1 Well, Do You Want to? 

『クラフトビール界の風雲児』
『神が二物以上を与えた男』
『財閥の御曹司は、なぜあえて逆風の中に身を置いたのか?』

 週刊誌の見出しを声に出して読んでみた。これらはすべて、自分が勤める会社の代表である、影浦仁のことを指している。
「まあ確かに、大げさでもないかもな」
 地ビールブーム終焉後、不振にあえいでいたクラフトビール界隈を一気に盛り上げ、量販店や酒類店のみならず、競争の激しいコンビニのリーチインクーラーに三列もクラフトビールを並べ、ECのビール部門では売上ナンバーワンを何度も取った。
 この成功は、大手と勝負するのではなくニッチな需要に客層を絞ったことが勝因だとおれも影浦も感じている。大手が発売しているラガーの画一的な味は、安定しているが飽きるのだ。少し割高でも(…といってもペールエールの中ではかなり価格を頑張っている方だと思う)、本当に美味いビールが飲みたいという層は確かに存在していて、そこに訴えかけることに成功したのが大きかった。
 ビールの中でも、ラガーは味の濃いものと合わせることを前提としている。から揚げなどの揚げ物や、おれも大好きな、タレの味がついた焼き鳥、塩の利いたポテトフライ。そういったものと一緒に飲んで「うまい」と感じるようにできているので、よく言えばさらりとした味で、悪く言えば物足りない味になる。
 わが社の看板商品『あさなさなエール』は、朝から飲みたくなるような、やみつきになるペールエールを合言葉に開発されたビールだ。口に含んだ瞬間、鼻筋を通り抜け脳天を直撃する華やかな香りと、コクのある味、それなのに後を引かないさわやかな後味と計算されつくしたわずかな雑味、ああ、思いだしていたら飲みたくなってきた。何を隠そう営業部門の管理職を任されているおれ自身が、あのビールの大ファンなのだ。自分が心底美味いと思うものを人に売る。こんなに楽しい仕事はない。
 カラン、とドアベルが鳴り、意識がそちらへ向いた。不機嫌そうな中年の男がひとりで入店したのを確認して、視線をテーブルに戻す。待ち合わせ場所に指定されたカフェは、平日の昼間ということもあって空いている。女性同士で話し込んでいる客がふた組いるだけだったので、窓際の四人掛けの席を案内されて広々と座ることができた。
 本屋でみかけてなんとなく買った週刊誌をテーブルに放ったまま、腕時計を確認した。待ち合わせ時間まであと十五分ある。時間を守ったことなんて一度もない相手なので、のんびり待つつもりでコーヒーのおかわりを頼んだ。するとウェイトレスがコーヒーのおかわりをもってくる前に、約束の相手がドアを開け、せかせかとこちらへ歩いてきた。
「早いな。久しぶり」
 座ったまま見上げる。逆に見下ろしている方の男は、髪が短くなり、さっぱりとした顔をしていた。
「十五分前なんて早くないでしょ」
 スーツを着ている姿なんて初めて見た。席をすすめるとジャケットを脱ぎ、ホットコーヒーを注文してから座った。
「悠くん、ひさしぶり。……活躍してるね、知ってるよ」
 まぶしそうにこちらをみた周平は、週刊誌を指さしてから椅子にもたれた。おれは肩をすくめ、「ああ、こき使われてるよ。『神が二物以上を与えた男』に」と言ってため息をついた。
「元気にしてたのか」
 連絡があったのは二日前だ。
 立ち上げたばかりの会社にかまけているうちに一年が過ぎ、三十路を超えて周平の顔もおぼろげになったころ、突然影浦が言ったのだ。「お前の義弟に連絡先を教えたぞ」と。
 これまで何度か周平のことをたずねたときは、取り付く島もなく拒絶されていたから、おれは驚いて何も言えなかった。連絡が来るのかどうか半信半疑だったが、今こうして再会が実現している。
「元気といえば元気だよ。いまは正社員で働いてる」
 今日は昼から休みをもらったんだ、と言って周平が名刺を寄越してきた。両手で受け取って確認すると、老舗スポーツメーカーの営業担当として周平の名前が並んでいた。
「すごいじゃないか!」
 思わず昔のように頭をなでそうになって、寸前で踏みとどまった。『気持ち悪い』といわれたことがまだ忘れられていなかった――まあたぶん一生忘れられない――ので、ぐっと拳を握って耐えた。
「営業部長がおれのこと知ってたんだ。甲子園で見たんだって、あの試合」
 頭にはいろんな質問が渦巻いていた。どうやって就職したんだ?これまでどんな暮らしをしてた?今足りないものはないのか、何か助けが必要ならなんでもするぞ。
 でもどれも口に出すのはやめた。助けを求められたらなんでもするつもりだが、自分からむやみに干渉するのはやめようと思ったのだ。
「悠くんに営業の極意がききたいよ。おれほんと、まだまだでさ」
 周平の仕事の話をききながら、こんな穏やかな時間をふたりで過ごせるなんて、夢みたいだな、と思った。家族がダメになってから、ずっと願っていた。恋愛として成就しなくてもいいから、以前のように話ができたら。たまに一緒にご飯をたべて、愚痴をいったり趣味の話をしたり、そういうことができたら幸せだと思っていた。
「人それぞれやり方はあると思うけど、おれは顧客ノートをつけてるな」
「へえ、どんなこと書いてるの?」
 コーヒーがなくなったとき、ちょうどランチタイムがはじまったので、そこで昼食を済ませることにした。ピラフはびちゃびちゃとしていてみそ汁は塩辛かったが、周平と一緒に食べられることで全て帳消しになった。食べられればそれでいい。何の問題もなし。
 食べ終わって話が落ち着くと、周平は停止ボタンを押したみたいに唐突に押し黙った。おれは腕時計を確認して、記憶の中の手帳をめくった。確か、今日の予定は一七時に道玄坂で影浦と待ち合わせをしていて、それだけだ。忙しいくせに、「終わったら電話で連絡しろ。いいか、絶対だぞ」としつこく言われて約束させられたのだ。
 窓の外はよく晴れていた。まだ冷房はいらない季節だが、昼をすぎると少し暑い日もある。通り過ぎる人々の急いだ様子と、いまごろまだ社内で忙しくしているであろう影浦の姿がかぶって、平日の昼間に休みをもらったことを申し訳なく思った。
「悠くん」
「うん?」
 視線を戻す。周平はうつむき、テーブルの上に置かれたハンバーグセットの残りである、にんじんのソテーを睨みつけていた。
「ごめん。謝ってすむことじゃないし、許してもらえなくてもいいけど、言わせて。ひどいこと、いっぱい言った。お金も……」
 声がふるえていることに気づいて、おれは慌てた。
「いいんだ。おれも悪かったから」
「違う。悠くんは悪くない。おれが勝手に拗ねて、ひねくれて、甘えてただけなんだ。未熟で、いろんな人を傷つけて、本当に……恥ずかしい」
 毎日、生きてることが恥ずかしくて、誰かのせいにしたかった。
 野球を離れたら何もできなくて、ちょっと叱られただけで嫌になって、仕事も続かなかった。だって怒られたことなんかなかったから。いきなり世界が変わった気がしてついていけなかった。そういうの、全部、悠くんのせいにしたかったんだ。そうしたら気持ちが楽だったから。おれがやりたくてやってたはずなのに、無理やりやらされたんだって、そう考えてるほうが楽だったから。奈乃香のことだって、悠くんがそんなことするはずないのに、おかしいのに、考えなかった。
「あのとき、影浦さんにボコボコにされた日も思ったよ。なんで生きてるんだろうって。どうせこれから先だっておれはクズで、何もいいことなんかない。死んだら楽になれるのかなって」
「周平!」
 肩をつかむと、周平は涙をこらえた顔でおれを見た。まるでこどものころ、いたずらがばれたときのように。
「でも、そんなのあの人が許してくれなかったけどね。――出よっか、ここはもう払ったから」
 おれがよほど驚いた顔をしていたんだろう。周平はいたずらが成功した、と嬉しそうな顔で店のドアを指さした。

 駅まで一緒に歩こう。そういわれて、周平の数歩後ろを歩いた。おれが知っていたころよりも、身体から力が抜け、健康そうにみえた。
 伸びをして、深呼吸をしてから周平は振り返り、言った。
「お前はまだ自分の人生を生きてない、って言われたんだ、影浦さんに」
 こどもっぽさが残っていた甘い顔は、いつの間にか大人の男に変わっていた。立ち止まり、すぐそばでその顔をみつめた。
『人に言われるまま野球をして、そのあとは流されるように自業自得で転落した。いままで一度でも、自分で考えて決めたことがあるのか。お前の人生を生きたことがあるのか。心にきいてみろ。本当に自分にとって『正しい行動』はなんなのか。考えることを避けて、楽な方へ流されてきたお前にとってそれは難しいことだろうが、安易な死に逃げることをおれは許さないぞ。いいか、そのちっぽけな脳みそをフル回転させろ。考えて考えて、悩んで、その先にすすめ。そのためのサポートならしてやる』
 そっくりな口調でそう言って、周平が吹き出した。
「すごい人だよね。わがままだし天上天下唯我独尊、ほんと滅茶苦茶なんだけど、なぜか説得力があるんだよ。どうしてかなあ……」
 今の仕事を紹介してくれたのも影浦だった、と周平は言った。
「慰謝料がわりだっていわれたよ。まあ、あのとき影浦さんに半殺しにされて全治二か月のケガ負ったからね……、それも、自業自得だけど」
 そのときの影浦の様子を想像して、おれも笑いそうになった。周平は続けて言った。
「ふつう、ケガさせた相手に言わないよね?意識取り戻してすぐ、謝罪とか全部すっとばして、いきなり言われたよ。『お前はおれに会えて幸運だったな。殴られたのがおれで、本当に幸運だった』って」
 おれは、たぶん変な顔をしていたとおもう。胃の底からせり上がってきた熱いもの(吐き気ではない)をおさえるのに必死で、顔に出ていたに違いない。
「悠くん、お金、影浦さんが立て替えてくれたんだね。今少しずつ返してる。いらないっていわれたけど、おれの気が済まなかったから。たぶん、五年ぐらいで払い終わると思う。悠くんに借りたお金も、これ、全部じゃないけど持ってきた。受け取って」
 手渡された茶封筒を押し返して首を振った。
「いらない。あげたつもりだった」
「ダメだよ、それは」
「本当に、いいから。生活の足しにしろよ。それか…」
 少しためらってから、思い切っていった。
「今度、うまい寿司でもおごってくれ。それでいい」
 封筒をつかみ、ジャケットのポケットへ突っ込む。周平は言葉どおり涙を浮かべておれを見上げた。
「また会ってくれるの?」
 おれは少しわらって言った。
「おれのことが気持ち悪くないなら、いつでも」
 周平は傷ついた顔でうつむいた。
「あれは本心じゃなかった。傷つけて本当にごめん」
 アスファルトに黒いシミが点々とできていく。苦しくて喉がつまった。
「いいんだ。お前が元気で、ちゃんとメシをくって、どこかで幸せに暮らしてるならそれでいいから。謝罪も金も、何もいらない」
 周平と駅まで歩き、電車に乗るところまで見送った。周平はこちらを見ながら泣いていた。おれはその姿が見えなくなるまでホームで手を振り、しばらくの間そこに立ち尽くした。初夏の風がそよそよとシャツの袖を揺らして通り過ぎていき、遠くから踏切の音が聞こえた。
 ポケットから携帯端末を取り出し、ためらわずに画面を押した。二コールで影浦は電話に出て、不機嫌そうな声で『済んだか?』とつぶやいた。
「済んだから今すぐ出て来い。あと、」
 何か文句を言おうとした影浦の機先を制して、大きい声できっぱりと言った。
「好きだ」
 電話越しに、なにか物が盛大に倒れた音がした。どこかに端末を落としたのか、ガサガサとうるさかったので眉をしかめて通話を切った。それから身体を伸ばし、長いためいきをついた。
 とにかく、一秒でも早く、影浦に会いたかった。