おれの家で、久世はいつも自由にふるまった。
 眠りたいときに眠り、出て行きたいときに出て行った。とはいえ出て行くのは主にトレーニング(ロードワークやジムなど)に出かけるのみで、彼から女の匂いも男の匂いもしないから許していた。そうじゃなかったら家の中に鎖でつないだかもしれない。
 指折り数えていた久世との再会だったが、久世はいつもどおり淡々としていた。おれが仕事をしているときは邪魔にならないように外に出たり、ヘッドフォンで音楽を聴きながらマンガを読んでいた。もともと足音がしない男だ。猫のうまれかわりなんじゃないか?と疑うほど物音をたてない。子どものころから一緒にいるおれだから久世の気配を感じるだけだ。

「おれがいることを忘れてるのか、それともわざとなのか分からないけど」
 あるとき久世は、いつもの落ち着いた声でそう切り出した。
「隣の部屋ではじまるとさすがに辟易する」
彼の母親は家に男を連れ込み、たびたび性行為に及んでいた。彼女の『不特定多数』の中におれもはいっていたが、それだけは墓場まで持っていきたい秘密のひとつだ。
「ろくでもない人生だよな、お互い」
おれが言うと、久世は「こんなもんだろ」と投げやりでもなく言った。当時高校生だったおれには、久世のそういう超越したところが少し怖かった。どうして弱音を吐いてくれないんだろう、気持ち悪いとか、嫌悪感でいっぱいだとか、助けてくれとか、そういう風に頼ったり泣きついたりしてほしかった。
「おれにも欠陥があるから、母親にもあって当然だ」
 あのとき久世はそう言った。おれはきいてみたくなった。『じゃあ、おれの欠陥はどこだと思う?』と。勇気がなくてきけなかったけれど、久世は何と言っただろうか。

「何深刻な顔してんだ」
 いままさにお前のことを考えていた、などと言えるわけがないので、おれは「夜何作ろうかなと思って」と心にもないことを口にした。久世はあの意志の強い青い眼でおれをじっとみてから、「居候させてもらってるし、何か作ろうか」と低い声でつぶやいた。
 驚きすぎて椅子から滑りおちそうになってしまった。
「その態度は心外だな」
 いつもの落ち着いた声で久世が言った。おれはソファの前にいき、まじまじと久世をみた。
「いつもおれが作るか、外食しかしないだろ」
「そうでもないぞ。海外だと自炊もする」
 ムッとした。別に料理を作ってほしいとは思わないが、何故いままで何も言わなかったんだ。怪しすぎる。女か?久世が自分で料理を勉強して覚えるなんて想像できない。やっぱりおれに隠れて女がいるのか。
 久世はフォローするように、くちびるの端を少しだけ持ち上げて笑った。
「日本だと、自分で作るより美味い飯がいっぱいあるからな。外食しかり、成松の飯しかり。海外だとそうもいかないから、嫌なことがあったときなんかは手のかかる料理をする。夢中で下ごしらえをしていると気持ちが楽になるから。栄養バランスも自分で考えられて勉強になるし」
 テーブルに戻り、黙ってラップトップを閉じる。久世は眉を上げて、ダイニングテーブルの側にやってきた。仕事部屋ではなく、気分転換にあえてリビングで仕事をすることがあって、今まさにそうしていたところだった。窓ごしに聞こえてくる近所の中学校の、吹奏楽部の音なんかをBGMにぼんやりと、興味のない企業のコピーを考え……いや、あまりに気乗りしなくてかなりの割合で久世のことを考えていたのだが。高校生の久世が、「おれにも欠陥があるから」と言ったときの、大人びたあきらめたような横顔のことなどを。
「音楽かけてもいいか」
「どうぞ」
 久世はおれの側にやってきて、自分の携帯端末をいじり、好きな音楽を流しはじめた。
「ひとにやさしく。名曲だ」
 お前は時代に生きてなかっただろう(おれもだ)と思いつつも、おれがそう言うと久世はおかしそうに笑った。
「ああ、名曲だ。自分が生まれる前でも関係ない」
 普段聴く音楽とは全く異なるから、おれが一人で聴いていたらきっとなじまない。でも彼がいると、その異分子のような音楽がしっくりと自分にも部屋にもなじんだ。ひねりも飾り気もないのに熱いかたまりを感じる歌詞が、久世そのもののようだった。
 座ってろよ、作るから。そう言って久世が冷蔵庫を開けた。顎に指をあてたまま、思案顔で中に残っている食材を確認したかと思うと、迷いなく必要なものを取り出し、切り刻み、炒めたり茹でたりして、あっという間にチャーハンと中華スープ、タコとトマトのサラダが出来上がった。
「すごいじゃん!」
「ふつうだろ。誰でもできる。成松の料理のほうがもっと手が込んでるだろ」
 おれは明日死ぬかもしれない。
 それぐらい嬉しかった。久世から明確な特別扱いを受けている、と感じたのはこれまで数えるほどしかなく、今日のことは日記につけて、ことあるごとに思いだす自信がある。
 曲が『終わらない歌』に変わった。そのフレーズを口ずさみながらサラダを口に運ぶ。野菜がすべてシャキシャキしていて、買ってきたものとは別物のように美味かった。そういえば別のものを調理している間、氷水につけていた気がする。
「おれがどれだけ早く走っても、世界レコードでも取らない限り、十年後には忘れられてるけど、」
 顔をあげて久世をみた。彼が、走るという行為に他人を持ち込むことが珍しく、また意外だった。
「音楽はずっと残って、誰かを励ます。すごいよな」
 チャーハンもぱらりとしていて塩加減もちょうどよく、絶品だった。冷凍してとっておいて、久世がいなくなってから小分けにしてかみしめたいと思うほどだ。
「終わらない歌って2分ちょっとしかなくて、けっこうすぐ終わるのに」
 頷きながら訥々と話す久世が、抱きしめたくなるぐらい可愛かった。独り言のような言い方だったが、おれに言っているわけでも、皮肉っているわけでもない。久世は無駄なことをしない。他人を羨んだり妬んだり、悪く言ったりしているところをほとんど見たことがない。
「でも終わらない。小説も、いいものはずっと残る。何度も読まれて、読んだ人間を励ます。心を揺さぶる。別に励まそうとして作ってないのに、結果的にそうなる」
 おれが箸を置くと、久世がおれを視線で射た。息がつまって、俯きたくなるのを必死でこらえる。
「――から連絡がなかったか」
 驚いて否定も肯定もできないおれに、久世がひとつ頷いた。
「あったんだな。何て言ってた」
 出なかったから分からない。そういえばいいのに、頭の中が混乱して上手く言葉がでてこなかった。どうして久世があいつのことを知っている?連絡してきたことまで、何故?
「次に連絡が会ったら必ず会え」
 おれが返事をせずにいると、久世が、縦に斬り捨てるような声で言った。

「逃げるな」

 久世が寝静まったころを見計らって、携帯端末を持って外に出た。
 夜はすっかり深くなり、人通りもない。なるべく明るい道を歩き、近所のコンビニでウィスキーの小瓶を買った。
 それをちびちび呷りながら、端末の画面を眺める。気が進まなくてなかなか着信画面を開くことができない。コンビニエンスストアの機能的で排他的なまでにピカピカとした明かりを、ぼんやりと眺めてしまった。
逃げるな、と久世は言った。あの言葉と一緒に向けられた熱のある視線は、おれを軽蔑したり、断罪してはいなかった。叱咤激励とも違う。純粋に「お前はそういう人間じゃないだろう」と信じられていた。長い付き合いだからわかる。久世は一度信じた人間のことは絶対に疑わない。信じる人間が稀有なだけだ。そう考えると、今の立ち位置でも十分幸福と言えた。
「裸でうろうろすんなよ、くそ」
 久世はおれを意識していないので、風呂上りは上半身裸でうろうろしたり、半裸に近い恰好で視界を動き回ることがあった。健康的に日焼けした、しなやかな筋肉に覆われた美しい肉体に視線が引き寄せられ、理性が遠のきそうになるたびに無理やり引き戻す必要があった。
 しばらくの間現実逃避をしてから、観念してある番号をタップした。発信音のあと呼び出し音に変わり、相手が出るまでの間、おれは手元のウィスキーを三度も呷って勇気を奮いたたせた。
『――です。かけ直してくださってありがとうございます……、お元気でいらっしゃいますか?成松先生』
 Aの声は記憶のそれよりもずっと暗く、かさついていた。お元気か、だと?そんなわけないだろう、という怒りが一瞬湧いて出たが、それも吹いてきた風といっしょに、瞬く間に霧散していった。
「もう先生じゃありません。……お電話いただいたみたいで。どういったご用件でしょうか」
 自分でもこれほど穏やかな声が出せるとは思っていなかったが、Aも同じように感じたらしい。一瞬音が途切れて、互いに沈黙した。電話越しに相手の緊張が少しほどけたことが分かる。
『コピーライターとしてご活躍されていることは存じ上げております』
「活躍というほどでもないですけどね。作家だったときの知名度で、なんとか食わせてもらってます」
 短く息を吐いた気配があった。電話は不思議だ。相手が見えないからこそ濃密に伝わってしまう。息遣い、声のトーン、話し方、そういうもので相手がどういう顔をしているのか、簡単に想像できてしまう。だから嫌いだった。向かい合って話したほうがまだ誤魔化せる。久世に、自分の気持ちをごまかしてきたみたいに。
『非常識なお願いで誠に恐縮ですが、今からお会いすることはできますか?』
 驚いたものの、自分としてはありがたい申し出だった。昼間にわざわざ時間を取って会いたい相手ではないが、一度話さなければならないと思っていた。自分が前に進むために。
「この時間ですから、店を探すのも大変ですね。ファミレスでもいいですか?」
『もちろんです。ありがとうございます』
 まだ何か言いたそうなAを振り切るように、挨拶をして場所を決め、電話を切った。どこでもいい、近くにいるのでタクシーで行くと言われたので、家からほど近い、このコンビニから徒歩10分ほどのファミレスにした。それぐらいの我儘は構わないだろう。

 腕時計が深夜1時を指す直前、我々はファミレスの奥まったソファ席で久しぶりに再会していた。かつての担当編集者と元作家の自分。こんな時間に顔を突き合わせる、疲れた様子の壮年の男と若い男は、深夜だというのににぎわっている店内でも異質だった。
「はじめに謝罪させてください。今更何を、と思われるでしょうが……、許していただけなくても結構です。本当に申し訳ありませんでした」
 あれから、漫画家の友人や作家仲間と話す機会があって、『ボツにされたネタを流用される』ことや、『数年がかりで作り上げた作品を、とつぜん世に出せないと言われる』ことが、さほど珍しいことではないのだと知った。2年前は怒りで血が沸き立ち、二度と作家業などできない、もう出版社の人間は一生信頼しないと思っていたのだけれど。
 そういった内容のことを言うと、彼は力なく首を振って頭を垂れた。
「ただの言い訳になりますが、当時は追い詰められていました。とにかく売れる本を作らないといけなかったんです。担当していた有名な先生が他社と専属契約を結ぶことになり、私は焦っていました。本が売れない。本当に今、売れないんです。重版になるのは決まった作家のものばかりです。もちろんそれも、編集者の能力や出版社の育てる力が弱まってきている、ということもあると思いますが、企画会議は毎回戦場でした」
 Aは都内に家を買ったばかりだときいたことがあった。子どもが生まれ、会社を辞めるわけにはいかない。社内の競争は苛烈で、対人ストレスと仕事のプレッシャーはすさまじいものだった、と推測できる。もちろんこれも、2年経って頭が冷えたからこそ想像できるのだが。
「当時は本当にショックでしたし、今でも許すことはできません。けれど想像はできます。私は小説が本当に好きでしたが、小説家としては大した存在じゃありませんでした。代わりのきく存在でした。若いから、容姿が悪くないから、注目されていたというのも分かっています。売り出すのに苦労されたことも……、私が、私の作品が不甲斐なかった。だからもういいんです。もう小説を書くことはありませんが、それは単に才能、資質の問題なんです。せめて才能がなくても、何があっても書き続けることができれば、小説家として生きていくことはできたかもしれません。私にはそれすらなかった。覚悟も、才能も、努力も足りなかった。この2年間でそれを思い知りました。あなたのことを憎んだり、誰かのせいにしようとしたけど、結局、そこなんですよ」
 思い返せば、最後の方はファンレターもほとんど届かなかった。ちやほやされた初期のころは、よく届いた。月に一度程度、担当が検閲したあとで届けてくれた。読むたびに心があたたまり、励まされ、涙が出るほど嬉しかった。
 けれどそれも、作品を重ねるたびに減っていった。何を書いても、一番売れた小説ばかりが取りざたされ、比べられ、忘れられていった。すべての小説について、心を込め、自分を削って書いたつもりだった。寝る暇も惜しんで、生活のすべてを注ぎ込んでいた。けれどそれが、面白い小説であるか、ということとは無関係なのだ。一週間で書いた十万部売れた中編小説と、一年かけて書いて一万部に満たなかった長編小説があるとして、たとえ長編小説にどれほど強い思い入れがあり時間を費やしたとしても、市場価値は『売れた方』になる。それが商業誌で小説家として生きていくということだ。
「もし作家性みたいなものを色に例えるとしたら、みるみる間に透明になっていったんだと思います。はじめは確かに、何か色がついていたのかもしれないけど。元から薄い色だったんですよ」
 ウィスキーを飲んでいたせいで、舌の動きが滑らかだ。つまり、よくしゃべることができる。あれほど憎んだ相手に、自分のみっともなさを余すことなく暴露していることに可笑しさがこみあげてきた。みっともない。でもそれが人間なのかもしれない。かっこいい人間なんて存在しないんだ。
 人間なんかみんな、生きてるだけでみっともない。それでもいいから生きたい。さわることもできない久世が生きている世界に接続していたい。みっともなくても生きてさえいれば、久世の手料理を食べる日が来るのだから、いつか奇跡が起こるかもしれないじゃないか。
「違います。そうじゃない。……これを読んでください」
 手渡されたのはふたつの紙袋だった。ひとつはぎっしりと手紙がはいっているもの、もうひとつは七通だけ入っているもの。ふたつに分けている意味を問うと、彼は「七通の手紙については、少し特殊な事情のあるファンレターです。もうひとつは、先生にお渡しすることができなかったファンレターになります。遅くなり、大変申し訳ありませんでした」
 関係が悪化してから会うことがなくなっていたので、受け取る機会がなかったのかもしれないが、ファンレターをため込まれるほど悲しいことはない。連載中に読むことができていたら、とひどく悔しいような虚しいような気持ちになったものの、もはや過去のことだ、と割り切った。
「どれだけ謝っても私のしたことが消えてなくなるわけじゃない。でも本当に、これだけは分かってほしいんです。あなたの作品を心から愛していた人はたくさんいました。才能なんて曖昧なものは誰にも評価できないし、売れた本がつまり面白くて、才能にあふれたものなのかというと、必ずしもそうではない。ああ、でも私が何を言っても仕方がないですね。私は先生の信用を決定的に損ねていますから。どうかその袋に入っている手紙を読んでみてください」
 無言で受け取って、ソファ席の空いたところに置いた。彼は伝票を手に取って立ち上がり、深く頭を下げて立ち去ろうとした。
「私が何を書いても、無意味だと思ってしまうんです。すべてが刹那的だと。どれほど好きだといってくれるファンの人だって、他に好きな作家や作品がいくらだってあるだろうし、もっと素晴らしいものにたくさん触れる機会がある。日常生活だってあるだろう。雑多で重要なことが人生には溢れているから、あっという間にうずもれて、忘れ去られる。それは仕方のないことだし自分の作品に魅力がないからかもしれないけど、意味はあるのかなと」
 ひとりでもいい。誰かひとりでも、自分の書いた小説がないと生きていけない、そんな人がいてくれたらいいのに。消費せずに大切に長い間読んでくれる、そういう人がいてくれたらいいのに、と思ってしまう。たくさんの人に読まれなくてもいい。売れなくてもいい。たったひとりでもいいから、心に届いて、残って、誰かの人生にずっと寄り添うことができたらいいのに。
「小説を書くことにどんな意味があるんだろう。何のために作家は書いているんだろう」
 涙が出そうなぐらい切実な気持ちでつぶやくと、彼は立ったまま、祈るような声で言った。
「それは、あなたが一番よくご存知のはずです。もし忘れているのなら、手紙をすべて読んでみてください。きっと思い出しますから」
 彼が去っていった気配を感じながら、おれは長い間そのビニール貼りのソファ席に身を沈ませていた。
 時計をみると、夜中の三時を過ぎていた。
あれほどにぎわっていた店内は、いつの間にか静かになっている。
すっかり冷めたコーヒーを飲み干し、両手で顔を覆う。わずかにのこっている人々の、ささやくような話し声が聞こえた。
「消費しないでほしいなんて、言えるわけないよな。おれだってたくさんの作品を読んで、忘れて生きてきたのに」
 それでも求めてしまう。久世を求める心のように、止めることができない。
 顔を上げた。みっともなくても、生きると決めたはずだ。久世が誰かのものになるまでは、どれほど惨めでも愚かしくても、生きるのだと。
 紙袋を掴んで立ち上がる。
 そこには確かな重みがあって、書いてくれた人々の気配を感じた。