Right Action

1.

「おれに物を言えるのは、勝ったやつだけだよ」

 影(かげ)浦(うら)仁(じん)はさらに言い放つ。
「約束だ。成田、お前には屈辱を味わってもらおう」
 獲物を前にした狼のように目を細めて、怪物は笑った。

 料飲店を回る、というごく基本的に思えるような営業の業務が、近ごろではすっかり縮小されていて寂しい。
 そんな愚痴を、目の前のイタリアンレストランのオーナーは、何度も何度も口にした。膝を揺すり、眉を寄せて、タバコを出したり仕舞ったりしながら。これは、店の売り上げが悪いときに現れる彼のクセだった。
「きみのところ、最近ちょっと味落ちたよね。おれはさ、昔の苦くて濃いラガーが好きだったんだよ。それが何、軟弱な味になっちゃってさ。もうどこの店も、ウルトラドライ一色だよ。ほら、あれはのど越しがいいから。夏なんて特にね。油ものとも合うし。ちょっとね、乗り換えようかなと考えてるんだよね。だって君のところ、安くならないでしょ?成田くん」
 出したり引っ込めたりを繰り返していたタバコをようやく口にくわえた瞬間、おれはジッポを前に差し出し、絶妙なタイミングで火をつけた。オーナーの男は唇をすぼめて、美味そうに煙を吐き出す。
「……あれ?君タバコ吸わないんじゃなかったっけ」
 成田くん、と呼ばれたのが少しうれしく、目元にわずかな笑みを浮かべて言った。
「吸いませんが、こんなときに役立ちます」
 自分の手を確認する。日焼けしていて、爪は短く切りそろえられている。これでいい。
「あいかわらず角砂糖をひとつずつ列にして並べるような話し方だなあ」
 オーナーをじっとみつめる。時々「目つきが鋭い」「怖い」と言われることがあるので、あまり人の目を凝視しないように意識しているのだが、これはおれのくせだ。
「まったく如才ないんだから、成田くんは」
「恐れ入ります」
「今年は、一番になれたらいいね」
 おれはジッポを胸ポケットに仕舞い、オーナーを見上げた。開店前、仕込みの最中を狙って営業をかけるのはいつものことだが、今日はいつになく機嫌がなおるのが早い。
「なんのことでしょう?」
「営業成績。いつも勝てないやつがいるって、一度言ってただろ。もし勝ったら教えてくれよ、なんでも好きなワインを飲ませてやるから」
「そこは弊社のビールでお願いします。酒井さんのお料理はとても美味しくて、ビールに合いますからね」
「おべっか使いやがって!」
 まんざらでもない顔で、オーナーの酒井さんが肩を小突いてくる。はじめのころ、話に耳を傾けてくれるどころか、「仕込みの忙しい時間に来るんじゃねえ」とけんもほろろに追い返されていたのに、今はずいぶん本音を打ち明けてくれるようになった。こういうところが楽しいのだ。
 営業職は、ものを売るだけが仕事じゃない。そもそも信頼されていなければ話にならない。
「私は、お客様ひとりひとりに喜んでいただけたら幸せなんです。順位なんて、十番でも百番でも構いません」
「きれいごとだ、と鼻を鳴らしたくなるような言葉も、きみが言うと不思議な説得力がある」
 酒井は肩をすくめ、「ご立派」とつぶやいた。言葉や態度のわりに、その口調はやさしく温かい。
「ねえ、成田くんはさ、星座とか興味ある?」
「朝の占いはつい見てしまいますが、信じているわけではないですね」
「そうなんだ。何座?」
「さそり座です」
 酒井さんは笑って「最下位だ」とおれを指さす。
「今日の占い見てないだろ。君、最下位だよ。確か『思いがけない不幸に見舞われてパニックになりそう!無理に逆らわずに流れに身を任せてみて。ラッキーアイテムは『ライター』」
「詳しすぎませんか」
「おれもさそり座なんだ。だから熱心に聞いちゃってさ」
 もう覚えた。酒井さんはさそり座、同じ星座。こういう情報が意外なところで生きてくるのが、営業という仕事の面白さである。
「実はさ、星座にちなんだメニューを考えてみようかな、と思ってるんだよ。女の子は好きだろ、占いとか」
「いいですね。カクテルなんかもいいんじゃないですか?」
 そうして盛り上がってきた話の最後に、新しいキャンペーンのチラシをさりげなく手渡す。営業に来る時間は、大体一料飲店あたり五分~七分程度だから、その短い時間にいかにして印象を残すか、が大切になる。
「商売上手だなあ、成田くんは」
「恐れ入ります」
 さきほどのようなやり取りを繰り返して、ふたりで笑った。幸先のいいスタートだ、と思ったのは、ここまでだった。

 桜の開花が近い。
 帰社しながら、膨らみつつある桜のつぼみに胸がおどった。季節を感じるものが好きだ。花だけではなく、風の匂いにすらワクワクする。
「ワクワクしてるって顔じゃないよなあ、成田はさ」
「そうですか?」
「うん。お前はいつも淡々としてるよ。笑わないし」
 今の支店に配属されてから、何かと世話を焼いてくれている田中さんが、いつものようにおれをからかってくる。
「笑わないわけではないですが」
「たまーに、ここぞ!ってときに、笑うじゃん。あれずっるいわ~、絶対オーナーさんみんな、あれにやられてんだよ」
 勤め先である鳳凰ビール株式会社は、現在ビールシェア第二位のメーカーだ。いわゆる『財閥系』で『三友グループ』のひとつになる。
「春が来ることにわくわくしてる、って顔じゃねえんだよな。もうちょっとニコニコしろ、ニコニコ」
「意味もなく笑いませんよ……」
 社内食堂の向かい側から頬を引っ張られて、眉をしかめる。
「あ、来週だけど、新しいメンバーが来るからさ、紹介するわ」
「ポジションどこですか」
「ファースト。相変わらずこだわるな。やっぱピッチャーって人種は独特だわ。我が強い」
「漫画で読んだ偏見を押し付けないでください」
「言うねえ」
 異動してきたばかりのころ、知り合いも友人も誰もいなかったおれをいきなり「なあ、成田って甲子園出てた成田?今度の日曜試合あるんだけど来てよ」と誘ってきたツワモノが田中さんで、それ以来、彼とその友人が集まっている草野球チームに月三回程度顔を出している。ちなみにおれは甲子園に出たことはない。出ていたのはひとつ下の弟だ。
「まさか完封の成田に兄貴がいたなんて思わなくてびっくりしたな、あのときは」
 おれも野球をやっていたが、弟に才能があると気づいたとき、潔くやめる決断をした。このままやっていたら絶対に比べられ続けてひねくれる、と分かったのだ。それほど、弟の「成田周平」は才能を持っていた。
 弟の話をすると暗い気持ちになる。話はここまで、という意味をこめて食べ終わったトレイを持って立ち上がると、田中さんも話を切り上げて喫煙所へ歩いていく。食堂を出たところで後輩の羽田が慌てた様子で呼び止めてきた。
「成田先輩、探しましたよ」
「なんだ、そんなに慌てて」
 羽田瑛士は今の営業メンバーの中で最も若い、二四歳だ。犬のようにひとなつっこく、酒に酔うとすぐ真っ赤になって寝てしまう。とてもいい意味で「バカ」な後輩なのでかわいがっている。
「驚かないで聞いてくださいよ」
 背が高い羽田は、おれの肩を掴んできて唾を飲み込み、言った。
「ほ、本社から偉い人が会いに来てます」
「偉い人って。またずいぶん抽象的だな」
 返却口にトレイと食器を返すと、食堂の女性がにこにこ笑って「香川土産のうどん、いる?」と聞いてくれた。ありがとうございます、と頭を下げている間に、彼女らは数人、食堂のフロアに出てきて、紙袋に入ったうどんやら、出汁やらを持たせてくれた。
「あっ、いいな、おれのはないんすか」
「成田くんはいい男だから特別。出張にいったらいつもみんなの分お土産買って持ってきてくれるんだよ。そんなの、この男前だけだからね」
「いつも美味しいごはんを食べさせてもらってますから」
「これだよ。このキリッとした顔でそんなこと言われちゃったらねえ……羽田くんは軟弱すぎるよ。髪切りな、髪!」
「うわ~逃げよ。いきましょう成田先輩」
「おいしくいただきますね」
 笑顔を振りまくのは苦手なので、まじめな顔で頭を下げながら羽田に引っ張られ、連れられて行く。食堂から出て廊下を歩いてしばらくすると、羽田が神妙な顔で振り返ってきて言った。
「本社の人事が来るなんて。何かしちゃったんですか?」
「しちゃった覚えは特にないな」
「じゃあ、……女遊びとか」
「知ってるだろ。つい最近、三年越しの彼女に振られたばかりだよ」
「うーんなんだろ。……影浦さんに勝ちたくて営業成績水増ししてるとか!?」
 拳を作って肩を軽く殴ると、嬉しそうな顔で羽田が「いてえ」と言って笑った。
「その手の煽りは飽き飽きしてる。どうしてみんな、おれが一番になりたいと思い込んでるんだ?一番じゃないとダメなんですか?二番じゃダメなんですか?」
「懐かしい政治ネタやめてくださいよ……しかも真顔で」
――影(かげ)浦(うら)仁(じん)のことを知らない営業は、いや、社員は、おそらくひとりもいないだろう。
 おれも、知っている。おそらく一方的に。
「とにかく急いでください。早く連れて行かないとおれが怒られちゃうんで」
 羽田が焦れた様子で足踏みをして急かすので、生返事をしながら、支店の会議室へと向かった。