12 成田さん、指名入りました!(前編)

 成田がバニーボーイのアルバイトをすることになる話です。
 続きの最後の方に少しだけモブも交えた3P描写がありますので、苦手な方はご注意ください※

 羽瀬さんからの、「ちょっとお願いがあるんだけど」がいい話だった試しがない。
 そう思って身構えたおれを見て、羽瀬さんは少し笑いながら顔の前で手を合わせた。
「恩人に頼み込まれてね。ひとつ、バイトしてもらえないかな?君にしかできないんだ!」
 話を要約すると、羽瀬さんの知り合いが経営しているバニーボーイバー(キャバクラのような指名制度があり、客の隣に座って接客する)でNO2の男が突然飛んで(失踪して)しまい、にっちもさっちもいかない状況になっているのだという。店に相当な借りがあったらしいその男については怖いお兄さんが現在鋭意捜索中とのことであるが、見つかって引きずってくるまで、店に立ってほしいと頼み込まれたのだ。
「突っ込みどころが多すぎて、どこから突っ込めばいいのか迷いますよ。そもそも、男がバニーボーイの恰好をして誰が楽しいんですが」
「大丈夫!健全な服装のお店だから。半袖シャツに蝶ネクタイ、サスペンダーに黒スラックス、ね、全然ふつうだろ?ただしうさ耳はつけてもらうし、色々とオプションはあるけど」
 ――それだ。その「いろいろとオプション」が一番怖い。
「あとね、売上が良ければバイト代とは別で、君のところのビール、入荷してくれるって。最近クラフトビールが流行ってるから、ちょうどいいタイミングだったみたいだよ」

 バニーボーイの店でクラフトビールの需要があるのか?とかどの程度のロットを入れてもらえるのか、とか、なにより客層も何も調査していないのに、という疑問と不信感ばかりが募ってくる。まあ、確かに営業をかける前は店に通い詰めることが多く、それが省けると考えればアリなのか。
 考え込んだおれをみて、羽瀬さんが「もう一押し」と思っているのがありありと伝わってくる。笑みを浮かべてさりげなく手を握ろうとしてきたので、寸前のところで手を引っ込めた。
 この人のおかげで解決したことがいくつかあるせいで、頼み事を断りづらくなってしまった。
 都内にいくつも店や旅館を持っている『羽瀬代表』は、今や飛ぶ鳥も落とす勢いである。ルックスがいいこともあってテレビや雑誌にもしょっちゅう呼ばれているし、こと経営のことになると柔和な雰囲気はどこへやら、影浦ですら「ぞっとする」とこぼすほどの辣腕ぶりを発揮する。能力のある人間には金を惜しまず、逆の人間には血も涙もない。
 そんな人間に認められ、まだ少なくはあるものの、いくつかの店舗に商品を納入してもらえるようになったことはとても誇らしいし、これからまだまだ末永いお付き合いをお願いしたい。
「……仕事内容をきいてから考えます」
 この返事をしたということは、ほとんど了承したということだ。すくなくとも羽瀬さんはそうとらえているだろう。満面の笑みでもって業務内容の説明をし、「色よい返事を期待しているよ」と言っておれの肩を抱いてから自宅の前まで送ってくれた。

 銀座のクラブで飲むなんて滅多とない機会だし、もっとしっかり味わえばよかったな、と今更ながらに反省するが、羽瀬さんとの話は油断がならないので、気を張っていてそんな余裕が全くなかった。六本木にもう一軒行きつけがあるんだけど、と誘われたのを回避してタクシーを拾い、座席に座って、ようやく一息つく。
(足元を見られてるな)
 今季、おれの売り上げは苦戦していた。
 影浦の会社に移ったと同時にユニットリーダーという立場を与えられて部下ができたので、純粋な営業活動に割ける時間が減ってしまったのだ。残業をしてでも、という姿勢を取ろうとしたおれに、影浦が言った言葉が忘れられない。
「おい悠生、いつまで地べた這いずり回って営業だけやってるつもりだ?お前は管理職としての能力も身に着けた方がいいぞ。ゆくゆくは経営にもかかわってもらうつもりだからな」
 影浦に期待され、信頼されることは、くやしいが、何よりもうれしい。自分が尊敬している人間に認められることほど自尊心をくすぐるものはない。
 だから今季は部下の育成に力を入れた。自分の営業先をいくつか流してやり、ノウハウをたたき込み、悩みや愚痴にもとことん付き合った。そのおかげなのかもともと優秀な人間だったのか、彼らはすぐに戦力として荒野を攻略しはじめた。東京23区という荒野だけではなく、全国的に有名なホテルチェーンや、もぐログ高評価の飲食店など、幅広い営業活動が実を結んで数字に出るようになってきた。
 それ自体は、すごく嬉しい。人材育成の楽しさを感じるし、どんな部下でも、自分の部下はかわいい。が、育成がうまくいくのと比例して、おれの数字が怪しくなってきた。太い営業先をいくつか部下にまわしたことが大きく影響していて、新規開拓に腰を据えて挑みたいのに時間がない。
 影浦の足手まといにだけはなりたくなかった。おれが最も貢献できるのは仕事だ。あとは何だ?セックスか。そんなものは代用がきく、おれには仕事しかない、そこまで考えて、驚きで頭を抱えてしまった。
 誰だったか、名前も忘れるような人間が言った言葉に心が少しとらわれている。

『自分の会社のために君の能力が欲しかっただけだ』
『目的のためなら恋愛感情だって利用する』

 一緒にいる時間が増えるにつれ、影浦から特別な感情を向けられていると感じることは多くなった。影浦の悪口を誰かから聞くたびに腹を立てたし、そんな人間じゃない、と否定してきた。
 けれど、すべてを知っているわけではない。あの男は何かとイニシアチブを取りたがる癖があり、他人に弱みを見せることを極端に嫌う。そのせいか、自分自身について話すことがほとんどないので、影浦の生育環境や家族のことは、何も知らないに等しい。
 愛されている、と信じ切れる人間がうらやましい。恋人からの愛情を疑うことなく信じ切れたら、自分でも呆れるような少女じみた不安などに苛まれずに済むのだろう。
 腕を組んで目を閉じる。都会の中をすり抜けていくタクシーが、狭いが安心する自分の家へ連れて行く。その振動と音に身をゆだねてうとうとしているうちにその日が終わった。

 ☆

 おそろしいほどの勘の良さと観察眼を持つ影浦の視線をかいぐくり、約束の場所へ赴いたのは仕事が終わってから、午後八時過ぎのことだった。
「一応面接があるけど、君なら絶対通るから」
 羽瀬代表が押してきた謎の太鼓判を思い出しつつ、店のドアを開けた。
(思ってたよりシックな空間だな)
 広いフロアは薄暗く、天井にはシャンデリアやミラーボールが見えた。足元は赤い、ふかふかのじゅうたんが敷き詰められており、客席はというと、いくつかのブースに仕切られている。
「君が成田くんだね、こっちへどうぞ」
 スタッフルームへ案内され、オーナーが業務の説明をする。大体は聞いていたとおりだ。
「あの、何か」
 オーナーは椅子に座ったままのおれの周りをぐるぐる回りながら、全身をくまなくチェックしてきた。この視線は影浦がおれの服装を確認し、ダメだしするときのものと似ているからすぐわかる。
「うん、合格!!というか、君めちゃくちゃいい身体してるね。ちょっと顔が怖いかな?でもそれも売りになるな。顔立ちはいいし。笑わないバニーボーイ……素敵じゃないか。君は絶対売れっ子になるよ、おれの目に狂いがなければね」
 ぺらぺらとよくしゃべる口をじっとみつめながら、おれは「そうですか」とだけ返事をした。何だかよく分からないが、面接には合格したらしい。
「じゃあさっそく今日から働いてもらおうかな。制服は店の者にもらって。まあバニーボーイっていったってうさ耳つけるのと特殊なオプションがいくつかある以外は、単なる接客業だよ。客が来る。お酒をのませる。できたらサイドメニューも頼ませる。あ、うちはちゃんと風営法の許可取ってるから、お客さんの隣についてもらうけどね。セクハラは断固許さない会の会長だからさ、おさわりされたりしたら遠慮なくぶん殴っていいよ」
「本当に殴りますが、大丈夫ですか」
「大丈夫さ~。あんまりひどいケガさせるのはやめてほしいけどね」
 どこまでが冗談なのか分かりにくいが、誠実な人間ではあるらしい。質問にはすべて明朗な答えが返ってきた。
「客層について教えてください」
「別にゲイ専門の店ってわけじゃないんだけど、オプションのせいかお客さんの8割は男だよ。どうもそっちの業界で有名な店らしくて。バニーボーイの容姿レベルは高水準を維持してるからね。美意識が高い人が多く訪れるのかもしれないな」
 そうですか、と返事をしたおれに、オーナーがにこりと笑った。
「ほかには?」
「オプションとは何ですか」
 この質問をしたときだけ、彼は抜け目ない、狡い目をして「まあそれはおいおい」とはぐらかしてきた。おれが訝しげな顔をしたことに焦ったのか、すぐに「大丈夫、説明なしにやらせたりはしないから」と手を振ってきたが。
「じゃあいいかな?着替え終わったら……そうだな、今日は清家くんについてくれたらいいよ。田中、キリのいいところで清家くん呼んできて。あとこれ、事前に聞いた名前で名刺作っといたからね」
 手渡された白に金色の箔押し枠がついた名刺には、『悠生』とだけ書かれていていかにも感がある。
「名刺は命だからさ、勝手に作らせてもらったよ。今日からしばらくはB指名をもらうのを目標にしましょう、って感じだな」
 新人と思しき黒服のボーイが、更衣室に案内してくれた。着替えを終え、全身鏡にうつった自分の姿を確認して、強く思った。
 影浦にだけは知られたくない。
 水商売に偏見があるわけではなく(むしろ、おれたちの仕事はそのあたりに密着・依存している)、この姿を見て何を言われるか分からないからだ。
「……」
 半袖シャツに黒いスラックス、ここまではふつうだ。サスペンダー、これもまあ理解できなくはない。蝶ネクタイは思っていたよりも似合っていて安心した。
 違和感の原因は、この大きなウサギの耳だ。カチューシャタイプのうさ耳は、おれがうごくたびにふわふわと揺れて存在感を否応なしに主張してくる。
「やわらかい…」
 手でさわると、高級感があって本物のウサギの耳のようだ。ぼんやりと耳をさわっていると、ノックの音が聞こえてきた。
「悠生さーん、清家……おっと、武司さん来られましたので中に入ってもらっても大丈夫ッスか」
 更衣室の外で田中が言った。構わない、と返事をすると、おれよりも大柄な、砲丸投げとか槍投げでもしてそうな体格の大男が、いまのおれと全く同じ服装で中に入ってきた。
「さすが羽瀬代表の紹介だけある。いい男だなあ」
 人懐こい笑みを浮かべた清家武司なる男が、拍手をしながら近づいてきた。日焼けしたマッチョ男にうさ耳のギャップに衝撃を受けつつも、差し出された右手をしっかりと握り返す。
「ありがとうございます。やるからにはお店に貢献できるよう頑張りますので、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」
 人に指導を受けるなんて久しぶりだ。――もちろん今も営業部門の統括リーダー(いわゆる課長的な役割)の下にはついているものの、仕事で人に教わることはもはやほとんどないのが実情だった。
 考えてみれば、これもいい勉強になるかもしれない。コミュニケーション能力を磨くには最適の場所だし、そもそもおれは、酒が嫌いではないのだ。
「硬いよその挨拶。よろしく、悠生くん。おれのことは武司と呼んでくれ」
「武司さんですね。分かりました」
 じゃあさっそく場内へ行こうか、と案内される。クリムゾン色のじゅうたんを踏みしめながら薄暗いフロアを歩くと、客は多く意外なほど盛り上がっている。
 たとえ不本意なきっかけであっても、未知の世界に足を踏み入れる瞬間は最高だ。
 おれは深呼吸をして胸をそらし、なるべく堂々と歩きながら、新しい戦場を見回した。

 結論から言えば、この仕事はおれに合っていた。
 つまり、バニーボーイとしての接客業に慣れるのに、それほど時間はかからなかった。
 もともと人と競い合うことが嫌いじゃなかったし、強烈な負けず嫌いだと自覚しているので、仕事への努力は苦にならなかった。B指名(場内指名という。本指名と違って入店の度にキャストを変更できる)は一週間もたたないうちにたくさんもらえるようになったし、セクハラを受けたときはオーナーの言ったとおり容赦なく鉄拳制裁を下したのも良かったらしい。おれに殴ってほしいという奇妙な男たちや、時々相槌を打つものの黙って話をきくことが多いおれに愚痴をぶちまけてすっきりする客が増え、忙しい日には1時間で3件の指名をこなすことになった。ありがたいことに……いや、ありがたいのか、これは?
「やっぱりおれの目に狂いはなかった!!もうあいつ帰ってこなくていいな、本気でうちの仕事やってみない?」
 キャバクラ同様、この店でも本指名は変更しない限り「永久」が普通だ。一人を指名すると、次回入店以降も自動的に同じキャストがあてられることになる。おれはあくまでつなぎの役割と社会勉強として席をおいてもらっているので、B指名のみにして本指名は受け付けないつもりだったのだが、指名数が多くなったので『採用は期間限定ですが』と断った上で対応している。
「あの、あくまで戻って来られるまでというお話ですので……本職もありますし」
「確かにね、昼職でやっていけてるなら捨てないほうがいいけどさ。おれもこの業界長いから、夜職で金銭感覚狂って転落していくやつら山ほどみてきたしなあ」
 君はそういう子じゃないもんね、と寂しそうな顔をされて、(そういう子、というほど若くないのだが……)と思いつつ黙っていた。オーナーにはオーナーの過去や悩みがあるのだろう。
 このやり取りも3度目だ。次第に熱が入ってきたことが気になるが、断ると毎回引いてくれた。
「一度真剣に考えてみてくれ。なんなら、羽瀬代表通じて君の会社に手を回しても構わないから」
「それだけはやめてください」
 笑いながら部屋から追い出され、外していたうさ耳をつけてホールを見渡す。
 薄暗いホールの中、景気のいいシャンパンコールが一番奥のボックス席から聞こえてくる。あそこにいるのはナンバーワンのバニーボーイである塚口だ。おれの面倒を見てくれている武司さんは三番手だと聞いたことがある。忙しいのに手間を惜しまず仕事を教えてくれたから、2週間経った今、すっかり仕事になじむことができていた。
「悠生さん、ご指名入りました。3番ボックス席お願いします」
 ボーイの声に「分かりました」と返事をして、ゆっくりと席に向かう。余裕を失った態度は店で厳禁だ。客は日常を忘れて楽しむために店に来ている。忙しさや余裕のなさを感じさせてはいけない。
「お待たせいたしました。ご指名ありがとうございます――、ああ、またあなたですか」
 嫌そうな顔をしていたかもしれない。中年の太った男は嬉々とした表情で隣に座ったおれの肩を抱こうとしてきたので、顔を手のひらで押して距離を保った。
「ああっ、悠生くん冷たい!今日もあの『椅子』のオプションお願いしてもいいかな?さっき受付で交渉したらOKって話だったけど」
 眉を寄せそうになったがなんとかこらえた。無表情で頷く。
「構いませんが、もの好きな人ですね」
 おれが立ち上がると、男は「しびれる~~その低音!はあ~かっこいいよねイイカラダしてるし。最高だよ~」と言いながらじゅうたんの上で四つん這いになった。
「さあ、お願いします!いまだけは僕のうさたんになってくれ」
 世の中には様々な性的嗜好があるものだ、と半ば感心しつつ、男の尻を蹴飛ばす。痛い、と言ってこちらを振り返った期待にあふれた目を見て少しげんなりしたが、これも仕事だ。お客様が喜ばれるのであれば、安いものである。
「椅子が動くんじゃない。じっとしてろ」
 凍り付くような冷たい声は自然と出てきた。男は嬉しそうに「申し訳ありません」と叫んだ。
「どうぞわたしを椅子にしてください」
 おれはもう一度男の尻を蹴った。加減はしているが、いつもこの瞬間はハラハラする。ケガをさせていないか心配になるのだが、四つん這いで目を潤ませて喜んでいるお客様を見てほっとした。
「お前を椅子にするかどうかはおれが決めることだ」
「申し訳ありません。ですがなにとぞ、なにとぞお願いします」
 おれは男の顔のそばにしゃがみこみ、胸ポケットからタバコを取り出して口にくわえた。
「汚い椅子だな。座るとおれの尻が汚れる」
 そういいながら、ことさら乱暴に男の背に腰かける。ああっ、と恍惚にみちた声が椅子と化した男の口から洩れてくる。
 ボックス席の前を武司さんが通りかかり、おれに視線を寄越してからわずかに眉を上げた。また『椅子』の客を相手にしていることが面白かったのだろう。今日だけで3人目になるから無理もない。
 おれは男に腰かけたまま足を組み、タバコに火を点けた。喫煙の習慣がないのでここが一番苦労したのだが、武司さんに教えられたとおり、なるべく肺にいれないように煙を吸い込み、ゆうゆうと天井に向かって吐き出す。これを2回。ここまでがこの『椅子』というオプションのプレイ内容である。
「今日もさいっこうでした……悠生くん、ありがとう」
「痛くありませんでしたか?」
「全然。もっと痛くしてほしいぐらいだよ」
 太った男は嬉しそうに微笑んでいる。彼が幸せならおれも幸せだ。だがドリンクを頼ませることは忘れない。
「何か飲まれますか?」
 太った男は嬉しそうにおれの隣に密着しながら、「悠生くんが好きなものを飲んでいいよ。僕もそれを飲むから」と言った。
「スコッチはいかがですか?シーバスリーガル18年を入荷しておりますが」
 太った男は大きく頷いた。
「ブレンデッドだね。シングルモルトのおすすめはあるかい?」
 酒の話は得意中の得意だ。ソファの後ろにある鏡に微笑んでいる自分が映っているのが見えた。
「ラガヴーリン16年などいかがでしょう」
 男が嬉しそうに「さすがだよ」と笑った。彼の懐事情に合わせた酒を選んでいるので、おそらくそういう反応だろうとは思ったが。
「やっぱりロックかな?君は本当に美味い酒をすすめてくれるから。そこもいいんだよなあ」
 この店は飲み放題料金つきの1時間固定金額を採用しているが、基本料金で飲める酒の種類は多くない。いかにして追加料金の発生する酒を飲ませるか。ここにおれたちの腕がかかっている。
 高い酒を飲ませればいい、というものではない。支払いで揉めたり、ツケを溜めさせすぎて飛ばれるのは店にとっても百害あって一利なしだ。支払うことができる、上限より少し手前ぐらいの酒を選び、気持ち良く酔っぱらっていただいてまた来てもらうようにする。これがとても大切なことになる。
 太った男は良い酔い方をし、おれにも気前よくラガヴーリンを飲ませてくれた。人の金で飲む酒は、それはそれでまた美味い。仕事と妻の愚痴を吐き出して、景気よく金を落として帰っていった。太ももを撫でさすられはしたが、それぐらいならおれの拳は火を噴かない。女性ではないので、そこまで守る必要性は感じない。ただキスをされそうになったり、ハグの範囲を超えるほど抱き着かれたり身体を撫でまわされたりしたときは、遠慮なく暴力を行使する。身体を売るつもりはないし、それに準ずることもしたくない。
「悠生さん、ご指名入りました。5番テーブルお願いします」
 見送りを済ませたタイミングですぐに別の指名が入って、ボックス席の中でも一番広いところへ足を向けると、そこにいたのは羽瀬さんだった。
「やあ。すっかり売れっ子だね、かっこいいバニーボーイ」
 あの優男然とした微笑みに、うっかりこちらも笑顔になる。天性の人たらしはおそろしい。
「君はゲイ受けするからね。ノンケっぽさがいいんだろうな。界隈では噂になってるよ、みんな君を指名したいんだ」
 おれを隣に座らせ、腰を抱き寄せてくる。さすがに彼相手に暴力はつかえないので、あきらめて目の前の水割りセットでマッカランの水割りとロックをひとつずつつくった。
「いいよねえ、シャツの上からでもわかるその肉体美。そそるよなあ。だいたい君、足が長すぎるよ、身長何センチあるの?」
 いつになく酔った様子の羽瀬さんの様子が気になって問いかけてみる。
「180半ばぐらいですが……何かありましたか?」
「投資の関係で。外資にしてやられそうになっただけだよ。なんとか損切りはしたけど、無傷ってわけにはいかなかったな」
 どうやら先にどこかで深酒をしてきたらしい。ふわふわとした笑顔でこちらをのぞきこんできた彼は、おれと目が合うといたずらっぽく目を細めた。
「影浦くんならこんなミスはしないんだけどね。彼の投資センスは、ビール会社の代表をさせておくには惜しいよ」
 現金資産と不動産資産のほとんどを失ったはずの影浦が、暮らしぶりを変えないのはそこである。一度心配して問いかけたおれに対して、「投資による運用益が年数億あるから生活を変えるほど逼迫していない」と平然としていたのだ。
「僕だけのうさぎくん。膝枕して」
 影浦のことを思い出していたことを悟られたのか、羽瀬さんが唇を尖らせて拗ねたような表情で言った。
 こんなに目に見えて甘えられるのは初めてだ。おれは少し困惑した。
「オプションになりますが」
 この質問に意味がないことは分かっていたが、念のためだ。羽瀬さんは目を閉じて勝手におれの膝の上に頭を乗せた。まだ許可していないのに。
「いいとも。君は知らないかもしれないが、僕はひとよりほんの少し多くお金をもっているんだ――頭を撫でるのも忘れずにね」
「それも増額になりますがよろしいですか」
 彼はもう返事をしなかった。目を閉じて静かにしていたので、おれも黙った。
 10分ほどそうしていただろうか。彼の髪を撫で、指ですいていると、目を開いた羽瀬さんが「君を指名できるのは、今日が最後になるかもしれないなあ」と残念そうにつぶやいた。
「……NO2の彼はまだ帰ってきてませんが……?」
「そうだけど。ウサギを守るナイト様は耳がお早いからな」
 影浦のことだ。
 背筋をひやりとしたものが伝っていき、それが羽瀬さんにも伝わったらしい。彼は意地の悪い笑みを浮かべて起き上がり、声をひそめて「まだバレてないと思うけど、時間の問題だよね」と囁いた。

 不安を感じながらも順調に日々が過ぎた。
 働きだして4週を過ぎたある日、オーナーから「最後の勧誘」と銘打ってかなり長い間引き留められて断ったところ、ようやくNO2の男の復帰時期を聞き出すことができた。
「捕まえたときちょーっとばかりお灸をすえすぎちゃって。顔のあざが消えたから、明日からでも復帰したいってしつこく電話してきてるよ」
「それなら、今日までということにしましょうか」
 そこからまた慰留と勧誘を繰り返されたが、おれの意志が固いと分かるとオーナーも了承してくれた。
「君は本当によく働いてくれた。いままでどうもありがとうね。君ほどの人材を手放すのは惜しい……惜しいけど!!……約束は守るよ。クラフトビール、まずは少しずつになるけど入れさせてもらうからね」
「ありがとうございます」
 口約束で満足するほど甘い営業生活を送っていないので、毎日持参しては持ち帰っていた契約書類一式をその場で記入してもらった。さすがにしっかりしてるな、と半ばあきれた顔をされたけれども。
 契約にかかる一連の作業が終わると、オーナーが立ち上がって握手を求めてくれたので、おれもソファから立ち、握り返した。
「勉強させていただきました。ありがとうございました」
 色々なことを学べた上に、契約まで取れた上に、昼職では考えられないほど高額なアルバイト料を得られた。なんでも挑戦してみるものだ。こんな機会を与えてくれた羽瀬さんには感謝しなければいけない。
「さよならを言うのはまだ早いな。今日も一日よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」

 順調だったのはそこまでだった。
 最後に相手をすることになった客は、店でも対応に苦慮していて出禁にするかどうか悩んでいるような、乱暴で、セクハラ常習者の男だった。すぐに出禁にしないのは、金を持っているのは事実で落とす金額が毎回尋常ではないこと、本指名をしていないので被害が分散されること(B指名はころころ変える男で、これも嫌われる要因だった)のふたつが原因で、賢い塚口はその男が来たと分かった途端、初見の客に指名させて自分が当たるのを防いでしまった。
 男は塚口のような線が細い美形がタイプなので、おれはB指名も入ったことがなかった。けれど隣のテーブルで指名された現役大学生の美青年の真島(働き出したばかり)へのセクハラがあまりにもひどくて、つい彼をかばってしまったのが運の尽きだった。
「なんだよお前。俺は若いバニーにしか興味ねえんだよ、すっこんでろ」
 尻をわしづかみにされて震えている真島に「今ボーイが取り込み中だから、灰皿とってきてくれ」と伝えて逃がしてやった。飛んで逃げていく真島の背中を見届けてから、男のとなりに座る。想像したとおり、ねちねちとした嫌味から恫喝に変わり、おれが動じないと分かると身体的嫌がらせへとシフトしていく。お前の好みじゃないんだろう、と怒鳴りつけて鼻の骨が折れるまで殴ってやりたかったが、拳を握りしめた瞬間、ボーイやオーナーが遠くで首を振って「こらえてくれ」の合図を送って来たので必死で我慢した。
「愛想もねえし、何がいいんだお前みたいなやつ」
 だったら離れろ。そう思いつつも口には出せないので、うさ耳を掴まれてもシャツの襟をつかまれて匂いを嗅ぐように耳の下に唇を寄せられても我慢した。周囲の客やキャストが心配そうにこちらの様子をうかがっているのを感じ、本当にこの男が金持ちなのかと疑いたくなったが、テーブルの上に置かれた酒を見て納得した。
「ドンペリニョン、P3、1971……」
 すぐ近くで男がニヤリと笑った。
「そうだ。お前のような人間が一生飲めない酒だよ。飲ませてほしいか」
 すぐ近くからかかってくるヤニくさい息に吐き気がする。同じ金持ちでも、影浦とは天と地ほどの差があるな、と思った。この男には気品というものが感じられない。
「いえ、私には過ぎたお酒ですから。お注ぎしましょうか」
 男が顎で「注げ」と指図してきたので、溜息をつきたくなるのを我慢してフルートグラスに超高級シャンパンを注いだ。時価40万は下らないシャンパンボトルを持つ機会なんて滅多にないから、緊張で腕が少し震えてしまった。
 男はじろりとおれを睨んでからグラスを手に取った。口に運ぼうとしてから、何か思いついたかのように、わざとらしく「そうだ」とつぶやいた。
「お前にも飲ませてやるよ。いい年してこんな店で働いてるなんて、よほど金に困ってるんだろ」
 侮辱に腹を立てるよりも早く、男がグラスを傾けておれの頭にシャンパンをかけた。その動作はことさらにゆっくりとしていて、おれが反撃できないと分かった上での行為だった。
 驚くというよりも呆れて言葉が出ない。男は嗜虐的な笑みを浮かべてこちらをのぞきこんできた。
「美味いか?一生飲めないんだ、味わって飲め………ウブッ!?」
 男の髪と顔が上から降り注ぐ何かでみるみるうちに濡れていく。おどろいて視線を上げると、後ろの席に立っていたのは羽瀬さんと──影浦だった。
「シャンパンは口から飲むものだと思っていたが違ったらしいな。どうだ、美味いか?お前ごときが一生飲めないようなものだぞ、味わって飲めよ」
 いつから聞いていたのだろう。
「誰だお前、おいっ、ゲホゲホ、やめろ…!」
 卑劣な人間ほど力関係に敏感だ。本能的に影浦のことを自分よりも「上」だと感じたのか、さっきまでの勢いは消し飛び、男の目には怯えが浮かんでいた。
「見たところ40を超えていそうな男が、店のキャストに横暴にふるまってストレス発散とは。よほど身も心も貧しいんだろう?」
 さっき男が言った言葉をそのままやり返す影浦の、侮蔑を浮かべた笑みはまぶしいほどに美しかった。
「……」
 驚いて口をあけたまま固まっているおれに、羽瀬さんが平然と笑いかけてくる。
「君のナイトに問い詰められてゲロっちゃった。──ああ、影浦くん、さすがにそんな使い方はもったいないよ」
 影浦が両手で持ち上げているボトルは見たことがないほど大きくて、3リットル以上は入りそうに見えた。あれは、まさか。
「ヴィンテージ1995、ジェロボアム!?」
 実物を見るのははじめてだった。世界で4番目に高いシャンパン。150万はくだらない、
 おれのつぶやきに、影浦がはじめてこちらを見た。その眼は怒りに満ちていた。おれではなく、この下品な男に対する怒りに。
「悠生、あとのことはおれと羽瀬がどうにでもする、だから、」

──やっちまえ。

 その言葉を合図に、おれは渾身の力で男のみぞおちを殴って、フロアに沈めた。