、霊安室のほうへ走った。あそこにご遺体が安置されるのは、病院にもよるけれど大体3時間程度になる。その後は自宅や葬儀会場に移されてしまうのだ。家族に話をきくなら、今しかない。

「ご家族には、俺がしばらく見ているから休んできてくださいと伝えた」
 一保さんの上司、合田隊長の声が聞こえる。そういえば、合田隊長は千葉さんの上司でもあるんだった。
 部屋の中に入ると、一保さんの家族は姿が見えず、千葉さんと隊長がパイプ椅子に座って話をしていた。おれは千葉さんの隣に立って、一保さんの亡骸を眺めた。生気のない、端整な顔立ち。だからこそ、やっぱりまだ信じることができなかった。信じないことにしているのかもしれない。自分の心を守るために。
 目をそらして合田隊長の横顔に視線を移す。彼はじっと一保さんの奥、ベッドの隅を睨みつけていた。
「思っていたより落ち着いているな。何を企んでいるんだ、お前ら」
 静かな声だったけれど、目が赤い。突然部下を失ったのだから、彼の反応こそ普通なのだろう。
「信じないと思います。隊長は、とんでもないリアリストでしょう」
「そうでもないぞ。そっちこそ、おれの言い分なんて信じないだろうが」
 言い終わると、また部屋の隅をじっと見つめる。
「そこに何か見えるんですか」
 合田隊長は質問に答えずにおれを見上げ、溜息をついた。
「いや…とくには」
 それで、と低い声が話を変えた。
「お前たちふたりが行動を共にしている理由はなんだ」
 千葉さんがこちらをちらりと見て、言った。
「一保が死んだときの状況が知りたいんです。このままじゃ、ふたりともあいつの死を受け入れられない」
「よせ。ご家族の気持ちを考えろ。あちこち嗅ぎまわるな」
 だっておかしいでしょう、と千葉さんが声を荒げる。
「あいつは周りをよく見るし、頭だって悪くない。よほどのことがあったはずなんだ。事情があって急いでいたか、何か…何かないとあんなことにはならない!」
 悲鳴のような声は、途中で濡れていた。おれは唇を噛んで、彼の隣に立った。
「何か知っていることがあるなら教えてください!なんでもいいんです!!」
 返ってきた視線は想像していたよりも弱弱しく、声が詰まった。
 みんな悲しい。苦しくて、受け入れられなくて、嘘ならいいと思っている。おれと千葉さんだけじゃなくてみんなそのはずだ。
「……ごめんなさい。自分で調べます」
 そうだ。足を使え。嫌がられても泣かれても、自分で聞くべきだ。悲しみに浸るのも傷つくのも後悔するのも、やるべきことをすべてやり終えてからでいい。
 着ていたダウンジャケットのチャックを上げて、千葉さんに声をかけた。
「警察に知り合いがいます。そっち、あたってみます」
 眉間にしわをよせて千葉さんが振り返り、溜息をついて立ち上がった。
「動くしかねえな。隊長、おれは一保の家族に会いに行きます」
 部屋の出口に差し掛かったところで、「傘」と鋭い声で隊長が言った。
「女物の傘、札束、…村山が横断歩道を渡ったとき、信号は青だった」
 目を瞠った。三嶋先生は、まだだれにも話していないと言っていた。誰からきいたんだろう?一保さんの家族からだろうか、でも変だ。嗅ぎまわるなと忠告したのはこの人なのに。
「それ、状況ですか。誰から聞いたんですか、隊長」と千葉さんが問いかける。隊長は黙って首を振った。
「無理だと思う」
「何がですか、まだ俺らは何もしてない!」
 冷静で恐ろしいほど仕事ができる、ときいていた千葉さんと、目の前で不安定になっている彼とがうまく結びつかない。いや、これが普通なんだろうか。おれは――どうしてしまったんだろう。感情が、全然動かないんだ。ただひたすら、『なくのは今じゃない』って言い聞かせて心を麻痺させている。いつかこのまま、感情がなくなってしまうんじゃないかと思うほど、心を抑圧している。子どものときみたいに。
「あと2日もすれば、村山の遺体は荼毘に付されるだろう。――何をやったって間に合わない……そうだろう、綿谷君」
 いつの間にか、入口にいつかくんが立っていた。彼はいつもの無表情で頷く。

「そうだよ。言い忘れてたから伝えに来たんだ。村山一保の肉体が存在している間までに事故の原因が分からなければ、君らは二度と彼に会えない」