5

 帰宅すると、ドアの前で妹がしゃがみこんでいた。
「どうしたの、それ」
 妹の深雪は、おれの眼をさらに大きくして、夢見がちにしたような形をしている。これだけ可愛ければ、ほとんどの男は目が合った瞬間に溶けてしまうだろう。
 きらきらしているその眼が、いたましいものを見るように細められた。
「ケンカだよ」
「それはない」
 このセリフ最近きいたことあるな、と思うと、乾いた笑いが漏れた。

 手首の擦過傷はかさぶたになりそうだ、と深雪は言った。
 親が作った煮物(めばるの煮つけ)や、にんじんしりしりを持ってきた深雪は、おれの傷跡を検分し、てきぱきと指示を出した。これは放置、これは消毒、これは冷やせ、など。
「わたし、一応看護学校通ってるから、何も言わずに傾聴できるよ」
 あたたかいごはんやみそ汁はおれが作った。深雪が好きな、大根とえのきの味噌汁だ。ふたりで小さいテーブルをはさんで向かい合う。あぐらをかいているおれはテレビに背を向けていて、何もきかない妹にこれ幸いと、ひとりでビールを煽っていた。
 深雪はテレビのバラエティ番組を無表情で眺めながらそう言った。おれは視線だけを深雪に向けて、目が合うと俯いた。何を言えばいいのか分からなかった。おれってこんなだっけ?と首を傾げたくなる。もっと陽気だったし、面白い話のひとつやふたつ、いつだって引き出せたはずだ。そう、帰国子女らしく、そこにアメリカンジョークを添えて。
 陽気じゃなくて、愚かだったのかもしれないな、と気が沈む。おれの知らない、誰も手を差し伸べてくれない澱のような地獄の世界。そこで育たざるを得なかった千葉の心情は、どれほど考えても分からなかった。分かると言ってはいけない気がした。知らないことが多ければ陽気になれる。どこまでもバカになれる。
 けれどおれは知ってしまった。その苦しみの深さと、救うことの難しさを。分かりもしないのに知ってしまった。だからもう、元のバカには戻れない。

「お兄ちゃん頑固だからなあ」
 ぼんやりと黙っていると、深雪はそうつぶやいて箸をすすめた。久しぶりに食べた、母ちゃんの煮物は、少し塩辛かった。

 夕飯を食べ終えても深雪は帰らなかった。結局泊まっていくことにしたらしい。
 ベッドの横に布団を敷くと、深雪はしばらくそこにあおむけになり、大の字で寝そべっていた。
「自分が虐待のサバイバーだからって、お兄ちゃんを虐待していいってことにはならないよね」
 声が出なかった。どうして、とかなんでそれを、とか、頭の中では叫んでいたが。
「創ちゃんはダイバーズウォッチで隠してるけど、左手首の内側にあるね。分かるよ、もちろん。タバコの火を押し付けられた痕って、特徴的だから」
 深雪と母親はおれの交際相手を知っている。会ったこともある。特に深雪は、千葉が初恋の相手だった。
「……どうすればいいのかわかんねえよ。途方に暮れてる、ってのが本音のところだな」
 深雪が深呼吸をした気配がした。おれも同じように深呼吸をする。
「罪悪感?自分には、少し連絡がつかなければこうやって心配して押しかけてきてくれる家族がいる。それ自体が申し訳ないことみたいに思ってる」
「そんなんじゃねえよ」
 でもありがたかった。
 自分がツライときに寄り添ってくれる人がいる、見返りも求めずに。そのことのありがたさが身に染みるほど、千葉の苦しみが迫ってくる。
「おれが、千葉の寄りかかれる木になりたかった」
「過去形なんだ。じゃあ無理だってわかってるんだね、無理そうだって感じてる」
 それは専門家の仕事なんだよ、と深雪は言った。
「そばにいて支える、って言葉は簡単に使われるけど……、ねえ、お兄ちゃんは、海でおぼれかけてもがいて暴れてる人がいたら、どうするの」
 すごく暴れてるの、もう暴れ牛ってぐらい。身体が大きくて力も強いの。どうする?
 おれはベッドの上で首だけを深雪に向けた。ベッドを譲ろうとしたら、「けが人がベッドで寝なさいよ」と言って譲らなかった、優しくて年の離れた妹の方へ。
「愚問だな。助けるに決まってるだろ」
「それは、お兄ちゃんが海難救助のプロだからでしょ。わたしが助けようとしたら止めるよね?」
「ああ」
 深雪が何を言いたいのか分かってしまった。
 時計の針がコチコチと音をたてている。馴染み深い、壁掛け時計の音だ。
「心の傷はお兄ちゃんの専門じゃない。心が痛くて暴れている人を、素人が支えようとしたら……、海と同じだよ。寄りかかる木にも、掴む板にもなれない。一緒に溺れて死んでしまうだけ」
 深雪の手が伸びてくる。手首の傷をそっとなぞられた。
「止めたり、叱ったりしないよ。いつでも話きくから。うーん、傾聴ってむずかしいな、やっぱり止めたくなってしまうから」
「ありがとうな」
 おれが礼を言うと、深雪は少しふざけた声で「兄妹に好かれるなんて。創ちゃんやるね」と言って笑った。
 おれは黙って眼を閉じた。
 辛いなら、と頭の中で考える。
 心が痛くて辛いなら、おれがその手を握ってやりたい。

 翌朝、温泉土産のまんじゅうを手に、深雪は帰っていった。その後ろ姿を見送ってから、ベランダで背伸びをする。よく晴れていた。コーヒーを淹れてベランダの柵にもたれて飲んでいると、スマホがテーブルの上で何度も震えていた。
 空はよく晴れている。おれは朝、ベランダで飲むコーヒーが大好きだ。
「そんなことも忘れてたな」
 誰かを幸せにするには、まず自分が幸せじゃなきゃ無理だ。一緒に墜ちていくだけじゃ、誰も救えない。
「うしッ」
 身体を起こして、気合いを入れた。おれの恋はここからが正念場だ。
 

 メッセージは千葉と二見からで、千葉のものは「今からいく」というシンプルかつ強引で自己中心的な、いつものやつだった。二見のものは、「話したいことがあります。明日時間とってもらえませんか?」という、千葉にみられるとまあまあマズいものだった。いつもなら返事をしてからすぐにルームごと消している。何もやましいことがないのに、行動は完全にやましい男のソレと化していた。浮気男のよくやるやつじゃん。やってないのに。
 だが今日のおれは違う。
 殴られようが蹴られようが、今日はちゃんと反論するし、言葉でわかり合えないなら拳でやり合うことも辞さない。
 千葉がドアを開けて入ってくるとき、おれは廊下で正座して待っていた。ふざけているわけではなく、これは一種の「気合い」だ。試合前の礼儀のようなものだった。例えばおれが師範代をもっている剣道や合気道では、必ず一礼してから試合が始まる。それを意識した。
 おれが立ち上がって一礼すると、千葉は片眉をあげて胡乱な目でおれを見た。
「何やってんの」
「ちょっと気合いを入れた」
 千葉は無視して家の中に入ってきた。狭い廊下でおれの横を通り過ぎようとして、戻ってきてから、急に肩をつかんで鼻先にキスした。
「言うの忘れてた。ただいま」
 お前の家じゃねえし、と憎まれ口が出てきそうになったが、顔がどうしてもにやけそうだったので何も言わずに堪えた。千葉にはこういうところがあった。つまり、昨日やりすぎたな、と思ったら次の日に軌道修正してくるのだ。懐柔しようとしている、とわかっているのにおれの胸は簡単にときめいた。何しろ、根が単純なので素直な愛情表現には弱かった。
「飯買ってきた。食うだろ」
 そういえば、朝食もまだだった。コーヒーを飲んだだけだ。
「助かる。コーヒーいれよっか?」
「ああ」
 千葉が手を洗いにいき、すぐに引き返してきた。その表情をみて、「何かヤバいものを見られたな」と悟った。それらは全部、何もまずくないものだが、千葉にかかるとまずいものになってしまうのだ。
 身体に力を入れて気を張り詰める。あの無表情は、おれに対してキレる直前、ギリギリで我慢しているときの顔だった。
「何これ」
 ベッドに腰掛けていたおれの首に手をかけてきて、立ち上がれなくなる。――目の前に突き出されたのは、かわいらしいピンクのシュシュだった。
「……マジできいてんの?」
「どうみても女ものだろ。一保おまえ、女とも寝られるわけ?」
 ため息が出そうだったけど我慢した。ぐっと腹に力をこめてから、千葉を見上げる。
「深雪が泊まりにきてた。妹のやつだよ、それ」
 細められた目に残忍な色が宿る。
 言ってから分かった。これは疑いでも嫉妬でもない。千葉にとって、きっかけは『なんでもいい』のだ。
「へえ。じゃあ電話してみせろよ」
 どこからもってきたのか、おれのスマホを頬に押しつけられる。
 それを手で避けながら言った。
「あのさあ、ゲイってのは都合よく出したり引っ込めたりできるもんじゃねえんだよ。おれが男を好きなのは生まれつきだし、死ぬまで変わんないの。訳の分からない疑いのために妹巻き込むなよ」
 うんざりした顔と声がつい出てしまった。
 飛んできた前蹴りを、とっさに肘で受け止めたものの、そのまま後ろに吹っ飛ばされた。ベッドの横の壁に背中をしたたかにぶつけて、クソ、と声がもれる。
 もう怒ったぶっ飛ばす、と叫ぼうとした、はずなのに、ベッドの前でしゃがみこんでいる千葉をみたら、その燃え上がった戦意はみるみるうちに喪失した。俯いている千葉は、蹴られたおれよりも痛そうな顔で呻いていた。
 背中の痛みよりも、苦しそうな千葉を見ているほうが辛かった。おれを殴ったり蹴ったりすることが、苦しくないわけがない。
 痛む背中をかばうように這って、ベッドから降りる。近くに座りこんでしまった千葉の側に膝立ちになって、その髪にふれた。硬くて、日差しで痛んで焦げ茶色になった髪。日焼けした顔が、おそるおそる、おれを見上げた。

――その目にうつっているのは本当におれだろうか。
「おれはお前を傷つけたりしないよ」

――抵抗できない子どもだった千葉に、一生消えない心身の傷を刻んだ酷い人間。おれはそいつと、同じように見えているのだろうか。だとしたら、悲しい。胸が張り裂けそうになる。
「どうすれば信じてくれる?」

 おれには、とてもじゃないけど千葉を殴れない。だってもう、こんなに傷ついている。直らない傷からまだ、真っ赤な血が流れている。
 千葉の目が揺れた。
「嘘だ。お前はもう、おれのことなんか好きじゃないんだろ」
「好きだよ」
 その頭を抱えるように抱きしめた。冷たくなった身体をあたためるようにぎゅっと力をこめると、千葉の手がおれの腰に強く巻き付いてきた。

「一保の心がおれから離れていくのが怖いんだ」
「離れない。ずっと側にいるから」
「お前は、おれといたら幸せになれない。そう分かっているのに手放せない」
 無邪気でバカだった頃のおれには、もう戻れない。そのままでいることが幸福だというなら、おれは幸福にさようならを言える。
「ごめん」
 濡れた声に目の奥が熱くなった。そうして、おれはまた背中の痛みを忘れた。