世界の終わりに見る夢は

4.

 全国に転勤があるのに何故家を買ったのか、そもそも婚約とはいつ決まったことなのか、なぜおれに何も言わなかったのか――いや、いい。言わなくてもいいが、突然距離を縮めてきた理由は何なのか。ききたいことは山積していたのに何もきかずにいるのは、兄について理解を深めることに意味を見出せなかったからだった。
 彼らが買った(らしい)マンションの一室は設備のととのった都会的なデザインの3LDKだった。モノトーンで統一されたインテリアの、広々としたダイニングテーブルの前で、おっとりとした笑みで次々と出される絶品料理を黙々と平らげた。時折月子さんと婚約者の里穂さんが交わす意味ありげな視線には気づかないフリで押し通す。月子さんが礼儀正しく振舞っていたのははじめの20分ほどのことで、元カノと今カノという地獄のような組み合わせの女同士は、まるで旧知の仲であるかのようにすぐに打ち解けて盛り上がっていた。
「至さんからきいていたとおりの方ね」
 おれが食べている姿を物珍しい動物でも見るかのように、にこにこと観察していた里穂さんが言った。
「何をどう聞いていたのか気になるところですね。――ごちそうさまでした、とても美味しかったです」
 兄は何も話さずおだやかな笑みを浮かべているだけだった、と思う。そちらを見ないようにしていたので、予想にすぎないが。
 里穂さんは、そうね、と唇を湿らせてから、慎重に言葉を選びながら言った。
「群れからはぐれてしまった狼のような人だと」
 なんだそれは。おれを孤独にしたのは誰だと思っているんだ。
思わず失笑しそうになって、寸前のところでこらえた。
食べ終わった食器を流しに下げると、里穂さんが「ありがとう、あとでまとめて片付けるから置いておいてね」と声をかけてきた。
 兄が立ち上がってこちらに向かって歩いてくる。おれは視線を合わせないようにしてキッチンから抜けだす。特に気にした様子もなくグラスとウィスキーを持って戻ってきた兄は、おれに向かって「飲むか」と断定系で問いかけてきた。
「いや、そろそろ帰らないと。明日も早いし」
 場を辞そうとしたおれの腕を掴んで、月子さんが大げさに声を上げる。
「まだいいでしょ?わあ、それ白州12年?!今手に入らないのにすごいじゃない」
 黙ってソファに座った兄に続いて、里穂さんが水割りのセットを持ってくる。月子さんは自分の家のようにくつろいだ様子でラグの上に座り、ウィスキーをソーダで割って飲み始めた。
「白州12年をそんな飲み方…もったいないな」
「うるさいな。飲み方なんて自由でしょ。ほら、ひらちゃんも飲まないと損だよ」
 あきらめて兄の隣に座る。頬がひりひりするほど視線を感じたけれど、無視して、ローテーブルに置かれたグラスを見つめた。特に意見を求められることなく丸い氷がロックグラスの中に放り込まれ、ふつうの白州よりも色の濃い、それでも琥珀色というのは少し薄い色をした液体が、惜しみなく注がれていく。
「多いな。シングルぐらいでいいよ」
「里穂は酒を飲まないんだ。なかなか減らないから手伝ってくれると助かる」
 隣を見る。今日はじめて視線が合った。相変わらず強い視線だ。おれが『群れからはぐれた狼』だとするなら、兄の至は間違いなく『群れのボス狼』だ。
狼は群れをつくるが、繁殖が許されているのはボスとそのつがいだけで、他の狼はこどもの世話やエサの調達などの役割を担うのだと聞いたことがある。常に多数の異性を周囲にはべらせて平然としていた兄には、まさにぴったりの表現だった。
「仕事はどうだ?」
 白州12年の軽めなスモーキーさが日本人にはちょうどいいのだろう。飲みやすさと香りの良さで、多いと思ったウィスキーはあっという間に減っていく。
「順調だよ。そこの弁護士が面倒くさいこと以外は」
 里穂さんが笑い、月子さんが不満を口にする。
「刑事事件の弁護士が警察にとって面倒じゃなくなったら終わりでしょ」
 隣に座ってきた月子さんが、おれの肩に頭をのせてもたれかかってくる。昔から変わらず香水も何もつけていない彼女からは、変わらない懐かしい匂いがした。
「ふふ。見てよひらちゃん。怖い顔」
 肩に手をのせ、その上に顎を載せるというまるで恋人のような近さで月子さんが笑って、兄を指さす。促されるままにそちらを向くと、兄は少し不機嫌そうな顔でウィスキーを呷っていた。
 昔からそうだ。兄の至は、おれが誰かと親しくしていると必ずこの顔をする。そして気づけばその人間は兄のものになっているのだ。初恋の女も、はじめて付き合った女も結婚を考えていた女も、いつの間にかおれから離れて行ったと思ったら兄の側にいた。兄がどこに住んでいようがお構いなしだった。彼女たちはみな、口をそろえて「彼は特別な人なの」と言って兄を追いかけていった。東北であろうが沖縄であろうが。
 月子さんが里穂さんに声をかけ、グラスを持ったままベランダへ出た。その間に今日の仕事の話を差しさわりのない範囲で兄に話した。プライベートの話をするぐらいなら、仕事の話をしているほうが何倍もマシだからだ。
 ひととおり話終えると、兄がおもむろに口を開いた。
「もう覚えてないかもしれないけど、昔、実家の近くにいつもバラを眺めている親子がいただろう。子どもには障害があって、口がきけなくて、車いすに乗っていた。いつも同じ場所で、同じ顔でバラを眺めていた。雨の日も風の日も、夏も冬も」
 覚えている。兄が覚えているとは思わなかったが。
「ああ、おれも被疑者の話をききながら、そのことを思いだしていたんだ。あの人はおれよりひとつ年上で、たしかトシって呼ばれてた」
 何を考えているのか、傍から見ているとまるで分らない少年だった。けれど彼はバラがとても好きで、毎日飽きずに自分の家の庭に咲くバラを眺めていた。バラの季節が終わると、他の花を眺めていた。彼の家には実にさまざまな花が咲いていた。子どもごころに「きれいだな」と思っていたので印象に残っている。
「感情があるのかないのかすら定かじゃないと思っていて、正直おれは、少し不気味に思っていたんだ。でも啓が……」
 あるとき、雨の中でいつものように庭をながめているトシの傘を、悪ふざけで奪っていった子どもがいた。彼らは近所でも評判の悪ガキだった。通学路だったおれは、たまたまその現場を見ていた。トシは怒るでもなく悲しむでもなく、雨の中で濡れたまま庭を眺めていた。そのときおれは、犬を虐待していた男に向けた激しい憎悪を久々に思いだした。そして気が付けば彼らをおいかけ、後ろから飛び蹴りをし、覚えたばかりの正拳突きと大外刈りで彼ら全員を打ちのめして傘を奪い返していた。
「懐かしいな。後からあいつらの親が怒鳴り込んできたよな。兄貴には大変な思いをさせてしまった」
 あのとき、トシは別に礼を言わなかったし、おれもそれでいいと思っていた。傘をさして手にもたせ、あいかわらず一心に庭を見つめ続けるトシに「また明日な」とあいさつをして家に帰った。
「いや、それはいいんだ。驚いたのは翌日だったな」
 そのころ、通学路に変質者が出るという噂があったので、兄の部活がない日は一緒に登校していた。おれが大暴れした翌日はちょうどその日だった。いつもどおりトシの横を通り抜けようとすると、彼の横で同じように庭を眺めている母親らしき人がおれを呼びとめてきた。
「これ、トシオがどうしてもあなたに受け取ってほしいみたいなの」
 手渡されたのは、最近咲いたばかりの赤い薔薇だった。手入れが行き届いているのか、とてもきれいな形をした、美しい一輪だった。
「いいのか?」
 おれは母親にではなく、トシオにそう呼びかけた。トシオはじっとおれを見つめたけれど、すぐに視線をそらしてまた庭を見た。そのときはじめて、おれは自分の中の差別と優越感に気づいて、深く恥じ入った。トシオには分かっていたのかもしれない。おれの自分よりも『弱いもの』を守る、という行動が、ある種の憐れみや見下しを含んでいることを。
 人にはそれぞれできることとできないことがあって、目に見える部分や役立つ部分だけに価値や意味があるとは限らない。
「ありがとう、トシオ」
 それから、両親が死んで転校するまで、毎日トシオの家に寄った。と言っても何をするでもなく、彼の隣で30分ほど一緒に庭を眺めていただけだ。それだけで心が静かになった。トシオは相変わらず口を利かなかったし、にこりともしなかったけれど、それでよかった。
「啓といるときだけ、あの子は少しだけ笑うようになっただろう。それを見ていて、自分の思い込みを恥じたよ。自分が知っていると思っていることなんて、本当にごく一部なのだと」
――だから、その坂田って子も、必要なのは金じゃなくて知識だったんじゃないだろうか。
 兄の言葉がすんなり自分の中に入ってきて、黙って頷いた。
「家族が大変なのは事実だと思う。だから、坂田の母親だって必死だったんだ、きっと」
 誰が悪いのか分からない。きっと誰も悪くないし、社会も含めて、みんな少しずつ悪いんだろう。犯罪には、そういうことがとても多い。
けれど誰かがケガをしたら、その罪は誰かが償わなければいけない。たとえその動機が「親に自分を見てほしい」「見てくれないならここからいなくなってやりたい」という、とても悲しいものだとしても。
「犯罪に走るんじゃなくて、勉強して、知識を身につけて……、まともな仕事に就いたら、もっと違った人生があったのにな」
 トシオは元気にしているだろうか。引っ越すときはあまりにも突然で、挨拶もできないままだった。
 字を教えてあげたあの子どもも、いまどうしているのだろう。読み書きができないなんて、現代日本では考えられないことだけれど。幸せに暮らしているのだろうか。
 グラスをローテーブルに置くと、兄の大きな手が伸びてきておれの頭を撫で、そのまま指で頬をなぞられた。
「啓はいつも孤独な誰かを見つけて手を差し伸べる。そうして相手に自分を焼きつけて虜にするんだ」
 罪作りな人間だ、お前は。
 耳に息を吹き込むようにして囁かれた低音に、背筋がぞくぞくする。
「どういう意味だ」
「そのままの意味だよ」
慌てて厚い胸板を押してその場から離れると、ベランダから里穂さんと月子さんが戻ってきた。
「もう終電ないよ、ひらちゃん。泊めてもらおう」
「さすがに厚かましいだろ。月子さん、タクシーで帰ろう」
 昔から月子さんには常識が少し足りていないところがある。おれが慌てているのが面白いのか、里穂さんと兄が並んで笑っていた。
「部屋なら余っていると言っただろう。泊って行けよ、啓。たまには兄弟水入らずで過ごしてくれ。……月子は里穂と同じ部屋になるが、構わないか」
「どこでもいいよ、布団さえあれば」
 彼ら全員がグルになっておれを陥れようとしている気がする。気のせいであってほしいが。
「分かった。里穂さん、一晩お世話になります。突然来て泊めていただくなんて、本当に申し訳ありません」
 深々と頭を下げる。里穂さんと側にいた月子さんは一瞬の沈黙ののち、信じられないぐらい大声で笑った。何がそんなに面白いんだ?
「この家のローンは至さんが払っているから、私にお礼なんて必要ないのよ。ほら、そうときまったらネクタイなんて外して。お風呂を沸かしてくるわね」
電車が動いていないのは本当だった。腕時計を見ると、すでに日付は越えて数時間が経過していた。